「まあでも。寛子くん自身は、実際の年齢以上に、しっかりされていますからね」

 洟を一啜りしてから、夫人はぽんと、ハンカチを持つ手をカウンターの上に置いた。もう一方の手でコップを取ると、水を一口、のどを鳴らして飲んだ。そのうえで、背筋を伸ばした。両目からの強い光線を、ふたたびで私の目に浴びせてきた。

「わたくし、真一さんにお願いがございます」

 名のほうを呼ばれたのに、驚かされた。一拍おいてから、私はその内容のほうを問うた。

「百合子がもう少し信頼のおける子でしたら、こういうことをお頼みすることもございませんのですが。ご承知のとおりでああいうチャランポランな子なもんでございますから。……わたくし、父親の会社を引き継いでおります。できるだけ多くお休みをいただけるようにして、このほどの寛子の一大事に寄り添ってやりたいと思っております。ですがあすあさってと出社しないとなると、これまでの経験からむこう一週間は遠出をすることなどとても叶わなくなります。寛子を千葉に連れて帰ればそれで済むことではございますけど……。ざっくばらんに申し上げますが、あれとわたくしの夫とがたいへん仲が悪いもんでございまして」

「はあ。……それで僕に何をしろと?」

「しろだなんてとんでもございません。していただけたらという、母親の切なる願いなんでございます。……先ほど手術のことをお話しさせていただきましたが、最低でも二週間、寛子は思うようには身体を動かせなくなるんでございます。我慢づよい子です。でも両腕を胴体に固定されてしまっていては何かと不自由すると思うんです。肘より前は動かせるのでしょうけど、それでもいろいろとたいへんなのではないかと……」

 夫人は俯いた。並んで車に乗っていたときに同じく、もそもそと手を動かしはじめた。

「はっきりおっしゃってください。僕にできることであれば、喜んでご協力しますから。そのことは、寛子くんにも言ってありますし」

「あの。真一さんはご年齢からすると、さぞかしお仕事がお忙しいでしょうね」

「まあ、そこそこには」

「さようですか。ではやはりご無理なお願いになってしまうかもしれませんね」

「じれったいかたですねえ。おっしゃってみてくださいよ、とにかく」

 きっぱりと、夫人の目が見開かれた。姉妹のどちらかと話していたときにも見た覚えのある、発奮した際の目つきであった。

「それでは。毎日とは申しません。お仕事が終られたあとマンションを訪ねてやっていただけないものでしょうか? もちろん百合子にも、できるだけマンションにいて姉の世話をするようには言い聞かせます。ですがさきほども申しましたがあれはああいう子です。悪気はないのでしょうけどあてにはできないんでございます」

「わかりました。じゃあ。百合ちゃんと話してみないと何とも言えないことですけど、一日ごとに交替で、寛子くんにつきあうってことにでもしましょうか。ね。そうであれば、会社のほうもどうにかできると思いますし。百合ちゃんだってそれなら、都合がつけられると思うんです。いかがでしょう?」

「ご無理ございませんか?」

「一日おきなら、なんとかできますよ。僕の上司は、話のわかるかたなもんでね」

「ありがとうございます。それではご厚意に甘えさせていただきます」

「そんな大それたことじゃないですよ。僕じゃなくたって、寛子くんのボーイフレンドなら、そうするんじゃないですか? あ、そうだ。お風呂のほうはどうしますか? いくら女ひとり洗うんだとしても、寛子くん、一七〇以上ありますからね。同じぐらい大きくっても、百合ちゃんだけじゃちょっと」

 そこで、私は口を噤んだ。

 風呂に入れてやるということは、その対象となる人物の裸体を見るということを意味する。両脇を固定する装具を着けているとあらば、両腕と、上腹のあたりまでは洗えないはずだ。首から上と、へそから下とを、主に洗ってやることとなる。容貌を売りものとしている若い女に、そうしてやるわけである。その女と身体の関係がないというのに、その女の下半身に触れることを平然と宣言できる男など、どこの世界にいるというのか……

 夫人の顔を観ていることも、私にはできなくなっていた。すでに寛子と性的な関係を結んでいる。その事実を、その母親に告げてしまったということに気づいたためであった。   

 先端をピンク色に光らせた白っぽい翼の一枚が、私の右手の甲に舞い降りてきた。それを見て、私は我に返った。視線を上げると、夫人の静かな笑顔が見えた。

「そんなことまでご心配いただいて恐縮でございます。そちらについても百合子とご相談いただけますでしょうか? でもそのことは、寛子のほうが嫌がるかもしれませんね。また勝手を申すことになりますが、できれば真一さんは真一さんだけで百合子は百合子だけで、洗ってやっていただけませんでしょうか?」

 私が姉妹双方と通じているということを、やはり感知しているようである。気持と目の遣り場に困り、私はタバコを喫おうとした。

「あの子すごくきれい好きなんです。とくに髪は毎日でも洗わないと気が済まないみたいなんです。長くしておりますもんで乾かすのにも時間がかかるものと思います。ご面倒をおかけすることになるでしょうがどうかよろしくお願いいたします」

 そこまで言うと、夫人は姿勢を正し、私に顱頂を見せた。さりげなくだが、はぐらかしている。さすがに大人の女だと感心しつつ、私は安堵した。軽口を返してやる気になれた。火を着けるばかりになっていたものを、一旦は口から引き抜いた。

「じゃあ、前払いしていただきましょうか」

「結構です。それなりには用意してまいりましたがいかほどなら」

「そうじゃなくて。いい加減おなか空いちゃいましたよ、僕」

 店で最も値の張るものをそれぞれに食べながら、私と夫人は歓談することとなった。寛子の実家が営む会社、つまり夫人が代表取締役社長を務める会社は、関東地区でも指折りのかまぼこ製造会社であるということも、そんなうちには聞き出せた。寛子の義父は、家業には関係させてもらえず、道楽に生きているらしい。酒もタバコもやらず、男気を発散するようなことも一切せず、朝から晩まで陶芸に勤しむだけの日々だという。夫人の配偶者たる年ごろからすれば、跡取りを造るための種馬でもなかろう。さざなみさえ起きない水面。そんなものにもたとえられそうな生活が、死ぬまで、もしくは夫人と別れるまで、延々とくりかえされていくわけである。そういう暮しを想うと、どこかうらやましい気がする反面、私はゾッとするものを感じるのだった。

 自宅へと送ってもらう道中、夫人は、何かを思い出したかのように、セキグチ運転手に声をかけた。私を降ろしたあと、寛子のマンションへ行ってもらいたい。そう命じた。初めからそのつもりでいたということを、彼には覚られたくないようであった。

「どうせこれから行かれるわけでしょ? やっぱり今夜のことは、お母さんから寛子くんに、言われたほうがいいと思いますよ。あとでややこしくなると、いけませんからね」

「そうでしょうか?」

「ええ。おそらくウチの母は、僕のほうから架けさせるって、寛子くんにそう言ってると思います。いま何時ですか?」

「十時……二十分ぐらいです」

「その時間ですと、僕のウチからマンションまで、道が混んでても一時間半ぐらいでしょう。ですから、午前零時に、僕が寛子くんに電話します。僕との今夜のことを、お母さんがさらっとお話しになったあと、電話が鳴りだす。そんなふうにしときませんか? ね。そうすれば、一件落着だと思いますよ」

「まあ。わたくしと寛子とのことまでご心配いただいて、何から何までありがとうございます。わたくし今夜、真一さんをお訪ねしてほんとによかったと心より感謝しております」

 私は逃げ出したくなった。いい按配に、車は細い一方通行路を走りだしていた。

「あ、もう着きそうですね」

 隣の家の門前で、車を停められた。私が降りると、夫人も付いてきた。礼儀をわきまえた女である。降りて挨拶する気でいるのだろう。私はそう思った。車の左側で夫人と向き合ったとき、不思議にもセキグチ運転手までが降りてきた。車の左から前、前から右、さらには後方へと、急ぎ足に回っていった。トランクが跳ね上げられるのが見えた。

「あの社長、ちょっと」

「ああ。うっかり忘れるところだったわ。真一さんちょっとお待ちくださいね」

 大きな紙袋を、運転手はまず吊り上げた。夫人が両手で受けとり、身体の前で抱えた。そのときには、セキグチ氏はすでに、上体を闇のなかに突っ込んでいた。丈がないことを補うかのようにだだっ広いダンボール箱を、取り出してきた。フォークリフトが荷物を掲げているさまを彷彿とさせる姿勢をとった。その顔の歪められていることが、ほの暗いなかでも見てとれた。夫人が彼を追い抜いた。

「差し出がましいとは思ったんですけど」

「何なんですか?」

「このダンボールには本日の朝に出来上がったばかりの、当社の製品の数点が詰合せになっております。こちらの袋のものは、わたくしから真一さんへのほんのお礼の気持のお品でございます」

 そのあとには、こういう場面での月並なやりとりが、開始された。マンションまでの所要時間、その後のこともある。私は正直になっておいた。紙袋は夫人からじかに受けとり、矩形の箱は自宅の門前まで運んでもらった。

 車が見えなくなってから、私はいそいそと、紙袋のなかに門灯の光を流し込んでみた。派手な柄物の衣料品、パジャマらしきものが見えた。しかし、それしきの重みではない。もう一方の、中身の見えない包みこそが、紙袋の重量の主体であるにちがいなかった。それを覆っている白い和紙を、私は指で引き破いてみた。焦茶色の、バッグのようである。さらに紙を裂いた。全貌が掴めた。フランスの高級ブランド、ルイ・ヴィトンのビジネスバッグなのであった。喜びが爆発しそうになったが、私は自分を諌めた。パジャマと通勤用バッグとに、何の関連性があるというのか。どんな意味が込められているのだろうかと、考えてみた。

 娘と、寛子と家庭を築いてもらいたい。そういうメッセージであるようにも想われたが、その真相はわかるはずもない。私は煩わしくなった。紙袋を段ボール箱の上に載せた。それらを玄関の上がり口にまで運び入れてから、門とドアを閉めに向かった。手は軽くなっていたが、気は重くなっていた。バッグを見つけた端の嬉しさは、ほとんどが、とうに蒸発してしまっていた。

 

          二十四

 

 寛子の手術当日の昼、百合子が、私かたの電話を鳴らした。前日、夜に中谷夫人と話した日は、金曜であった。百合子にとっては、新宿でホステスを勤める日である。私がマンションに電話した午前零時には、彼女はまだ帰宅していなかったのである。

「久しぶりだな。元気でやってるのか?」

 その声を聞くのは、姉妹のマンションを訪ね、妹のみに見送られて以来である。

「うん元気。あちょっとお。それどころじゃないでしょ。信じらんないことになっちゃったわねえ。いなかからママまで出てきちゃってさあ」

「きのうの夜、俺んとこにもお見えになってな。美人だな、お母さん」

「でしょお。ああっ。真ちゃんのばかあっ。どうしてそう関係のないことばっか言うのよおっ。ヒロぽんのことでしょうがヒロぽんの。ねえ、どうすんのよお?」

「どうするって。お母さんから言われてるだろ? きみと俺とで、日替りで、寛子の世話をするんだよ。あれか? バイトのことか?」

「うん、それもあるんだけどさあ」

「きみがああいうバイトしてること、お母さんは知らないわけだろ?」

 百合子は、頷く声を聞かせるだけであった。

「いいさ。その日は俺がそこへ行くから。月水金は俺、火木土はきみってことでどうだ? もっとも土日は、俺もつきあってもいいぞ」

「ありがと。なんかあたしのせいで、真ちゃんをとんだ災難に、巻き込んじゃったみたいよねえ。責任かんじちゃうよ」

「気にしなくていいよ。それもまた、俺の運命なんだろ。きみの運命でもある。……ほかにもまだ何か、問題でもあるのか?」

「うん。ヒロぽんの体臭がキツイのは、ずっとまえからわかってたんだけどさあ。でもまさか、あのニオイがワキガだったなんて」

「知らなかったって言うのか? ハハ。そいつは傑作だな。だって洗濯なんかも、寛子のと一緒にやってもらってたんだろ? 二人で風呂に入ったことだって、あったんだろ?」

「子供のころは、あんなニオイしなかったもんヒロぽん。それにお洗濯は、これからは自分のは自分ですることにしたの」

「いい心がけだ。寛子に甘えすぎだぞ、きみ」

「もうっ。どうしてそう話を変なほうへもってくのよおっ。あたしの身にもなってよおっ」

「いきなりなに息巻いてんだよ。言いたいことがあるんならさっさと言えよ。知らない仲じゃないだろうが」

「ごめん。つい。……あのさ真ちゃん。正直に言ってね。あたしは、ワキガじゃなかった? あたしのあそこは、くさくなかった?」

 下のほうのことまで言ってきたのには、姉から聴かされたのを想えば、納得が行く。百合子からのその問いで私が考えさせられたのは、別のことであった。結局のところ、女というものは、おのれのことばかり考えている生きものなのではなかろうか。そう思ったことが、きっかけになっていた。この女が、その姉に自分という男を譲ったというのも、所詮は形だけのことだったのではないか。実のところは、ただ単に、自分という男に飽きただけなのではなかったか。そんな気がしてきたのだ。私は無性に腹が立った。

「ああくさかったくさかった。ヘドロみたいなニオイがしてた」

「ええっ? じゃあどうして言ってくれなかったのよおっ? あたしも手術しなきゃいけないわけえっ?」

 私は黙ってやった。しかし、すぐに考え直した。答えてやらないことが元で電話を叩き切られ、新たな騒動へと発展させられること。そちらを恐れる心が、生まれたのである。

「いや、いまのは冗談だ。きみはワキガじゃない。あそこもくさくない。何度もきみのおま……。憶えてるだろ? くさかったら、あんなことはできないさ」

「じゃあヒロぽんのあそこは?」

「その質問には答えない。でもきみは、多汗症では、あるかもしれないな。あの汗のかきかたは、どう考えても普通じゃないよ」

「それはわかってるよ。でもあたし、ホントにワキガじゃなあい? ワキガスメルが、ほんとに少しもしなかった?」

「なんだその、ワキガスメルってのは?」

「においはスメルでしょ、英語で。冷蔵庫の脱臭剤にだって、スメルノンノとかいうのがあるでしょ」

 百合子が本気なのかふざけているのかが、私にはわからなくなった。いまだ二十歳の小娘である。そのうえにも、しっかり者の上がいることから、精神面には子供の部分が多く残されている。まともに相手をしてやっていることが、私には馬鹿らしく思えてきた。説得したうえで通話を打ち切ろうと決めた。

「とにかく、きみはくさくない。でも汗は、ほかの女よりもたくさんかくと、俺は思う。あれだけの汗をかいたままにしておけば、汗くさくはなるだろうな。だけど汗くさくなるのは、俺だってほかの人間だってそうなんだ。気にするようなことじゃないよ。で、ほかに訊きたいことは?」

「あとさあ……」

「さっさと言えって言ったろ?」

「うつらないかなあ?」

 未解決のことを、百合子は尋ねてきた。うつる。母親からは、私はそう聞かされた。自身でも、そのためにサウナで苦労した。だが、ここでそれらについて口にすれば、また新たな火種を起すことにもなりかねない。術後の寛子の面倒を、私一人で見なければならなくなるかもしれない。その程度のことでは済まず、姉妹の仲を決定的に引き裂いてしまう恐れすら、考えうる。私は自分を励ました。

「よお。おまえバカじゃねえか? うつるもんなら、とっくの昔にうつってるだろうがよ。寛子のことを病原菌みたいに言うんじゃねえよ、かわいそうに。じゃあ訊くけど、おまえさんの多汗症が、寛子にうつってるか?」

「うつってない。でも……。おととい友だちに聞いたら、ワキガはうつるって言ってた。きのうお店の女の子に聞いたら、やっぱうつるって言ってた。ワキガの子のワンピ借りて働いてたら、しばらくワキガになっちゃったって言ってたもん」