7号小松川線というのに、どうにか進めた。それを道なりに行けば、京葉道路に入れる。次には、東関東自動車道への入口を目指す。そこからは、終点の潮来まで飛ばせばいい。その先は寛子から聞かされていないが、大まかな標示板ぐらいは、設置されているにちがいない。道に悩まされる心配は、しばらくはなさそうであった。
とはいえ、である。そのままではつまらない道中になってしまう。京葉道路を走りだしたところで、私は左手を、寛子の太もものあたりへと伸ばした。指に触れられたので、軽く握ってやった。
「ご機嫌は、まだ直ってないのか?」
「わたしじゃあ、やっぱりダメなんですか? そうでしょうね。横恋慕したのは、わたしなんですもんね。しかもワキガだったんだし」
「まだか。スネたこと言うなよ。だったらなんで、こうやって二人で、銚子へ向かってるんだ? おまえがダメなら、わざわざ行かなくったっていいんじゃないのか? 百合っぺのことだって、おまえの妄想だよ」
カセットを止められた。
「それはぜったいにウソです。わたし、たしかな証拠をにぎってるんです。お見せすることだって、できるんですよ」
「マッチのことだろ? それはさっき説明したじゃないか。病気のこと以来、なんかおまえ、すっかり自信なくしちゃってるんだな」
「じゃあこれは、どう説明なさるんです? マッチ箱のなかには、日付まで書き込まれてたんですよ。それもあの日の」
誘導尋問かもしれない。あるいは事実なのかもわからない。いずれにせよ、一つとして認めてはならない。それが、浮気したのを感づかれた際の鉄則だ。行為の現場を押えられていないかぎりは、なんとでも言いうるのである。真実を知らないでいるほうが幸せなことも、人間には山とあるのだ。
「もしそうだとしても、いろいろ考えられるんじゃないか? 俺のむかしの女が、その日を何かの日と決めて、書いたのかもしれない。たまたまそれが、きみの抜糸の日だったとか。……ともかく、百合っぺとは関係ないよ」
「ぜったいにウソですっ。どうして百合子と関係ないって言い張るんですかっ?」
「だって百合っぺとはあの日、ホテルへなんか行ってないからさ」
「もうっ。じゃあ百合子じゃないんなら、ほかにも女がいるんですか?」
「金銭的に俺にそんな余裕がないってことは、おまえもよく知ってるじゃないか。恥かかせるなよ」
「じゃあもういいですっ。わたしは真一さんが、あの日に百合子と渋谷のホテルで、セックスなさったものとみなします。断定します」
「それできみの気が済むんなら、幸せになれるんなら、そうしたらいいじゃないか。馬鹿げてると思うけどな。ともかく、俺は否定しとくから。その話はもう終りにしてくれ」
「ダメです。真一さんは浮気したんです。たとえ過ぎたことでも、しょうがないことでも、つぐないはするべきなんです。それは……」
ただ鸚鵡返しに訊いてやった。
「わたし、銚子に着いてからはもう、真一さんに対して敬語を使うことは、一切やめさせていただきます」
私は声をあげて笑いそうになった。地元に帰れば、金満家、中谷のお嬢さまなのだろう。そのひとりである寛子が、男にへいこらしている姿を見られたくないがために、ありもしない話をでっちあげた。そのように想われたためだ。自分こそ率直に言ってきたらどうだと、心のなかでは言ってやった。
「ああいいとも。それに俺はもともと、おまえにそんなふうに話せなんて、一言もいってやしないじゃないか。……かわいいとこがあるんだな、おまえ。だけど、自分の目的のために百合っぺのことを利用するのは、よくないんじゃないか?」
「利用ですって? とんでもない。わたしは真実を述べているだけです。あとでマッチ箱、お見せしますよ」
「へへ、わざわざ作ってきたのか?」
「そう思われるんなら、それでけっこうです。真一さんて、女のことに関しては、とても強情なんですね。よくわかりました。わたしが魅力的じゃないんで、そうなるんですものね。努力しますから、覚悟しといてください」
「やれやれ。浮気してもかまわないなんて、やっぱり大ウソじゃないか。ホントに浮気したら、ただじゃ済まされなそうだな」
寛子から返ってこなかったので、私は左手でタバコを喫おうとした。そこでちょうど、移るべき高速道路の略称の記された標示板が、目の端にとらえられた。
百合子に関しての話は、いつしか片づいていた。
「成田から潮来まで、どれぐらいなんだ?」
「東関道に入ってから成田までと、時間も距離も、同じぐらいじゃないでしょうか?」
「そうか。じゃあ、ここらから予行練習でもしときますか? 寛子お嬢さま」
「皮肉ですか? それ」
「皮肉なの? セキグチ、いや遠藤、だろ?」
「わたしはなにも、そんな偉そうにしたいなんて。一時期みたいにしたいだけで」
「まあいい。もう普通に喋ってくれよ。な」
潮来という地名を、私は古い歌謡曲でしか知らなかった。茨城県に属している。そのことを、道路脇の小さな標示板で初めて知った。
「ほら。また出てき、たわ。水郷道路って出てるほうに進んで、ね。……そこは有料道路な、の。……そのままで124号に入れ、るから、あとはまっすぐに、ね。しばらくすると、銚子ハサキって出てくるはず、よ」
「その調子その調子」
「つまらないシャレ、言わないでください。あ、言わないでよ」
「ほらみろ。調子づくとまだ出てくるじゃないか。銚子に着いてからもそんな調子だと、調子くるうぞ。大まかにはわかったけど、また要所要所でも言ってくれよ。な、お嬢さま」
「んもうっ」
空は晴れている。「水郷」と呼ばれるだけのことはあり、車から見える景色は、川なのか海なのか湖なのか、水また水である。陽光を照り返していないそれは、青みがかって見える。水でない部分も、もちろんあった。起伏のない島々が点在しているように、私は見うけた。それらの上に建物もとらえられた。しかし、並んでいる、というほどの夥しさは、感じられなかった。工業地帯にしては、景観が好すぎた。取り巻いている水も美しすぎた。
「いやあ。眺めのいいとこだな。この道の両側に見えるの、あれはみんな島なのか?」
「どう、かしら? 島ってほどのものじゃない、わね。……そうそう。地理の先生が言ってたこと、思い出し、たわ。このあたりの地形って、ニューヨークに似てるん、だって。真一さんの右側に、利根川があるん、だけど、ちょうどそれが、ハドソン川にあたるん、だって」
「へえー。まあ、たしかにあっちも、大西洋沿岸にあるからな。じゃあどこかに、マンハッタンに当たるところも、あるわけか? 新宿みたいに、高層ビルが立ち並んでるような」
「そんなところはないです。あるのは海水浴場ばっかり。言ってみれば漁村ですもん」
「でもそのほうがいいな。このままのほうが。景色がよくて、俺は気に入ったな」
「そうですか。よかったです。あしたは犬吠崎へ行きましょうね。あそこの断崖もすごく眺めがいいんですよ、アベックで行くと」
「おいお嬢さま。また言葉が戻っちゃってるぞ。それにハハ、アベックなんて死語だぜ」
「ううんもうっ。あきらめます。いいです、言葉づかいなんてどうでも。友だちから始まったんじゃないんで、ダメなんですよきっと」
そんなことを話しているうちにも、車は着実に進んでいた。やがて、波崎という地名の領域を、滑走しはじめた。
「樹齢が千年ちかい、幹が八メートルもある、天然記念物のクスノキがあるんですよ。時間があったら、それも見にいきましょうね」
大きな橋が掛かっていた。利根川の河口を渡ると、そこは千葉県、銚子市なのであった。
三十二
惑わされてはならない。車から地面に右足を降ろすにあたり、私は自分にそう言い聞かせた。
寛子の指示により、幹線道路を右に折れた。きちんと舗装された、しかし車線もガードレールもない一本道が、延びていた。車二台が難なく行き交えそうな幅は、あった。
田舎にありがちな道、ではある。参道にも似ているが、店のたぐいは見あらない。その道から庭らしき土地を隔てた二階屋が、延々と連なっているばかりだ。壁や塀など、囲いといったものも、皆無に等しい。海外では変哲もない住宅街の光景であるが、日本にいる私の目には異様に映った。短距離走の選手ならば追い付けそうな速度で車を走らせながら、私は人影を探していた。その横目に、居住まいを正した寛子が、とらえられた。
「ヘヘ。なんだよ? 急にかしこまっちゃって。きみの家まで、もうすぐなんだろ?」
「ええ。でもこのあたりでは、だらしないかっこうができないんです。分家のひとや会社のひとの、おウチばっかりですから。すぐに噂にされちゃいますから。ほんの数分のしんぼうですもの」
きっかりと前を向き、硬い表情で、寛子はそう言った。
「この沿道にあるの、何軒ぐらいなんだ?」
「さあ。七八十軒じゃないでしょうか。きゅうくつですから、もっとスピード、上げていただけませんか? 行きあたった所が、実家ですから」
巨大な門が、正面に見えてきた。言われたとおり、一本道はそこで終っている。
右の門柱の高みに、表札らしきものが認められた。その大きさからすればまな板、看板といってもいいほどの代物であった。
「クラクションを二回、みじかく鳴らしていただけますか?」
私は黙って従った。
恰幅のいい、スーツ姿の中年男が、門の向こう側に現れた。慌てて出てきたらしく、手櫛で前髪を整えている。一瞬だけ硬い表情を示してきたが、即座にそれを崩した。商業的な笑顔を定着させたかと思うと、右の門柱のうしろに消えた。
「あのひとは誰?」
「カワダさんです。母のマネージャー、秘書みたいなかたです」
その直後、門扉が左へと引き込みだした。欧米の大邸宅の門さながらに、真ん中から割れて引っ込んでいくように想われていたが、そうなっているのは見かけだけなのであった。規則的なテンポで、動いている。電動には、なっているらしい。とはいえ、安直なスライド式には違いないのだった。学校の門を、私は思い出した。いっぺんに緊張が解けた。田舎者の見栄を、腹のなかの鼻で笑った。
コンクリートの白い道だけが見えるようになると、再び男が姿を見せた。車の前を通り、左側へと回っていった。寛子が窓を下ろした。
「お帰りなさい。ずいぶん早いお着きですね」
「ご苦労さま。ママは?」
「いま大急ぎで、お召し替えになられてると思います。いまここから、お屋敷のほうへご連絡しましたんで。お昼ぐらいなのをうかがってたもんで、私もびっくりしましたよ。ちょうど庭師のセイさんと、無駄話してたもんですから。お元気そうですね」
一呼吸おいてからのカワダ氏の目は、助手席と運転席とを交互に跳ねだした。それらがこちらに着地した一度、私は会釈しておいた。
「ええ、カワダさんもお元気そうでなにより。じゃあまたあとで。行きましょ真一さん。奥に駐車場がありますから」
門柱の間を抜けると、白い道は左に、緩やかなカーブを描いていた。そこを過ぎると、なだらかな傾斜を上ることになった。駐車場というよりは馬溜り、いうなれば車溜りのような所が、見えてきた。尻を向けた十数台が、横一列に並べられている。その一所に集まっている男たちが、一様に濃紺のジャケットを着ている。いつか見た、タクシー会社の営業所の光景が、私の脳裏には蘇ってきていた。
「駐車場ってあそこのことか? あれ全部きみんとこの車なのか?」
「まさか。お手伝いさんたちや運転手さんたち、それにさっきの、カワダさんのもあります。ウチの車は、右から三台だけです」
たしかに、もっとも右にある濃紺のベンツの尾部は、私にも見覚えのあるものだった。
「三つ目が歯ぬけになってるでしょ? あそこがお客さま用のですから、あそこに駐車してください」
ベンツの左には深緑のジャガーがあり、一つおいた左には、やはり濃紺の高級国産車があった。いずれもが大型車である。自分の黒いクーペが、ひどく矮小なものに思われた。
減速しつつ進んでいくと、ある地点で、男たちが一斉にこちらを向いた。そのなかの、のんびりとタバコを喫っていた一人が、尻に火でも着けられたかのように、目まぐるしく動きはじめた。廂つきの一角の、一本の柱に宙吊りにされている一斗缶へと急ぎ、手にあったものをそこで処分すると、往きにも勝る足取りで、元いた場所へと飛んでいった。缶が灰皿になっているらしい。
その四人が、横並びになって近づいてきた。同じ色の服を着ている。身体の大きさも似かよっている。兵士が行進してくるのを想わされ、私は軽く怯んだ。壁が迫ってくるような圧迫感を、覚えてもいた。車を頭から入れれば、私の側のドアが、彼らと面することになる。交通事故に遭う寸前には防衛本能でハンドルを右に切る、助手席で運転席を庇おうとするという。このときの私もそうであった。駐車スペースの手前で右に曲がり、バックで留めるのを装いつつ、寛子の側が彼らを迎えるようにした。そちらの窓は、門の所で開けられたままにもなっている。
「あらみなさん、しばらくでした。お変わりありませんか?」
がやがやと、男たちの声が返されてきた。私にはよく聞き取れなかった。何かの弾みでにせよ、両隣に接触するようなことがあっては一大事である。弱みを握られることにもなろう。私は左右のドアミラーに意識を傾けた。
後輪に車止めが当たったのを感じ、ほっとしながらサイドブレーキを引いた。ほとんど同時に、寛子も窓を閉めはじめた。
「とんでもない家に、来ちまったようだな」
「あら、どうしてですか?」
「いったい何人、使用人がいるんだよ?」
「少しですよ少し。さあ降りましょ。お玄関から入らないと、母に怒られますから。ここからだと、少し歩かなきゃならないんです」
私はエンジンを止め、キーを引き抜いた。
「不便な家だな。駐車場と玄関が離れてるんなら、雨のときなんか困るだろ? そんなんじゃ、自家用車の意味がないや」
「あら。ここにあるのは社用車ですよ。自家用車は裏の、お勝手のほうの駐車場にあります。ポンコツばっかりですけどね。さ、行きましょ」
一泊のみの予定である。寛子はボストンバッグを持ってきていたが、私は手ブラであった。後部座席にある荷物を取らせ、先に降ろした。一服して心を整えたかったが、状況が許しそうにない。せめてもの慰みで、私は意識的に大きく息を吐いた。上体が前に丸まったところで、ドアの開閉レバーに指を掛けた。濃厚な磯の香が、尖りを頂いて流れ込んできた。次の刹那には車中に充満した。私は噎せそうになった。寛子のスソガを初めて吸入したときのことを、嗅覚に呼びさまされた。
駐車場は、その建物を背にして、左前方に位置していた。上がってきたスロープが、右前方ということになる。中央前方には、半円の土地、緑ゆたかな庭がある。
「さあ真一さん。早く行きましょ」
寛子に促され、私は歩みを起した。