新たなステージへと
今日はよく晴れていましたね。
最近は6月なのに暑くて、北海道生まれにはかなり辛いです。
(まぁ、初めてではないのでいいですが・・・)
今日、ひとつ吹っ切れました。
いつの間にやら自分自身、閉じこもって追求し続けていたのですが、
最近、少し消化不良気味でした。
今は晴れやかです。
教育者から脱皮するかもしれません。
対話
前の日記からだいぶ離れていましたが、昨日面白いことがあったので日記書きますね。
私はつくばのほうに尊敬する先輩がいるのですが、
夜に電話がかかってきましていろいろとお話をしました。
お互いの近況だったり、周囲の様子など聞いたり、話したり。
そうする中で自分はこの道で生きていこうと、
自身の行こうとする方向は決して間違いじゃないんだという自信が生まれました。
だからこそ思い描いている未来を創るようにしようと思っているのです。
最近、なんか少し弱気になっている自分がいたことも確かで、
自信を失い始めていました。
大学時代の後輩から
「自信を持とうとすると人を見下しているような感じがするから、謙虚になろうとすると自信なくなる」
と言われて、
僕は自信と謙虚は相反するものではなくて、
その間に覚悟があるからこそこの2つが繋がり合うんだよ。
っと言っていたにも関わらず、
その本人がこんな状態であるということで微妙な気持ちになっていました。
しかし、話してみて僕が感じたこと
それは・・・
知っているものだからこそ人に伝える責任があるのであって
決してそこから逃げてはいけない
ということ。
これからの知識社会を生き抜く上での生き方について
一人の教育者としての責任を痛感したものでした。
人は繋がりあうこと、
お互いが感情をフラットにしあいながら、
対話することによってそこに新しい未来が出現する
私は決して上の立場ではなく、
お互いに学びあいながら世界をつくっていくのだ
自由と責任
自由ってなんでしょうか?
僕の知り合いにも自由が一番という方もたくさんいますが、
じゃあ、自由っていったいなんなのでしょう?
やりたいことがあるから今はフリーで、とか
会社に行くと責任が問われるから、とか
いろんな理由をもって自由を名乗る方々もいます。
(これらは僕の知り合いの方々の内容ですが・・・)
僕もかつて自分にはやりたい内容があるからという理由で仕事を辞めました。
しかし、そのあと待っていたのはなんとも言い難い不安と、
言葉では言い表せない焦燥感に襲われていました。
「本当にこれでよかったのだろうか?」
焦れば焦るほど、いろんなものも頭に入らず、
常に頭の中に残るのです。
それで眠れない夜も続きました。
P・ドラッカーの著書「明日を支配する者」にはこう書かれています。
”単に好きなことをするというだけでは、自由はもたらされない。気ままにすぎない”
そして、
”自らの果たすべき貢献とは何かという問いからスタートするとき、人は自由となる”
とあります。
僕自身も経験上ですが、責任や覚悟を持つからこそ自由であると感じています。
その責任に対して応えるからこそ、心の充足があるのです。
これはマズローの自己実現の欲求という内容になりますが。
(詳しくは長いのでここでは省略します)
そしてこの自己実現の欲求を満たすのは、一人ではなく、
期待する存在がいるからこそできることなんです。
僕もその仕事を果たしたときにたくさんの声に感化されました。
「ありがとう」
という言葉。
僕にとってどれだけのモチベーションになったか。
ですから今一度自由と責任について問正してみることこそが、
いまを生きる私たちが責任を持つことでないのかなって感じています。