第五章 市ヶ谷(5)
【 東條英機 】②
GHQ発禁第一号と言われる
東條英機宣誓供述書 原本
裁判というのは「何が真実か」を証明する場ではありません。
検察側は被告を有罪にするためのロジックを組み立てます。
被告側は無罪を勝ち取るためのロジックを組み立てます。
だから東條は責任の所在を含めて認めるところは認め、言われなき疑いに対してははっきり否定した、理路整然と反論した。
それ以上でもそれ以下でもないんですね。
東條の反論によって国民は溜飲を下げたと言われますが、東條は「戦争中日本軍が起こしたすべての行為は正しかった」とは言っていません。
起訴状にある勝者による勝者の一方的論理に真っ向から立ち向かった、東條の主張はその点にあるんですね。
東條の頭にあったのは開戦の責任よりもむしろ敗戦の責任です。だから「戦争責任我にあり」と言ったわけです。
東條が天皇の意思に忠実に従って戦争を避けようとしていたことは事実です。
開戦直前、アメリカのルーズベルト大統領から天皇に親書が届きます。
これが東郷外務大臣に手渡されるまで数時間遅れ、東郷外務大臣が天皇に奏上した時にはすでに帝国海軍の戦闘機は真珠湾の手前まで迫っていました。
東條は裁判の弁護人である清瀬一郎に
「もしあの電信が一日早く着いてゐたら、世界の歴史は異なった行途を辿ったらう」
と語り、日米交渉にあたった来栖三郎にも、
「米國大統領の陛下宛親電が今爾三日早かつたらと述懐」
しています。
さらに杉山参謀長同席で来栖に
「今度は如何にしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」
と話しています。(来栖三郎「泡沫の三十五年」文化書院 1948年 159頁)