12月だというのに寒すぎます。

これからもっと寒くなる1月とか2月はいったいどうなるのでしょうか??

 

一昨日の気温は-2℃でした。

都心でも氷点下とは凄まじい寒波です。

外の水道は凍結して水が出ず、

前日車内を水拭きしたマイクロクロスはバキバキに凍り付いていました。

このまま釘が打てそうな硬度です。

 

さて、前回猫の病気について投稿をいたしました。

私にとっても生き物の生について改めて考えるきっかけにもなりました。

 

池田晶子さんの41歳からの哲学。

私が哲学らしきものにハマるきっかけになった本です。

2004年に刊行された本で、作者の池田晶子さんは既にお亡くなりになられております。

その中に一説に死について以下のようにあります。

 

人間の時間は有限なのである。

全く当たり前のことなのだが、人はそれを忘れる。

忘れて他人事みたいに自分の人生を生きている。

時間は前方に流れるものと錯覚しているからである。

人生は生から死へと向かうもの。

死は今ではない先のもの。

しかし、これは間違いである。

死は先にあるものではない。

今ここにあるものだ。

死によって生なのであれば、生としての今のここに、

死はまさにあるではないか。

 

17年前、私にはこの文章の意味が理解できませんでした。

分かっているようで分かっていない、そんな理解度であったと思います。

 

そして、昨年この本に出合いました。

難解な時間の概念を分かりやすく解説した本です。

内容は物理学の最先端かと思いきや、実は大昔の作家や哲学者の言葉が多く引用されています。

以下は文中にあるアウグスティヌスの言葉です。

アウグスティヌスはローマ帝国時代の神学者・哲学者です。

 

時間の継続を計るものは、私の精神の中にあるものだ。

自分の精神が時間は客観的なものであると言い張るのを許してはならない。

私は時間を計る際に、自分の精神の中にある現在の何かを計っている。

これが時間でないとしたら、時間が何なのか、私にはまったくわからない。

 

時間とは客観的なものではなく、人の心の中だけにあるということです。

 

この本では宇宙共通の「今」は存在しないと結論付けています。

全ての出来事が過去、現在、未来と順序付けられているわけではなく、

部分的に順序付けられているにすぎない。

「今」は大域的な現象ではなく、局所的な現象である。と説明しています。

世界の出来事を統べる基本方程式に過去と未来の違いは存在しないのです。

 

このことは池田晶子さんの文章とは少し意味合いが異なります。

しかし、人が感じる時間の流れは錯覚であるとの定義は共通します。

世界を「ぼやけて」しか見ることができない人間には理解しがたい事実かもしれません。

しかし、時間が存在しないことは紛れもない事実です。

この世界には「今」しか存在しないのです。

過去も未来も人が感じる錯覚なのです。

 

 

池田晶子さんは上記のエッセーをこう締めくくっています。

 

こういう当たり前にして不思議な事実に気づくと、時間は前方に流れるのをやめる。

存在しているのは今だけとわかる。

流れない時間は永遠である。

一瞬一瞬が永遠なのである。

有限のはずの人生に、なぜか永遠が実現している。

永遠の今は、完全に自分のものである。

人生は自分のものである。

 

 

人が感じる人生とは時間とともにあるはずです。

ところが肝心の時間が無いとしたら。

人が感じる出来事の全ては心の中だけに存在することになります。

感じることができるのは自分だけ、だからこそ人生は自分のもの。

よって時もまた自分だけのものということになります。

 

 

最後に、時間について仏陀は以下のように説いています。

 

生まれることは苦である。

老いは苦である。

病は苦である。

死は苦である。

忌み嫌うものとの出会いは苦である。

愛するものとの別れは苦である。

望むものを得られないのは苦である。

なぜ苦なのかというと、自分たちが持っているもの、愛着を持つものを失う定めにあるからだ。

始まったものは必ず終わる。

私たちは過去や未来に苦しむのではなく、今この場所で、記憶のなかで、予測のなかで苦しむ。

時さえなかったらなら、と心から思い、時間の経過に耐える。

つまり、時間に苦しめられる。

時は悲嘆の種なのだ。

 

 

時間はありません。

それでも私たちは時でできているのです。

たとえ錯覚であったとしても、苦しみであったとしても、

心の中に時は存在します。

 

 

念のため、私は無宗教です。

神も仏も信じておりません。

そして科学も絶対だとは思っておりません。

 

 

ちなみに、養老孟司氏はインタビューで「生きる意味」について問われたとき。

「生きているから仕方なく生きているんだ 生きる意味なんてことを考えるのは暇だからだ」

と仰っていました。

 

長々と書いてきて最後に「生」に意味がないと締めくくる。

そして、そんなことを一生懸命考えてる私は超暇人ということになります。

 

いや、考えたからこそ無意味であることに気づくのです!!