下半身を整えたのち、私は階下の台所へと向かった。入り用なものの新品を、買い置きの載せられている棚から、こっそりと持ち出してきた。

 その成果は、想像できる。自室で試してみようという気にまでは、なれなかった。用具の調達までで、くさみ対策としてこの日にやっておくべきことは、すべて終了としたい。そんな気分が高まっていた。慣れない作業をしたためであろう、肩や首の筋肉が強ばってもいた。私は仮眠したくなった。新聞紙に落した毛は、二階のトイレへ流しておいた。

 嘘から出た誠、という言葉もある。近親者を殺すなど縁起でもないと思いはじめた。痩せたこともあり、会社には、下痢が止まらないのを言って休みをもらうことにした。動くと出てくる、横になったままで電話しているという嘘も、言い添えておいた。

 社員のほとんどは内勤業務だ。昼休みに外出したとしても、新宿を出ることなどありえない。通勤時間帯に電車に乗るような馬鹿な真似さえしなければ、まずバレる心配はない。市販薬を服んでも状態に変りがないのを言えば、さらなる一日であれば、医者の診断書なしでの欠勤を認めてもらえそうである。そんなことを考えながら、私は車に乗り込んだ。二日目のサウナへと出かけていった。

 前日に比べ、どぎまぎせずに済んだ。といって、何もかもが思いどおりに進んだわけでもない。厳密には、二つはあった。

 大浴場のみならずロッカー室にも人目のあることが、それらの原因となっていた。どこで男の芯および周辺部にラップを巻き付ければいいのか。まずはそのことから、私は考えなければならなかった。裸になるまえにトイレの個室でそうしておき、一旦は解決した。

 蒸し風呂に三十分入るごとにシャワーで身体を洗い流しにいくという、従業員に教えられた発汗方法が、次の問題を生んだ。汗をかかせたいのは、男の芯および周辺部だけである。そここそを洗浄したいが、そここそに秘密が隠されている。トイレにいってラップを剥がしてから、シャワーを浴びにいった。身体を拭くと、ロッカーにバッグを取りにいき、再びトイレへと向かった。新鮮なラップを部位に、新鮮なタオルを腰に巻き付け、バッグをロッカーに戻したうえで、サウナ室に入り直さねばならなかった。面倒くさいことこの上ない。それが引鉄となり、熱さに耐えることも、二度目でやめてしまった。 

 収穫は、ラップ交換時にも、すでに認められていた。量は減っていたが、二回目にもあった。水分を抜かれたからか、男の芯は、心なしか痩せて見えた。

 二度とも私は、剥がしたラップを鼻先で嗅いでみた。だが、くさみは、やはり自分では認められなかった。判定者に頼るべく、すみやかに自宅への走行をはじめた。

 この日には、あらかじめ猥褻な雑誌の世話になってから、判断を仰ぎにいった。そうしても、白なのを言われた。家の風呂に入る許可も、あわせて出された。ようやくのことで「病毒」を抹殺できた気がした。当然のこと、私は喜んだ。しかし、晴れやかな気分でいられたのは、ほんの束の間であった。新たに頭を悩まさねばならないこと、一日でも早く解決すべき問題が、すでに待機していたためだ。寛子への、彼女が罹病しているということの、告知の仕方について。それである。

 

          十九

 

 さまざまに、私は頭を働かせた。だが、どう考えてみようとも、結論は同じなのだった。寛子の気質からすれば、告知の手順など考えたところで、大した意味はなさそうなのである。私は観念した。ずばりと言ってやることを決めた。ただ、これまでの経緯、車内やラブホテルでの経験を踏まえ、面と向かって知らせることだけは避けようと思った。

 その外貌は、美しい。男のようにさっぱりとしている一方、おおよそのことに控えめである。家事もこなせる。酒の相手にもなる。資産家の娘でもある。さらに、日本人の二十三の女にしては珍しく、完璧といっていいほどに親離れができている。そしてそれこそが、私が絶対に譲ることのできない、自分の女に求めるものなのである。会社にいた女との婚約が流れた最大の原因は、彼女の母親が何かにつけて口を出してくること、その言葉どおりを彼女が行おうとすることにあったのだ。

 つまり、悪臭を放つ病気であるということを除けば、寛子は、私には申し分のない女だといえる。結婚を考えてもいいほどの女なのである。できることなら、手放したくはない。

 感染して間もなかったこともあり、私は病気に打ち勝てた。しかし、寛子はそうはいくまい。くさみの強さ、その発生源から察しても、重度の病状にちがいない。根治させる方法は、ただ一つをおいてほかにはなさそうだ。だが、その詳細については不明である。身体にメスを入れるということ。それだけがはっきりしている。

 何度目かで、私は医学書、『身近な医学』を手にしてみた。概略しか、やはり述べられてはいなかった。「脇の下の、毛が生えている部分の皮膚を完全に取り去る」というところで、目が留まった。切るだけではなく、皮そのものを剥ぎとってしまう手術であるということが、そこではじめて理解できた。直径で四センチほどもあろう面積の皮膚を、取り除いたあと、どうするというのか。再生されるとも想われない。どこか他の部位から、採ってくるとでもいうのであろうか。

 中学時代の級友で顔面に大火傷を負った男がいたことを、私は思い出した。尻の皮膚を顔に移植したという話を、のちに本人から聞かされた。

 排泄とは縁のなさそうな、色も形も整っている寛子の臀部が、発情期の猿の尻のようにされてしまっている光景を、私は脳裏に観た。その様は、あまりに悲惨であった。病気を治すための手術があるということを、こちらから口にするのは控えようと心した。そういうものの存在を教えてやることすらが、酷すぎるように思われた。寛子が罹患しているという事実を告知してやることのみが、彼女と全裸での交わりをもった自分の義務なのである。そこから先は、本人が考えるべき問題なのだ。私はそう割り切ることにした。

 夜になったので、寛子に電話を架けた。いまだ無邪気に喜んでいるということが手に取るようにわかり、私は哀れに思えてならなかった。義務から逃れたいという気持が、快活な声を聞くたびごと、強まっていく。

「もうわかったから。な。その続きは、またあした聞くよ。それで、何時に迎えにいこうか? せっかくもらえた休みなんだから、できれば俺は、午前中がいいな」

 一刻でも早く告知を済ませてしまいたい。その望みが、私にそう言わせていた。いつしか自分の都合しか考えられなくなっているのだった。

「そう、そうね。……あらそうそう。こないだ言ってた、真一さんのお話ってなあに?」

「だからさ。その話もあるんで」

「けっこう時間のかかるお話なの? ねえ、どういうお話? ……なんかヤだわ。……転勤になるんで、これで終りにしようとかって。まさかそういうお話じゃあ、ないわよね?」

「ハハ。ちがうちがう。もしそうだったら、きみのお祝いになんかつきあうと思うか?」

 寛子は応えなかった。電話では話せない内容なのは、二日前にも伝えてある。心の準備をしておくと、そのときの彼女は言っていた。ここで私に尋ねてきたことによれば、彼女にとって好ましい話ではなさそうだということには、感づいているらしい。彼女の疾患についての話であるということには、どうであろうか。もしもそこにまで想いが至っているのであれば、こちらは、どれだけかは楽になれるのだ。私は知りたくなった。

「でもさ。俺の話として思いつくこと、ほかに何かないか?」

「ないわけじゃないけど……。ねえ真一さん、わたしなんでもするから。お願いだから、いきなりどこかへ行っちゃうなんて、言わないでちょうだいね」

 どちらとも受け取れる。それとなく鎌をかけてやることにした。

「なんでもするって、きみから何度も聞かされてるけどさ。きみも女だし、女ってのはウソつきだから、あてにならないな。……たとえばだけどさ。実は俺は腎臓が悪くて、近いうちに、二つとも取らなきゃいけない。一つを誰かから、もらわなきゃいけない。そういうことになったら、きみがくれるのか? もちろんそれは、二人が結婚してるってことが、前提だけどさ」

「あたりまえでしょ。だんなさんが生きるか死ぬかっていうときに、自分のからだのことなんか考えられるわけないでしょ、バカねえ」

「そうかな? きみほどの美人で、なんでもできて、家も金持なら、俺のことなんかほっぽりだして、次の男を探すことだってできるわけじゃないか」

「わかった。真一さん、わたしの気持がどれほどのものなのかを、知りたいわけね。いいわよ、なんだって。目のまえで証明できることなら、あしたすぐにやってみせるから」

 病気についての自覚はなさそうなことが、そこまででも読めた。落胆したせいでなのか、私は寛子への仕返しを思い立った。

「あっそう。それはありがたいね。実はさ。一千万円、すぐに用意してもらいたいんだ」

「ええっ? おカネのことだったの? うーん。……すぐにっていうのは無理だけど。……そう。一週間もらえるんなら、実家にも相談してなんとかしてみせるわ。でもどうしてなの? 理由は教えてちょうだい」

「実はさ……。こないだのきみんちからの帰り、車で人をハネちゃってさ。……なあんちゃってな。全部デタラメだよ。カネの話なんかじゃない」

 本気にしていたらしく、寛子はひどく怒った。珍しく、しつこく詰ってきた。言葉を換えて謝りながら、私は嬉しさを噛み殺していた。一千万円という大金ですら、一週間で工面できる財力を持っているということ。それがわかったからだ。私とうまくやっていくためには何でもするということも、彼女の対応ぶりにより、法螺話ではなさそうに思われた。しかし、なのであった。彼女と別れることになろうとも、その罹病については告知してやること。その方針まで撤回する気には、私はどうしてもなれないのだった。たとえ話や作り話とは異なり、病気の話には、こちらに何らの否もないためである。

 寛子の望む祝賀会は、浅い夜に、高輪のホテルにあるレストランで、執り行うことが決められた。かねてより結婚式はそこで挙げたいと願っている。それが、選定理由なのだった。私がマンションに到着するであろう午前十時ごろまでには、あやまたずに予約を入れておく。そのこともまた、早言で告げられた。普段は控えめな彼女の燥ぎぶりが、電話機ごしにも見てとれた。一夜かぎりの夢にせよ、幸福を味わわせてやろう。短く応答することをつづけてから、私は通話の終結を提案した。

 レストランに行くまでには、半日ほどの時間がある。車内で、早いうちに泣かせてしまおうと企図した。前方を見続けているためには、かなり遠方まで向かう必要があろう。私は本棚から道路地図を引っぱりだしてきた。ドライブのコースを、それに当たりはじめた。

 話の口を切るのは、高速道路上にあるうちのほうがいい。とはいえ、伝え終えてからもなおそこにいるというのは、どうもいただけない。殺風景すぎる、乾きすぎている気がする。こちらはそのほうがありがたいが、相手はそうは思わないであろう。速く走ることが目的ではないので、追い抜かれることもあるにちがいない。走り去っていく車を私に見立てられ、予想外の行動に出られる恐れも、ないとはいえない。

 生命は水から生まれたのだ。水は再生、希望を感じさせるものである。そんな理屈から、水辺を、最終目的地とすることを思い立った。初めてデートした日、初めて合体した日。新局面に入るときには、どういうわけでなのか、必ず水のある場所を訪ねている。その過去も、私の考えを支持した。平日であり、世間にとっては特別な日でもなんでもない。渋滞するとは考えられない。伊豆半島のどこかまで行ってみようかと思い、私はそこに至る道を目で追いだした。

 東名高速を走り、小田原厚木道路へと移る。早川という出口で、それを降りる。そこからは一般道、海沿いの道へと繋がっているようだ。距離と速度からざっと計算してみると、有料道路を走るのは正味二時間、と出た。ゆっくりと話すのにはほどよい時間に思われた。伊豆半島のどこへ行くのかは、私にはどうでもよくなってしまった。地図によれば、海岸通り、本線は一本道であるらしい。相手の出方により、近場で留まることも、先を目指すこともできるわけである。決めておかねばならない道理もない。そう思ったところで、私は机上にあるものを閉じた。本棚に戻しにいったついでで、眠気を起すための液体を求め、階下へと向かった。

 

          二十

 

 東名高速の川崎インターに行きつくまでは、淀みなく雑談を交わしていた。爆弾を携えている側の緊張と、それを投下されることになる側の恐怖とが、奇妙な調和を生み出しているようであった。しかし、車の進行を阻まれなくなってからは、それに背くかのごとく、話の流れは滞りがちになった。

 一つの問いを寛子へ投じたうえで、私は切り出した。

「ってことはだ。やっぱりどいつもホントのことは、言わなかったわけだな。……失礼になったらすまん。きみはあれ、大学には、行ってないんたよね?」

「そうよ、県立高校まで。でも」

「じゃあ共学だろ?」

「うん。でも」

「だから助かってたんだな」

「ねえ、いったいどういうこと?」

「失礼になるのは覚悟のうえで、ずばり言うけど。きみ、学生のとき誰かから、くさいとかって、言われたことないか?」

 そこで、一回目の沈黙が生まれた。私は進行方向だけを見ているように努めていた。したがって、寛子の様子まではわからない。

「あの……。中二のとき、近所のガキ大将だった男の子から、そう言われたことがあったわ。でも、中一のときにふった子だったから、腹いせで言われたんだって、思ったの」

 なおも私は、首の力を抜かないでいた。

「あそう」

「ウチに帰ってから、お母さんに言ったら、笑われちゃった。もうエッチなにおいが、するような年になっちゃったのねって。変な虫が変な気を、起したらたいへんねって」

「エッチなにおい、かな」

 フェロモン、のことであるらしい。もちろん、ワキガは、そんなたぐいのものではない。

「うん。それでお母さん、せかせかとどこかへ、出かけていったの。……帰ってくると、何か白い、プラスチックの容器に入った液と、スプレーの付いた小瓶とを渡されたわ。香水をつけられるようになるまで、それを身体に吹きつけてなさいって。何なのって聞いたら、害虫よけよって。……それから、そのエッチなニオイは、じっとしてても出てくるものだから、こまめにからだを洗いなさいって」

 あまりにできすぎた話である。寛子にはめずらしく、合の手を求めるような間もあけず、一方的に喋っている。私は疑念を抱いた。

「ホントか? お母さんお母さんて言ってるけど、きみの作り話なんじゃないのか?」

「なんで? どうしてそう言うの? わたしがウソをつかなきゃいけない理由なんか、どこにもないでしょ?」

 どうなのか判断がつかなかった。私は別の角度から尋ねてみることにした。

「まあいいや。じゃあさ。百合っぺは、きみに何も言わなかったのか?」

「べつに。あの子はもうそのころから自分のこと、多汗症で悩んでて。わたしのことどころじゃあ、なかったみたいだし」

 くさみこそなかったが、妹のほうも病気であることがわかった。その病名も、寛子の病気と同様、医学書の「汗腺の病気」の項に含まれていたからである。気体と液体の違いこそあるものの、病根は同じである気が、私にはした。それにしても、とも思った。妹に持病があることを、赤の他人である私に、平気で暴露してきたわけだ。その妹というのは、この女のすぐまえの、私の女である。その女から私を奪い、その女をことあるごとに意識し、さらにも、その女の価値を下げるようなことを言っている。私は激しい憤りを覚えた。遠慮なく告知してやる気になれた。虐げてやろうという意思も、それには混じっていた。

「おまえはワキガなんだっ。おまえも病気なんだよっ。妹だけじゃないんだっ」

 エンジンの音しか聞えてこない。私は焦った。黙していることに耐えられなくなった。

「しかもおまえのは。脇の下のはわからなかったけど、女の大事なとこまでが臭い、重病なんだ。今までおまえと関係した男たちが、そのあとすぐに離れていったのは、きっとそのせいでだったんだよ。多汗症なんて、本人がただいっぱい汗をかくだけなんだろ? そんなの拭けば済むことじゃないか。おまえの病気はそれどころじゃないんだぞ。人にうつるんだよ。伝染病な」

 そこで私は口を噤んだ。聴き手を傷つけること必定の言葉まで、勢いで吐き出してしまったからである。荒々しい呼吸音が、まず返されてきた。

「ねえ真一さん、もっとくわしく教えて」

 寛子は、泣いてはいないようであった。