こういっちゃなんだけど、わたしの頭はちっさいんです。

 

大人サイズの帽子はたいがいぶかぶかで風が吹いたら飛んでいくし。

 

デカイよりいいじゃないってよく言われたけど、そういうことじゃなかろと思うし、これはこれで悩みのタネになることもあるんだよね。

 

メガネも顔の幅に合うものがなかなかないです。

 

わたし以外の誰もかぶれない帽子と誰もかけれないメガネたちはある意味わたし自身なわけで、

 

唯一無二の存在。

 

自分のことをそんな風に思えるまでにすごく時間がかかりまして、

 

価値があっても無くても、わたしは私だと自分を許すのにずいぶんと抵抗しました。

 

思考では理解できてもね、エナジーはね違っててさ。

 

人は刷り込まれた秩序に従って生きるようにプログラミングされてるから、そこをあるものを真逆に組み替える作業はやわじゃないです。

 

頭はちっさいけど、頭でっかちで頑固。

おまけをつければ協調性もなく人見知りでさみしがりや(過去形)。

 

あ~、これはどうでもいい話ですね(笑)

 

最近、図書館で見つけた春樹さんの「雑文集」を読んでいて、自分の空っぽさ加減にげんなりしたり、斜め45度から自分を見たら結構いい女かもしんないってちょっと思ったり、彼が紡ぐ人との縁のエナジーと自分が紡いできた人との縁のエナジーがあまりにも違いすぎて、あらためて自分が作りだした世界観ていうかスペースの淀みに気がついたり、世の中で起きたこと(サリン事件)に対して、わたしも被害者の一人だけど、それによって人生が変わるってことがなかった理由を見つけたり、なんだか春樹さんってやっぱりエナジーの先読みが半端ないなぁと思ったり、ほんの少しの時間に数年分の洗濯ものを洗濯板でごしごしと洗って、青空の下にずらりと並べて干した気分になりました。

 

そして思うんですよ。

 

わたしは私にしかなれんな~って。

 

当たり前の話だけどね。

 

長い人生、自分が自分として生きるより、自分っていうものを棚の上に上げて人からの投影通りに生きてきたっていうことを直視するしかなくなったとき、ようやく担いだ荷物を降ろす気になって、降ろした後にそこにじっと立ちすくんでたのは紛れもないただの自分自身だったっていうね。

 

こんな感じで、ここ数年かけて向きあってきたことの答え合わせがいろんなものを通して現れてきます。

 

6月もあと数日で終わる。

 

そして真夏ってやつがやってきて、見たこともないドアの隙間からおいでおいでするんだなぁ~、きっと。