前回の続きです。
哲学的なものでは、精神と自由意志、それこそが人が人である所以としています。
人と猿の違いは「精神」にあるのです。
そもそも、精神と自由意志が無いことには、哲学的な論理が成り立たなくなってしまいます。
ところが、脳科学では「意識に現れる自由意志とは、幻想である」と結論しています。
基本的に人が自ら判断していると感じ、行動していることは、経験による反射でしかない。
これは実験によっても証明されています。
生きた人間の脳に直接電極を刺し、刺激を与えることによって、その人がどう感じたかを検証したのです。
その結果、脳はある行動を本人が決定する前に、すでに決定していることが分かりました。
脳の活動をモニタリングしている学者は、本人が意志決定する前に、次に何をするのかが分かるということです。
このとき本人には、次の行動を決定している意識は全くありません。
自分で決定したと意識する前に、既に脳が決定していることが証明されれば、それは自由意志ではないことの証明になります。
あれ、そうなると、一生懸命勉強して、考えて、「良い生き方とは?」なんてことを自問自答したとしても意味がないのでは??
だって、人の行動や言動は、本人の意志とは関係なく、脳が勝手に判断しちゃうんだから!!
確かにそうかもしれません。
でもね、哲学的なものと科学は、相反するようでいて、あることについては、同じことを言うこです。
「良い生き方」をするためには、「良い経験を積むこと」 その一点では一致しています。
人の言動や行動が反射だとしても、その反射をするためには、必ず何らかの根拠や原因が存在します。
その為、良い反射をするための、良い原因を作るため、質の高い知識を得ることが必須になるのです。
誰もが良いと推奨する書物を読み、良質な知識をインプットする。
多くの人とコミュニケーションをとり、決して他人を否定せず、大きな視野で世界を見る。
得た知識や経験を、誰かのために役立てることを意識する。
カント曰く、
道徳における絶対的な価値とは、人間性にある。
「私は人類、そしてすべての理性的な存在は、その都度の意志によって恣意的に使う為の単なる道具としてではなく、それ自体が究極目的として存在すると考える」
理性的な存在には尊厳があるとしています。
まぁ、カントの言うところは理想論に過ぎると感じなくもありません。
自由意志があることが前提になりますしね。
しかも言い方が難し過ぎる。
とりあえずは、自分にできる限りの努力を惜しまず、目標や理想を達成することや、結果が全てではないことを認識する。
そうすれば、少しずつでも、全ての人が必ず「良い生き方」に近づけるはずです。
でもね、ここにも落とし穴があります。
少しずつでも良い生き方に近づける とは言いながらも・・・
人は必ず理想と現実のギャップに苦しむのです。
それは何故???
では、次回に続く。