超三国志 人物伝

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後漢第二代皇帝。劉秀(光武帝)の第4子。生母は陰皇后。

39年、劉陽は東海公に封じられる。41年に、郭皇后が光武帝に疎まれるようになり、皇后を廃されて中山太后とされ、陰貴人が皇后となる。この年、劉陽は東海王となる。

劉陽にとって異母長兄である劉彊は、常々皇太子を辞したいと願い出ていた。43年に光武帝は遂に許し、皇太子は東海王となり、劉陽が皇太子に立てられることになり、同時に諱を陽から荘に改めるように命じられた。

57年、光武帝の崩御にともない、皇太子であった劉荘が即位した。このとき30歳であった

外事に積極的で、竇固らによる北伐の成功、度遼将軍・西域都護の復置などを行った。

67年、西域に仏典を求めたことが仏教の初伝とされるが、弟の楚王が既に仏教を信奉しており、通常は仏教公伝の事とされる。

 東漢盛世の明君との評価の半面で、治世の特色は寧ろ法制・罰則の厳格化による集権強化は勧められた。

明帝の治世は、約200年続いた後漢朝では安定した全盛期を現出した。馬皇后は陰皇后とともに賢夫人とされ、自制によって外戚勢力が抑制されていたことがその理由として考えられている。