昨日、
体罰容認、1割の闇 根絶徹底なお時間
という記事が朝日新聞に掲載されました。

『高校野球で、指導者の約1割がいまも「体罰は必要」と考えていることが明らかになった。上級生が下級生を殴るなどの部員間の暴力も絶えない。

「間違った考えの人が、まだそんなにいるのかと。時代の変化にあまりにも鈍感。ショックですね。そんな考えを持っている人がいなくなるまで、いい続けなければならない」
 大阪市西区の日本高校野球連盟。西岡宏堂・審議委員長は、問題の根の深さにため息交じりだった。』(引用終わり)


以前の記事 で、
部活動の歴史について少し書きましたが、
日本のスポーツのある部分は、まだまだ前時代的な状態なのだなあとしみじみ思います。

では、海外ではどうなのでしょう。
シゴキとか体罰は、日本特有のものなのでしょうか。

2013.1.29と、少し前の記事になりますが、
msn産経ニュースより。
海外からも意見 「前時代的な精神論」「手をあげるときは進退かける」

『イタリアで年金生活をしているという男性(76)は「運動能力向上は科学的知見で行っていくのが欧米の常であり、生徒を殴ればそれが達成されるなどという噴飯ものの考えはない」と指摘。「(サッカー日本代表監督の)ザッケローニ氏が選手をけとばしたり、殴ったりしているのか。運動の指導の品質という考えがあってしかるべきだ」と主張する。

ブラジル・リオデジャネイロで大学教員をしている女性も「海外でコーチや監督として成果を上げている人は、最新の科学的理論に基づいて結果を出している。前時代的な精神論で、体罰指導されても、アスリートとしても人間としても通用するような人は育ちません」と断じる。

フランスで20年にわたり教員をしている男性(50)は「教師人生のなかで手をあげたことが数回ある」と告白。「その際、生徒には『殴られたと親に言え』と言っています。進退をかけて手をあげるからです。生徒や保護者が納得できず、訴えれば私はおしまい。それでも必要だと思うから手をあげます」と記していた。』(引用終わり)


…『科学的』という言葉が出てきましたね。
感情的に手を上げる指導とは、全く対局にあります。
ただし、wikipediaには、「カナダでは父母と教員の体罰は合法という最高裁判決が存在する」という記述がありますので、日本だけが時代遅れという事でもなさそうです。

家庭や教育現場の指導において、罰や懲戒を与える事の根本には、宗教的理念や古くからの慣習がありますので、根絶には時間がかかるのだろうと思います。

そもそも、運動能力の向上を科学的に考える~スポーツ科学~という分野も、人類の歴史の上では、新しいものなのでしょうね。

で、スポーツって、そもそも何?

wikipediaによると、

sportsの語源 は、

『ラテン語のdeportareにさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」転じて「憂いを持ち去る」という語感、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感から、古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経て現在のsportに至ったと考えられる。』

とあります。


「荷を背負わず、遊び楽しむ」
のがスポーツなのです音譜


この語源を忘れずに…楽しむ事を忘れずに、指導していただけるといいですね!(‐^▽^‐)


幕末に欧米文化に触れるまで、日本には「スポーツ」に当たる概念はなかったそうです…

武道、柔術とか?だったのでしょうか。

武道とスポーツは別、との考え方もあるようですが…

「楽しむ」事は、大切な気がします。

決して、背負いきれない「荷」を担わないように…
子どもも、指導者も、保護者もですね。