元旦は家族で初詣に行き、たらふくおせち料理を食した後、必要以上に摂取したカロリー消費のために自転車で走りました。

流石に元旦の朝から自転車で走っている変わり者は私くらいで、晴れた休日は人が多い河川道路もガラガラでとても走りやすかった。

敵は寒さだけでしたが、走り始めこそ凍えたものの、しばらくすると脂肪燃焼が促進され、汗ばむほどに温まりました。

それでも足先だけは冷えます。

冬用の防寒靴カバーを装着していますが、自転車はなぜか足先だけ冷えるのです。

そもそも自転車用シューズは通気性抜群な作りになっています。

通気性が良い分だけ防寒機能は皆無なのです。

カバーを装着したくらいでは足の冷えは防止できません。

 

帰宅後はRR-Rを引っ張り出し、元旦恒例のナップスへ。

ナップスが元旦営業をしていないことは分かっています。

にもかかわらず去年も元旦はRR-Rでナップスへ行っています。

単に元旦の空いている道路をRR-Rで走りたかっただけなのです。

誰も居ないだだっ広い駐車場はなかなか良いものです。

RR-Rがどこにあるか分からないような写真です(笑)

 

さて、前回の続きです。

自分ルールを厳守する私を周りの方が「自由だ」と思う理由です。

皆さん自由と言うと「何にも束縛されない」ことだと思われる方が多いのでは。

ところが人間は本当に自由にされると逆に「不自由」になります。

なぜなら全てを自分の意思で決めなければならないから。

その状況を想像すれば分かります。

親からも学校の先生からも何の指導も受けません。

学校に行くことすらも自由です。

完ぺきな自由である以上、あなたには何の義務もありませんから。

親の義務も義務教育もありません。

もちろん、仕事をするもしないも、どんな手段で生きる糧を手に入れるか、その手段も自由です。

自分の生き方や将来、あらゆること全てについて自分で考え、自分の行動に責任を待たなければならないのです。

よって、完ぺきな自由は多くの人が悩み苦しむ原因となるはずです。

生き方に迷い、やるべきことや人生の目標を見つけられないまま終えることになるのでは。

現実に多くの方は何らかの束縛を受け、他人からの影響を受け、自分の生きる道の大半を決められているはずです。

それは言い換えれば、「他人に自分を合わせている」ことになります。

その方が生きやすいことは明らかです。

多くの大人はそのことを理解していて、その上で自由を欲しています。

都合の良い「自由」をです。

 

そんな世の中で「自分ルール」を持っていたらどうなるか。

「付き合いの悪い奴」とか「空気を読めない奴」とか「わがまま、自分勝手な奴」だとか、

そんな風に言われることが多くなります。

 

例えば、私はお酒を飲みません。

そのため基本的にお酒の付き合いはいたしません。

 

私はゴルフをしません。

そのためゴルフのお付き合いはいたしません。

 

そんな私を周りの方は「自由でいいなぁ」と言います。

これは良い意味ではなく、嫌味と言っても差し支えないと思っています。

「忖度がない」とか「立場をわきまえてない」とか言われることもあります。

そんな風に言われて面倒だな、と思うことはあっても、実際に私に何かしらの不利益があるかと言えば、それも今はありません。

今はです、要は最初のうちだけです。

お酒をやめた直後などは「お前はなんてつまらい奴だ」とか「そんな仙人みたいな人生が楽しいか?」とか、公私ともに散々な言われようでした。

「いいから飲め!!」なんて強要する方もいました。

 

仕事は与えられた任務を遂行し、目標を達成することで評価されなければなりません。

本来お酒の付き合いやゴルフのスコアで評価されるべきものではありません。

やりたい人はやれば良いのです。

それを否定する気は全くありません。

ただし、会社で力のある方が仕事に必要のないことを強要するのは間違いです。

私のことを仕事で関わる方々は「変わり者だが仕事だけはするから仕方ない」と許しているのかもしれません。

最近はすっかり誘われなくなりました!!

それでも今まで同様に仕事は続けられてます。

 

そんなわけでコロナ禍の昨今は私にとっては非常に都合の良い世界です。

社会全体が今まで以上に個人の意思を尊重する傾向になりつつあります。

コロナの影響で苦しんでいる方も居る中で、不謹慎だとは思いますが偽らざる本心です。

これをきっかけに社会がより良い方法に変化していくことを望みます。

 

以上、自由ってやつは意外と面倒で、それを得ることで逆に不自由になることもある。

そんなお話でした。

 

結局人生はトレードオフなんですね。

何かを得るためには必ず何かを失う。

二兎を追う者は一兎をも得ず。