ホビットのビルボも思いがけない冒険を始めちゃったわけだけど、わたしもみはるちゃんも始まりは同じようなものでした。
なんでホビット?なのかはただの流れなんだけど、三部作一気見したちるちると、なんでか同じシーンまでを繰り返し見せられて先に進めないみはる(笑)
二人とも映画館で見たはずなんだけど、自分らのエナジーが変わってから見ると見えてくるものが全然違うのを楽しんでます。
で、今日から8月。
先月はまじコバエがうるさく飛び回るようなエナジーの中で、いったいどんなことを体験するんだろうと思ってたけど、自分らの想像力なんて何の役にも立たず、ただじっと様子をうかがうしかない。
だからこそ何かのはずみで受け取るものの大きさに身がよじれまくって、自分の膝でタンコブこしらえたりした(笑)
おまけなこともたくさん起きた。
自分にはそんなとこ絶対にないわって高を括ってるようなこともさらっと起きたりして、まっつぁお!になったりね(笑)
この世は肉をもって過ごす空間だということをあらためて実感した1カ月でした。
当たり前すぎる毎日のなかで、当たり前すぎる現象と当たり前すぎる思考と当たり前すぎる思い込みが繰り広げられていて、それが当たり前すぎだから何の疑問も持たず疑うことをせず当たり前に淡々とこなしながら日々の不平不満を撒き散らしながら生きているって人もいる。
かと思えば、当たり前の中にある当たり前じゃないものを見たいっていうマニアックでストイック、別の言い方すれば超素直で正直でこれって思ったら絶対に納得するまで曲げないからしなくていい苦労までしょって生きてる人もいる。
どっちがいいとか悪いとか、損か得か?てな話じゃないですよ、いつも言うけど。
ふとね、気がつかないってことはある意味幸せなことよねって思う。
なんでも今あるものに気づいていればいいと思って、気づいていようと努力してきたけど、知らないこと、気づかないことにはあれこれ悩む必要性はないから、変だな?って思たとしても見て見ぬ振りすればなんとなく時間が過ぎて、なんとなく生きて、なんとなく人生楽しかったわ~ってな最期を迎えることもできるやろし。
そのあとのことは別としてだけどね。
反対に気づいてることをひた隠しにしてるけどダダ漏れしてる人もいて、そういう人って普通の人の顔して、わたしわたしって言わないで、じっと様子をうかがってる的な感じだけど、本人の知らないところで変人扱いされてたりする。
気がつかないふりするってのは、気づかないのに比べるとすごい大変なことだと思うんね。
でも無意識レベルでやってるから毎日溺れそうにジタバタしてる。
本人の中では認めるとおっかないことが起きるって思いこんでるから、人の下に入って隠れてて、周りと同化して存在感を消して、一人の部屋でこつこつと推しに没頭してたりね。。
ちょっと横道にそれちゃったね。
そうそう、今年の頭まで所属していたとこで出会ったある文章があって。
その文章を初めて読んだときは、言ってることの意味は分かったけれど、何を意味しているのか見当もつかなかって、いつも頭の隅に残っていた。
ある資格を取ってからはその文章を何度も何度も音読してみたけど、ただの理想論でそれを現実にすることはかなり厄介で、ある意味無理なことだとほっぽりだしたくなった。
だけど、何度もクラスをやるうちに、わかったふりしてやりこなす自分に腹が立ち始め、どうしてもそこに書かれている状態になってみたいという強い欲求がふつふつと湧いてきてしまって、正直本当に困ったなと頭抱え込んだんだよね。
自分というネームタグのついた肉をもち、エナジー、エネルギーと魂との三位一体で宇宙の全てと一つとなることを複雑怪奇にしている理由がとても簡単にかつ深い言葉で書かれているんだけど、すんなりといくってもんじゃないってことは、いくら何でも想像できたから。
その状態、その境地に辿り着くにはいったい何をどうすればいいんだろうか?
この世での活動時はそんな事とっくに通り過ぎたわ的な涼しい顔をしつつ、水面下で必死に足を動かしている鳥さんのようだった。
その文章は「そこに辿り着く過程はなんという楽しみと歓びであろうか」って終ってるんだけど、本当に楽しめるんだろうか?本当に歓びが味わえるんだろうか?って、寝ても覚めてもわたしをぐるぐる巻きにし始めたから、もう知らんふりなんてできないところまで追い込まれたんだってことに気づくしかなくて、ワクワクよりも諦めに近かった(笑)
だけどそこで終わりで、その先に進む術が見当たらなくてね。
そんなころにぎっくり腰と両ひざの負傷で松葉杖に頼らざるを得ない生活が始まった。
一気に噴き出したエナジーを持て余す日々は、どうにでも解釈できるし、どうにでも意味づけできたけど、今までと同じことをするという選択はしないと心に決めたからあえて何せずに、ぷーさんのように「何もしないをする」生活を1回くらいしたって罰は当たらんだろうと思って。
ただじっと待ってみた。
世話をしなきゃいけない家族もいないし、1日何もしなくても取り立てて困ることもなかったからできたことだけど、そういう意味ではちょうどいい時にちょうどいいことが起きるんだよね。
哀しいかな人はここまで追い込まれんと自分に向き合わんもんなんだなと、話にゃ聞いたことあるし、過去に何度か経験あるんだけど、対処法というか進む方向が全く違うものを選ぶ自分がいて、60歳を目の前にして観念した(笑)
普通人はいい歳になると安全安心なことをまわりに置くようになるけど、わたしはやっぱできんみたいだわって(笑)
とにかくね、自分で試したくって仕方なかった。
行けるとこまで行ってみたい。
本当にそこに書いてある状態に自分自身のエナジーがなれるのか、その世界ってどんなエナジーで、何が見えて何が起こるのか?
自分の全てがどうなっていくのかっていう好奇心。
カニが食べたいのに、カニ風味のカニカマで誤魔化されるなんて嫌だ!
中途半端でええんならカニカマでもいいけど、わたしは本物のカニが食べたいんだ!!!(笑)
今まで築いてきたものや創りだしたものや、今持ってるものすべてを捨てるって腹括るのは本当にのこといえばすごく迷ったし、葛藤がなかったわけはないし、不安やら恐怖感やらありとあらゆるネガティブなものに囲まれ続けたけど、一言でいうなら今死んでもいいかなと思ってたから死ぬくらいなら腹くくるかって、そんでだめで本当に落ちぶれて死んじゃって、まわりがおもしろおかしく言ったとしても、
ー 結構まわりからの目って意外と気になって、それが理由に勇気出ないことって多いのよね ー
わたし自身はやらないでぶつぶつ言うより、やってからぶつぶつ言うほうが後悔しないなって思ったから、全部捨てることにした(完全に捨てるのにはもちろん時間がかかりましたけどね(笑)
そう思い込んだらさ、頑固だからさ、もうね、飛び降りるしかないわいね。
で、どこから?
いや場所じゃなくってエナジー、エネルギーの問題だけど、東京じゃダメだったってだけの話。
コロナで世間はめちゃくちゃ大変で、どこにも行けないような状況だったにもかかわらず。
おまけにスーツケースを運ぶこともままならないカラダの状態なのに、行けちゃったんだよ、弘前。
なんで弘前か?には意味があって、そこのスペースでないと事が進まないのだけはわかってて。
最初は他にもメンバーがいたんだけど、気がついたら二人になってた。
おまけにみはるちゃんはわたしに引っ張り込まれたような形でのスタートだったんだけど、蓋を開けてみたら現場監督的な立ち位置で、彼女がいなければ何も始まってなかったくらいの中心人物だったというなんとも面白い展開で、
4日間の何もかもが初めてでクレイジーとしか言いようのない冒険の旅が始まっちゃった。
そしてこの1年何度も足を止めかかったり、ちゃぶ台ひっくり返しそうになったり、この冒険自体を終わらせることもできたけど、諦めるという選択肢はないからなんだかんだと続いている。
そして今日から始まるこの1カ月がね、どんだけ~!!!なことが起きてくるのか戦々恐々としているですね(笑)
8月は自分たちにとっては特別なもので、意味はないけどとても大きな意味があって。
だからそのうち整理したいなと思ってたことを少しづつ小出しにしていこうと思ってて、エナジーがどう動くのかまだ全然わからないけど、これも始まりの始まりの準備の一部かな。
なんて、数年ぶりに熱だしてて、ちょっとイイ感じです(笑)