固く閉じている目蓋のなかが潤いだしているのを、私は認めた。同時に、頭が活発に働きだしているのを、自覚した。憶えのあるニオイなのだ。鼻粘膜への衝撃の強さが、第三工場の加熱現場でのそれの比ではなかった。そのことにより、その悪臭の正体を、すぐに突きとめることができた。ワキガのニオイ、いや、それに酷似した臭気なのであった。

「あら? どうかされましたの遠藤さん」

 おまえは平気なのかと、私は夫人を睨みつけてやった。別の顔が視界に割り込んできた。

「まあっ。真一さんたら涙ぐんでるうっ」

 つい先頃まで似たようなくさみを隠し持っていた女、手術を受けたことで晴れてそれと絶縁できたらしい女に、そう叫ばれたのだ。そんな女から、辱められたことにもなる。何か言い返してやらねばと、私は自分に鞭をくれてやろうとした。だがやめた。発声するとなれば、そこまでにも増して、悪臭を体内に取り込まねばならなくなるためであった。

 哄笑が生まれていた。やる瀬なさ、地団駄ふみたくなる悔しさまでも、そばにいる四人に笑いのめされた。それでもなお、私は耐えているよりほかなかった。息苦しさもあり、頭が白んでいくのを覚えた。

「こんなところで立ち止まってても、らちが開かないですよ。てみじかに切り上げますから。さあ。男らしく入っちまいましょう」

 老いたタカハシに腕を取られるままに、よろよろと、私の若い身体は前に進みだした。

 声は聞えていた。だが、口で呼吸することに懸命だったので、理解することまでは、私にはできなかった。もはやどんなことでも、どうでもよくなっていた。一刻でも早くその場から解放されることを願う心だけが、自分の内に認められるすべてであった。

「そうまで元気がなくなっちまうとはねえ。なんか遠藤さん、ヘヘ。花粉症の女の子みたいですな」

 悪臭に満ちた区画を出てからも、私の頭は、なかなかに通常の思考回路を取り戻せずにいた。鼻での呼吸は、適うようになっている。しかし、嗅覚に受けた衝撃が、依然として強く、脳に響いているようだった。

「寛子さん、そのまま遠藤さんを、牽いててあげてくださいね。……それじゃ社長、いよいよ最後のところへ向かうこととしましょうか。だけど肝腎の遠藤さんがこんなんじゃ。んねえ。……やめといたほうが、よかないでしょうかねえ?」

「とんでもないっ。あそこを観ていただかないんならわざわざここまで来た甲斐がありません。それに長さんこないだもあんなに説明したでしょ。あれにこそ今後のウチの会社の発展への命運がかかってるんですよ。何としてもあたしの代であちらの商売の基礎だけは作っておくつもりでいます。んええ。ですから遠藤さんにはどうしても、いやぜったいにご覧いただきたいんです」

 そんなやりとりがあった。観るだけのものならば、臭気とは異なり、体内にまで取り入れなくとも済む。音声に同じく、感覚器官にはとらえられても、処理せずにおくことができる。汚名返上のチャンスだと、私は思った。

「僕なら大丈夫ですよ、タカハシさん。それに、お楽しみは最後に回すって、そうおっしゃってたじゃないですか。どうせもう、あんなくさいニオイを嗅がされてるんです。この際ドーンと行こうじゃありませんか。んねえ」

 タカハシの口角の一方が、瞬間的に吊りあげられた。この小僧が。そう思いながら、鼻から短い呼気を噴いたはずでもあった。言葉によらないで警告してきているようにも想われたが、私は意地になっており、発言を撤回せずにおいた。タカハシが首を前方、進行方向に戻したことで、やりとりは打ち切られた。

 公然とそうできる名目を与えられたからであろう。寛子は、あたかもそうするのが当然のことであるかのごとく、私の右腕を抱えて歩いていた。密着している。にもかかわらず、相変らずで、内々には、話しかけてもこない。この段において有意義な会話のできる相手ではないということは、こちらにもわかっている。私のほうからも言葉は放たないでいた。進むごと、心の自由まで奪われているという思いが、強まっていく。女と悪臭は、なんと似たものであろうか。そんなことを考えたりもした。

 ふと私は、ある事実に思い至った。副工場長であるイイダとは、差しではまだ一言も交わしていない。そのことであった。

 寛子も夫人もタカハシも、彼の存在を蔑ろにしている。とぼとぼと付いてくるだけの、何の危険性もない人物だと、決めつけているようである。私が彼と話してみたいのを言ったところで、強くは反対しないのではないか。

 他方、イイダの目には期待できるものがある。家畜のそれらにも似た精神性のない目をしているということは、裏を返せば、無垢な人間であるがゆえにそんな目をしているということもできる。仮に箝口令が敷かれていたとしても、だしぬけに尋ねられれば、ましてその答が彼にとっては息を吐くほどに楽に返せる事柄であれば、あっさりと口を割るのではなかろうか。その回答により、先で私を待ち受けている出来事も、判明するかもわからない。そうなれば、それに向けての対策も、立てられるのだ。くさみに襲われたときのような醜態を、晒さずに済むかもしれないのである。善は急げと、私はまず、身体にへばりついているものから、懐柔することにした。

「なあシロッちゃ」

 庭師の言葉を真似ることで、くつろがせようと図った。成功した。

「せっかく一緒に回ってもらってるっていうのに、俺はまだ、イイダさんとは何も話してないぞ。ちょっと失礼じゃないか?」

「まあ……。それもそうよね。ちょっと待って。……ねえママ、真一さんがね――」

 夫人も納得した。うしろに向かって指示を出したのが、聞えた。

「三人ならんで歩くわけにもいかないから、ちょっとのあいだだけ、きみが俺のうしろに行ってくれよ」

 寛子が引っ込むと、イイダが突き出てきた。

「あの。お鼻のお加減は、いかがですか?」

「だいぶ良くなりました。いきなりで何ですけど、イイダさんもタカハシさんと同じくらい、古くからいらっしゃるんですか?」

「え? あいえ。私のほうが五年ほど後輩です。来年で定年ですがね」

 気持をほぐしてやる意図もあり、流れに則した質問を、私は返してやった。

「そうですよね。おかしいとお思いになるのも、無理ないことですよね。工場長には私らとちがって、定年がないんです。当社の名誉顧問でも、いらっしゃるからです。このあたりでは長老のようなおかたなんですよ」

 イイダの目が点から線になった。潮時だと、私は判断した。

「なるほどですね。で、半片の原料の魚って何なんですか?」

「ああ、よしきり」

「はいはいはいはいいっ」

 うしろで大声が起きたかと思うと、私とイイダのあいだに寛子が割り込んできた。あっという間に後方へと、イイダは押し流されていってしまった。

 イイダの最後の言葉が、私の頭のなかでは響きつづけていた。質問内容にうなずいたうえで答えてきたことからすれば、それが魚の名称であることはまちがいない。よしきり。だがそれは、私にはまったく聞き覚えのないものであった。よ・しきり、とすれば、四つの仕切り、なのか。よし・きり、とすれば、好い霧、なのか。いずれにせよ、その言葉からは、魚を連想することさえできなかった。

 難問に窮したためであろう。私の頭は別のほうへと向かいはじめた。イイダの一言で慌てふためいた寛子のことだ。あきらかに異様な狼狽ぶりだったのである。しかるに、そちらについても、手がかりすら掴めない。

 じかに本人に問うてみた。寛子は返してこなかった。その代りに、とでも言うように、私の右腕に両腕を絡めてきた。圧迫しだした。わからないことだらけである。溜息を吐いてから、私は顔を前に向けた。暖簾というには長すぎ、カーテンというには切れ込みが多すぎるもの。そのピラピラした幕に、行く手を遮られていることに気がついた。ちょうどそこで、タカハシが顔を振り向けてきた。

「さあ着きました。ここでちょっと涼みましょうか? 工場内はどこも冷房が効いてますけど、ここはまた格別でしょ?」

 たしかにそうであった。他とは異なる冷気が感じられた。何やら皮膚のなか、真皮にまで沁みてくるものがある。そのことで、私は疑問の一つが解けたように思われた。ピラピラしたものの向こうが冷蔵庫か冷凍庫になっているということを、予知した。

「そのまま進んでくださいよ長さん、なかのほうがもっと涼しいんですし」

 うしろから声が起った。このときにもタカハシは、瞬間的に口角の一方を吊りあげた。

「んまあ……。そうですね、んじゃ入っちまいましょう」

 言葉に溜息がまぶされていたことを、私は認めた。疑問に思うことの数が、元に戻されてしまった。確認せずにはいられなくなった。

「タカハシさん、そのピラピラの向こうには、冷蔵庫か冷凍庫があるんでしょ?」

「そりゃあそうなんですがね」

 そう言うだけで、タカハシはさっさと、前進する構えに入ってしまった。寛子が、私の上膊を締めつける力を、強めてきた。直後に夫人が、もう一方の腕、左腕に巻き付いてきた。女の魅力の大半を成す丸い肉。それを左右からこすりつけられ、私の心は呆気なく爛れた。着座するだけで一ヵ月分の給料を巻きあげられることとなる一等地のナイトクラブと同じ手口だとは、その時点では考えようもなかった。しかし、そんな際に変わらず、男気をひけらかしたいような気分には、なっていた。どいつでも、どこからでもかかってこい。そう言わんばかりの勢いで、女二人を引き連れ、タカハシの背中を追っていった。

 ピラピラしたものは、左右の女が弾いた。それがゴムでできていることに、私は目を奪われかけた。いかんいかんと、見なかったふりをした。大人物がそんな些細なことにこだわっていてどうすると、自分を叱った。前にある頭だけを眺めているようにと、目に厳命した。わずか数歩を繰り出したところで、その灰白色のものが焦茶色に変えられた。

「どうです? ……驚いたでしょう?」

 タカハシが、無表情でそう投げかけてきた。私はまず、余裕に満ちた笑みを偽造した。そのうえで、目蓋の隙間から周囲をうかがってみた。はるか下のほう、靴下の履き口ほどの高さで、白い靄が、ゆったりと流動しているのが見えた。そのなかで、霜の付いた丸太状のものが、ぷかぷかと浮き沈みしているということも、目にとらえられた。「厳冬の貯木場」という画題を、私は思いついた。それだけであった。恥をかく恐れはない気がした。両頬の筋肉から力を脱き、きっぱりと目を開けた。まっすぐに質問者の顔を視た。

「あり? 意外ですねえ。たいがいのひとは、ぶったまげるんですけどねえ。……んん? ……あそっか。そいでだな」

 独り言を口にするや、小走りに、タカハシは私たちから離れていった。部屋の壁の一方に行き着くと、そこにある手のひら大の箱を、いじりはじめた。何かのスイッチのようである。突然、それまで室内にあった木枯しのような音が、聞えなくなった。

「さあ遠藤さんっ。これならどうですっ? よく見えるでしょっ?」

 理解できず、私はタカハシを眺めていた。

「下です下っ。下を見てくださいっ」

 言われるままに目を落してみた。靄が消えていた。丸太に似たものの細かな点が、鮮明になった。それらが何であるのかが、はっきりと見て取れた。その衝撃で、私は飛び上がりそうになった。だが、両腕にある重しに留められた。身体の外へと送った力が逆流してきた。腹で膨らんだ。

「うっ。うわっ。うわあーっ」

 自分の大声にまで驚かされることとなった。あたりには、体長2メートルほどのサメが、ゴロゴロと横たわっているのであった。

「落ち着いてください遠藤さんぜんぶ死んでるんですからっ」

 言ったのが夫人であることは、わかった。

「なっ。なんでこんなもんがっ」

「だってこれこそが半片の原料なんですよっ」

 女の金切り声を、男の笑い声が引き取った。

「いやあ。ハハ。驚いてくださって、あたしもホッとしましたよ。見せしぶってた甲斐が、あったってもんです。……ヨシキリザメっていうんです、こいつら。見慣れちまえば、どうってこたあないですよ」

 サメは、いずれもが口を曖昧に開け、細かな鋭い歯を覗かせている。猛然と獲物に食らいつく寸前の口つき、ともいえよう。そこからすれば、白目を剥いていてもおかしくはない。しかし、その目玉には、黒目しかなさそうである。顔面に占める割合からすれば、小さすぎる。ブタやイイダのそれの比ではない。口にうかがえる攻撃性とはまったく矛盾する、精神性のない目。やはり私には、どう見てもグロテスクなものとしか思われなかった。

 死んでいる証ででもあるかのように、腹を縦に裂いてあった。そのことと、他の魚類と変りない尾を持っているということとが、私をいくらかは、くつろがせた。タカハシに言われたとおりで、見慣れてしまえば、平常の心持に戻れるような感じがしてきた。

 勇気を奮い起し、私はとくと視てみることにした。するうち、それらに、魚体との決定的な相違点を見出した。頭寄りの胴、人間でいえば胸のあたりから、二枚の扁平なものが突き出している。そのことであった。アシカやアザラシほどに発達したものではない。だが、魚の胸ビレよりは確実に長く、厚ぼったい。前脚や腕を想わせるものであることは、アシカなどのものに変りない。ただ、それを曲げられそうな部分、関節に類する部分は、見当らなかった。そこで私は「フカヒレ」という単語を思い出した。なるほどと、溜飲が下がった。

 そのときである。それと似たものをどこかで見たような思いが、私のなかで膨らみだした。無論のこと、サメのヒレではない。どちらかというと、アザラシの前足に近い気がする。見える像と記憶とを照らし合せようと、私は目をしばたたかせた。

「平気になりました? よく見ると、かわいいものでしょ? フフ。わたしと同じで」

 右側からのその言葉を耳にした瞬間、私の頭のなかに閃きが走った。一つの映像が浮かび上がってきた。それと目の送ってくる映像とが、ぴったりと重なり合った。驚きのあまりで、私は呼吸を忘れた。そのことが、この工場の擂潰現場入口での、鼻に受けた衝撃をも、蘇らせた。吐き気が込み上げてきた。口のなかが黄ばむと、足腰から力が脱けはじめた。食肉加工前のヨシキリザメは、ワキガ手術直後の寛子なのであった。

 

          四十一

 

 人心地がついたときには、私は上張りを着たままでジャガーに乗せられていた。右隣には寛子の姿があった。幾重かにされた、凋んだポリ袋の口を、窓側の手に握っている。上体を私のほうに捻り、いかにも心配だという顔を向けてきている。ほどなく、目が合った。

「大丈夫ですか? また吐きたくなったら、遠慮なく言ってくださいね。いま大急ぎで、ウチへ向かってもらってますから。……でもいきなり、どうなさったんですか?」

 答えられるはずもなかった。他方、彼女を見ていることで、ヨシキリザメの残像が、それのすりつぶされたときの臭気が、蘇ってくるようにも思われた。目も、私は閉ざした。

「母が謝ってました。夜にまた、あらためてお詫びするって、そう言ってました」

「無理もありませんよ寛子さま。東京から運転されてきて、お疲れだったっていうのに。それが仕事のあたしたちだって、一往復するとガックリきますもん。そんなんで変なもん見せられちゃあ。ねえ。……社長も残酷すぎますよ、ここだけの話ですけど」

 二人の言葉から察するところ、夫人は車中にいないようである。

「ねえ真一さん。ドライブは、また今度にしませんか? 犬吠崎の灯台なんかが、あした取壊しになるわけでもないんですから。そう。あした東京へ帰る途中で、見たっていいんだし。……わたしもバカでした、母と同じで。きのうまでのお疲れのことを、コロッと忘れてて。きょうはこれから、ウチで休んでてください。ね」

 不用意に言葉を返せば、またどんなひどい目に遭わされるかもわからない。その恐れが完全になくなるまではと思い、私は首を縦に振るだけに留めておいた。

 邸の門を抜けたところで、車がクラクションを鳴らした。玄関の前で停められた。寛子が飛び出し、外から回って、私のほうのドアを引き開けた。

「さ。わたしにつかまって降りてください」

「よせよ。そこまで弱ってはいないよ」