次の週にも、退社後に寛子の面倒を見にいく日が、一日ごとに繰り返されることになった。いや、頼まれていた大仕事は、すでに免除されてしまっている。彼女に面会にいく日といったほうが、正確な状態になっていた。食べさせつつ食べ、洗いものを済ませ、テレビを観ながらの雑談につきあい、やがて去る。彼女が自力で食べられるものさえ用意されていれば、私がわざわざ訪ねなくともいいとさえ、思われた。
 百合子には、電話してくるようにと、私は毎回「連絡日誌」で伝えていた。しかし、さっぱりであった。そこに記される内容も、さらにぶっきらぼうなものとなっており、『洗濯もん取りこんどいて』だの『アイスあるよ』だのと、寛子とは直接に関係のない事柄ばかりとなっていた。私のほうから百合子に電話したところで、ノートへの書き込みからすれば、電報のような話にしかならないのが目に見えている。もどかしかったが、私はただ書きつづけ、ただ待ちつづけているしかなかった。
「いよいよだな。あしたはお母さん、何時にここへいらっしゃるんだ?」
「病院の予約が三時なのを言ってありますから、お昼前には来ると思います」
「なんてったっけ? あの運転手のひと」
「セキグチさんですか?」
「そうだそう。あのひとの車で行くのか?」
「いいええ。手術のときもそうでしたけど、田舎で噂になるといけないんで、ここから病院へはタクシーです。たぶん手術のときと同じで、ここで一泊して、日曜の午前中に、迎えにきてもらうんじゃないでしょうか」
「お母さんも大変だな。よろしく言っといてくれよ。お役に立てませんでしたがってな」
「そんなあ。こうしてちゃんと、お越しくださってたじゃないですか。お仕事が終られてお疲れのところを。このご恩はわたし、一生わすれませんよ。どんなに心強かったことか」
「それほどのもんじゃないだろ。きみを洗ってあげられてたんなら、まだしもさ」
 寛子は両手で、私のどこかに触れようとした。だが、翌日には取り除かれる装具に、その行動を阻まれた。痛みによるのか、言葉もすぐには出されなかった。
「とんでもないですよ真一さん。ほんとうの女にしていただけたことだって、真実を教えていただけたことだって。ここで生れ変るチャンスを得られたことだって、すべて真一さんのおかげじゃないですか。そのうえにも、こうしてお世話になって。……わたし、どんな試練にも耐えてみせます。ですから、おじゃまにならないかぎり、おそばに置いてやってくださいね」
「おいおい。なんかまるで演歌の歌詞だな。まとにかく、あしたは頑張ってくれよ。また麻酔うつんだろうから、帰ったあと無理しないで寝てろよ。俺には、自分で受話器とれるようになってから、電話してくれればいいんだからさ。ちゃんと養生しろよ。な」
 変化は、その金曜の深夜に、突如として訪れた。
 それまでの日々に同じく、私は寛子と玄関で別れていた。車のエンジンを掛けようとしたところで、いきなり何者かに運転席の窓を叩かれ、驚かされた。百合子なのであった。
「ちょっと乗せて。話があんの」
「店はどうしたんだ?」
「早く乗せてよ。走りながら話そ」
 宛もないままに、私は車を発進させた。しかし、いずれはマンションまで送ってやらねばならない。近場を巡回するつもりでいた。
「都内、都心のほう行こ」
「渋滞するだろうから、帰りが厄介だし。それにあした、寛子のことがあるじゃないか」
「あたしきのうでもう、ヒロぽんのお世話係は卒業したんだもん。真ちゃんだって、きょうで終りじゃん。パアッと行こパアッと」
「そうだそう。おまえ店はどうしたんだ?」
「ハヤビケしてきたに決まってんじゃん。管理人のおじさんと話しながら、真ちゃんが降りてくんの待ってたんだよお。……だからさあ。パアッと街へ出かけようよ。真ちゃんだって、あした会社やすみじゃんかあ」
 たしかに、解放感に浸りたい気分もある。寛子からの電話は、包帯を取り除かれた彼女が一休みしたあと、どんなに早くても次の夜となろう。多少おそくなっても問題はなさそうに想われる。百合子の求めに応じ、私は国道246号を上っていくことに決めた。それが最寄りの、ただ直進するだけで繁華街に行き着ける道、だからなのであった。車の鼻先をそちらへと向けた。
 カーステレオを掛けようとした百合子を、私は左手で制した。
「話があるんだろ? なんで電話してこなかったんだ? 何度もノートに書いといたのに」
「だって、電話したって、どうせ真ちゃん、ヒロぽんの肩もつでしょ?」
「肩を持つって。おまえ、寛子とケンカでもしてるのか? こないだ電話で話したときには、そんな感じは受けなかったけど」
「ケンカはしてないよ。でもムカついてはいる。あたしにはあたしの、ひとにはそれぞれの悩みってものがあるっていうのにさ。ヒロぽんたら、悲劇のヒロインは自分だけだ、みたく思ってるみたいでさ。ママからは毎日、寛子はどおお、ちゃんと面倒みてあげてんでしょうねって、電話かかってくるしい。こんなのやってらんないって、何度も思ったわよお。お買物いってご飯つくるのもあたし、お洗濯お掃除もあたし。みーんなあたし。一気に専業主婦にされちゃったみたいだったよ。おまけにお風呂にも入れてやって、ヒロぽんの汚いとこまで洗わされてたんだよお。病気になるんじゃないかって、ヒヤヒヤしながら。おかげで十個ぐらい、年とっちゃったわよお。あとで信号んとこで見せてあげよっか? 手のひら。ボッロボロになってるからあ」
 ようやくのこと、百合子からの早口での訴えが一段落した。彼女が責めている対象には、私も含められているようである。
「悪かったよ。俺がゴム手袋つけるの断らなきゃ、おまえの負担も、少しは軽くなってただろうな。すまん、ゆるしてくれ」
「ホントだよお。あたしだって手袋つけてやりたかったよ。ヒロぽんの心を傷つけちゃいけないって思って、がまんしてえ。洗って拭いて服きせてから、こそこそかくれて、消毒液に手を浸して。殺菌剤いりの石けんで、自分の身体あらえるのは、そのあとなんだもん。ヘトヘトだったよお」
「わかったわかった。きょうはその不満、俺がぜんぶ聞いてやるからさ。それに、おまえだけが家のことやんなきゃいけないのは、寛子を風呂に入れなきゃいけないのは、きょう、いやきのうで終ったんだろ? あしたからはまた、この事件のまえの寛子に、戻るんだしさ。また仲良くしてやってくれよな」
「別にケンカしてるわけじゃないって。ただもう、あたしがこれまでにヒロぽんから受けた恩は、すっかり返したって、そう思ってるだけよ。この二週間のお世話でね」
 それほど苦労したのだという表現なのだろう。この時点ではそんなふうに思えるだけなのだろうと、私は言葉だけで頷いておいた。
「ねえ。あたしが言ってる意味わかってる?」
「だから……。これからは寛子に、何の負い目も感じないでよくなったって、そういうことなんだろ?」
「うん。まあそう。でも……」
 そう返してくると、百合子は押し黙った。私もあえて追わなかった。その状態で、十五分ほどが、窓の夜景とともに流れた。
 すでに多摩川を越えており、国道246号と同一の道に『玉川通り』という名称が付けられていた。
「あれ。もう都内に入ってるう。ねえ真ちゃん、あたしのこと、えらかったって思う?」
「ああ。そりゃあもちろんだよ」
「じゃあ、ごほうびちょうだいね」
「いいよ。カネが有り余ってるわけじゃないから、なんでもってわけには、いかないけどな」
「たいしてかからないわよお。バーでおごってもらう程度だもん」
「で、なんなんだ? それは」
「なにって。物じゃないよ。……ホテルいこ」
 驚いた。その直後には、またかと思わされた。私はそこでは、返さずにおくことにした。

「いいじゃんかあ。つきあってくれても。それに、さっきはわかったって、言ってたじゃんかあ」
「そんなっ。ホテルにいくのをわかったなんて、言った憶えはないぞ」
 口車に乗せられた恰好に、なってしまった。
「そうじゃないよ。あのひとに恩は返したってこと。もうあのひとに、真ちゃんを譲ってやる必要なんかなくなったんだよ」
 寛子のことを「あのひと」と呼んでいるのに気づいた。が、それどころではなかった。
「そんな。いまさらそんなこと言ってきたって。おまえだって、寛子が俺のためにワキガの手術うけたのは知ってるじゃないか。おまえいまになって、あっちを切れとでも言うのか? そんなこと、俺には絶対できないぞ」
「バカだねえ、あんたったらあ。このおひとよし。そんなクサイやつなんか、さっさと捨てちゃえばいいじゃんかあ」
「捨てればいいだとっ。自分で勝手に寛子を押しつけてきといてなんだその言いぐさはっ」
「なに怒ってんのよお。ハハ、冗談よ冗談」
 私は呼吸を整えはじめた。
「あたしだって、いまさらなのはわかるわよお。でもそれじゃあ、あんまりにも悔しすぎるじゃんか。あのひとに、ちっちゃいころからずっとお世話になってきたって思ったから、黙って真ちゃんを譲ってあげたっていうのにい。譲ったとたんにこっちが、たんまり世話させられたんだよ。なんだか二重に、おカネとられちゃったみたいで。くやしすぎるよお」
「そういうこと、言うもんじゃないぞ。たった二人の、血を分けた姉妹じゃないか。それに人生、まだまだ続くんだぜ。これからだって世話になるかもしれないじゃないか」
「フフ。おかしい。ヒロぽんが手術うけた次の日にも、そう思ったんだけど。真ちゃんさ、ちょっとあたしと話さなくなってるうち、なんだかテレビドラマみたいなセリフ、言うようになったんだねえ。それってヒロぽんの影響なわけえ? ヒロぽんの言葉には、そんなこと、思ったこともないんだけどさあ」
 そんなことを指摘してくるおまえこそスレたもんだな。つきあっていた頃にはもっとかわいげがあったぞと、私は心のなかで言った。
「まあいいや。だからあたしは、いまさら二人の仲を裂こうなんて、これっぽっちも思ってないのよ。ママも真ちゃんのこと、気に入ってるみたいだしい。結婚でもなんでもしてくれって感じ。あたしはただ、いまのうちに、ヒロぽんをうらむ気持を片づけておきたいだけ。それだけなんだよお。……あ。もう池尻大橋だ。しばらく行くと二つに別れるから、左の車線に寄っててね」
 左の進路を選ぶとすれば渋谷区円山町、ラブホテルの林立している場所に、入ることになる。やはりその気でいるのかと、私は角のある唾を呑んだ。この二週間というもの、多忙なため、またそれをこなせる体力を温存するためで、自分で自分をかわいがることも控えてきた。そのことも手伝ってか、ここぞとばかりに、男の芯がひくつきだしているのを覚えた。この一度きりなら、応じてやってもいいか。そんな気にもなってきた。だが、再度はっきりと、百合子の口から言わせたい。その流れに乗り、こちらの条件を飲ませたい。
「そっち行っても、おもしろい所なんかないぞ。このまままっすぐ、六本木にでも行こう」
「だからさあ。ホテル行こうよお」
 片方には至極簡単に、私は成功した。
「そうそう。あたし安全日だからさ。シャワーで洗っちゃうまえに、真ちゃんのあそこのにおい、かがせてよね」
「なんだ。なんやかや言ってたけど、結局は自分がワキガ、いやスソガかどうかが、知りたいだけなんだな?」
「なにそのスソガって? ひょっとしてあそこがくさいのは、ワキガとは別の病気なの?」
「同じなんだけど、呼びかたはちがうらしい。この道、246と同じで、場所によって呼びかたがちがうみたいだ。あ、標示板が出てきた。やっぱりまっすぐ、六本木へ行こう」
「わあっ。なに言ってるのよここまで来てえっ。ホテルだよホテルッ。左だよ左いっ」
「じゃあ今回だけだぞ。二人だけの秘密だぞ。約束できるだろうな」
「わかってるよおっ。だから左っ。ほら左っ」
 私はまずウィンカーで、次にハンドルで応えた。うしろの車との距離を計らずにそうしたため、割込みにちかい行為となった。だが、他者に迷惑をかけたとは、少しも思われなかった。すでに上気しているようで、攻撃的なクラクションの音も、歓喜を予感させるファンファーレのように聞えていた。


          三十

 抜糸は、うまくいったようであった。
 左右の二箇所を、しばらくは朝夕の二回、『消毒用エタノール』という薬剤で拭かねばならない。そのうえで、軟膏をすり込まねばならない。入浴後も同様である。だが、両腕は自由になった。とはいえ、万歳をしたりなど、皮膚の継目に大きな負担をかけるような行いは、いまだ禁じられている。意識を脇の下から解放してやることも、この段階ではできない。しかし、自力でできることの幅は、ぐんと広がった。一週間後の検診で医師から許可が下りれば、その翌週からは手術前と変わらない生活に戻すつもりである。訊かれもしないことまで、寛子は興奮した口調で伝えてきた。
「そうか。でも元気そうで何よりだな」
「そりゃあもう。だってあの、ギブスみたいなのが取れたんですもの。もうあの、マイケルジャクソンのスリラーで踊るゾンビじゃあ、なくなったんですよ。うれしくってうれしくって。それに病院から戻って、ついさきほどまで眠ってましたからね。……ええ? なあに? ……あそう。……あの真一さん、母がお話ししたいそうです。代わります」
 受話器の手渡される音に続き、息を貯め込む音が、届けられた。
「んまあ遠藤さんこのたびは寛子がたいへんお世話になりありがとうございました。こないだのお電話ではこちらからお願いしたことなのにわがままなことを申してすみませんでした。今朝がたは今朝がたで百合子までがご厄介になったそうで誠に感謝にたえません」
 私は慌てた。ホテルに行ったことを、百合子が話したのかと思った。だが、次の瞬間には考え直した。寛子の態度によれば、そんなことはありえないのだ。それが前にいる状態で、その母親が言うとも思えないのである。
「そんな。僕なんか全然お役に立てませんでしたよ。お母さんからも百合ちゃんのこと、ねぎらってあげてください。寛子くんには内緒ですけど、かなりボヤいてましたからね」
 房事と直接には関係のないことまで、ベッドの上に零す若い女など、思い描きにくい。計ってみたのだった。
「まあそうなんですの? あれはチャランポランなうえに愚痴っぽい子でして。それにマイペースっていうんでしょうか? いまもまだ眠ってるんですよ。……ほんとに申し訳ございませんでしたねお仕事もされて寛子のことでもお疲れだったっていうのに。あんな者の愚痴話にまでおつきあいさせてしまって」
 案の定、私の考えすぎのようであった。揺れた心を、別な方面へと振った。
「でも褒めてあげてください。二週間、毎日きちんと、家事をやってたんですからね。一日ごとにちゃんと、寛子くんをお風呂にも、入れてたんですからね。僕に百回ほめられるより、お母さんに一回ほめられるほうが、百合ちゃんはどれほど喜ぶか。悪く決めつけないであげてください。いい子なんですから」
 はあ、と深い溜息のような声が聞えてきた。そう言ったきりで、姉妹の母親である中谷夫人は黙り込んでしまった。そこからの間と、自分の放った最後の言葉とが、この未明のホテルで目にした一連の場面を、私に思い出させた。
 事が終り、並んで横になっていた。と、突如として、百合子が起きあがった。しっかりとニオイを捉えたいのを言ったかと思うと、股に挿んでいたティッシュペーパーを捨て、バスルームのほうへと向かっていった。私は追いかけた。
 洗面台の前で立ち止まると、百合子はコックを捻った。小指の先に水を付けてはで、鼻をほじりだした。それを左右の鼻孔に何回かずつ行うと、次には手の平に水を貯めた。そこに顔を寄せてはで、濁音を発てはじめた。鼻から水を吸い入れては噴き出すのを、繰り返しているのだった。