お忙しいなか、お目を、さらにさらに煩わせます。

 ず~っと前にこのブログに記したことを、ここでまた、繰り返しで、アップさせていただきます。

 それは、ぼくが、ただ単に「小説じみたもの」を、懲りもせず、プロ野球の最下位球団のように、だらだらと、書いているものと、思われたくない、からであります(読点は、太宰さんのまねをしてみました。すみません)。

 

 お読みいただき、心より感謝もうしあげます。

 編集者の方々が、この作品以外の様々も、読んでくださってきました。これまで、そうですねえ、15年ちかくでしょうか。

 なかには1,500枚を超える大長編もあり、それこそが、ぼくがこの世に残していきたい書きものであるような気がしております。

 「スタイルはできてると思います。……ただですね。世の中に受け入れられるかどうかは、別の問題でしてね」

 編集者の方々とお話しさせていただくたび、ぼくは首をかしげ続けてきました。(事実っていうのは、世の中に受け入れられて、発生してくるもんなの?)

 

 銀座の文壇バーに潜伏させていただいたことも、ございました。

 30枚程度の短編をダレスバッグに忍ばせておりました。昔は一般公募であった『織田作之助文学賞』(今は、「運がいいだけのバカな物書き」の発奮材料になり果てたニンジン賞)に、「次点」で落ちた作品でした。授賞したかた(クソ野郎、ヤ、サノバビッチ=Goddamed, YOU'RE A SON OF A BITCH!)は、「ええ? んああ。ぼかあ腕試しで応募しただけなんで、作家になるつもりなどさらさらありません。あんな不安定な職業。んあはは。このまんまぼかあ役所づとめ続けますよ、んええ。年金もらえるようになってから、作家デビューといきたいもんですね。ぬははははは」と、授賞式でのたまわれたとか。ぼくが荒れたのは申すまでもございません。泥酔の挙句、当時のナオン(銀座のクラブのホステス)を病院送りにしてやりました。んええ。

 ともあれ。ま、そういうレベルの書きものを、飛び出しナイフがわりに、バッグに孕んでいたわけでありますです。

 何人かの現役作家さんがお店へ来られました。みなさん、「うおおっ(。父ちゃん今おれは猛烈に感動しているっ)」と思われるような方々ばかりでした。まだ早いのにヘベレケになったタモリさんも、15分ぐらい在店されておりました。

 しかし、このぼくの風貌、というか面(ツラ。ザーヤクにまでザーヤクと想われるラーツ)であります。そのうえにも、真夏の夜なのにチャコールのダブルブレストのスーツを着込んでいたわけで、想像力に乏しい彼らは、ぼくのことを⇒の自由業者(ザーヤク)だとでも、思われていたのでしょう。

 そんななか、1人のおっさん(当時のぼくは40代前半。相手は60代前半ぐらい)が、にこやかな顔で、隣に座りにきました。ぼくは、その顔を、テレビで見て記憶しておりました。

 亡くなればニュースになるような人なので、まだ存命なのでしょう。直木賞作家、西木正明、というやつなのでした(平成31年4月17日現在も、銀座8丁目の文壇バーで、偉そうにしていることが、ネットでも検索できます)。

 ぼくは、そのピエロの顔のような顔をしたおっさん(両目の下まぶたにアズキ大のほくろがある。いわゆる「泣きぼくろ」か)、西木正明を足がかりにして、文壇デビューを果そうと、そのときそこで決しました。

「西木先生。……うわあっ。なるほどさすがは先生。お目が高いっ。……あの、ママさんママさん。違う、チンピラのきみじゃあないの。ママさん呼んでよ。……ああママさん。ほら見て、西木先生のボトルが空いておられますですよ。ビッグビジネスチャンスでおますよお。さあさ。……いやあ西木先生。日本一っ! この秋田の誇る文豪っ! ……お会いできて光栄でありますです」

「んああ。……ふふ。ともかくあれだよあなた。短い作品でも、ハマのぼくんち。ああ、ハマっていうのは横浜のことですよ。その横浜にあるぼくんちに、送ってくださいよ。あなたスキンヘッドで凄味もあるしね。あの花村萬月君といい勝負、あこれは失敬。ま、ぼくもこの業界には40年以上もいるわけでね。それなりに顔は利くし。あなたのバックアップは惜しみませんよ。んええ」

 言ったな。もらったぜ、とぼくは思いました。

「実は西木先生。そこそこみなさまから評価していただけた短編を、このバッグの中に入れてあるんでございます。茶封筒に入っておりますので、先生のバッグにお収めいただけますか」

「やりますねえあたな(酔っているらしい)。つまりぼかああたなの釣り針に引っかかってすまった大魚(自分で言うか)だったってわけっすね。が。がが(何のための音だったのか不明)。……くう~。……ママママ。おれ刺されちゃった。このひと刺客だったわ」

 西木正明は、茶封筒入りのぼくの原稿を、彼の汚らしい、あちこちが擦り切れているサラリーマン風バッグへ収めました。(そんなバッグ持って、磨かれてないクツ履いて、文壇バーになんか来んなよ。飲み代で身なりを整えるほうが先決だろうが)

 ただ、逆の考えも、できるわけです。男なんだから身なりなんかどうでもいい。極上地の超高級バーで、自分よりも格上の作家たち(西木の本はほとんど売れていない)と堂々と渡り合ってやる――そういう気概ある男、と捉えることもできるわけであります。であれば、その男は、後輩らにとっては好人物であるに違いないのでございます。

 さらにも、酔っぱらった勢いもあったのでしょう。

「あたなさあ、こりを機会にぼくの弟子(です)になるませんか。んねえ。ぼかあこれまれに何回か断ってきますた(秋田県人です)が、あたななら応ずましょう。んええ。実に気い入ったっ。……くにいるましたよ、んええ。悪いやつらっ! ママママ。ぼくのレミー〇単(マルタン)、まずはころひろ。あたな名前なんですたっき?(おつんつんむた? じゃねえっつうの)」

 ここでためらいでもすると、ことです。西木正明の顔に、美しいママ(といっても僕と同じぐらいでしたが)の前で、泥を塗ることになりかねません。

「何という光栄でしょう。ぜひ弟子にしてください。ぼくのテレビ出演の際には、『流行作家、思い出を語る』のコーナーに、必ず先生にご登場いただきますんで(相手につられて言うことがだんだん大きくなってるっつうの)」

「じゃこりで決まるだっ。おりはきょうからくみんこと、すりらいつにいつに(thriller1212)って、よびすてぬすんからな。ええかっ?」

「けっこうです。よろしくお願いいたします」

 すると西木正明は右手を差し出してきました。そのやけにゴツゴツした手を、ぼくが両手で握り、恭しく自分の額の前へ掲げたのでございます。

 同棲するわけではないので、別れのときは、当然まいります。

「おうくみ。3日くりよな。おりんほうから電話すっから。んな。そりまでぬ文芸春秋の編集者のくみ担当、めっけとくかんな」

 西木正明は、ママと、タクシーに乗ろうとしておりました。(ああそうか。できてたってわけか。だからオシャレもへったくれもなしでよかったわけか。ま、お元気なこって)

 ぼくは遊ばせていた右手でパナマ帽をとり、ほぼ90度上体を前傾させました。

「それでは師匠。こののちにもよろしくお頼み申し上げます。お電話、お待ちいたしております(通販業者かよ)」

「んんわあったあ。くみはどうやってけえんのかね? たくすー代(でえ)はあんの?」

「ぼくは、おのれの分際に合わせて、深夜バスで帰ります」

「いらえっ(えらいっ)! よくえったっ! その心がけがでえずだど、んなあ。……ふんでもなくみ。むるすんなよお。むるはばあたりのやっことだぞ。ントけえれんのかあっ? んよおっ」

「三鷹行きのバスがあるんです。大丈夫です」

「んかあっ。おりはこりからもうひと踏ん張りだあっ! じゃなあっ!」

 好いひととめぐり会えた。僥倖だ、とぼくは思ったのでした。

 ああ。無論、深夜バスに乗るつもりなど、ぼくにははなからございません。西新宿に住んでいるソープ嬢の「友人」に、ビッグマックとマックシェイクバニラを買ってくるように厳命し、パジャマでベンツで、迎えに来させたのです。いまは懐かしい思い出です。

 ところが、西木正明からは、ついぞ電話がかかってこないのでした。

 5日目に、しびれを切らせて、ぼくのほうから、秋田野郎に電話したのでございます。

「ああ。そのことだったら、悪いけどすべて忘れてください。それから、文章で食ってこうと思うんならやはり正攻法。新人賞に応募して、授賞して。そういうやりかたがいいと思います。あなたのやりかたはズルイ(ところてんの作られる映像が見えた)ですよ」

 そう言うのでありました。もっともなお説だと思えなければ、人間ではございますまい。

 ぼくは「西木ルート」をスッパリと諦めるしかありませんでした。

 ところが、なのです。

 そののち、この西木正明インポ野郎が、ぼくと同じような手法で、かの石原慎太郎氏に取り入り、文壇デビューを果したということ。石原氏の絶大なるバックアップで直木賞を授賞したということを、2流出版社の古参編集者から聴かされたのでございます。

 やってらんねえな。

 つまり、ほかの世界においてと同じく、「運の悪い奴」は決して日の目を見ない、ということなのであります。

もっとも、ぼくが自分の不運であることに気づいたのはその事件よりももっと以前であり、それがもとで「仏門(本当は、軍門)に下った」わけなのでございますが。

 

 お加減がよろしいようで。