あろうことか、背後から声をかけられた。男のものではない。音量はさておき、丸みを帯びたものでもあったので、私は足を揃えた。直後に、車のドアを開け閉めする音が、飛ばされてきた。私は振り返ってみた。

 街灯に照らし出されているその顔は、私には憶えのないものであった。きちんとした身なりの、五十年配の女である。外見で商売ができそうな美人、といえよう。どこかの高級クラブのマダムにも見える。それにしたところで、知合いなどいるはずがない。そんな考えが私の頭を巡っているうちにも、その女が、手の届きそうな所までやってきていた。

「もしもおひとちがいでしたら、どうかおゆるしください。あなたさまは遠藤さま、遠藤真一さまで、いらっしゃいませんか?」

 相手が何者なのかが掴めていないうちから認めるのは、危険である。こちらには考えもつかないことで、他者の恨みを買っているということも、世の中にはままある。私は、中年女への視線は逸らさないでいる代りのように、答えずにおいた。

「あのわたくし、中谷寛子と、百合子の、母親でございます」

 そこでは、驚きのあまりで返せなかった。

「あらまあひょっとして。真一さまのご兄弟のかたでいらっしゃいますか? そうでいらっしゃいましたなら、ご無礼をおゆるしください。娘どもから電話で、だいたいのおみかけしか、聞いておりませんでしたもので」

 そう言うと、私の視界を占領している存在は、見る見るうちに、あからさまに萎れだした。弱っている生きものを見ると助けたくなるのが、正常な人間の心情である。私も、本来の自分をとりもどした。

「いや、僕が本人です。僕が遠藤真一です」

 姉妹の母だという女は、いっぺんに立ち直った。満面に笑みを浮かべた。抱きつかんばかりに身を寄せてくると、私の空いているほうの手を、両手でやわらかく握ってもきた。

「よかったですう。はじめましてこんばんわあ。いやあ助かりましたあ。お宅のまえで立ってお待ちするわけにも参りませんでしたので、ぶしつけにも車のなかで待たせていただいておりましたあ」

 興奮しているのか、ひどい早口である。圧倒された。頭の半分ほどが機能不全に陥っていることを自覚しながら、私は口を開いた。

「それにしても。僕が帰宅するタイミングと、よく合いましたね」

 そう言いつつも、耳の感度は上げておいた。

「うしろからほかの車が来たときにはわたくしが車からおりてお待ち申し上げておりましたあ。いやあうれしいですう。娘どもから聞いたご様子そのままでいらっしゃいますね。ほんとにご立派で好男子でいらっしゃるう。わたくしも一目ぼれしちゃいましたあ」

 私は照れた。温みから、包まれていたのが右手であったことを認めながら、それを引き抜いた。そこで、車の近づいてくる音が生まれた。中谷夫人のドイツ車を、二人ならんで見送った。先刻うしろから車中を見たときのもう一人が、運転手であったということに、それで気づいた。

「ところで……。ご用向きのほうは? 実は今夜これから、寛子くんから電話をもらう約束になってるんですよ」

 馬鹿げた発言であるということに、私は言ってすぐに気づいた。夫人の来訪の目的と寛子からの電話の内容とが、それぞれに独立したものであろうはずがないのだ。

「あのその。本日わたくしが参りましたのは実はあれの件でなんでございますの。これから少々お時間をちょうだいできませんか? あの遠藤さまお食事のほうは……」

 親娘の扱おうとしている事柄は、一つにちがいない。しかし、双方がお互いの意思を認め合っているのかどうかは、別問題である。男まさりの寛子が、母親を使ってくるとも想われない。慎重に行こうと、私は思った。

「それはともかく。まずその、さま呼ばわりはよしてください。こちらでもこれからは、お母さんとお呼びしますから」

 目を見開いたままで頷いてきた。

「それで。お母さんがこうして、僕に会いに来られてるってこと、寛子くんは知ってるんですか?」

「いいえそれが」

 的中した。わざと数秒、私は視線を外した。

「困りましたね。寛子くんの知らないところで、お母さんとお話ししたとなると、僕が彼女から責められかねませんからね。……どうしたもんでしょうかねえ」

 落していた視線を引き上げたかと思うと、夫人は、獲物を見つけた猛禽類のように両目を輝かせた。

「一時間ほどちょうだいできれば結構なんです。それと、叶うことであれば娘にはご内密に願いたいんです。わたくし個人、あれの母親としてどうしてもお話ししておきたいことがございまして」

 はるばると、千葉のはずれからやってきたわけである。何時から待機していたのかは、定かでない。だが、一般的な会社員の退社時刻、公共交通機関の利用時間、その他もろもろを考慮に入れたうえで、訪れたに相違ない。そうであれば、二時間以上は確実に張っていたこととなる。運転手が一緒である。彼には彼の生活があろう。未明になろうとも、地元には帰らねばならないはずだ。

 結果、娘のほうとは深夜にでも話せるので、夫人からの依頼に応じることを、私は決めた。しかし、事がさらに大袈裟になる恐れもあり、自宅に上げてやる気にはなれなかった。

「ほんとにご馳走してくれるんですか?」

「え? あはい、もちろんでございますよ」

「じゃあちょっとお待ちください。母親に、夕食がいらないということを、言ってきますんで。それから、寛子くんから電話があったら、残業で夜中になるって答えてもらえるようにも、頼んでおきます」

「ありがとうございます。遠藤さんのお母さまにはまた後日、日をあらためてご挨拶させていただきたいと思っております」

「でもあれですよ。きょうみたいに抜打ちでだったら、僕は怒りますよ。寛子くんだって、きょうのこと知ったら、きっと怒るでしょう。……生意気を言うようですけど、僕たちのことに関して、お母さんの独断で、お母さんの思われるままをなさることは、今後は慎んでいただきたいと思います。それぞれに事情があるんですし、みんな大人なんですからね」

 私の言葉の後半は、かつての婚約者の母親にも言ったものであった。その際、その女親はよそを向いていたのだった。この女親はどう出るだろうかと、試す気持も働いていた。

「承知いたしました。今後はすべて遠藤さんにご相談のうえで、させていただくことにいたします。ですので今回はなにとぞご勘弁ください」

 頭を下げてきた。きわめて低姿勢である。慇懃な言葉づかいにも、まったく変化は生まれない。仲良くやっていけそうなのを思いながら、私は自宅の門扉を開けた。そのころには、ドイツ車も元の場所に戻ってきていた。玄関ドアの取っ手を握ったところで、私は鋭角な、それでいて静かな音のするほうへと目を誘われた。踵の高い靴をはいているらしい夫人の裏側、車へと向かっていく姿が、街灯に照らし出されていた。その話しぶりと齟齬のない、しゃんとしたものであった。タイトスカートに覆われている尻は、その年ごろにそぐわず、肉感を帯びて動いている。男好きのする容貌をもつ姉妹の母親だけのことはあり、女としての魅力も充分に備えている存在だということを、そこで私は認めた。

 

          二十三

 

 あわてて出てきたので、面談するのに適当な飲食店を調べられなかった。私が車に乗り込むやで、中谷夫人はそう言ってきた。意思に従い、ともかく動いてしまう。そんな性質も、寛子や百合子の母親にふさわしいものと、私には解された。さらなる好感をもった。

 あとに寛子との通話が控えていることもあり、私は近場で済ませたいと思っていた。何より、夫人の話というのを、早く聞いてしまいたかった。千葉のはずれに帰り着くまでには、それなりの時間がかかろう。四十見当の運転手に飲食や架電や排泄の自由を与えることも、してあげたかった。そのためには、駐車場が要る。ファミリーレストランに行くことを、私は提案した。不満であるらしく、夫人は大きな呼気だけを返してきた。せわしなく手を揉みはじめた。

「大丈夫ですよ。個室はないでしょうけど、大事な話をするからって、店長にでも言えば、いい席を用意してくれますよ。それにそこなら、運転手さんにも、車から離れてお休みいただけるわけですし」

「ええ? いやあ、あたしのことなんかお気になさらないでくださいよ。ねえ社長」

 なおも夫人は黙っていた。私に釘を刺されたためか、自分の意思を、積極的には表さないでいる。だが、こののちにも、消極的にであれば、それを反映させようとするかもしれない。これもまた女、自分とは異なる種族の人間、なのである。ここでしっかり、太い杭を深々と打ち込んでおこうと、私は企図した。そのことにより、妙案を得られた。

「そうだ。そのレストランに、改まった話にはちょうどいい席があるのを、思い出しました。だからいいじゃないですか。こうしてるうちにも、時間は過ぎていくばっかりなんですよ。ね、そうしましょうよ」

 右にある夫人の左腕に、私はそっと触れた。

「ええいいです。じゃあセキグチくん、そちらへやって」

 案の定である。その言葉づかいも、ややぞんざいになっている。血は争えないということを、私は心のなかで笑った。店に入ったのちにもその伝でやればいいのを、確信した。

 入口の前で私たちを降ろすと、給油してくるのを言い置き、セキグチ運転手は一旦、レストランの敷地から車を出した。話が済んだ時点で、店内放送により、彼を呼び出してもらうことを言ってある。不都合はない。私は夫人を誘導した。

「ちょっと店長さん、呼んでもらえますか?」

 私と同年輩の、おとなしそうな男が現れた。

「いらっしゃいませ。あの、何か?」

「あのですねえ。今、あそこのカウンター席に、お客さんが一人いますよねえ。ほら」

 指し示すと、店長の顔が横向きになった。

「あの人が出てったら、あそこには、他のお客さんを座らせないでもらいたいんです」

「はあ?」

「つまり。カウンターは……八席ぐらいですか? あそこを借り切りたいんです。これからこのかたと、ちょっと大事な商談を、しなきゃならないもんでね。営業上、なんか問題ありますか? おカネを余計に出せっていうことなら、かまいませんよ。ねえ」

 そこで私は、横に立っている夫人に目を向けた。店長に同じく呆然としている。こういう場合、あれこれ考えられるような間を、他者に与えてはいけない。私は急ぐことにした。

「じゃあいいですね。さ、行きましょう」

 そう言うと、私は夫人の右肘を軽く押したうえで、さっさと進みだしてやった。その場に取り残される不安が、彼女を後押ししてくれることを見越していた。ラブホテルの駐車場にいたときのその娘、寛子も、そうであったからだ。私の思いにたがわず、騒々しいヒールの音が、うしろを追ってくるのが聞えた。

 車中での座りかたに倣っておいた。

「どうです? こういう席もたまにはいいもんでしょ?」

 並んでからしばらくは、夫人はただ困惑顔で、周辺にちらちらと目を遣るばかりであった。店長が、メニューを脇に挟み、水とおしぼりと灰皿を運んできた。トレーに載せられていたそれらを、カウンターの上に移し替えた。

「あのお。先ほどのお話なんですが。極力ご希望には添いたいんですが、万が一混んできた場合には、そのお……」

「おカネを積んでもダメってわけですね?」

 嬉しいのか悲しいのかが判然としない顔で、三十男は頷いてみせた。私は承諾し、差し出された二つを受け取った。目顔で、彼がこの場を離れることを求めた。それが成り、手にしているものの一方を夫人に渡そうとしたとき、恰好の台詞を思いついた。

「食べものの注文よりもお話のほうを、優先されたいんでしょうけど」

 夫人の目が、私の目に定められた。

「ええできれば。でも……」

「気分を害されてるのかもしれませんけど、大事な話のときには、かえってこういう席に座ったほうが、スムーズにいくもんなんですよ。心理学の本にも書かれていますし。……じゃあうかがいましょうか? お話を」

「はあ。……ほかでもございません。寛子のことです。あれの……。おわかりになりますでしょ? あした都内の病院で、そちらの手術を受けることになっているそうで……」

 こちらが困惑する番となった。

 二日前の深夜に、寛子から電話があった。事務的な口調で、まとまったカネが要ることを言ってきた。使途を尋ねてみたところ、手術費用なのを明かされた。その額から、産婦人科でのものなのを想い、突っ込んだ。罵られ、泣き喚かれた。

「娘のことなのに、しょせんは他人事だったんですね。うかつでした。でも、来るべきものが来たっていう思いも、心のどこかにはございまして……。それで寛子が言うには――」

 ワキガに関する本を五冊、一日で読んだ。どれもが、その著者の手術法を、自画自賛するものばかりであった。それなりの知識は得られたものの、自分の身体がどんな具合にあるのかはわからない。妹も言葉を濁す。客観的な判断が欲しいと思った。一冊の著者の病院に電話をかけた。香水などを洗い落したうえで来るように言われ、タクシーで出向いた。  

 医師は、好色そうな中年男であった。診断に際しては、全裸にならされ、身体の方々の臭いを嗅がれた。乳首から臭う場合もあるとかで、医療的とは思えない手つきで、乳房を揉まれた。内股にも手を差し入れられた。楽しまれているようで悔しかった。死にたくなるほどの恥ずかしさだった。わずかな望みを胸に、耐えていた。だが結果は、手術によってしか治る見込みがない、とのことだった。

 手術は、局部麻酔で行われ、一時間ほどで終る。入院の必要もない。左右の脇の下にさえ施してしまえば、全治したも同然となる。しかし、そこの皮膚を癒着させるために、ギブスのようなもので固定せねばならない。それが取れるまでには、最低でも二週間はかかる。その期間は安静にしていなければならない。医師からそう説明された。

 仕事を休まねばならなくなるが、ぐずぐずしていられる心の余裕もない。その場で手術の申込みをして、帰ってきた。

「そこはわたくしの娘のことです。言いだしたら聞かないのは、止めてもむだなのはわかりきっております。わたくし自身じぶんの好き勝手で、娘たちにはさんざん不自由な思いをさせてまいっております。反対できる資格などあろうはずもございません」

「あの。それで……」

「あの子の悩みの原因はあの子の父親にあったんでございます。そんな男をあの子の父親にしてしまったのはほかでもないこのわたくしです。あの子の悩みをごまかしたのもこのわたくしでございます。ですので、できるかぎりのことをしてやりたい。さきほどは申しませんでしたが、実は今夜これからあの子のいるマンションへ出向くつもりでいるんです。あしたの手術に立ち合ってやって、一日だけでも一緒に付き添ってやってから、銚子へ帰るつもりなんです。セキグチくん、運転手にはまだ申しておりませんが」

 そこで夫人は、ハンドバッグからハンカチを抜き出した。その正方形に畳まれた布を、化粧を気にしながら目に押し当てているさまが、何ともいえず色っぽかった。それを目にしたことで、私の頭は復調した。だが、決定的に元の状態に戻ったとは、言いがたかった。喫煙しようと思い、その可否を夫人に尋ねた。首が一回、縦に振られただけであった。

「そうですか。寛子くんも大変でしょうけど、お母さんが一緒にいてあげれば心強いでしょうね。百合ちゃんは見てくれこそ一人前ですけど、精神的にはまだまだ子供ですからね」

 ハンカチが舞うのをやめ、夫人の目がきっぱりと私の目へ注がれた。自宅前で一度だけ見た、捕食行動に出る直前の猛禽類の目に走る光、鋭い煌めきが、宿されている。これはと、私は怯えた。姉にだけではなく、母親にも、私と妹に深い性的関係があったということを、知られてしまっているのではないか。そう想われたからである。