ポルシェが斎藤のマンションに着いた。

 呼んだエレベーターが口を開くと、洋子が姿を見せた。男物のスウェットの上下を着ている。よろこび勇むあまり、手近な服を引っかけてきた。そんな様子である。このときにも、幸治は2人の幸福ぶりに嫉妬した。運命の日は必ずやってくるのだ。そんな言葉で、彼は自分を慰めるしかなかった。

「けっこうかかったのね。みんなお待ちかねよ、クフフ」

 おちょくるつもりでなのか、洋子は幸治に抱きついてきた。

「往きが混んでたんで、すっ飛ばしてきたんだけどな」

 返しの言葉を口にした斎藤には、彼女は目も向けないのだった。

「お元気そうね。幸治くんてむぎゅってすると、背中のお肉がこんもりしてて、わたし感じちゃう」

 もしも本当にそうなら、さっさと金持の道楽どら息子など捨てて、危険な「電気あそび」もやめて、とくと地道な肉の悦びに浸るがよかろう。そんな考えと、斉藤への遠慮から、幸治は両腕で洋子を引きはがした。

「あいかわらず恥ずかしがり屋さんね」

 そう言いながら、彼女はスウェットパンツの右の腰ポケットへ手をねじ入れた。

「はいこれ。きょうのぶん」

 2つに重ねた茶封筒を、幸治へと突き出してきた。1通には、この日づけの2人の遺書が、入れられているに違いなかった。

 12階まで一気に上がれた。ドアが左右に引き込まれるや、斉藤は飛び出した。足早に、自室への直線コースを進んでいく。4メートルほどの開きができていたので、幸治は歩く速度を上げようとした。ポロシャツがきつくなった。コットンの背中の裾を、洋子に引っぱられている。そのことを、振り向いて認めた彼の左耳に、あの熱気が押し寄せてきた。懐かしい蒸し暑さであった。

「ねえ幸治くん。あなたまだ、ヴォルトvoltを楽しむ気になれない? 有望なんだけどな」

 銀座の喫茶店が分れ目だった、そこで為損しそんじた結果がこれなのだ。幸治は洋子の手をはらいのけた。きっぱりと向き直った。

「ヤなこったね。きみこそもう、やめといたほうがいいんじゃないのか? 斉藤さん、きょうはこれまでより大きなバッテリー、トラックのやつ、使う気でいるみたいだし」

 洋子は顔だけで笑った。

「笑いごとじゃないよ。もしものことが起きたらって、考えないのか?」

「だからちゃあんと、あれやってもらうたんびに、書いてるじゃないの。ご迷惑がかからないように」

「ほんとはあんな内容じゃあ、請け負えないんだけどね。自殺幇助ほうじょには、なっちまうわけだから」

「んん。むずかしいことは浩ちゃんに言って」

 遠くで鉄扉てっぴの閉まる音がした。幸治は耳をそばだてた。彼と洋子のほか、通路上にはいなさそうだった。大胆になってもいい気がした。前にある細腕2本に掴みかかった。

「なあ洋子」

「よびすてはワイルドでいいんだけど。あざができるのいやだから、もう少しやさしくして」

「矛盾だらけだ。あざのことなんか考えられるんなら、感電の後遺症のことも考えろ。ただで済むと思うのかこのバカ」

「年下のおとうさんか」

 洋子はゆっくりと、鼻から息を噴き出しはじめた。それに合わせるかのように、上体を、そして全身を、重力に預けていった。

「ねえ痛いわ。もう放して」

 言葉とは裏腹に、笑顔を見せてもいる。お決まりで、おちょくられているのに違いなかった。幸治は切りあげにかかることにした。それを相手にも悟らせるべく、両手の握力を上げた。

「いたたたた」

「おい洋子。おまえほんとに平気なのか? あんなみっともない姿で死んでも。自分が惨めだとは思わないのか?」

「みじめですって? ええ? エヘヘヘ」

 洋子は、しゃんと立った。全身を左右に強く振ることで、幸治の両手を弾き飛ばした。当然、その視線も彼から外されていた。通路の外側にある壁。170センチ前後ある彼女の、その鳩尾みぞおちの高さぐらいまでがコンクリートでできている壁。いや、それの上にある鉄柵の付いた空間へと、向けられている。そのことを認めたのに釣られ、幸治もそちらへと目を流した。灰色の空の下、雑多なものが、単調に、そして忙しなく動いている。ありと見紛いそうなものら、人間たちもいる。

「いいじゃないの。たとえ一瞬でも、ふつうのひとたちには体験できないものを、感じられるんなら。……からだがある意味って、生きてるうれしさって、そういうことなんじゃないの?」

 洋子は幸治を直視した。目が合うと、屈託のない笑みを見せてから、彼の脇をすり抜けていった。どこかでクラクションが、大きく、そして長々と鳴らされているように感じられ、幸治は我知らず両耳を押さえた。

                                           ( 完 )