「ヤだあ真ちゃん。うしろで見てたんだあ。ヘヘ。こうすると、鼻んなかがキレイになって、においがよくわかるようになるんだよ。お坊さんたちは顔を洗うとき、毎朝こうやって鼻を洗うんだってさ。ふんっ。はふふっ。はふんっ。……と。これでなかの水がぜんぶ出た。……あ、ちょうどいいや。ねえ真ちゃん、こんなか入ろ」

 タオルで鼻を拭きながら、百合子は浴室のドアを開けた。手品を見せられた子供のように、呆然としたまま、私はその指示に従った。

「ベッドの部屋より、こういう狭いとこのほうが、においがハッキリするからね。じゃあどうしようか? ……そうだ。そのお風呂のへりに、腰かけてよ。……はいはいそう。じゃあ股を、おっきく開いてね」

 男の芯のニオイを嗅がれた。

「エッチな、ふはふは。においしか、ふはふは。しないわねえ」

「だから言ったろ。きみはワキガじゃないって。もういいか? 風を送られてると、なんかスースーして、こそばゆくなってくるよ」

「ちょっと待ってよお。ねえ。真ちゃんのおちんこ、つまんでかいでみてもいーい?」

 許してやったが、同じ結論しか生まれなかった。ちがいが起きていたのは、男の芯だけであった。先のほうを摘み上げられ、細かな風を送られた。ばかりか、ときに百合子の鼻下で擦られもした。すっかり逞しくなってしまっていた。

「元気ねえ。ヘヘ。責任とってあげよっか?」

 そう言うと、口を開けたままにして見せた。

「じゃあ洗うよ。いくらなんでも、自分のあそこから出た液までは、舐めたくないだろ?」

「そんなの興ざめじゃんか。いいってことよ」

 私の股に顔を埋めてきた。それまでに合体した女で、事後のままになっているものを口に含んでくれた女は、私にはいないのであった。さらに百合子は、私の男の液を嚥んでもくれた。やはり、かわいいやつなのであった。………………………………………………

 落ち着いた声での呼びかけに気づき、私は我に返った。慌てて声を返した。頭に蘇ってきた情景に浸りきっていたのは、実際には二分に満たない間であったらしい。壁時計がそれを示していた。自分の脳を不思議に思った。

「どうかなされたんですか?」

「いえちょっと。考えごとしてたもんで」

「はあ……」

 その響きに、人の思考を記憶中枢へと後押しするものがあることを、私は認めた。阻もうと思い、意識を身体のほうへと持っていった。ズボンの前が膨らんでいることも、そこで発見した。手の平で軽く宥めておいた。

「ところでですねえ遠藤さん。夏休みのご計画はもうお決まりですか?」

 言われてみればで、もう夏といえる頃合ではある。だが、いかにも唐突すぎた。何かあるようにも思われた。やんわりと躱しておくことにした。

「まだ先のことなんで、はっきりとは決まってませんけど。うちの会社には、全社的な休みがなくて、七月の中旬から九月の中旬までのうちで、おのおのがバラバラに休むことになってるんです。でも、それがなにか?」

「差し出がましいようで恐縮なんですがわたくしどものほう、銚子にお越しになられませんか? それはそれは海がきれいなところなんでございます。お魚もおいしいですし。あいや。深い意味はございませんですのよ。わざわざ夏休みを割いていただかなくっても、週末にドライブを兼ねてお越しくださっても、わたくしにはとてもありがたいことなんでございますし」

「そうですか。まあ、寛子くんが完全に良くなってから、二人で相談してみますよ」

「嬉しいお返事を期待しております。できればお泊りいただければと。え? なあに?」

 何を尋ねているのか。それを私が問うと、寛子が出てきた。

「まったくすみません。余計なことばかり言って。それで、火曜日はどうしましょうか?」  

 つくづくで、突拍子もない親子である。そこでも私は、ただ聞き返すよりほかなかった。

「そうですよ。わたしはまだ呑めませんが、また例の居酒屋で、お会いしましょうか?」

「ええ? なに言ってるんだよ。そうするのは、その次の週からって、言ってたじゃないか。まだ完全に治ったわけじゃないんだぞ」

「でも。だってお会いしたいんですもん」

 その心が、読めた。つまり、この二週間に同じく次の一週間にも、私にマンションまで来てもらいたい。そう思っているのであろう。受け入れてやれば、せっかくの解放感が台無しにされてしまう。といって、無理はさせたくない。自分から「中を取る」ことで従わせようと、こちらでも企んだ。

「じゃあわかった。俺がきみの部屋に行くよ。ただしだな、はっきり言って俺も疲れてる。週の真ん中、水曜の夜だけにしてくれないか」

「そんなあ。わたしのほうで出ていきますよ。申し訳ありませんもの」

「いいから。その代り、それ以外の夜には、テレビでも観ながら、本でも読みながら、なるべく部屋のなかで過ごすんだぞ。いいな」

 そして、その週も流れていった。

 新しい週が始まると、寛子の言葉どおりで、合体する以前に変わりない日々が訪れた。平日には、新宿の居酒屋で落ち合い、帰りの物陰で口舌を絡め合うようになった。単調な、刺激らしい刺激のない、しかしこれといった不満も覚えない時間が、漫然と過ぎていた。百合子との約束も守られていた。彼女が私の生活に首を突っ込んでくることも、なかった。

 その週末、初めて私は、病院へ行く寛子に付き添うことを申し出た。ドライブがてらに乗せていき、外で待機していた。この回をもって通院が不要になったのを、報告された。場所を変え、何度も抱き合った。

 検診に際しては香水のたぐいがご法度なのを、寛子から聞かされていた。彼女がそんな状態であるにもかかわらず、私の鼻が嗅ぎつけてくるのは、ありきたりの、若い女の体臭がせいぜいであった。抱擁のたび、私の喜びも高められた。さりとて、寛子と合体してみようという気には、まだなれなかった。

 目鼻口を含め、身体の表面は、老廃物が出されやすくなっている。また、簡単に洗浄することもできる。だが、内臓はそうは行かない。いい例が大腸で、毎日きちんと排便して

いても、その内壁の襞には、重ねてきた齢に応じた量の滓が残るものらしい。未だ体内にこびりついているくさみ、というものの存在も、充分に考えうるわけだ。それが寛子から出きったと想えるまでは、交合することはやめておこう。そのように、私は決めていたのである。どんなに早くとも次回の女の日々が終ったのを聞くまではと、その晩も、むずかる男を黙殺しつづけていたのだった。

 抜糸してから三週目に入った。

 手を挙げても脇の下に起きる痛みが軽くなったと、寛子は無邪気に両腕を掲げ、くどいほどに喜んでいる。居酒屋の注文とりの若い女も、やがては反応しなくなった。

「それに、素肌のままの自分でいられるって、こんなに快適なことだったんですね。ずっと忘れてました。もう毎日が楽しくて楽しくて」

「そうか。ホントによかったな」

「ほら。こうやって頭のうしろで手を組むことも……ね。もうできるんですよ」

 他者が幸せな気分に浸っているのを目にすることは、嬉しいものである。見ているほうでも愉快になってくる。しかし、物事には何事にも限度というものもある。ほとんどが定形化している生活に、こちらはくさくさしているのだ。すでに酒がまわっていたこともあり、意地悪してやりたいという気持も、私のなかに育ってきていた。

「なんかあれ、ほら。ほかにも実験してみたのか? 汗をかいてみて、そのあとニオイがどうだったのか、とかさ」

「いえ、それはまだ……。でも先生のお話では、もう脇の下からは汗もかかないし、太い毛も生えてこないってことでした。だからもう、だいじょうぶなんじゃないかと……」

「まあ。でもどうだかな? 俺がニオイに気づいたのは、そこでじゃあなかったわけだし」

 自分の気持を操っているものが満たされていない肉欲であることを、考えなしに発したその言葉で、私は気づいた。失言といえる。それでは試してみてもらいたいと、寛子に返されるかもしれないのである。話を逸らそうとあわてた。閃いたままを口から出した。

「そうだそう。そんなに具合がよくなったんなら、この週末、銚子へ行ってみるか? お母さんからも誘われてるんだし。どうだ?」

 寛子の顔から光が生まれた。念いが叶ったと、私は心のなかで大きく息を吐いた。

「うれしいです。でもよろしいんですか? わたしはちょうど、母にじかに会ってお礼を言いたいと思っていたので、ねがってもないことなんですけど」

「ああ。しかしだ。ガソリン代とか高速代とかは、面倒みてくれよ。なんせほら、ハハ、こちとら安月給なもんでね」

「それはもちろん。……そうですか。じゃあこんや帰ったらわたし、あちらに電話しときます。いろいろとしたくとかも、あるでしょうから」

「仕度? おいおい。あんまり大がかりにやらないでくれって、そう言っといてくれよ。まさかあの映画。あれほれ。そうだ蒲田行進曲。あれの里帰りのシーンみたいに、お帰りなさい、郷土の誇り中谷寛子さん。なんて垂幕を、街のあちこちへ掛けるつもりで、いるんじゃないだろうな? きみのお母さん」

 寛子は、前のめりになって笑いながら右手を左右に振ることを、くりかえした。

「まあ、それは冗談だけどさ。お母さんが俺んチのまえまで来られたあの日。あの夜中の電話でも、きみに言ったことだけどさ。きみのことをよろしく頼むって、パジャマだのバッグだの、蒲鉾セットだの、渡されて参っちゃったんだ。そういうのも一切無用だからって、くれぐれも言っといてくれよ。あそうだ。そのときにパジャマとバッグは、返しに持ってくかな。蒲鉾のほうは、悪くなるといけないんで、ウチの家族で食っちまったけどさ」

「なんですって? 真一さん、そういうことならお断りしますよ、いなかにいくのは。どうして受け取っていただけないんですか? そういえば、いまだに以前からのバッグ、使われてますよね? どうしてなんですか?」

「だってもったいないじゃないか。ルイヴィトンのバッグなんだぞ。どうしても使えって言うんなら、もう少し社会的に認められてからにするよ。まだ身分不相応だ。きみにこうして、おごってもらってる分際で」

「堅実ですよね、真一さんて。わたし、そういうとこも大好きです。あそうそう。すっかり忘れちゃってましたけど、これを」

 寛子は右手を左の手首へと持っていった。私自身も忘れきってしまっていたものが、そこには着けられていた。安物である。また、そのなかに、寛子のなくすことのできたくさみが、詰め込まれているようにも想われた。もはや不要なのを、私は言った。

「じゃあこれ、いただいちゃってもいいんですか?」

「ああ。そんなもんでよかったらね。でも、見てのとおりで男物なんだぞ」

「かまいませんよそんなこと。うれしいです。大事にします。でもそれじゃあ、新しい腕時計を、プレゼントしなくちゃいけませんね」

「ちょっと待て。腕時計のこと、お母さんには絶対に言うなよ。それと、もしどうしてもくれるって言い張るんなら、きみが自分で買ってくれ。ただし、三千円以下の、そこいらの量販店で売ってるやつでいい。だいたいもう、着けないでいることに慣れちまってるしな。今回のことで気づいたんだけど、この国って、いたるところ時計だらけなんだよ。だからぜんぜん不自由しなかったし」

 出端を折ることができたようで、寛子の上体から力が抜かれるのが見えた。財力なんぞに張り倒されてたまるか。そういう気概が、ここでの私には、まだあった。

 

          三十一

 

 長い運転になる。距離は、短縮できるはずもない。せめて渋滞には巻き込まれないようにしようと、早朝から出かけていくことが決まっていた。車の免許は、寛子も持っている。銚子への道順は完璧に把握しているので、ナビゲーションは任せておいてほしい。そう言われもしていたので、私は心やすかった。

 マンション前で寛子を拾うと、言われるままに首都高速の用賀入口を目指した。

 246号を進むしかなかった。多摩川を越えたところで、そこで聞いた百合子の黄色い声が、私の頭に蘇ってきた。男の液が、溜まってきている。眠るまえに処理しておかなかったことが悔やまれた。一緒にいるのが寛子だということを自分に強く認識させようと思い、私のほうから積極的に話しかけていた。

「真一さん、どうかなされたんですか? なんかさっきから急に、やけにいっぱいお話しされますねえ」

「え? ああ、眠気防止のためだよ。どれぐらいかかるんだろうな? 銚子まで」

「ううん。そうですねえ。これぐらいのペースなら、三時間はかからないと思いますよ。あそうだ。ウチからCDもってきたんですけど、かけてもよろしいですか?」

 話したくないのを、遠回しに言ってきている。私はそう思った。渋々で応じてからは、仕方なしにタバコで口を塞いだ。

 クラシック、モーツァルトであった。話ができるほどの音量に絞られている。本当に眠気を催しそうなので、私は閉口した。ほどなくして信号のない道路に入れたことが、せめてもの救いだった。

「思い出しますねえ。あの日のこと」

 不意に、寛子がそう言った。どの日のことを指しているのかが、判然としない。東京駅八重洲口へと向かった日のことではないか。そう思いつつも、私は答えずにいた。

「百合子はどうでした? やっぱり、ワキガじゃありませんでしたか?」

 危うく、私は寛子の顔を見そうになった。

「なんだそれ? どういう意味だ?」

 首筋に力を入れることで、どうにか平静を装うことができた。

「わたしが抜糸した、前の夜のことですよ。あの夜、二人で渋谷へ行ったんでしょ?」

 隠す必要のない事実まで隠すことは、襤褸を出す元となる。私は素直に認めておいた。

「じゃあやっぱり、ホテルにいってたんですね。……別にかまわないんですけど」

「ハハ、嫉妬か? なにを根拠にそんなこと言うんだ? 妄想もたいがいにしとけよ。それになんだってこんなときに、そんな因縁ふっかけてくるんだ? これからおまえの実家に行こうっていう、このときになって」

「このときだから言うんです。いなかから帰ってきたあとにまで、そんなことがあったらヤだから、いま言ってるんです。過ぎたことはもういいんです」

「だからなにを根拠にそう言うんだよっ?」

 寛子の呼気により、社内の空気が大きく揺らされた。溜めた息を噴出させたようだった。

「百合子から真一さんのコロンの匂いがしたときには、わたしもまさかって思いました。でも最後の検診の日に、このお車に乗せていただいて、はっきりしたんです」

「なにがはっきりしたんだよ?」

「わたし、こちらのドアステップとシートの境目で、渋谷のホテルのマッチを拾ったんです。手術前に乗せていただいてたときには、そこにそんなもの、ありませんでしたから」   

 百合子なら、やりかねないことである。私は呆然としかけた。下アゴから力が抜けていくのがわかった。だが、次の瞬間には、半開きになりつつあった口に、別の機能を命じた。

「なんですかそれっ。笑ってごまかしたってダメですよっ。……かまわないって言ってるんですから、正直におっしゃってください」

「正直にもなにも、馬鹿馬鹿しくって答えられないね。言っとくけど、渋谷のホテルなら、この車で何度も行ってるよ。もちろん、きみとつきあうまえの話だ。どの女かが、そんなもんを、シートの下へでも捨ててったんじゃないのか? それがたまたま、こないだ出てきたんだろ。タバコを喫う女だっていたし」

「ぜったいにウソですっ。百合子なんですっ」

「どうして決めつけられるんだよっ。おかしいぞおまえっ」

「しばらくお話ししたくありませんっ」

 怒っているのを装うためで、私は乱暴に、モーツァルトのCDを殺した。カセットのモダンジャズに切り替えた。あとはただ、顔を前に向け、進路に集中していればよくなった。