俺の言うことが信じられねえってわけか? だったらいい。寛子が手術うける病院に電話して、医者に訊いてみるんだな」

 私は、みずからがやりたいことを、百合子に押しつけてしまっていた。撤回する気はなかった。しかし、私が彼女をけしかけたことを、寛子やその母親に知られるのは困る。

「笑われるだけなんだからな。頭おかしいんじゃねえかって。まあ好きなようにしたらいいんだ。俺は知らない。そんな話にゃあ関わりあいたくもねえな」

「そんなこと言わないでよ。ねええ。ママから聞いたんだけど、あたしたち交替で、ヒロぽんを洗うことまで、すんでしょお? シャンプーやリンスはしかたないとして、やっぱ石ケンは、念のために殺菌剤が入ってるヤツに、しといたほうがいいかなあ? 指からうつるかもしれないしい」

 痒い気がしていた所にたまたま手が行き、はっきりした痒みを喚起された。そんな感じがした。私には思いも寄らなかったことである一方、問われてみればもっともなことなのである。とはいえ、考えなしに同意すれば、うつるのを認めてしまうことにもなる。

「きみの気が済むんなら、そうしたら? もう洗濯物を分けてるんなら、そう寛子も傷つきはしないだろうし。馬鹿げてるけどさ」

 この日のうちにも買ってきておくのを、百合子は言ってきた。ワキガという病気を、私以上に恐れているようであった。

「実の姉さんだろ? それにきみ、寛子のこと、実の母親にも優るひとだって、俺にそう言ってたじゃないか。そのひとが俺を譲ってくれって言うから、そうしたいんだって。あれはウソだったのか?」

 優勢にあるのに任せ、百合子に本音を吐かせようと、私は企んだのだった。

「それとこれとは別よお。多汗症で悩んでるっていうのに、ワキガまでうつされちゃったら、たまったもんじゃないもん」

「あのさあ。それを治すための手術を、きょう寛子は受けにいってるんだぞ。ワキガの原因になってたところを、切って取っちゃうんだぞ。だから手術が終れば、もうワキガなんかじゃないんだぞ」

「それほんとお? 両方の脇の下さえ手術しちゃえば、あそこのワキガくさいのも、治っちゃうってわけえ?」

「医者はそう言ってるらしい」

「医者の言うことなんか、あてになんないわよ。歯医者であたし、こっぴどい目にあわされたことあるもん。虫歯けずって詰めものされたあと、一ヵ月ぐらいしてから、いきなりホッペタが腫れてきてさあ。転げまわるほど痛くなってえ。別の病院いってみたら、同じ歯の根っこが、腐ってたんだよお。メスで切られたりして、たいへんな目にあわされたんだよお。それで前の病院に文句いいにいったらさ、ウチで治療したあとに悪くなったんじゃないですかなんて、しれっと言うんだよお。結婚してないって言って口説いてくるヨッパライよかひどいよ、医者ってえのは」

「ってことはきみ、結婚してないってだまされて、致しちゃったことがあるってわけか?」

「え? なに言ってんのよ。たとえよたとえ」

「まあさ。そんなに疑うんなら、納得が行くまで、自分で調べてみたらどうだ? 無駄骨だとは思うけどな。まとにかくだ。寛子は、きれいに治って帰ってくるんだ。だから、きみのその被害妄想で、悲しませないでやってくれよな。これは俺の、寛子のカレシの、切なる願いだからな」

 姉妹の母親の言葉を、一部引用してやった。

「寛子のカレシイ? なにそれ? 言わなくってもわかってること、わざわざ言ってきたりして。あたしにケンカ売ってるわけえ?」

「それもまた妄想だ。とにかく、あしたそっちに行くからさ。初日だから、二人で面倒みてやろう。妹だろ。少しは冷静になって考えてみな。寛子の立場になってみなよ百合っぺ。きみの言ってることがいかに馬鹿げてるか、よくわかるだろうから。それは俺の、きみの元カレとしての、切なる願いだ」

「なんか調子いいなあ」

「じゃあ訊くけど、今回のことで、きみたちにとって赤の他人である俺に、なんかメリットでもあると思うか?」

 言い終えたとき、前夜の貰いもののことが、私の頭に浮かんできた。ダンボール箱の蒲鉾類については、生ものであるがゆえ、冷蔵庫の管理人に渡してしまった。他の二品、タータンチェックのパジャマとルイ・ヴィトンのバッグについては、しばらくは手を付けずにおこうと決め、紙袋そのままに押入れに収めた。それらを使いだしたが最後、中谷の家とは赤の他人であるという主張が世間に通らなくなる。寛子から逃れられない間柄にされてしまう。そんな気が、したためであった。そうなっても構わないというほどの腹は、この段の私にはまるでできていないのだった。

 少し間があってから、左耳に音が聞えた。

「そっかそっかあ。たしかにそうよねえ。あたしが真ちゃんだったら、もうとっくにヒロぽんと別れてるわねえ」

「だろ。乗りかかった船って言葉があるだろ。運命っていうより宿命だな。だから、俺ときみの二人で、寛子に良くしてやろう。な」

「やっぱ真ちゃんて、いいひとだねえ。ヒロぽんと別れたら、カレシに復帰させてあげてもいいよ。もっとも、そんときのあたしにカレシがいなかったら、だけどね」

「バカ。もうそんなこと、できるもんか」

 心のなかでは、そうできることを、私は望んでいた。いや、姉妹の両方を同時に自分のものにできることを、願っているのだった。

 百合子の発案で、「寛子の観察日記」をつけあうことが、決まった。だが、観られる対象となる人物には、その事実を知られたくない。隠し場所について問うと、マンションの管理人を利用すればいいのを、さらりと言ってのけられた。いまだ二十歳なのである。女という生きものの残酷さ、悪知恵の働きように、私はただ驚かされた。

 翌日に出向く時間を告げ、念を押し、私は百合子からの電話を切った。

 手術を終えた寛子がどんな具合になっているのかを知りたい。その思いの裏に、別な思いが潜んでいることに、私は気づいた。ぶざまな姿になって悩み苦しんでいる美女を見たい、それで楽しみたい。そう思っている自分に気づき、ハッとした。男である私、寛子を憎からず思っている私もまた、残酷な生きものにちがいないのであった。自己嫌悪に陥りかけた。

 

          二十五

 

 次の日、日曜の午前のうちに、私は川崎にある姉妹のマンションを訪ねた。中谷夫人は、すでに去っていた。百合子に導かれ、奥へと入っていった。初めてこの部屋にやってきたときの情景が、脳裏に見えた。そこ、過去の世界にもまた、寛子の姿はないのだった。

「あそうそう。ママがくれぐれもよろしくってさ。……真ちゃんチの電話番号きかれたから、教えちゃっといたよ」

「おいまたかよ。もうそれやめてくれよな。……で寛子はどんな具合なんだ?」

「まだすっごく痛いんだってさ。きのうのきょうだからね。さっき鎮痛剤のませたから、ひょっとすると眠っちゃってるかもしれない」

 寛子の部屋のドアは、百合子がノックした。

「ヒロぽーん。真ちゃんが来てくれたよお。開けるよお」

 返事はなかった。だが百合子は、かまわずにドアノブを回した。

 寛子は、ベッドで仰向けになっていた。神妙な顔つきで天井を見つめている様子が、一瞬だけ私の目に認められた。次の刹那にはもう、笑顔を向けてきていたからであった。

「すみません、お休みなのに。それに、こないだの電話では、とりみだしてしまって」

「無理もないよ。お母さんの一件では、俺だってビックリさせられたんだし。……今回は大変だったな。どうだい? 具合のほうは」

 寛子は起きあがりかけた。しかし、顔をしかめたかと思うと、背中を丸め、勢いよくマットへと落ちた。そのさまは、映画などで目にしてきた人々のことを、私に思い出させた。銃で撃たれて仰向けに倒れ、生きるために上体を起そうとしたものの、ついには死に呑み込まれてしまった人たち。彼らのことをである。百合子が駆け寄っていった。

「ヒロぽんのバカーッ。縫ったとこが開いちゃったらどうすんのよおっ。起きたかったらそう言わなきゃダメじゃないのっ」

 上膊、両腕の肘より上の部分が、胴体に固定されてしまっている。そのことが、寛子を抱え起した百合子の動きで、私の視覚にもとらえられた。自力のみでは上体を起せないようであった。姉妹の母親がレストランのカウンターで述べたことを頭に蘇らせながら、私はただ二人を見守っていた。

「フフ。いい年して、赤ちゃんみたいでしょ? 笑えるでしょ? ねえ真一さん」 

 自虐的である。かなり鬱屈した心情でいるらしかった。励ましてやろうと、私はまず企図した。

「赤ちゃんで大いに結構じゃないか。きみはきのう、生まれ変ったんだから」

 百合子は、壁に預けてあった寛子の背に枕を宛がってから、まじまじと私を見た。おまえの本心はわかっているぞとでも言いたげな、嘲笑うときのような目つきをしている。

「かーっくいーっ。恋愛ドラマの男役みたいなセリフじゃんかあ。ヒューヒュー」

 早くも裏切られた。私は噤むしかなくなった。とりなすように、寛子が喉を鳴らした。

「起してくれてありがとね、百合ちゃん。それで、そう言ってるそばからで悪いんだけど、真一さんと二人きりにしてくれない? ちよっとお話があるの」

「へいへい。チェッ。やってられねえよなあ。じゃあたしは、お二人にお飲みものでも、お持ちすることといたしましょうかねえ?」

「悪いな。ついでに灰皿も頼む」

「はいよ」

 百合子が去ると、沈黙が訪れた。大方のことは、夫人がこの部屋を訪れてしばらく経ってからの、前日の午前零時の電話で、話してしまっている。二人きりであらためて言葉を交わさねばならないようなことは、一つもないはずなのだ。ためしに、手術のことをあれこれと、ぽろぽろと、私は問うてみた。だが、予想どおりで、寛子は言いたがらなかった。

「えーっと。……そうそう。百合っぺから聞いてるだろ? 月水金の夜は、俺がここに来るからな。土日もできるだけ、午前中から来るようにするから」

「すみません。親馬鹿な母親のせいで。そのご恩には、治ってから、わたし自身で報いさせていただきますんで」

「そんなこと考えなくっていいよ。遠慮なく言うんだぞ。あそれからさ。その話しかた、まだやめない気でいるのか?」

「ええ、これは……。真一さんに対しては、一生やめない気です」

 そののち、無言の間が、とうとう耐えがたいほどに育ってしまった。私はいらつきを覚えた。気持が顔に表れてしまうほうである。一時的にでも部屋から出ておこうと思った。

「あいつおせえな、俺タバコ喫いたいのに。灰皿かりてくるから、ちょっと待っててくれ」

「あの真一さん。せっかくお越しいただいたのに、申し訳ないんですが、ちょっと眠らせていただいても、かまいませんでしょうか? どうも薬が、効いてきたらしくて」

「そうかわかった。じゃあ俺が、ベッドに寝かせてあげるよ」

 眠気に支配されつつあるようで、寛子の黒目には輝きがなくなりかけていた。かなり前の時点から堪えていたのであろうことが、彼女の肉の深いところのたるみ具合からでも、察せられた。上体だけを抱えているにすぎないというのに、やけに重いのだった。百合子のやったことを頭に思い描き、それをそっくり逆回転させながら、私は寛子を取りあつかった。

「いいぞ寛子。そういうふうに、これからもどしどし、遠慮なく言うこと。いいな」

 礼意によるのか謝意によるのかが判然としない言葉が、かぼそい声で返されてきた。それをしお、寛子は意識を失った。死んだと言ってもいいほどにきっぱりと、人間であることをやめた。あまりの薬の効きように驚きつつ、私は部屋から出た。

 百合子は居間にいた。両脚をガラステーブルの上で組み、後頭部からソファに沈み込み、考えごとをしているふうに見えた。私は足を忍ばせて近づいていった。

「おい。どうしたんだよ? 灰皿が来るの待ってたんだぞ」

「いけね。そうだったそうだった。でなに、キスとか、してあげてたってわけえ?」

「バカ。そんな気になんかなるわけないだろ。さっき鎮痛剤のませたって言ってたけど、量が多すぎるんじゃないのか? 横にしてやるとあいつ、コテンと眠っちゃったぜ」

「ああ、それでいいのよ。ママが病院で聞いたらしいけど、すっごく強い薬らしいの。市販されてるもんと、比べもんになんないぐらい、強力なもんなんだってさ。麻酔みたいなもんじゃないのお? なんにせよ、病院から出されたもんを、病院から言われてるとおりに服ませてんだから、心配ないって」

 つまりは、それほどの薬効がないことには耐えられないほどの痛みを、寛子が両脇に抱えているというわけである。私は心から同情した。言葉が出てこなくなった。

「ねえねえ。んなとこにつっ立ってないで、こっちい来てすわんなよお」

 呼ばれるままに進みはしたが、百合子の叩いていた場所、彼女の横には座らずにおいた。その話に、であったのか、その身体に、であったのかは、わからない。圧倒されてしまいそうに思えたからである。カーペットの上であぐらをかくなり、私は、ガラステーブルのあらぬところへ押しやられていたガラス製の灰皿を、自分の前へ引き寄せた。白煙が噴きあげられるまでは、百合子も黙っていた。

「あのさあのさあ。真ちゃんが来るまえに、ヒロぽんに聞いてみたんだけどさあ。やっぱあたしと真ちゃんがおそろで、お風呂に入れてあげんのは、ぜったいヤなんだってえ」

「きみらのお母さんも、俺は俺、きみはきみで、別々に洗ってやってほしいって、そう言ってたんだけどな。あそうだ。そのことで思い出した。なあ。俺ときみとの関係も、お母さんは知ってるのか?」

「そりゃそうでしょ。あたしのカレシだったってこと、ヒロぽんが話してるだろうからね」

 やはりそうだったのである。私が姉妹両方を食ってしまっているということを承知のうえで、中谷夫人は私と話していたのだ。この日に、この場所で夫人と会わずに済まされたことを、私は心底からありがたく思った。危うくとんでもない破廉恥漢になるところであったと、胸を撫でおろしたい気がした。相手は、こちらのように青くささが残っている大人なんぞではなく、成熟しきった大人である。夫人のほうで気を利かせ、私がやってくるまえに姿を消してくれたのかもしれないのだった。

「なに? なんかまずいわけえ? 平気よそんなのお。兄さんが戦争かなんかで死んじゃって、弟が兄さんのお嫁さんを自分の奥さんにしちゃうなんてこと、ウチのいなかじゃふつうのことだもん」

 その件に関する話を目のまえにいる女と続けても、意味がないということがわかった。

「であれか? きょうはきみが、寛子を風呂に入れるつもりでいるのか?」

「ううん。きょうは入りたくないんだってえ」

「ええ? それじゃどうやって洗ってやればいいのか、わかんないじゃないか。ぶっつけ本番ていうのはやめてくれよ、俺は男なんだから。だいたい、他人の身体なんて、男のだって洗ったことないんだしな」

「わかってるよお。心配しなくっていいよお。火曜にあたしが入れてやってから、真ちゃんにもやってもらうことにするから。手順とかは、ほらこれ。観察日記用のノート、買っといたからさ。これにちゃあんと書いとくよ」

 それを見て私は、ここに来るまでの道中で考えたことを、頭に蘇らせた。書いたものは残る。いずれ何かのはずみで、寛子の目に触れないともかぎらない。タイトルだけではなしに内容も、「観察日記」などではなしに「連絡日誌」にしようと、百合子に持ちかけた。

「じゃああ。ワキガがどうなってるかとかは、どうやって伝えあうのよお?」

「うつらないんだから、その必要もないだろ? 何かあったら電話してくれよ、家にでも会社にでも。だいたい、もう寛子はワキガじゃないんだぞ。ちゃんと手術したんだから。……とにかく、そのノートには、必要事項だけ書くことにしよ。それなら、そこのダイニングのテーブルにでも、載せとけるんだし。もっとも、いまの寛子のあの様子じゃあ、そんなもんでさえも、盗み見る気になんかなれないだろうけどな」

 眉根を寄せてから、百合子はうつむいた。唇が突き出されているようだった。

「なんだよ? なんか文句でもあるのか?」

 タバコを揉み消させている手に視点を定めたままで、私は尋ねた。

「文句ってほどじゃあないけど。でも不満」

 そう言うと、百合子は跳ねあがった。一瞬にして立ち姿を見せた。

「いきなりどうしたんだよっ?」

「なんか飲みもん持ってくるから、待ってて」