第五章 市ヶ谷(5)
【 東條英機 】①
世田谷・用賀 東條邸跡地
東京裁判を象徴する存在をあげるとすれば、それは裁判長のウエップでもなく、主席検事のキーナンでもなく、ましてマッカーサーでもなく、間違いなく東條でしょう。
東條は尋問を受けるときから、あの戦争は「正当な自衛行動」だったという主張を貫いています。
尋問で東條はこう発言しています。
「日本は米英からの経済的、軍事的圧力で喉を締め付けられていた。そうした状態に置か れた国が反撃に出るのは当然だ」(前掲「スガモ尋問調書」108頁)
「経済封鎖は戦争そのものと比べてもひけをとらない敵対行為だった」(同112頁)
東條の判決を見てみましょう。
「1940年7月に、彼は陸軍大臣になつた。それ以後におけるかれの経歴の大部分は、日本の近隣諸國に対する侵略戦争を計画し、遂行するために、共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である。
というのは、これらの計画を立てたり、これらの戦争を行ったりするにあたつて、彼は首謀者の一人だつたからである。」
これは先に述べた「(イ) 平和に対する罪」の判定部分です。
日本の指導者によって満州事変から太平洋戦争に至るまで長期に亘りアジア諸国へ計画的に侵略していった、という検察側の主張が認定されているわけです。