5月31日(6月11日報道)付けで、再審請求が受理された。

この事件に関心がないかネットを見ていなければ、死刑囚は100%の黒。けれども、ネットを見れば、どこもかしこも「冤罪、冤罪」の大合唱だ。

 

いつ、どのような方法で何の目的で事を為したのか物証もなければ解明もされていない。本人も否認し続けているので、無実の可能性は残る。有罪を断定し死刑を執行するのはためらわれる。事件の経緯を少しでも知れば、たいていの人がそんな感想を持つことだろう。

 

収監されている死刑囚は、科捜研以外の鑑定結果を引き合いに己の無罪を訴え、刑を執行することは国家による殺人であると訴え続けている。

だが、普通のエゴであれば、真犯人を憎み、それを探し特定することを終始求めやしないか。という疑問が生じた。

警察、刑事、検事、裁判官、ひいては国家全体への恨みつらみもあろうが、自分をこんな目に遭わせたのは、まずもって真犯人である。それが毒物を混入させていなければ、自分が疑獄に陥ることもなかった。拘束された不自由な人生を長い間送ることもなかった。そんな思いが湧いてこないだろうか。

国家権力への恨みの前に、まずもって真犯人とそれのやった事によって多大な被害が生じ、人々に苦しみと深い悲しみを与えたことに怒りを覚えやしないか。自分自身が無実の咎で生死をさまよっていることへの怒りが起こらないのか。

真犯人の特定を訴えないのはなぜか? この点が私には非常に疑問に思えるところだ。外野から見ていて生じる感情を押しやり国家への恨みと非難が先に立つ。裁判とは、人をしてそんな風に思わせるものなのか、わからない。

 

ある観相学者によれば、死刑囚の顔は100%白であるそうだ。つまりあの顔の者ならあの事件は起こさないとしているのである。

けれども、であるからこそ詐欺が何回も成功しているとも言えるのではないか。人が疑いをかけない顔と表情をしているから信用されるのだ。

したがって、ある観相学で白であるのは反転して黒にもなりうるというわけだ。「日頃、外面のいい奴こそ信じられない」とは、世知辛い世を生きて来た者の世知であろうが、確かにどんな外面を形成すれば世間を功利的に渡っていけるのか体得している者もそれなりにいる。たいして深入りしない通常の人間関係や商売においては、よほど大きな損失を与えそうでない限り、外面の取り繕いで十分であろう。

けれども、外面の良いと思えた者を頭から疑ってかかるのは、表面だけで決めつけているだけかもしれない。いや、疑いの心が相手の表面を良く見せたのかもしれない。そして、そんな世の中だから自分もやる、とアコギなことを正当化し、外面を良くしてその裏で自分に有利に働くよう誘導する心が渦巻いているからこそ、外面の良い者を不当に疑う癖があるのかもしれない。

「人を見たら泥棒と思え」の箴言のごとく、世の中には常に他人を疑ってかかり、いつ悪さをするかと待ち構えるような人がある。こうした人を観察すると、彼らは常に後ろ暗いことばかり企て、言い訳を考えながら実行し、そうでなくても己自身の存在に罪悪感を抱いている。

100%の白の反転は黒でもある、とはそうした盲目的な決めつけでなく、白は別のことでは黒ともなりうることを言っているのである。

信用するのは言葉ではない。言動から信念を読み取り、意図を見抜くのである。観るのは顔だけではない。言動から信念を読み取り、意図を見抜くのである。私は他者に対してだけでなく自分自身に対してもそうしている。その人が何をなさんとしているのか。それに注目する。人は誰でもその人の霊的レベルに応じたことを実現しようとしているので、霊的レベルがどの程度なのかを精確に見極めるよう努めている。

 

今わの際に、この期に及んでは己の身の潔白を示そうとするだけでなく、真の犯人を見つけてもらうのが最も確実である。全くの無実で、何もかばうこともなければ、人々に第一に伝えたくなるのは、真犯人の発見ではないだろうか。たとえ、我が身可愛さで自己擁護していると嘲り笑われてもだ。

それが彼女の主張に占める割合が低いように思えるのである。声や手紙など見ても、ほとんどなされていないようだ。

「国家による殺人」などと弁護士の扇動のようなことを繰り返している。また、家族との間を割かれた悲しみと悔しさ(は誰しもそうなるだろうが、それ)を切々と語り情に訴えようとしているようにも思える。

 

裁判の取り回し方にしても、黙秘や冤罪の訴え、再審請求などは、土俵際で生き残るための最善策を模索しているようにも思える。

なぜ、無実の罪を晴らすために、自分自身についての調査をもっと正確に行なわせると同時に、ストレートに「真犯人発見」を訴えないのか。

国家の批判をしている場合なのか? いくら恨みがあったとしても。

裁判というプロセスは、真犯人への憎しみや被害に遭った方々への哀悼を超えて国家への恨みになってしまうものなのか。

 

手紙や発言を見返すと、自分が家族と引き離され幸せな人生を送ることができなかったことを恨む気持ちはなんども繰り返されているけれども、それと共に、事件で苦しい目にあったり後遺症が残ったり亡くなられたりした方々の気持ちを思うと犯人が許せない、といった感情が出てこないのは情性に乏しいのだろうかと思わないでもない。他に犯人がいるのを確信しているなら、(たとえ偽善に映っても)当たり前にそう思うはずではないか。

司法における弁護士の駆け引きや手練手管が黙秘・物証の不備・再鑑定・冤罪の訴え・再審請求・家族への思いだったとしても、それを超えて真犯人への怒りとそれの発見を希求したくなるのが、自然なことに思える。皆さん、どうだろうか。

さらに死刑囚は、「現在の家族の話」を聞きたがらないと報告されている。そこには複雑な心理があるのかもしれないが、手紙ではかつての家族との思い出話を繰り返し今の境遇を抜け出したい様が書かれているのとは裏腹である。

 

今後、審議が再開されれば、死刑執行は先送りにされるのだろう。

冤罪が確定する逆転勝利をおさめるかもしれないし、逆に死刑囚が犯人であると決定的な証拠が出てくるかもしれない。有利などころか不利な物証が出てくる可能性もある。それでも延命のためには、あるいは真実を解明するためには、再審請求をしておくしかなかった。しかし受理された今、解き明かすべきことを解き明かしてもらいたい。

 

再審は決まったがその準備や公判の最中に被告は病死するかもしれない。そうなれば、事件の真相はうやむやのまま葬り去られることになる。冤罪だったかもしれないという匂いを残して当事者がこの世を去ってしまうのだ。

世の中には、真相解明でなく、冤罪を嗜好する人がいる。警察や権力が悪と決めつけ嫌悪している人々と死刑廃止を訴える人々だ。それらにとって、冤罪の可能性を持って死ぬのは最善の結末であるかもしれない。

また、加害者とされた人の家族にとっては、無罪だったかもしれない可能性を残しておくことは、人々の目を変え、人生の不利益を減らすことになるだろう。もちろん、本当に無実であるかもしれないのだ。

だが、そうでない者にとっては明確にできることは明確にしてもらいたいと願う。紛れもない犯人なのか、別に犯人がいるのか。曖昧なまま死刑を執行するなら、冤罪が誰の身にも降りかかることとして多くの国民が国家に対する恐れと不信感を持つのに違いない。

 

この事件の動機は、突発的な怒りや恨みとなっているか、もしくは動機が不明となっている。だが、私には用意周到な計画的犯行に観える。

本人も「金にならないことはしない」と言い、それに同調する人も多いが、人間とは、そんなに一貫した行動ばかり取るのだろうか。

解りやすく分別して表現するなら、理性でやっていることと魂でやっていることは異なる場合があるのではないかと思うのだ。

 

数年、数十年に渡って心の中で育まれ醸造されていった暗闇が抱えきれなくなって物理世界の現実に表現された。私はそのように観ている。すなわち、ヒ素の危険性を熟知しない者のイタズラではないと思うのだ。

どんな時代にどんな家庭に生まれようが、自分に起きてきたことを糧として感謝し霊的進化を目論むことは可能である。だが、自分は不幸だと定義し他者を恨み、自分は世の中や時代の犠牲者だ、何事につけても被害者だと見なし、またそれ故の優越感を募らせていったとしたら。

金への執着は自分への愛の欠乏を埋め合わせようとするための行為かもしれない。埋めても埋めても埋まらない欠如感。けれども巨額のカネを得たことによって自意識は肥大化し、自分のやることが正しい法であると錯覚した暴君のような気分になっていたとしたら。そして幼少期あるいは前生から受け継いだ思考パターンによって増殖してきた闇がますます増大していったとしたら。

 

事件から受ける印象はそのまま犯人が抱き続けてきたネガティブな想念ではないかと思う。あの事件から素直に愉快な印象を受ける者はあるまい。苦しみもがき、吐き、失神し、悶え、息絶える・・・。後遺症に悩んでは恨み、憎しみ、怨念、怨恨、怨嗟などが湧き上がる、そうした念を被害を受けた方々が感じたとしたら、あるいは事件を知って人々の印象がそんな感情であったとしたら、それが犯人によって発露、表現されたのだと思うのだ。

犯行に及んだ者は、凄惨な地獄絵図そのままの想いを長年してきたのではないか。通常の顔では計り知れぬ内面の葛藤がとうとう外側の世界に形成された。積年の思いがついにある時、発露された。周辺住民との齟齬が引き金を引いた。たまりにたまったマイナスのエネルギーが物理的な形を持ったのである。

内に秘めた陰惨な想いを押しやろうと明るく振舞おうとしてするから、表面からは気の置けない気さくな人だという印象を受ける。表向き明るく明るくアッケラカンと気丈に振る舞うのはむしろ激しい被害者意識を封じ込めようとする心理だったかもしれないのだ。そうやって己の暗さから眼をそらし、やっつけようとするから、ますます増大していく。

肥大して内に抱え込むことのできなくなりそうなネガティブエネルギーは、住民の親睦をはかる夏祭りをぶち壊してやろうと案を練る。疑われないよう行動計画を立てそれに沿って実行した。

逮捕され死刑判決を受けた者がそうであった、と断定はしない。それこそ私的な濡れ衣を着せることであるかもしれない。(そんなことをすれば私自身が確実にそれ相応の結果を得ることになる)だが事件の様相は、咄嗟の思いつきや行き当たりばったりのイタズラどころか、明確な意図を持ってなされたことであると思う。絶対に見つからない自信があった。見つかっても逃げ延びる公算もあった。私にはそのように観じられた。(おそらくこんな見立てをしている者は他にいないのではないか)実行犯を別に知っているので、自信を持って無実を主張できるとタカをくくっているようにも思える。確かに実際に混入させた者はそれが何か知らずにやったかもしれない。その場合でも、一連の行動の意図はやはり死刑囚にあった。

 

このことを少し詳しく説明しておく。たとえば、酒を飲んで嫁さんに当り散らしてり包丁を持って追いかけたりする男がいる。私がその行為を嘲笑ったとしよう。男は私を殺して二度と笑えないようにするか⇔もっと自暴自棄になるか。それとも、自分の心の闇を直視して上昇に転じるか、の3つの選択肢がある。つまり、心の中で闇を育てていくか光を育てていくかである。霊的な上昇を成し、うまい酒を飲むようになり周囲を明るくするようになった男を尚も私が嘲笑うなら、それは私の妬みや劣等感の発露に限定される、ということである。

自分を笑った者を全て抹殺してもキリがないだろう。自分以外の者を全滅させて残るのは、己自身の再生産し続けている闇によって悶え苦しむ際限なき自己である。深刻な闇は、その前に肉体に不調を生じさせ、重篤な疾患を創り出すだろう。

スポーツや格闘技で自己ベストを出すのも、長年心の中で育んできたプラスの想いの発露なのである。こちらは「本懐を遂げる」といった言葉で表されるものだ。戦前であれば、長年成長させてきた愛国の想いを命を賭して表現することもあったろう。

どちらの努力をしていくか。苦しい徒労か、創意工夫か。暗い自己を肥大させていくか明るい自分を培っていくか。

犯罪と認められる行為は、大抵が暗い自己を増大させてきたプロセスの一部であると思う。心の中で人知れず育成してきた暗黒の闇である。否定的な自己を増幅させてきた人がある時、抱えきれなくなり重大な犯罪もしくは刑事事件を起こすのではないか。

 

死刑囚となった者が最終的に置かれた立場が、一縷の望みを持ちながら生死のラインを手練手管で生き延びているという状態である。いつ殺されるか知れないという恐怖におののきながら過ごす時間である。これは、前世あるいは幼少期から長年繰り返してきたことかもしれない。

もし己の思考パターン(カルマ)を打破し、違った現実を創り出して経験するには、正攻法でいくべきと思う。すなわち、この場合ストレートに真犯人の発見を希望するということだ。被害に遭われた方々を悼み、己の不徳を認め、自分の生い立ちに生じてきたことの一つ一つを洗い直し、それから何を学びえたかを再検討するべきであろうと思う。己の心にある邪悪さと崇高さを認め、どこを選んで生きていけば、一時的でなく、心底切望している永続した豊かさと幸せに満ち満ちて生きていけるのか。誰しもまずこれを自分自身のためにやって頂きたいと思う。刑が執行されるにしろ無罪放免になるにしろ、生きている間こそそれに取り組む貴重な機会であると思う。でなければ、次の生に持ち越し、同じ境遇や状況を創り出すことになる。

 

裁判が間違っていたのかそれとも本当に冤罪なのか、はっきりさせるためにあるいは犠牲となられた方々の未練を晴らし遺族の方々の心を安くし怒りの矛先を向けるべき相手に向けるためにも、この事件の再審には、ぜひとも「真犯人の特定」を中心に進めて頂きたいと思う

もし、真犯人がいるとすれば、あの世に逝かれた犠牲者の方には分かっているはずだから、きっと死刑囚を応援することと思う。思わぬ物証が現われ、寸でのところで逆転無罪となるのではないか。そして本当に刑を受けるべき者が受け、償うことになる。

もし死刑囚が無実で他に犯人がいるなら、事件で亡くなった方々の御霊があの一家をサポートし、収監されている当人だけでなく子や孫、親類縁者に至るまでが幸福な人生が起きるよう尽力するものと思う。真犯人がこのまま逃げ切れることなどありえない。どこに隠れていようが、物理次元に発露し形成した甚大なネガティブエネルギーに見合った結果を受け取るものと思う。当人が霊的に成長しない限りそれから免れることは難しい。次々に不幸や災難を引き込み、創り出す。その場合、審議再開を取り下げるかもしれない。

 

事件当事者しか解らぬこともあり、被害に遭われた方々も多数いらっしゃるので、横から安易な憶測を挟むのは憚られるし、「冤罪」の機運が高まっている中、逆行するようなことを述べるのはそれなりの覚悟は要する。しかし法をめぐった国家権力と個人の権利の押し引きや死刑制度、冤罪について日本国民の一人として意見を持つことは集合意識や世論を作っていく上で重要なことと思い、投稿することにした。

再審は受理されたが、今後どう展開していくかは未知数である。

私の見立てに反して、真犯人が「あれはわたしがやったことです」と名乗りをあげてこないとも限らない。家族や知人ではない全く無関係の者が「ほんのイタズラ心でやりました」と。その場合、私の洞察力や眼力がたかがそんなものだと知れるというものだ。死刑囚には大変失礼で侮辱的な見立てをしていたことになる。私はガラクタ評論家だと罵られて当然だ。名誉毀損で訴えられてもやむをえない。

また、私の見立てが本質や核心を見抜くものでなく、安直な非難や裁断などネガティブなエネルギーを発しているものなら、私自身にそれが降り戻ってくることを希求する。(それによって私がさらに奥底の核心を見極める眼を獲得することをもって精算される)