たけるはその影に向かって、ペダルをこぐ足にさらに力を込める。
しかしその人影と自分の距離は一向に縮まらない。
たけるは額ににじむ汗を片腕でぬぐいながら、必死で自転車を走らせる。
しかし『おにいちゃん、おにいちゃん・・』という声は耳のそばを離れない。
次第に夜の帳がおりてくる。
たけるが追いかける影は、ゆっくりと周囲の闇と同化してゆき、輪郭がぼやけてゆく。
「ママ!待って!ママ!」たけるは叫び続ける。
そして周囲が完全な闇に染まろうとする刹那、
『あの人を、止めて・・』
・・・そう訴えかける幼女の声を、確かに聞いた・・。
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そして、たけるは目を覚ました。
時間は朝の5時。
3月のこの時間では、早朝の空気は冷たい。
たけるは全身汗びっしょりになっている身体を気だるげに起こし、朝の静謐な空気を胸に吸い込んだ。
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彼、月城たけるは高校1年生。
両親は彼が幼いころに鬼籍に入っているため、刑事を職業としている姉と二人暮らしだ。
しかし、最近ニュースや新聞で見ない日はない連続死体遺棄事件に関わっているらしい姉は、ここ数日家で見かけない。
もう慣れっこになっている光景ではあるが、たけるは朝起きて一人だと分かると気持ちが沈む。
さびしい、という感情ではない。
言葉にしにくい胸騒ぎと、しかしどうにもすることができない「学生」という自分自身の無力さを、
この家に一人でいるときに強く感じ、気が滅入るのだ。
彼は姉を尊敬している。将来は姉の跡を追って、刑事を目指すつもりがある。
早く姉の助けになりたい、という思いが、彼をどこかあせらせるのだろうか。
たけるは、このような自分でも明確に言葉にできない感情を、一人のときはいつも持て余す。
しかし、今日に関しては違った。
今朝見た夢が頭の隅から離れない。
「ママ、か・・」
たけるは夕食の残りの味噌汁を温めなおしながら、そうつぶやいた。
母親の記憶はほとんどない。今まで夢ですらほとんど見た記憶がない。
そもそも、夢の中の自分は小学生の背格好であった。その年のころ、すでに母親は他界している。
それがなぜ今朝、あのような・・
たけるは手馴れた手順で朝食を用意し、テーブルに腰かけた。
そして、そっと写真立てが並ぶ部屋の一角に目をやった。
少し色褪せた写真の中で、微笑む両親と10歳上の姉、めぐみ。そして母の腕に
抱かれてむずがっている自分が、写っている。
10年前の、どこにでもあるありふれた、しかし幸福そうな家族の写真だ。
たけるは、姉が落ち着いたら、久しぶりに母の思い出話を聞かせてもらおうかと思案していた。
姉弟で両親の話をすることは滅多にない。
やはり刑事であった両親は、とある事件に巻き込まれる形で亡くなった。
たけるは当時5才。
詳しいことは聞かされてなく、文字通り姉の手ひとつで育てられてきた。
・・そんなことにとめどなく思いを馳せつつ朝食を終え、身支度もすんだ頃合に、
これもいつもの光景だが、計ったようにドアが勢いよく叩かれる音がした。
時計を見ると、7時半。
時間通りだ。
「たけるー!準備できた?学校行くよーー!!」
快活な女の子の声が、ドア越しに響く。
隣に住む幼馴染の柊のどかが、今日もたけるに一日の始まりを告げた。
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