漁火なのであろう。深夜の銚子沖では、大きな星が数多く揺れていた。

「さっきのおふざけで、わたくし遠藤さんのことますます好きになりましたよ。いろいろな面をお持ちなのね。娘の前で何なんですけど、わたくしがもう少し若かったら」

「あきれた。自分のものにしちゃいたかったってわけ? ママったらほんと、欲ばりお嬢さんなのね」

「なに言ってるんですか。あなたがわたしのこと言えた義理かしらね?」

「言えるわよ。わたしは真一さんのこと、心から愛してるもの。チャランポランな百合子とはちがってね。だからたとえママが相手だろうと、ぜったいに負けないわ」

 そんな話を面前で交わし続けられていては、居た堪らなくなるばかりである。私は起爆装置のボタンを押してやることにした。

「んんっ。工場でのことなんですけどねっ」

 案の定で、夫人はグラスをテーブルに置き、席から起った。直立不動になって私を視た。 

「申し遅れました。わたくしのせっかちな性分によって遠藤さんにたいへんなご迷惑をおかけしてしまいまして――」

 言葉の機関銃で応戦されることまでは想定していなかった。夫人からの雨霰を防ぐため、私は次なる爆弾の投入を決めた。

「いやそのことじゃないんですよっ。とにかく座ってくださいっ」

 睨んでやると、弱った顔は見せたが、夫人は従った。しかし、このときには、ソファに沈み込まずにいた。両手を膝に載せ、背筋を伸ばしてもいる。

「そんな格好でいるのも、やめてください。かたっ苦しい話は、もうたくさんなんです。僕が工場のことを言いだしたのは、質問したいことがあるからなんです」

 もちろん、うしろ半分は、相手を思いやる気持の表明、出まかせなのであった。その人道的配慮が、ここでは災いした。夫人は目を、丸くしたうえで細めた。私の言葉の一部を用い、問い返してきた。

「ほら。冷凍庫にいくまえに、工場長におっしゃってたでしょう? サメが、今後のおたくの商売の鍵になるとかって。ご自分の代で、何とかとっかかりだけでも作っておきたいって。だから僕に見せたいんだって。冷凍庫を出たあとにでも、訊ければよかったんですけど、ああなっちゃったもんですからね。どういうことなのか気になってましてね」

 夫人は伸びあがった。が、先刻とは異なり、その首には柔らかさが見受けられた。

「うれしいわ憶えててくださったなんて。しかもいちばん大事な点を。超一流企業にお勤めでいらっしゃるだけのことはありますねさすがに」

「僕のことはいいんです」

「わかりました。では……。あのサメですけど。あれの肉以外の部分で、遠藤さんならどんな商売を思いつかれますか?」

 夫人は目を輝かせ、身を乗り出してきた。

「そうですねえ。まず皮でしょうね。アメリカ帰りの友だちから、サメのなめし革でできた財布を、土産にもらったことがあります。向こうじゃ、それでできたジャンパーやブーツなんかも、売ってたそうです。見るからに丈夫そうですからね。あとは……。フカヒレってサメのヒレのことでしょ?」

「そうです。革製品のことまでよくご存じですね。でもまあその二つ、皮とヒレとはもうすでに商売になっております。……あそこに保冷してあったのはよく獲れるっていうこともあって、ほとんどがヨシキリザメでしたけど、サメにもいろいろな種類がございましてね。どんなサメをご存じでしょう?」

 何か回りくどい。そんなあとでギョッとさせられるのは、もう懲りごりである。

「コバンザメ、ノコギリザメ。あとはあの、映画のジョーズのサメ。あれはホオジロザメでしたっけ? それと、狂言のサメ」

 作戦どおりで、夫人に驚きを与えられた。

「くっさめくっさめ。くさめ、くしゃみです」

 だが、失敗でもあった。ガマガエルの鳴き声に時間を奪われることにもなったからだ。

「冗談はそこまでです。もうそのへんで、本題に戻ってくださいよ」

「ああおかしかった。博識でいらっしゃるのね。その冗談こんどわたくしも使わせていただきます。……実はですね。医薬部外品の分野に進出したいと考えているんです」

 サメの軟骨には、コンドロイチンという成分が含まれており、それが神経痛やリューマチの薬となる。サメの肝臓の油には、スクワランという成分が含まれており、それが化粧品や健康補助食品の主原料となる。ともに高価なものとして扱われている。副業としては旨味のある商売になりうると、夫人は説いた。

「もっともスクワランのほうはアイザメやウバザメ、深海にいるサメじゃないとダメだっていう話ですけどね。でもヨシキリザメだって同じサメなんですから、研究してみる価値は充分にありますでしょ? それにこのあたりじゃ白身のサメこそ高級品あつかいされてますけど、そんな深海ザメなんか二束三文でしょうからね。ましてそんなのの軟骨とか肝臓なんて。猫のエサにもしないでポイだと思いますね。どんな商売でもおんなじだと思いますけど、最初に手を出した者の勝ちなんです。先手必勝なんです。そうでしょ?」

 仕事のこととなると、やはり饒舌である。高級ブランデーが、そのための燃料ともなっているのであろう。何かの怪獣のごとく、夫人が口から火を噴いていることを、私は想像してしまった。あわてて目を瞬かせた。

「なるほど。そういうことだったんですね」

 工場のことでの疑問は解けた。だが、夫人の話は、さらに続けられそうだった。どうやってその口を塞いでしまうかにつき、私は考えを巡らせはじめた。そこで何かが、けたたましく鳴りだした。インターホンである。無言のまま呑んでいた一人が、取りに急いだ。

「何かしら? こんな時間に」

 夫人がそう呟いてほどなく、寛子があわただしく戻ってきた。

「百合子からわたしに、電話なんですって。ちょうどよかったわ。二人でお仕事の話ばっかりしてるんですもん。男同士みたい。下の部屋で話してきますから、ご自由に、好きなだけ語りあっててくださいな。そうそう。グラスにお酒、注ぎたしてから下りないと。ついでなんで、お注ぎしときまあす」

 火炎放射器と、二人きりにさせられてしまった。

 なおも夫人は、新規事業について語りつづけた。突破口を見出せないままであった私は、適当に間の手を入れ、手持無沙汰から黄昏色の液体を啜り、気晴しに紫煙を白煙へと変換しているしかないのだった。

 

          四十三

 

 酒の酔いというやつは、喋らずにいると余計に膨らんでいくものらしい。眠くはなかったものの、私は怠くなっていた。堪えていたのだが、タバコの煙を吐こうと下アゴから力を抜いた折、とうとう欠伸を出してしまった。

「あらいけない。果物かなんか持ってこさせましょうか?」

 娘と同じことを言うのにも、退屈を覚えた。それはさておき、すでに真夜中である。女中のことを慮り、私は即座に断った。寛子がいなくなったのを幸いと思っているのか、企業経営者には、仕事の話をやめる気配がまったくうかがえない。窮余の策で、私は嫌味を言ってやることにした。

「でもお母さん、そんなに儲けて、いったいどうするんです? 一般の人たちよりも贅沢に暮らしてるんだし、こんな立派なお邸だってお持ちなんだし。お気持はわかりますけど、あんまり欲が深いと、そのうちサメや魚から、呪われることになりますよ」

 自分の口から出た言葉だったが、私はハッとなった。すでに呪われている。その事実に、気づいたのである。

 見目うるわしく気立てもいい娘、年頃の娘が、生贄になっていたではないか。サメの屍肉からのものと酷似した強烈な悪臭を、その娘の身体から出るようにしていたではないか。よりにもよってその娘の、子孫を残すための部分から、より強く臭うようにしていたではないか。その娘は、長女であり、家督を継ぐ立場にもある。私には、寛子のスソガが、欲深な人間どもを撲滅させるための、海の祟りであるように想われてならなかった。

「まあそれはそうでしょう。でもね遠藤さん、あっちだってこれでもかこれでもかっていうぐらい次から次へと生まれてくるんですよどうせ。それに水産資源ていう言葉があるぐらいで資源なんですからね。天然ガスや原油なんかとおんなじで。んええ」

 夫人はまったく意に介しないふうであった。何を馬鹿なことをと、目では言ってきてもいる。見たいものしかとらえない目、見るべきものを見ようともしない目。それでも人の親なのかと、私は呆れた。そんな貧しい心根の人間の犠牲にされた、何の罪もない寛子のことが、たまらなく憐れに思えてきた。次いで、無性に腹が立ってきた。何としてもこの不届き者をやり込めてやろうと、意を固めた。手許にあった酒を、私は一気に呷った。

「天然ガスや原油とは全然ちがうでしょう、命あるものなんですから。森林やらともちがう。僕ら人間と同じで、魚やサメも動物、生きものなんですからね。反省しろとは言いませんけど、心から感謝しないと。お母さん、あなたちょっと傲慢すぎやしませんか。それから、資源は無限じゃありません。惜しんで使わないと、いつかはこの世から無くなってしまうもんなんですよ」

「どうなさったんですの? そんな恐い顔で見ないで遠藤さん。わたくしだって感謝していないわけじゃありませんのよ。んええ。自慢するわけじゃないですけど毎朝かならずそれも起床してすぐ、海に向かって正座して手を合わせているんですのよ、二礼二拍一礼してから。先祖代々そうしてきております。信仰心のかけらもないエコノミックアニマルのメスみたいに思わないでください」

「じゃあその思いかた、感謝のしかたが、きっと足りないんじゃないですか。僕にはそんな気がしますね」

 私を真似るように、夫人もグラスを空けた。

「なにを根拠にそうおっしゃるのっ? ぜひともおうかがいしたいですわねっ」

 汚らしい声を響かせると、睨みつけてきた。はじめて私に向けられた、明確な怒りの表情であった。

 サメの肉の擂潰現場でのことから、私は説いていった。そして、寛子の病気のことへと、繋げた。いつしか夫人は俯いてしまっていた。

「まあ。僕の考えすぎかもしれませんけど」

「いいえ。ごもっともなご指摘ありがとうございました。やはり感謝が足りなかったのかもしれません。寛子の病気は幸いに手術で治せました。でもわたくしこれから先にはどうしたらいいのか、どうすれば赦しを得られるのかがわかりません。遠藤さんに何かいいお考えはありませんか?」

「そうですねえ……」

 私は目を、夜の海に転じた。いずれは消え入ることとなる光の粒が、茫漠とした暗がりに抗うように、縦横無尽に揺れている。それを見た私は、どういうわけでなのか、みずからの地元にある競馬場のことを思った。続いて、その場所の正面に立っているものが、目の裏側に見えてきた。それで合点が行った。

「生きものを扱われてるんですから、サメや魚の供養は、もちろんされてるでしょうね?」

「当然です。ただ一年に一回きりですけど」

「慰霊塔、いや供養塚みたいなものを、工場のどこかに、建ててみられたらどうですか? いまふと、地元の競馬場の前にある馬霊塔のことが、頭に浮かんできたもんですから」

「ああ……。さっきの寛子のことでもそう思いましたけど、わたくし個人としてぜひ遠藤さんにお友だちになっていただきたいですわ。名案としか申しようがございません。さっそくそうします。サメのビジネスを手がけるまえでほんとによかったです」

「詳しいことはわかりませんから、おたくでお世話になってるお寺さんに、相談してみてくださいね。それにそういうことは、正しくやらないと意味がないと思いますから」

「はいありがとうございます。あらあら。お話にすっかり夢中になってしまってて気がつきませんでしたわ。氷がご入り用なんですわよね。すぐに入れてまいりますから今夜の決定を祝って一緒に乾杯してください」

 その声は濁ったままであるが、夫人の心は澄みわたったのを、私は感じた。タイトスカートの尻を振りながらいそいそとカウンターへと歩いていく様子が、寛子や百合子の仕草と同じように、かわいいものに思われた。私の心も、かなり安らいでいるのだった。

 夫人は座らずに酒を注ごうとした。慣れない行為なのであろう。ボトルの口を開けようとして、まごついていた。蓋を懸命に回している。外側の部分、摘む部分こそプラスチック製だが、ブランデーのボトルの栓は、コルクで作られているのが一般的である。ワインやシャンペンのボトルのそれに同じく、ただ引き抜けばいいのだ。

 そのことを指摘してやろうとしたとき、栓が抜け、夫人の足許に落ちた。それを拾ってやろうと、私は上体を前に折った。夫人の膝下が見えた。細からず太からず、湾曲してもおらずで、娘たちのそれらとほとんど変りがない。新鮮な欲望を、私は覚えた。足首も締まっているぞと、心に充血を感じたときであった。うっすらとだが、そこに何本もの横縞が入っていることを、発見した。色沢によれば、ストッキングの類は履いていないようである。

「お母さんこれ、どうなさったんですか?」

 訝しさにそそのかされ、私はそう言ううちにも指で触れてしまった。凹凸があるのを認めた。素頓狂な声を発したかと思うと、夫人は後しざりした。女としての機能もまだ盛んらしいぞと、私は心中で笑った。栓を拾ってから、ゆっくりと顔を上げた。夫人の目と口が丸くなっていた。その表情は、不意に性感を刺激されたショックによるものとは、明らかに別種のものであった。「しまった」という後悔の念が、ありありと浮かんでいる。想いもしなかった顔色を認めたことによる驚きで、私は自分を失ってしまった。

 夫人の手にしていたボトルがテーブルの上に移された音で、静寂は破られた。

「遠藤さんっ。すぐに戻りますからっ。このままここでお待ちくださいっ」

 私がその言葉の意味を理解できたときには、夫人はすでに階段の降り口にまで至っていた。声をかけようとしたときには、足音だけになっていた。何がどうなっているのかが、さっぱりわからない。どうなるのかも、まるで読めない。たださえ突拍子もないことを言ったりやったりする女なのである。私は、頭を巡らせることが煩わしくなった。自分のグラスに酒を注ぐと、光の乏しい夜景を相手に呑みはじめた。新たなタバコを喫いだした。

 私が灰皿を擦りだしたところで、階段のほうから不揃いな二拍子が聞えはじめた。ややあって、夫人が姿を現した。目尻を下げ、口角を上げている。平行移動を開始したその顔の跡地に、別な顔は生まれ出てこなかった。

「お待たせいたしました、フフフフ。寛子ったら笑っちゃうんですのよ」

 私の許にまで来ると、夫人は、尻餅でも突くような無防備さで、ソファに身を落した。

「どうせ百合子から愚痴でも聞かされてたんでしょう。受話器もったまま居眠りしてたんです。わたくしが取ってみたら、電話はもう切れてて。自分の部屋で眠るようにって言ってきました」

 帰りの恐怖が先に立ち、私はまずそのことを口にした。夫人もまた母屋に帰るのだということに気づいたのは、笑われたあとでだった。頭が回復してきた。夫人の話ができすぎていることを、疑えるようになった。

「なんか辻褄が合いませんねえ。寛子くんが居眠りしてるのを見つけたのは、下の部屋に行ってからでしょ? いきなり下に行かれたのは、それ以前のことじゃないですか」

「それは。……もともとあっちに帰らせるつもりでしたから。……寛子に聞かれでもしたらたいへんなことを、遠藤さんにお話しするつもりでいたからですわ。……遠藤さんほどのおかたなら何のことなのかは、どうせもうお察しでしょ?」

 見当もつかなかった。だが、夫人の秘密が語られようとしていることは、あえて考えるまでもない。他人のそれを知ることは、その人間の弱みを握れることにもなるわけで、損なことではない。まして、本人みずからが勝手に告白したがっているふうでもある。ことさら止めてやる必要もないように思われた。退屈しのぎに聞いてやろうと、私はただ、夫人のまじめくさった赤ら顔を、見返してやった。

「わたくしがなぜあんな男と夫婦でいるのか疑問に思われてたでしょ? 先ほどのをごらんになる以前から」

 先ほどの、とは、足首の横縞のことを指しているのであろう。ということは、それが彼女の良人と関係している、ということになろう。頭に浮かんできたことはあったが、確定するにはデータが乏しすぎる。探りを入れてみようと、私は決めた。

「んまあ。でもあのかたと、お見合いで再婚されたわけじゃあ、ないんでしょ?」

「ええ。実は寛子たちの父親と結婚するまでの彼氏だったんです。あれがロックバンドのメンバーだったことは、お昼のときわたくし申しましたよね」

「ええ。ギターを弾かれてたって」

 夫人は、彼女のグラスに酒を注いだ。蓋を閉めずにボトルを立てた。