そうだとすれば、何か手堅いもの、医師を納得させるに足るものを、是非とも入手しておく必要がある。とはいえ、私には、どんなものがふさわしいのか見当もつかなかった。寛子本人しか持ちえないものであるとともに、彼女と私の間柄を明確にしてくれるもの。それを、本人と話しながら模索していく以外になさそうであった。

「しかし考えてみると、おまえって珍しい女だよな。俺のこと好きだ好きだって言うくせに、写真一枚、くれとは言わないもんな」

「だってえ。実物の真一さんのほうが、すてきに決まってるんだもの。それに、わたしにはいただいた、この腕時計があるんだし」

「俺は淋しいな。きみのものは何ももらってないし。きみの写真すら、持ってないんだし」

「それならあした、ダイナマイトマシンて雑誌、本屋さんで買って。今月号に水着のグラビアが付いてるから」

「アホか。俺はおまえの、後援者やファンじゃないんだぞ」

「冗談よ。でも、プロのカメラマンが撮ってるんだから、グラビアのが一番よく撮れてるのは、事実なのよ。……あそうだ。ちょうどいいものがあるわ。リハーサルで撮った、まだポーズとってない写真なんだけど」

 ハンドバッグをほじくろうとする気配が、左から飛ばされてきた。

「そういうもんじゃなくってさ。そんな、おまえのファンや友だちでも、持ってるようなもんじゃなくってさ。おまえしか持ってないもんで、おまえの顔が写ってるもんで。さらに欲を言えば、おまえの俺への気持が、書かれてるもんがいいな」

「どうしたの急に。なんか変ねえ」

 このときほど私は、自分が会社員であるということに、感謝したことはなかった。

「実はさ。……まだ確定したわけじゃあ、ないんだけどさ。来週から二週間、アメリカに出張させられるかもしれないんだ」

「ええっ? どうしてそんな大事なことを急にっ」

「言ったろ、まだ決まったわけじゃないって。それに、きょうのデートを、台無しにしたくなかったんだ。でもさ、サラリーマンであるかぎりは、いついきなり、そういう命令を下されるかもしれないんだ。だからおまえ以上に、恋人を身近に感じられる何かが、欲しいもんなんだよ」

 言うに事欠いたとはいえ、「恋人」などという、口に出したそばから尻がこそばゆくなるような単語まで、私は動員してしまった。しかし、女という生きものには、そういう言葉こそが効くらしかった。寛子は、私が思いもつかなかったものを、思いもしない形で、供出してくれると言いだしたのである。

「でもいいのか? そんな大事なもん」

「だってピッタリじゃない、さっき言ってた、真一さんが欲しいものと。それにいざとなったら、なくしたことにしちゃえばいいんだし。……ちょっと待っててね。いまボールペンで裏に、わたしは遠藤真一さんを心から愛しています、そう書くから。ついでに浮気封じで、真一さんはわたし、中谷寛子のものです、とも書いとこっと。ヘヘヘヘ」

 なんと寛子は、言ったとおりを裏に書き付けた、失効していない運転免許証を与えてくれたのである。大胆としか言いようがなかった。そしてそういうところのあることが、私がこの女を気に入っている、手放す気になれない最大の理由ともなっていた。医師を説得できうる物が手に入った喜びなど忘れ、ただ感激した。言葉は出てこなかった。身体のほうが勝手に動いた。ハザードランプを点けて車を歩道寄りに停めるや、私は人目を気にする間をも惜しみ、寛子の唇を啄みにいった。

 

          四十五

 

 半日だけ休暇を取るにせよ、週明け早々から、というのは避けておきたい。会社のほうには何とでも言いうるわけで、自己都合によってである。私の所属する部課が海外営業部欧州課であることに、よるところが大きい。

 国内の会社が取引相手であれば、月曜の朝とあらば、先方にもまだエンジンが掛かっていない。のらくらともしていられよう。しかるに、ヨーロッパの会社を向こうに回しているとあっては、事情が異なってくる。いや、そうではないのかもしれない。あるいはそれは、ただ単に、私の勤める家電メーカーだけの、特殊事情なのかもわからない。

 勤勉なのか、はたまた頭脳構造が機械的なのか。西洋人たちは、こちらが週明けであろうとなかろうと、つまらないことでメールを雨霰のように送り付けてくる。それの答はこれ、そちらへの回答はこちら。そんな具合に、それぞれを別口で、遅滞なく返してやっておかないと、すぐに信用問題にまで発展させられる。担当者をすげかえろだのと、鼻息も荒く国際電話を架けてくる。

 そうであるくせに、商品代金を決済するためのL/C、レター・オブ・クレジット、すなわち先方の取引銀行がこちらのそれに対して発行してきた「信用状」は、てんで信頼できないものばかりなのである。こちらから記載を求められた取引条件が、そこに完全に網羅されていることなど、ありえないといっていい。細部にわたってチェックし、早急にあちら側での訂正を求めねばならない。B/L、ビル・オブ・レイディング、「船荷証券」と、通関を終えた証になる書類とを、こちらの銀行が買い取ってくれなくなるからだ。つまりは、代金を回収できなくなる。あちらの尻拭いを始められるのが、こちらの銀行が信用状の写しの束を持ってくるのが、月曜なのである。

 一方で、工場側にまったく手落ちがないとも言いきれない。製品の入っている箱に刷り込まねばならない「ケースマーク」が、こちらの指示とは違っていたことも何度かあった。出荷されるまでに手を打っておかないと、面倒な事態となる。その最終確認をできるのも、月曜である場合が多い。

 さらに、そこから始まる新たな一週間についての、生産管理部門を交えた打合せもある。

 我が製造会社では、現業部門のほうが威張っている。その週の出荷予定を書面で提出してもらいたいなどと要請すれば、部長に至るまでが吊し上げを食うことにもなりかねない。四つの工場それぞれに、電話にてお伺いをたて、こちらで予定表を作成しなければならない。それを元に、海上か航空、いずれかの貨物取扱い会社にも連絡せねばならない。場合によっては、十社以上に電話し、各々の担当者の空きを待ち、話さねばならなくなる。

 そんな力関係なので、工場ごとの、各製品の在庫状況は、端末装置を使って調べる。入力ミスが多く、あてにならないものだが、ないよりはましである。それをプリントしたものと、生産計画表とを突き合わせ、その週の商談にも備えておかなくてはならない。

 もちろん、そういったことの悉くを、私一人でやる必要はない。後輩や女性アシスタントに指示しておけば片づくものも、いくつかはある。だが、前者は入社二年目、後者は遊びたい盛りで、確実に休日気分を引きずって出社してくる。居眠りしたり噂話に加わったりしていることがないよう、ちょくちょく監視の目を光らせていなければならない。

 要するに、私の月曜は、ただでさえ忙しいのである。

 かてて加えて、この月曜は、田村課長がフランスの得意先に出張中ときている。平常どおりに彼が出社しているのであれば、心置きなくというわけではないにせよ、休みを取ることもできよう。私の前任者であり、面倒見のいい人でもあるので、頼まずとも肩代りしてくれるからだ。悪臭を抜くためにサウナに行かねばならなかった折、寛子のマンションに通わねばならなかった折には、そのおかげで、ずいぶんと楽にしてもらえた。しかし、そういうことも、今回はありえない。

 私が半日休めば、三人分の労働力が、半日損なわれることになるのだ。それによって当然、残業時間が長引くことになる。女のほうなどは、自分が無能なのを棚に上げ、そういうときばかりは男女平等なのを口にせず、私に文句を言ってくるのが確実である。指導力がない、責任感がないなどと、数日間は陰口を叩かれることにもなろう。

 わざわざ災いの種を蒔いてまで休む必要が、私には認められなかった。自分が病気に罹ってしまっているわけではないのだ。

 とはいえ、なのである。いずれ近いうちにまた、寛子が合体を求めてくるに決まっている。くさみについて一刻でも早く医師と話しておくべきであることには、ちがいがない。

 この夜、月曜の夜のデート一回ぐらいなら、終電の時間ちかくまで残業することになりそうなのを言えば、難なく断れよう。だが二日後、水曜には、そうはいくまい。連続して会わないことを、寛子は認めはしまい。そこいらの女のように、ゴネたりスネたりはしない。が、口は出さない代わりに金を出そう、金で片をつけようとはしてくる。タクシーで家まで送らせてくれるだけでいいから。そこまで言われ、屈伏させられたことが、これまでにも二回ある。その二回とも、平日には火曜と木曜にしか会っていなかった頃、まだ合体していない時分のことである。それであっても、譲らなかったわけだ。ひとたび身体を合わせるや、男に去られつづけてきた寛子なのである。今回は、余計に執着するにちがいない。なお悪いことに、私は出まかせで、二週間の海外出張を仄めかしてしまってもいる。何かある、また捨てられるのではないかと、身構えられることにもなろう。

 いずれにせよ、嘘が通用するのは、この夜の回だけであろう。

 翌日の午前には、月に一度の、所属部門の会議に出席しなくてはならない。第1四半期の反省会の趣もある今回は、長引きそうである。仕出し弁当を食べながらで続行されることも、充分にありえる。午後には、オランダの新規取引先の社長が、訪れることになっている。社用車で山梨へと向かい、工場長に彼を引き合せ、出荷交渉の通訳をせねばならない。東京に連れ帰ってからはフルアテンド、相手が解放されたいのを言いだすまでのしつこい接待。それをせよと、常務からじきじきに命じられている。つまり、翌日の私は丸一日、自由には行動できない。

 やらねばならないことはたんまりとあるものの、この日には、他者に身柄を拘束される仕事は少ない。幸いにして、上長は不在である。自分は他部門との打合せにいくようなことを言えば、後輩とアシスタントそれぞれに指示書のようなものを出しておけば、短時間なら、こっそりと会社から抜け出せそうではある。ただし、口裏を合わせてくれる相手を、見つけておかねばなるまい。女のほうは僻み根性の塊だからである。やらなくてもいい仕事まで押しつけられているのではないかと、疑ってかかるに相違ない。私に質問があるのを装い、私がそこにいるのを言った部門へと内線電話を架け、事実かどうかを確認される恐れがあるのだ。

 生産管理部門との打合せは定例のもので、私の配下にある二人とて知っている。そこの計画課長、小畑氏と私とは、昵懇の間柄である。私と同期に入社した女を彼が気に入り、渡りをつけてやったからだ。二人の結婚式では、司会進行役まで務めさせられている。そちらに、私は活路を求めてみることにした。

「と、そういうわけなんです。小畑課長のほうでなんとかうまく、話を合わせていただけないもんでしょうか?」

「あいかわらず義理がたいんだねえ。そんな、高校時代の恩師の、病院見舞いにいくなんてさ。あした手術だったら、きょうのうちに行っとくしかねえよな。ああいうとこは、面会時間も決められてるんだし」

「ですからどうにか」

「心配すんな。要は君んとこの連中に、知られなきゃいいわけじゃねえか。簡単なこった。応接室を押さえさせて、二人でミーティングしてることにするから。俺はそこで、いつもの時間まで昼寝でもしてるよ。だけどほら。そのあとにやるホントの打合せのために、必要な道具なんかは、あらかじめ持ってきといてくれよ。会議室に運んどいてやるからさ」

「恩に着ます。このお礼はまた」

「うん。もうすぐ二人目が生まれるしな、ハハ。それは冗談だけど。あとさ。十五分ぐらいなら、遅刻したってかまわんからな」

 打合せは、午後三時からである。昼休みの終る午後一時には、怪しまれないためにも、一旦は自分のデスクに就いていたほうがいい。十分以内で足りよう。一方、寛子の最終の診察につきあったこともあり、ワキガの病院が代々木にあるということは、わかっている。西新宿の会社からそこまでは、タクシーを飛ばすこともない距離であろう。不測の事態を考慮に入れても、往復で三十分も見ておけば充分だろう。単純に考えると、二時間も与えられては、暇を持て余してしまう自分が見えてくる。

 問題は、午後の診察が何時から始まるのかということなのであった。

 病院という所はどこでも、昼休みの終るのがやけに遅い。もっとも、午前の患者が正午ちょうどに片づくことがないためで、そうなっているのかもしれない。早くて二時、普通は三時、遅ければ四時から、再開される。噛み合わない時刻に訪ねていっても、まず取り合ってもらえないだろう。

 小畑課長の部課のある部屋を出ると、私はその七階でエレベーターを待った。済ませられることは済ませておこう。そう思っていた。乗り込むと、私は自分の部課のある五階を素通りし、駐車場のある地下二階まで降りた。電話を架けるためであった。

「あらそう。まあ週明けの日だもんね。きのうも会ってるんだし。それに、ヘヘ。久しぶりにかわいがってもらえたし」

 やはり寛子は、彼女の女の実に貯えられているくさみに、まるで気づいていないらしい。そっとしておいてやりたいという思いが、私のなかで膨らみだした。ほかにも女がいると嘘を言い、身を引きたくなった。いや駄目だと、私は背筋を伸ばした。乗りかかった船だと腹を決めたはずではないか。その思いを意識的に膨らませ、自分の心に鞭を入れた。

「そうだそう。そっちのほうの勉強、言ったとおりにしてるんだろうな? 次もあんなだったら、もうかわいがってやらないぞ」

「ヤだ真一さんたら。まだ会社がはじまってから……一時間も経ってないじゃない。そんなこと考えながら、近くにいる女の子のお尻とか、見てるんじゃないの? ちゃんとまじめにお仕事してね。きょうの夜はわたし、お部屋のお掃除でもするわ。だけどおウチに帰ってから、忘れずにお電話ちょうだいね」

 一つは片づいた。

「それからヤアよ。あしたから海外に出張にいくなんて、いきなり言いだすのは。しかたないのはわかるけど、決まったらちゃんと、すぐにわたしに報告すること。約束よ」

 通話を切り上げると、私は番号案内へ架けた。病院のそれを聞き出した。

「午後は、三時から七時半までです。受付は、二時四十五分からです。でも当院は、完全予約制なんですけど」

「僕が診ていただきたいわけじゃないんです。そちらで手術していただいた身内の者のことで、院長先生にお尋ねしたいことがあるんです。それも緊急になんです。先生にちょっと、取り次いでいただけませんか?」

「その、手術を受けられたかたのお名前は?」

「中谷です。中谷寛子です」

 五分後に架け直すように言われた。私はタバコを喫って時間をやり過ごした。

「はい。院長の奥山ですが」

「お昼休みのところ、失礼いたします。わたくし遠藤真一と申します。中谷寛子の婚約者でございます。それを立証できるものも所持しております」

「なるほど……。えー、中谷さん中谷さん。……ああ。あのスタイルのいいお美しい。思い出しました思い出しました」

 何を言っていやがる。寛子を全裸にしたうえで舐めるように身体を嗅ぎ回ったくせに、におうかもしれないのを言って胸のふくらみにまで触れたくせに。そう思い、私は小腹が立った。何かで見た中年男の、槍というよりは尻尾のような、頼りなく充血している男の芯の映像が、目の裏側には見えた。怒気が剣と化した。弱々しい一物を、すっぱりと切り落してやった。その瞬間、名案を授けられた。私は大きく息を吸った。

「早速ですが先生、手術の失敗というのはどのぐらいの確率で起きるもんなんですか?」

 挑発してやろうと、私は思ったのである。医者という種族はプライドが高い。おいそれとはミスを認めない。その点を刺激してやることで、こちらが有利になるべく、話を進めようと画策したのだった。午後の部は三時から始まるという。それに合わせるわけには行かない。医者としても、他に患者がいる時間、万が一にも彼らの耳に届いてしまうかもしれない時間に、そういう話はしたがらないであろう。所詮は人間のやることだ。絶対にミスがないとは言いきれまい。

「聞き捨てなりませんな。中谷さんに関しては、何の問題もなかったはずですがね」

「それがあるみたいなんで、失敗してるみたいなんで、いまこうしてお架けしてるんです」

「失礼な話ですね。あなたは何を根拠にそうおっしゃるんです? なんなら出るところへ出ていただいても構いませんよ、私のほうは」

 語気を荒げている。上手を行けたと、私は心のなかで笑った。今度は、下手に出てやる番である。