無意識のうちにも、私はタバコを口に差し、腕組みしていた。寛子を祝いにいく余裕など、この日の自分にはない。よしんば未明のうちに解決できたとしても、祝ってやる気には、とてもなれそうにない。それの程度がどれほどであろうとも、こちらは紛れもない受難者、断りもなく病気をうつされた被害者なのだ。彼女本人に害を加えようという意思がなかったことは、過去の男たちとの話でもわかる。テロリストや愉快犯のような考えのもとに、うつしたわけではあるまい。そこからすれば、赦してやってもいい気には、なれる。だが、最低でも、こちらの身体が全治しているという条件が、必要である。この時点では、その目処さえ立っていない。

 しかし約束は約束だ。そう思い直しつつ、私はタバコを揉み消した。電話の子機が、灰皿と同じ平面上にある。それを、返す手で掴みあげた。架けたい先の番号は、手帳を見るまでもなかった。

 川崎市への局番を押し終えたところで、私は息を呑んだ。通話しようとしている相手は、自分が病気であることを知らない病人、しかも若い女である。その病気は、若い女にとっては、恥ずべき種類のものにちがいない。性病や痔疾にも等しいものであろう。他方、その若い女は、ただ若いだけの女ではない。外貌が売物になるほどの、美形の女なのだ。そのうえにも古風な女なのである。さらにも、私という男に惚れている、らしい。そんな男から、電話ごしの声だけで、彼女が「みっともない病気」に罹患しているという事実を伝えられれば、ショックのあまりで卒倒するかもしれない。過去の男たちとの出来事の真相をも悟り、自殺してしまう恐れすらある――

 超音速でのような思考のリレーがそこまで進んだところで、私は電話機を戻した。頭のなかを整えにかかった。

 電話するまえに考えておくべきことが、二つあるのだった。

 一つは、この日の面会を断るための、もっともらしい口実である。そちらは、過去の経験により、すぐにもいくつか浮かんできた。

 もう一つのほう。寛子に、いつどこでどのようにして、彼女が病人であるということを伝えたらいいのか。そちらこそが問題、難問なのであった。

 三十分ほど考えた末、事実の伝えかたのほかは、定められた。

 私も、知ってしまったのだ。知らん顔を決めこんだままで去るのは、たやすい。だが、そうしたのでは、寛子の過去の男たちと変りなくなってしまう。それは、卑怯者のすることである。たとえ彼女から憎まれることになろうとも、彼女のこののちを考えてやり、真実を教えてやるべきにちがいないのだ。ただ、一気に暗黒の世界に突き落すようなやりかたは、避けてやらねばなるまい。段階的に強まっていく衝撃にであれば、寛子にも耐えられるのではないか。そう思い至ったのだった。

 気力を養うためでもう一本を灰にしてから、私はあらためて電話機に手を掛けた。

「起きて待ってたわ。ご用は済んだの?」

「うん。一応はね。でも、厄介なことが起きちゃっててね。明日もまた休日出勤、しなくちゃいけなくなっちまったんだ」

「ええっ。……そうなの。でもお仕事なんだもの、しかたないわね。……それなら、次はいつもどおりで、火曜の夜ってことね?」

「ごめんな。その代り、平日に代休をもらえることになるだろうから、うまく行くと、火曜は丸一日つきあえるかもしれないぞ」

「ほんとっ? それならわたしのほうでも調整するわ。そのことはいつハッキリするの?」

「早くてもあした、つまり今夜かな。月曜の夜になるかもしれない。ともかく、わかり次第すぐに電話するよ」

 そこで、私は意図的に押し黙った。寛子が息を貯めているのが、認められた。

「考えてみると、きょうとかあしたより、そのほうがわたしも楽だわ。火曜は百合ちゃんバイトだから、夜中にならないと帰ってこない日だし」

「おいおい。まだ決まったわけじゃないんだぜ。それからさ……。それから、きみのマンションで会うっていうのも、やめないか?」

「どうして? そうしたい理由は、そうでないと困る理由は、お話ししたでしょ?」

「ああ。でもそういうんじゃなくってさ。お互いにビシッと決めて、どっか都心のレストランとかに、出かけないか?」

「どうして? なんか理由でもあるの?」

 予想どおりの展開には、できている。

「うん。きみは約束したこと、憶えてないのか? 男と女になったあかつきには、割勘にするっていう約束。どうせお祝いするんなら、俺はそういうふうに、したいんだけどな。いい区切りになるし」

「そういう理由だったのね。……ええわかったわ。でも大丈夫なの? おさいふのほう」

「そう馬鹿にするなよ。……でも、いくらぐらいかかるのかな?」

 無邪気な笑い声が返されてきた。どこそこならばどれほどだということを、寛子は次々に紹介しはじめた。雰囲気は、整った。

「あのさ。……それからさあ。そのときに俺、きみに言いたいことがあるんだ」

「どうしたの? いま言えばいいじゃないの」

「電話なんかじゃダメなことなんだ」

「あらたまったお話なの? ……そういうの、なんだか恐いわ。……そのお話って、わたしにとっていいお話? それとも……」

「きみの受け取りかたに、よりけりだね。きみはどう思うかわからないけど、俺は、とくに悪い話だとは思わないけどね」

「そう。……とにかく、何かあるってわけね。……わかったわ。心の準備、しておくわ」

 それで、当面は自分の身体の回復だけを考えれば、良くなった。うまく運べはした。しかし、実際に耳にした寛子の声が、想像していたそれよりも暗いものに、私には聞えた。気の毒に思えてきた。まず私は、彼女の胸の瘤起のすばらしさにつき、縷々と語ってやった。喜ばせたのちには、当り障りのない雑談を交わしておいた。必要以上に悩むことがないように図ったうえで、通話を切りあげた。

 万が一にも家族にまで感染させてはいけない。この段階、いまだくさみを自覚できるうちには、家の風呂は使わないほうがいい。起きてからサウナに入りにいこう。そう決め、私は眠りに就いた。寛子とのやりとりを終えてから、三十分とは経っていなかったであろう。身も心も、そして頭も、疲れきっていた。

 

          十八

 

 アルカリイオン飲料をガブ呑みしながら、私は熱気のなかに身を閉じ込めていた。

 三十分を超過することがないようにとの、係員からの指導があった。多量の汗をかきたいのなら、出たものをシャワーで洗い流してはで入り直すのが、効果的である。そうも教えられた。聞いたままを、私はくりかえしていた。サウナのなかで飲みものを摂るということだけが、独自に案出したことであった。蒸されるのに慣れている身体ではない。脱水症状を起さないようにと、計ったのだった。

 汗は、おもしろいように出た。全身から噴き出しつづけていた。新鮮な水分を補給しつつ行っていたわけであるが、四回目の三十分のあとに体重を計ってみると、それでも二キロも減っているのだった。くさみが抜けきっているのかどうかは、みずからの体臭をその持主が認知しがたいのに同じく、私にはわからない。係員に訊くわけにもいかない。一方、そこまででも、飲みものは三リットルを消費している。単純に考えれば、サウナに来るまえの身体から、五キロ分の水が搾り出された計算になる。他の病原菌さえ、出きってしまったのではないか。私にはそんな気がした。潮時なのを思った。石鹸を使って身体を洗ってから、帰路に就くことにした。

 母親に判定を頼んだ。白なのを言われた。

 サウナの風呂場は、銭湯と同じ様式のものであった。左右の壁にずらりと、おそらくは一方に十個ずつ、座式のシャワー設備が並んでいる。出入口と向き合っている壁の前には、湯船がある。すなわち、人目だらけだ。男の芯を、張り詰めさせたうえで擦り洗うことなど、叶うはずもなかった。

 前夜の例もあり、私は母親の言葉を鵜呑みにはしないでおいた。自室に入ると、ドアをロックした。机の抽出しから猥褻な雑誌を、わけても淫らなものの数冊を引っぱり出し、男に火を着けるべく眺めはじめた。燃え上がらせ、灰にした。

 一休みし、下着だけを取り替えてから、私は階下へ再審を依頼しに向かった。黒と、このときには申し渡された。不安が的中してしまった。

 もう一度サウナに行こうかとも考えたが、私の身体は疲れきっていた。何事でもそうだが、いっぺんに度を越えてまで行おうとすれば、必ずどこかに歪みが起きる。過ぎたるは及ばざるが如し、と諺にもいう。この場合には、せっかくの健康をそこなう恐れさえある。外からの病気を追い出すことに早まるのあまり、内で新たな病気が生まれることにでもなれば、洒落にもならない。

 いまだ昼下りではあったが、私は早々と、翌日の行動予定を固めてしまった。寛子とのことで、その次の日、火曜には、有給休暇を取らせてもらおうと思っていた。平日の二日を休むのに相応な理由を、私は考えはじめた。類い稀な健康体であることは、直属の上司のほかにまで、知れ渡っている。近親者の誰かを殺す以外、手はなさそうであった。

 休みは得られたものと仮定してからも、私の頭のほうは休まらなかった。男の芯およびその周辺の皮膚に潜んでいるくさみを根絶するための方策。それを練っておく要が、思考機能の空くのを待っていたからである。

 のっけからで、私の頭は暗礁に乗り上げてしまった。皮下に染み込んでいるものを抜くにあたっては、どう考えてみても、毛穴から水分を噴き出させる必要がある。しかるに、である。周辺部はさておき、男の芯そのものが、汗などかくのだろうか。その奇問により、考えを進めることができなくなったのだ。

 人間の身体には、汗とは無縁な部分も、ありそうである。肘や膝といったところから発汗したという話は、聞いた憶えがない。たしかに、そういう箇所の皮膚は、水分を通さない皮、爬虫類の皮とも似ている。男の芯のそれも、本体が亀や蛇にたとえられることを支えるかのように、同様である。しかし、人間の皮膚である以上、ある部分に限って下等動物の皮と同じ構造になっているとは、考えられない。事実、男の芯の皮膚にも毛穴が存在するがゆえに、くさみの皮下への侵入を許してしまったわけである。まったく汗をかかないということではなく、汗をかきにくいということなのではないか。しからば、どうやってそこから発汗させるかこそが、解決すべき問題であるにちがいない。私は考えをふりだしに戻した。

 毛穴からの連想で、男の芯のまわりに生えている剛毛へと、私の思考は向かった。毛深いほうではないが、そこだけは例外である。「茂み」などという、空気の流通が認められるような生ぬるさはない。「密林」というにふさわしい状態になっている。そのことにより、ジャングルに迷い込んだ人間の姿が、脳裏には見えてきた。その映像が、それまでには考えつかなかったことを、私に気づかせてくれた。出口を求めるのに疲れ、毛根でしゃがみこんでいるくさみ。そういうものもありうるということを、である。

 そこに生えている毛を一本残らず剃った過去、その顛末が、私の頭に蘇ってきた。

 そうしたのは、浮気しないのを誓う証にと、当時の女から求められたためであった。面白半分もあり、私は飲んでやった。そんなことを行ったのは、後にも先にも、それ一度きりである。

 男には、日に何度となく向かわねばならない、隠しどころを同性に見られてしまう場所がある。並んだときに覗かれれば、ギョッとされることになる。

 そこの毛が再生されていく過程においては、忌々しい刺激を、敏感な部分に受けつづけねばならない。それは、時として、男の欲望をもそそのかす。持主としては、一々の立居振舞にも、気を配らねば済まなくなる。他人に先に気づかれるという愚を、犯さないためである。

 そんな煩わしさは生涯一度きりで沢山だ。それが、そういう状態から抜け出られた当時の、私の感想であった。陰毛を剃るということが、いかに男の日常生活を害することなのか。そのことを、身をもって知らされた出来事だった。

 私はどうしても、その二の舞だけは踏みたくないと思った。しかるに、くさみを密林から脱出させてやるためには、何なりか手を貸してやらねば済みそうにない。間引いてやろうかとも考えたが、技術的に難しいようにも思える。下手をすれば斑に、虎刈りになってしまう。それこそ、傍目から、ある種の皮膚病でも患っているものと、疑われかねない。

 私は意を固めた。ドアをロックしにいってから、下半身を剥出しにした。整髪用の櫛を左手に取り、文具用の鋏を右手に握った。「角刈り」と呼べるほどの長さに、全体を切り揃えようと決めたのである。病人なのを疑われるよりは、陰毛を手入れしている不気味な男なのを思われるほうが、よほどマシなような気がしたのだった。

 新聞紙を広げ、その上に立ち、私は手仕事を進めていた。男の芯の上部に生えている毛は、それで済んだ。両サイドを整えようとしたとき、自分の頭が影になり、芯の根元の皮膚をも、危うく切ってしまいそうになった。平常時には皮に弛みがある。横着は禁物なのを思い知らされた。そこからは、紙に跪いて当たることにした。怪我はしなかったが、功名は得られた。太ももの付け根の毛にいたるまで、思うように処理できた。

 実に呆気なかった。当初に考えていた作業を終えてしまうと、私は物足りなささえ覚えた。くねるのを許さない長さ、一センチ未満には、刈ってある。だが、そのままにしたのでは、それらの尖った断面で、男の芯をちくちくと突かれつづけることは、避けられない。完全主義者なのか単に欲深なのか、私は次なる作業を思いついた。毛先を丸めておこうと考えたのである。

 かつての床屋は、刈り上げた襟足の毛の先端を、線香の火などを用いて焼いたという。それをすることには、前や天辺の禿げている部分を、蘇生する効果もあるらしい。しかし、手触りを刺々しくないようにするのが、第一の目的だったそうである。

 下半身を剥出しにしたままで、毛先を焼くためのものにつき、私は頭を巡らせだした。家には仏壇がない。線香だけを常備しているとも想えない。蚊取線香なら、どこかにはあるだろう。だが、それを使うには時期が早すぎる。また、私はそのありかを知らない。求めれば、怪しまれるに決まっている。灰の付いた火先からの連想であろう。タバコを代用するという案が、浮かんできた。一仕事おえていることもあり、一服しつつの検討にかかった。

 灰の性質が、線香類とタバコとでは異なることが、見えてきた。後者のそれは、散らばって落ちるのだ。しかも、火の粉まで飛ばしそうである。私はまじまじと、男の芯を見詰めた。火傷を負う恐れを想うと、その肉の突起は、俄に首をすくめた。かわいい奴だと鼻で笑ってやったところで、私は自分の愚かしさのほどに気づいた。毛先の処理などはほんの思いつきにすぎなかったこと、別の問題が未消化になっていることに、考え及んだのである。

 いかにして男の芯そのものに発汗させるか。そちらを、すっかり忘れてしまっていた。

 女の体温に包囲されても、それに摩擦熱を加えられても、汗をかかないでいる代物らしい。そこからしても、身体の他の部分とは比較にならない耐熱構造を備えていることが、察せられる。サウナの熱気などは、上下左右を開放されているわけであり、ひどく涼しいものと、感じているかもしれない。

 それであれば、熱の逃がしどころのすべてを、塞いでやればいいわけだ。動くのを封じたうえで、蒸してやればいい道理である。そうする方法については、ほどなくして閃いた。いつだったかにテレビで観た、女性歌手の減量成功談を、私は思い出したのである。

 彼女は、固太りというやつで、汗をかきにくい体質だったらしい。多忙のため、ジムやサウナに通う余裕もない。食べることは唯一の気晴しであり、その楽しみを失っては生きている心地がしなくなる。減量方法に悩んでいたある深夜、気分転換に何か食べようと思った。冷凍してあった食べものを電子レンジにかけていて、ふと思いついた。それが、料理用のラップを身体に巻き付けるという方法なのであった。さっそくで試してみたところ、ただ座っているだけでも、ラップを巻いている部分には発汗が見られた。手間隙がかからないうえに、さほどの苦痛も感じないで済む。これだ、と思った。ラップを持ち歩くことになった。ステージ衣装は汚すわけにいかない。それを着るときのほかは、衣服の下にラップを巻いて過ごしていた。要らない肉だけが思うように削げていく。熱中した。ところが、あるとき、移動の車中でいきなり意識を失ってしまった。そのまま病院へと運ばれた。ラップによって皮膚呼吸を妨げられていたことが、原因であるようだった。時間を空けて行うようにと、医者から指示された。

 そういう話なのであった。