強い雨が降っている。5月の日曜日、午後10時過ぎ。
 今はこんな天気を迎えているけれど、今日は豊かな1日を過ごした。この街に来て長い付き合いになる友人と、久しぶりに若い頃のような遊び方をした。友人が調べておいてくれたスイーツのお店でとびきり素敵なパフェを食べて、百貨店の化粧品売り場を歩いて、カラオケでお互いの歌を披露して、雰囲気のあるカフェで遅めのランチをとった。


 友人は私より前向きで、社会的な面で私よりしっかりものだけどおちゃめなところや甘え上手なかわいらしいところがある。お互いにほどよくリードしたり頼りながら、2人でいると空気が滑らかに進む気がする。私は性格的にかなり人に気を遣う。それは変わらないが、彼女といると私の些細なうっかりやぼんやりに鋭くも愛を込めてつっこみを入れてくれるものだから(普段はそういうところに人から気を遣われたり、またうっかりぼんやりのため取り残されたりするものだから)、私はとても助けられている。普段笑えない部分が、彼女といると明るい笑いに変わっていき、心が楽なのだ。大勢でいるときも、彼女のおかげで私の存在が取り残されない。それは彼女のおおきな優しさだ。
 

 だから、私も彼女に優しくしたいと思う。私は人に気を遣う一方で、心を開いた相手ではないと本当の優しさを見せないのだなと、彼女と長く付き合って気づいた。特に最近、友達付き合いも減ってきていたから、そんな自分が前はいたのかもしれないけれど、忘れていた。私はどこか損をしたような気持ちになることが多い。我ながらちょっとお人よしだと思う。だが彼女といると、私は損をしない。彼女は私から何も奪わない。損とか得とかをするわけではなくて、安心していられるということだ。
 
 こんなことは初めてだけど、今日はその友人とお揃いのリップを買った。この年にして女性2人でこんな買い物をしてなんだか楽しい。女の子に戻ったような気がした。女の子だった頃、そういう友達はいなかった。今何歳であってもいいのでは?今日のような遊びの日が自分の人生にあって嬉しい。
 

 こんな友人のいる街を、私は去ろうかどうか迷っている。というか、もうほとんど決まっていて、あとは時期を決めるだけだ。友人とはしばらく会わないことだってあるけれど、こんなふうに会える友人はどこの街にでもいるわけじゃない。年月も大きい。一緒に経験をした物事の内容も濃い。濃くて中身のある経験をした街と友人。それでも自分にとって大切なもう一つの場所。
 

 どうして私はここに来てしまったんだろう。しばらく、昔自分が選択したことを後悔する気持ちがあった。でもそこにもやっぱり、そう選択せざるを得なかった自分なりの理由や希望があった。
 

 人生がうまく運んでいないと思うとき、かつての自分の選択を悔しく思うことがある。でもそのときの自分はいつも精一杯だったはずだ。不完全であっても精一杯だった。それは、ほかの誰かが決めることでは、きっとないのだろう。だってほら、今どきってインターネットにいろんな正解が載っているでしょう。私はすぐ揺れるから、これでよかったのか、またこれからの選択がこれでよいのか、見ず知らずの人の言葉で心が揺れることがある。でも、自分の真実を自分で決めてゆく勝手さがあってもいいのかもしれない。そんなものは私が決めていいのかもしれない。教わらなくとも、向き合わずとも、自然とそうしている人、そんなことすら考えない人、私はそういう人たちのように健やかな思考でありたかったけど。深くまで降りてゆくこの手間も癖も私そのものだから。
 

 それで、今はここに来てしまって長い年月が経った。ずいぶんいろんな経験をした割に履歴書に書けるほうのことがないから今更悔やんでみたに違いない。そもそも、私はどんな世界を見ていたのか思い出して。今ここでこうしていることは、何も失敗ではない。もしくは失敗であってもまったく問題ない。じゃあ次はどうする?
 

 友人と過ごして、心が軽やかになるとともに自分のアイデンティティをどこに置くか再び考える。もしまた遠い土地で、なんでここに来ちゃったんだろうって後悔する日が来たとしよう。それでも多分私は大丈夫だ。今も大丈夫なように。
 

 私は未来をまだ決めていない。決めたとおりに進むかもわからない。一つ言えるのは、この友人に出逢わせてくれてありがとうということだ。私の人生にも大事な友人という存在がいる。故郷から遠い地で自分が行動して出逢った友人。奇跡のように思う。
 

 明日も天気予報は雨だ。雨の憂鬱さをのぞけば、まずはこの一週間への力に満ちている。身近なところを確認して。遠方も忘れずに。日々心を内に外に向けてゆく。友人がそこにいるだけで、私は現実を生きているという確かさを感じられる。