変異株が出たと大騒ぎしているようである。

どんなものであっても弱々しいものだ。ただ、ハードルは人類が自ら上げた。

しかし霊格を高めることで感染しない。無視できるウイルスになるだろうし、そうした方が賢明だ。人類の霊格が上がることで社会システムや生活習慣が変わる。すなわち程度が上がるのだ。個々人に耐性がつくだけでなく、病原菌を発生させ蔓延させる社会機構がなくなる。

ワクチンを打つために病原菌の発生を待ち望み、あるいは捏造まですることはなくなるだろう。隠れた意図も明らかになり、また消えていくだろう。

あんな弱々しい菌が増えて病原性を発揮するほど弱体化してどうする。魂を高度化し精神を強靭にし、肉体を健康にしていれば病原ウイルスとは相容れないはずだ。

体内に免疫機構を高めるのに寄与する菌がバランスよくいることで増殖を阻止する。

 

ここはオミクロン株が出た時期に書かれた部分だ」

 

 

補足しておくけれども、苦しみにも程度の差があり、またおのおののレベルに応じた快楽がある。

だが、あらゆる苦しみの感覚は6次元領域に入ってしまえばなくなるように思う。(今はそう思うがまた新たなことが分かったら報告する)人間の霊格は一定ではなく、株のろうそくチャートのように上がり下がりしているのだが、その値が4次元帯域に足の先がかかっている時には、苦しみは若干残る。どっぷりと4次元領域に浸かっている時には苦しみが快楽のうようになっているのだが、それが自覚できないでいる場合も多いのではないか。その快楽を求めて、苦しみを再発させている。

進化の途中にも苦しいと感じるときがある。だがそれは、産みの苦しみ、喜びのたぐいだ。

苦しむことは善だ、と信じ込み、苦しむために苦しむ人があるが、それでは霊的進化はしない。堂々巡りの状態だ。自分が進化したかの解りやすい指標が健康状態である。病症がどんなふうに出ているのか、再発しているかどうか。

苦しみにも程度の差があるようだが、6次元領域にすっぽりと入ってしまえば、数値で言えば恐らく最低値が540を超えてくると(600を推奨。そこがいわゆる『悟り』の領域の始まりである)、苦しいという感覚はどんな程度のものでもなくなるように思う。また、病気や病症に無縁となるのではないか。それまでより一層、肉体を丁寧に扱うようになるし、精神にも細心の注意をする。自分が何をどう考え、何をどう食べるかを常に自覚し、外に向かって何を発しているかを俯瞰の視点から公平中立にチェックしている。

ただそこに、まだよく分からない事があり、手をつけていない状態でいるだけで、苦しいとは感じない。苦しみから逃れようとして責任転嫁したり言い訳したり、なすりつけたりなど余計なこともしない。取り組むか、取り組まないか。取り組むなら最善の方法に至る。ただそれだけになる。だれもがその状態を経験したことがあるだろう。時々、または無自覚に。

よく観る。本質をつかむ。試行錯誤する。創造的に解法を見い出す。それを意識的に行なうようになっていくそれが進化というものだ。物に対しても、出来事に対しても、人物や社会に対しても。困難に思えることは最高に愉快な問題に思える。解くための課題を与えられた、と。おそらく、万人誰しも、自分で自分に問題を提示しているのだ。高次の自分がこの次元にいる我さえも大きく引き上げるように、贈り物をしてくれているのだ。わたしにはそう思える。

今来た問題が、わたしも明確にどの次元あたりからのプレゼントか分からないときもある。だが、おそらく今のわたしをさらに進化させるのに最適なことにちがいないと思う。

 

 

あらためて念を押しておくけれども、このシリーズにおいて病気をしないのが正しいとか善いと言っているのではないので、そこを履き違えないで頂きたい。地獄にしてもそう。いわゆる『人間的』なこと『この世的』なことを追求し極めていけば、地獄を創り出していくだけのことで、このブログではそういうのが好みでない、もう終わりにする、飽きたという人に書いているのである。でないなら、病気も挫折も思う存分体験すればいいのではないかと思っている。

ミロクを達成した『人間』として生きると自由自在だし、望むことも物も機会も創り出され、運が好く健やかで幸せに生きてけますよ、そこに来ませんか? というお誘いであって、義務でもなければ強制でもない。

ミロクを達成した『人間』は仏教的に言えば、天上であり四聖の領域にあるのだろうが、肉体とエゴと魂(感情)を持ちながら、それに引きずられることなく楽々と生きていけるのではないかと思う。言い換えれば、最も人間を楽しむ境地である。

わたしが健康について書いているとそれを盗み読みした連中が「健康第一」だの「健康が何より優先」みたいな、ありきたりの言葉に当てはめて言い返してきたが、わたしはそんな程度のことを伝えているのではない。

これこれこのような自分を実現したい、達成したいとやっていれば、その副産物のように病症が現れることもある。たとえば「なにがなんでも男である自分が稼いでママコ喰わせなければならん」といった信念を持っているとする。もうすこし緩く考えれば「収入の窓口はいくらでもあるのだから、時期によって入って来るところから入ってくればいい」と思えるかもしれない。それを遮二無二、男が、と気を張り頑固になり、無理して我慢して頑張るからたいていは癌のお世話になるかもしれない。(毒を内製したのだ)

暖冬にたまねぎの、冷夏にトマトの豊作を願うようなもので、暖冬の時にはその気候に適した作物を、冷夏の時にはそれでよく育つ作物を重点的に育てればいいだけのことなのに、いつもいつも、大根なら大根に、キャベツならキャベツにこだわれば、それは無理をするというものだ。また、本業が冷え込んでいる時には副業で、男に収入の乏しい時は女房から、あるいは子供たちから入って来ればいいとするのは臨機応変で気楽な考えだ。

矜持は大事なことだと思う。男の沽券にこだわるのは、プライド病であろう。しかしそうした『男』を実現したいなら、それはやらなければ気が済まないだろうし、やった方がいい。この世とはそのためにあるのだから。あなたが『日本のために戦う男』なら、内臓を病むだけでなく脳いっ血の一回や二回体験するかもしれない。もしあなたが『何を捨ててでも子供を養う母親』なら、若くして法令線が刻まれても白髪になっても、子供を愛し慈しんで育てるだろう。病気を怖がって、こちんまり過ごすことはない。

であるので、どうしても実現したい己があるなら、病気をしようが怪我をしようがやり遂げていいのではないか。病症が己が何者かを色濃く鮮明にしてくれるだろう。それが自覚できているなら、実現できている自分にあるいは神に、周囲に感謝と喜びを感じるかもしれない。

病気が怖いからやめておこう、などと臆病になることはない。サイコパスがごとくに突き進んで頂きたい。時速300キロで走る二輪のレーサーはいつ死んでも本命であろうし、既知外の醜聞を掻き立てられる映画スターは本懐であろう。ベストセラーを出した時、あることないこと書き立てられ村上春樹は円形脱毛症になったそうだ。

世間の批判を、親の反対を気にして諦める必要もないのだし、そうしたなら、それまでのこと、そうした自分を実現したのだし、する意思があったということだ。

そんな自分を健康を害してまで実現する必要があるのか、問うべきところはそこだ。病気や怪我もかえりみず実現するに値する自分なのか? 

どうしてもやり遂げなければ気が済まないことがないなら、健康、より高度な健康を実現していくのは、ひとつのテーマではないか。わたしはそう思うのだ。

我慢して頑張って、いやいやながらそれをやる。だから我を通す。そういう自分は本当に望むことだったのか? そんな在り方をしている方が、志も遂げられない上につまらない病苦にさいなまれるのではないか。

イイヒトで居ようとするとストレスが溜まる。溜まったストレスが肉体にわるさする。ストレスを溜めてでもイイヒトであるのを選ぶのか、多少摩擦は起きても健康な自分を選ぶのか。あるいはもっと調和的にやり過ごすのか。どれも尊い経験だ。

ここで明かしていることは、健康第一主義ではない。なにを伝えているかは地味に読み取って頂きたい。

 

 

このページ内で更新します」

 

 

 

霊格を数字や概念で表す、こうしたやり方は、人々がすぐに誤解するので、宇宙人は取らない方法だ。

またブッダは、以心伝心を信頼しダルマを説くのみに徹した。

だが、ネガティブな領域や低次元の在り方の創りだしている現実や世界を知らないことには、ポジティブで高次元の在り方に移行しようとも、それが自分自身だとも思えないのではないかと思い、あえてやることにした。

とうぜん、「お前がそうなんだろ」という横槍はあるだろう。

わたしは、低次元のことを『本当の自分』には認定していないが、わたしの中に全てがあるのを知っている。

いま、光度を調節できるライトを持っていて、500ルーメンで照らしていても、0から無限の光度があるのは知っている。500ルーメン以下の光度が劣っているのでもなければ間違っているのではない。そこで照らし出されうることが異なるだけで光そのものに善悪や優劣があるわけではない。目的によって適切か、どのくらい機能的かが異なるのみである。

 

ところが理性の強い人は、すぐに優劣や善悪をつけたがる。ちがう。グラデーションがあるだけだ。悟りにもエゴにも二つに分けてそのどちらかを『善』、他方を『悪』、あるいは『優』/『劣』を決め付けるのではない。その光度に見合う現実が創造されているのみである。

だが、いわゆる『悟り』(=覚醒)も『大我』(=超エゴ・自己)は600を過ぎたあたりから、そのような特徴を際立たせ、創り出される現実もそれに見あったものとなるだろう。

600を過ぎれば、我欲肉欲は意志に代わり、自我は大我(神の領域に入る)となる。しかしこのラインはだいたいの目安と考えて頂きたい。これより上だから善い優れている、下だから悪い劣っていると切らないことだ。劣っている⇨馬鹿にする⇨あざけり笑う⇨攻撃する⇨滅ぼそうとする。こうしてどんどん下に下に下がっていくのである。

おのおの霊格で創り出す現実や結果が異なる、ということをしっかりと踏まえた上で霊格の数値や概念を捉えて頂きたい。たとえわたしがこのブログで2元論的に記述していたとしても、賢明なるみなさんには読み替えて頂きたいと思います。

威張ったり他人をけなしたり、嘆いたり卑下したり、心配したり、気忙しかったり、悩んだり迷ったり葛藤したり、恨んだり呪ったり、・・・・

そういうのは横道であり、いわゆる「愚痴」と呼ばれているものだ。悟り度が高くなればなるほど、横道に入らないし、入ってもすぐに戻るようになる。その内、入った結果がどうなるか覚り、入らなくなる。盲目度が高ければ高いほど、余計な所に逸れていき、しつこくこだわり続ける。それは人間の人間以下の遊びに思える。

 

 

先ずは、あいさつについて

 

日本で親が子供にまっさきに教えるのは、あいさつではないか。

「こんにちは、赤ちゃん、私がママよ」

小学校や中学校で、躾のひとつとして徹底されることでもある。武道でもビジネスでも、これができなければ、基礎ができたとは見なされない。

「おら、あいさつせんか!」

と校門前で指導するのもどうかと思うが、そうしたくなるほど『人間』が少ないのだろう。

 

バシャールが伝えるには、宇宙でもあいさつが返ってくるか否かで、相手が知的生命体かどうかを見極めるのだそうだ。たしかに、犬猫、鶏、牛馬などにあいさつしても、黙っている。

以前、中国人の子供を預かったことがあるが、彼らはあいさつしない、また「頂きます」「ごちそうさま」も言わない。そうした習慣がないどころか、やる意義をおぼえないようだ。だから、やらない。他国の文化を尊重しろといったむきもあるが、程度の低いことは程度の低いことだ。

日本ではどんなドラマや映画でも、食事の前には「いただきます」と言うシーンが映し出される。ヨーロッパの映画でもたいていは祈りが捧げられている。そうするのがリアリティがあるからだ。ところが支那や朝鮮ではよほど特別な思想や宗教にかぶれていないかぎり、やらない。家長の者が命令したあとに、いきなり食い始める。知っている誰かに出会っても「メシ食った?」とか「クソしたか?」というのがあいさつらしい。

 

わたくしごとからエピソードを取って申し訳ないが、6年前に畑つきの平屋があったので、移り住むことにした。

結論から言えば、そこは完全なる事故物件だった。イノシシ・タヌキ・むじななどの野生獣やアオダイショウや2メートル級の大蛇やヤマカガシなどの毒ヘビ、ムカデ、ゲジゲジなどがウロチョロしているのは仕方ないとしても(というか好ましいのだが)幽霊が出る上に金縛りが頻発し、大家が守銭奴で家賃詐欺を働き、さらに汲み取り便所のタンクが破損しているのか、終始、便所臭が床下から湧き上がり部屋や玄関に漂っているという日常だ。

そこまでは諦めもできた。ところが、隣人とその親戚が覗き魔、色魔、言いふらし魔で、なんでも他人のせいにし、政治には利益誘導しか求めない業突く張りだった。村人が彼らに服従し、まるで黴菌の媒介者のように噂をばらまいて回るのだからたまったものではない。隣人の教え回ったわたしのブログを皆がこたつに入って覗き読みしている衆人環視の有様で、自己顕示欲に乏しいわたしは辟易した。

さらには、親戚の中で町会議員を回し、「村八分」を発動できる権限を持っていた。バイトの名目で村人から搾取し、わたしにはタダ働きさせるゲスな守銭奴だった。そのくせ「幽霊が出るなどと言われたら、地価が下がって損をするなど」怒りまくっていたのである。どこからどう観ても、360度事故物件に相違ないのであるが、この隣人のあるじこそ事故物件確定要因であった。この者の存在自体が地価を下げているのに気がつかない。自分はいつでも正しく度外視されているのだ。

 

これを盗み読んだあるじは、

「ひとんせいにしたらいかんち言いよるくせに、ひとのせいにしよっぢぇ」

と言っただろうが、わたしが「あいつのせいで家が暗くなった」とか「不幸になった」と嘆き訴えたなら、その観察は正しい。だが、『事故物件』というのは不動産がらみの定義である。わたしたちが気にしなくても、世間一般にはこれらの条件が付くと報告義務があるし格安になるのである。つまり、厭がる人が多いということだ。『隣にヤバイ奴がいる』など最も物件の評価を下げる項目だ。他人のせいにしているのでなく、客観的な評価にすぎない。(私ども家族は、たまたま隣に養豚場があったことから高次元のことを学ぶことができたと『感謝』しているのであるが、そう表明するのが浅はかな修羅畜生の間では「当てこすり」「皮肉」「嫌味」とされる最も攻撃的な物言いとなるようなので言わないだけだ)

現に、この町の人口が約二十年前の2万人をピークに下がり続けたのは、ーーその間に、体育館だのホールだの運動競技場だの作り移住を推進してきたのに、一向に増える気配を見せないのは、土着民の知能の低さとあらぬ噂をばら撒いて回る風習によるのである。葬式惣があるとか苦役があるとか、それは許容できても、ゲスな下ネタを回してデヘデヘ喜んでいるのには、高学歴でハイソな人々には耐えられない。

 

当然のごとく、この者たちはあいさつをしない。「おはようございます」と言っても黙っている。「こんにちは」と言っても返事がない。隣人のあるじで町会議員をやっている従兄に至っては、黙ってうちの玄関を開けパンフレットを差し出す始末。いくらここが彼らがかつて出入りしていた親戚の家であったとしても、礼儀を失しすぎではないか。

おとなの付き合いでは、基本を越えることもあるので、どんな相手にでも、いつでもあいさつするべきかというとそうでもない。しかし、特に込み入った人間関係でもなく、手の離せない作業をしている最中でもないのに、あいさつしてあいさつを返さないというのは、おそらくあいさつの習慣がないものと思われた。その重要性に気がついていないのだ。できない時点で、人間社会においては、相当のディスアドバンテージである。都市部のまともな企業間の取引、あるいは個人間であってもまともな者が相手なら敬遠される。

しかもこの者は地元の権勢者であり、地主であり、農協のセンセーをやっていた。

卑屈なまでに威張り腐った輩か、おそらくは支那人の系譜なのだろうと思った。霊格の低い彼らには、あいさつは重要でないどころか、かえって邪魔なのだ。へたに親密になれば、悪事を働けなくなる。また、周囲より上で優位に立っているといったプライドがそうさせているのかもしれない。

それで、親は子供が生まれた時、あいさつ代わりに、どんなふうに上手く立ち回って世間の富をせしめるかを言って聞かせるのだろう。大学は学問をするところでなく、より条件の良い職にありついたり、社会的地位を確保したり、無学の者に威張るために行くところであり、商売は社会を便利にしたり人々を楽しませたりするのでなく、いかに上手に他人のカネを騙し取るものかと教えるのだろう。

ある時、5年くらい前に

宇宙では、あいさつが返ってこないと知覚ある生命体として認められないようだ

と書いていたら案の定、盗み読みし言い触れ回った模様で、それから後は会う者会う者そこれらじゅうの村人全員がわたしを見ると、思い出したかのように挨拶してくる。わたしをみとめるとピッと頭に電光が走り、機械的にあいさつをするのが解る。言われたからやっている。よいひとに見られたいからやっている。しぶしぶ相手に合わせている。そんな甘ったるい想念が来て気持ち悪い。

覗き読みしている上に痛いところを突かれ、悔しさと憎々しさで言い触れ回る。

「あさつせんといかんげなバイ」

ただ、音だけ真似するのなら、オームでも九官鳥でもできるではないか。

どうせこの村の風習に倣っていつか挨拶しなくなる時がくるかもしれないからと初めからあいさつしないのか。そこまで用意周到であれば修羅も極まっている。

ただ、少なくともこちらが他意のない挨拶をしているのに返さないとなれば、知性をうたがう。畜生なのではないかと思う、と言っているのである。犬が犬であり、豚が豚なのは別段、悪いことでもないではないか。なぜ、急に人間ぶるか。

 

この村の入り口には奇しくも『あいさつは、人と人との愛の声』という標語が大きく書いて掲げられている。

 

さらには自然農をやっているとかいう就農奨励金狙いの左翼移住者、又吉のあいさつについて疑問を呈すれば、前にあるじとその従兄の挨拶について書いたのが癪に障ったのもあって、さっそく陰口を叩き合い、

「挨拶したかっちゃろ」

「そげん言うなら、自分はちゃんとでくっちゃろ」

「なら、やらせろや」

とばかりに場違いなところでいきなり挨拶させた。親切を装い、見せしめにしようとしたのだろう。悔しいからやり返しているのである。やられてもいないことをだ。こんな態度はマイナスの徳を積んでいるのである。いつも自分が「あげんた、だっでんでくっ。おっでんでくっ」と、できる、知っているをアピールしているので、他の人も全員そうしたいのだろうと思うのかね。

又吉がどんなあいさつをしたか、ここで記しておいてやろう。アスパラガスを栽培していた農家の方が亡くなったので、ビニールハウスを又吉が譲り受けることになった。その移転作業に村人の有志が集められた。うながされた又吉が前に出た。

「きょうは朝早くからお集まり頂きまして申し訳ありません」とはいわず「え、あ、え、あの」とどもりながら、やっと発した言葉が「相手の気が変わらない内にもらっておかないとーー」

東京で10年サラリーマンをやっていたそうだ。首をかしげたくなる。三十過ぎて妻も子もある身分だ。しかも作業中の態度が横柄きわまりなかったが、そのことはここでは省くことにする。こいつは、幼稚さがこうじた弱者擁護が過ぎてアスペルガーになったつもりの者であり、アスペルガーではない。

あいさつしないのが畜生。それを指摘されて悔しいから仕返しするのが修羅。人間未満の養豚場が隣にある家は紛れもなく事故物件である。

 

養豚場のあるじの流した噂が村じゅうを巡る。

「アイサツせんとなんか言わるっげなバイ」

「そげん言うならいかんね」

 

「アイサツせんといかんげなバイ」

「ほぉっ! そげんエラかと!」

 

この頃ではわたしが通ると人がいない。さっさと奥に引っ込む。

会うとあいさつさるっバイ

とまで言っているとすれば畜生極まれりだ。

「ほな、道で会わんようにしとかんといかんね」

と日がな、こちらの動向を監視している。

さすが、畜生。

 

こうした底辺の堂々巡りの結果、あいさつしない者、返してこない者には、あいさつ不要という結論に達する。なにかを嘆く者に回答が必要ないのと同じ。嘆きたいから嘆いているのに答えを与えたら邪魔をすることになる。一緒に嘆き合うのが嫌な人はつきあわないのが賢明。畜生にあいさつは不要。意味不明の行事にすぎない。犬猫と同じに見なさざるをえない。

なにか理由があり、また、ポリシーとしてそうしたいのであれば無理してあいさつすることもない。その方が自覚的だ。

こうした家主の言動にいついて、教育は万能ではないが「あんな不良品に育てた責任は母親にもあるだろう」と書いていたら、それもまた盗み読みし、それと相まって、

「あいさつばすっと、良か子が育つとぢゃろ」

とその老母が感心する。

ひとの言ったことを短絡して結びつける。理解したかに見せかけているが実は、悪意である。程度の低い皮肉が田舎では最高の文化財のようである。

 

あいさつは、少なくとも人間以上に育てるつもりがあるなら、前提となる習慣だ。権勢者の家柄だからかどうか知らないが、あいさつは相手がするもの。出入りの者がペコペコ、ヘコヘコして「あ、こりゃ、おはようでやんす」と言えば「うむ」などと顎を上げ苦虫をかみつぶしたような顔で応じるものくらいに思い上がっているのだろう。最も下等な部類の輩である。ブタ、ゴリラ、タヌキ、そんなもんだ。

 

あいさつをしない時点で、宇宙では(地球上のどこでも宇宙の一部であるが)知的生命体とは認められず、畜生以下が確定する。

ヤクザ、極道の世界(修羅)でさえ、あいさつは重要である。もちろん、その意義は上下関係であろうが。

ところが、田舎者の世界ではそれさえない。

 

あいさつは、人と人との愛の声

あいさつのない村だからこそ掲げられているのにちがいない。姿形はよく似ているが人間がいないし、あいさつの言葉を発しても、悔しさと憎しみと嫌々ながらと渋々で、鳴き声に近いものだ。

 

毎日顔をあわせる家族であっても、いや家族だからこそ、朝あったら「おはよう」と言う。しょっちゅう足を運ぶ取引先の人に会っても「こんにちは」と言う。店に客が来たら「いらっしゃい」と言う。

それをしない。人間の姿をした畜生である。近所だからしなくていいだろう、と端折ってはならない行為である。

 

挨拶とは、知覚ある生命体同士が互いに誠実さと敬意を表する行ないである。それをしない奴は、犬、猫、馬、牛、ニワトリに違いない。犬猫は質問すれば答えてくるが、挨拶はしてこないし、返さない。

中国人も挨拶しない。ただ、威張り腐って踏ん反り返るだけだ。西遊記に出てくるありとあらゆる妖怪は、人間未満の人間の振る舞いである。

挨拶があるのは知っているけど、しない。人間の姿はしているが、中身は畜生、妖怪。

あいさつができて初めて、人間の領域である。少なくとも素直に言葉を発し、また返せばいい。

その意義を深く知って実行すれば霊格は高いのであり、分かり合った同志なら軽く頭を下げ合うだけになり、いつしか言葉はなくなりただ崇高な想いを伝え合うようになるのかもしれない。

 

2022/3/27」

 

 

次にカネについて

 

ある時、村人のオフ会(例の悪口パーティー)に出た時、主催者であった養豚場のあるじの親友が次のように大声でホットに吐き捨てた。

「アイディアんあったっちゃ、カネんなからんなら、なんもできん!」

こういうのを聞くにつけ、ほとほと人間とは『自信』しかないのだと再確認する。自己否定すら自信をもってやる。卑下も自信のなさも、すべて自信を土台にしてなされる。

馬鹿なことを白昼堂々と自信満々に主張する輩。脱帽。まったく、このヌシにはろくな友達がいない。妖怪屋敷の風魔殿に棲むこいつにはバケモノしか寄って来ないのだろう。妖怪キンタマせせり現る、といった感じだ。

おおかた『バスティーユ』を盗み読みした養豚場の、いや風魔殿のヌシが「けーなこっ書いて。カネんなからんなら、なんもできんやんか」などと、陰でのたまっているのだろう。それを忖度屋のキンタマせせりが大声で反論した。集団思考しているこの村の土着民など、そのくらいなものだ。

ひとまず、

お前がカネを払って実現したいことを、カネをもらって実現している人がいるのを知らんのか?

と言い返しておいてやる。

瞽には世界のひとかけらも観えていない。暗い暗い、センスの悪い者から伝授されたカネにまつわる観念を頑強に保持しているだけにもかかわらず、それを平気で大声で主張できるのだ。こういうのを脳内劇場の囚人と言うのだ。しかも場末のしがない脇役を飽きもせず演じ続けている。眼をつぶり、眠りこけ、脳内に映し出された幻灯の中のゲスな登場人物が己だと思い込んでいる。

まず問うのは、その信念を持っている自分自身は、カネに困っていないか、豊かな精神の持ち主かということだ。カネに困っている輩の信念はカネに困る状況を創り出すからだ。

豊かなアイディアは実行を含みそれがカネを生み出す。

自分の欲しい物を買うために嫌な事をやってカネを稼いでーーーとしか考えられない輩は口におしゃぶりくわえてバブバブいっている赤子のようだ。

 

・高価で美味い物を食べてカネを稼ぐ

・風光明媚な遠い場所に旅行してカネを稼ぐ

・前から欲しかった高級な物を買ってカネを稼ぐ

 

そう、YouTubeの動画配信ならこれが可能なことに気付いた人も多い。これまでの価値とは反転した世界にシフトしたのだ。

 

ところが、「カネんなからんなら、なんもできん!」さんたち。この者たちは、アイディアこそ富で、カネは富の代用品=物体にすぎないと知らないようだ。「カネさえあればなんでもできる」と信じるのは構わないが(それが貨幣経済を作っている信念だから)アイディアの伴わないカネは、生き金ではない。そんなカネは、人に喜びも与えないし富を創り出さない。ただただ、物やサービスを買って消費され無くなっていくだけだ。

『アイディア』という言葉にはすでに富や豊さの概念も含まれているのだが、浅知恵で心の貧しい彼らに解りやすいように、単に「考え」や「発想」としておこう。「考えがあってもカネがないなら何もできない」というのは間違っている。「行動が伴わなければ」として初めて文意が通る。にもかからず、カネのせいにする者は夢想するだけで何も行動しない怠け者である。カネがあったらイイなぁ、カネがあったらなんでもできるのにィ。ガキの夢想にすぎない。

 

古来、無一文から巨万の富を築いた人は多数いる。にもかかわらず、観察眼のない彼らは愚かな噂を信じ込み、知った風なことを言う。耳学問というやつだ。だいたい、この人たちは自分たちの親の世代が錬金術を働いたことを忘れているのか、それとも隠しているのか。高偏差値の大学を出た一流企業のサラリーマンが兎小屋のような一戸建てを買うのに汲々としているのに、ひろびろとした敷地に高級な木材を使用した大きな家を建てて住んでいるくせに、どうやってこの町の悪賢い連中が二束三文の土地を莫大な金銭に換えたか、知らないはずはない。

そのひとつを紹介しておこう。

町の外縁部に優良企業の工場を誘致する。そこからのアガリを役場が税金の形でピンハネし財政としてプールする。村の有力者でもある議員が、建物や道路建設の議案を通す。もちろん、その者たちの所有する山や荒れ地を通るようにだ。時を同じくして土着民の一部が土建会社を設立する。工事の全てを受注し、実際の建設は大手や中小企業に外注する。こうして多額の土地代をせしめ、建設費用をぶんどってきたのである。その後はメンテナンスの名目で会社を存続していく。だから見てみろ、たった人口1万6千人しかいないこの町の役場が、百万都市の区役所よりデカイ。立派な会議場まで設けてある。

ついでに養豚場のアイディアを披露しておく。山で繁殖したイノシシが里に降り、田畑を荒らし始めた。その難題に取り組むべき手を挙げたのが、風魔殿のヌシことゴリオであった。農協に勤めていた彼は鉄作を大量に注文する。数千枚一括購入して1枚100円くらいの物を1枚350円で村の組合に卸す。「あんたんげの山やろ」とか「あんたの田んぼにも被害が出るバイ」などと巧みな話術で労働に引き出し、日当数千円もしくはタダでこき使う。ゴリオは数百万を懐に入れ、子供の進学や結婚式の費用に充てる。立派なおとうさんではないか。村人に嫌われてまでカネを稼ぐ。(この信念の持ち主からすれば、子供の進路など知らぬ存ぜぬのわたしなど、極悪非道のコンコンチキにちがいない)

アイディアがカネを生み出した格好の例ではないか。搾取に相違ないが。一時金は工面できた。けれども、奪った何倍も奪われないカネを稼ぐには、もっと高次のアイディアで取り組まなければならない。

 

ここで、ちょっと余談をはさむ

わたしは時々、挑戦的な物言いをすることがある。なぜか? 前から意識していたことではあるが、この頃つとに上から「真理は体験でなければならない」と伝えてくる。学問的に、客観的な言葉のを羅列しているのでは他人事になり効用がない。どこまでも実体験であって初めて変化の緒につく可能性があると云うのである。言葉によって魂をぶっ叩かれ揺り動かされた感触を得ることによって、おのれの信念を見直す隙間が生じるということだ。それでもあくまで本人の選択次第であるのだが。

わたしが引き合いに出しているモデルは、袖触れ合った全員ではない。わたしが彼らに悪意をもっていたりインネンをつけたわけでもないにもかかわらず、勝手な思い込みで面罵したり嘲笑したか、あるいは妬みなどで陰口を叩いている者の一部に限定されている。そうした者は暗い歪んだ矮小した信念を抱いている場合が多い。わたしを鏡にして己を見たからこそ、そんな態度を取ったのだ。こうした者たちは、低い周波数の恰好の採掘場である。

わたしは「私も言われたから」とばかりに悪態や陰口を他に回すことはしない。が、彼らから学んだことを霊的進化の意志の有る人と共有することはさせてもらっている。分かち合って共に進化するためだ。訴えたりあるいは陰口を叩いて溜飲をさげるためではない。

さらに付け加えるならば、正確に精確にモデルとなった者の実態や事実、性根を見極めているのであるが、見誤ることもある。筆力のなさから一つの側面だけを異様に強調したり、意図せずして全く事実無根の濡れ衣を着せかねない。その場合は不可抗力であっても悪口になるので、彼らの放った悪口と足し引きされて御破算、相殺になるためうってつけの相手である。わたしは負の想念を空間に放つのを嫌う。

その点で、エゴがちいさく小さく限定され、精神年齢が低い(8歳程度なのだそうだ)上に歪みに歪みきり、心がねじ曲がって屈折し、あらゆる罵倒をこころみ有らぬ噂を流してくれた養豚場のあるじなど、随分、書き間違いが許される逸材である。

読み手が、特に彼らを実際に知る者が覗き読みしてわたしにあらぬ嫌疑をかけたり、噂を流したりしても、それはそれによって読み手が創り出している現実であり、わたしに戻ったりわたしが創り出したりしている現実はそれとは別のものである。噂は、安い決めつけや邪推、憶測は猥褻な嗜癖を持った淫獣、ゴマメたちの作るネットワークを巡るにすぎない。

わたしが悪意をもっていたりインネンをつけたわけでもないにもかかわらず、勝手な思い込みで面罵したり嘲笑したか、あるいは妬みなどによって陰口を叩いている者、彼らはせっかくのわたしからの信用や人望を失った。失えば、エクサピーコ(≠魂)を構成している原子核が外れ、集合体の数が減る。減ると集合体の意識の在りようが低く変化する。周波数が低くなり、創り出される現実がより好ましくなくなる。集合体の意識の在りようは総和以上のものである。

事実もしくはわたしの性根を指摘したのに、わたしが悪口だと取って逆恨みしたのなら、その人の魂は目減りしない。並外れた慈愛と親和性によって諭したにもかかわらず、エゴの小さいわたしが反発し、悔しがり、唾を吐いて罵ったり恨んだなら、わたしの魂が小さくなったのだ。魂が矮小化すると霊格が下がる。下がると創り出される現実の質がさがる。好ましくない現実にわたしはのたうち回るかもしれない。

わたしの取った態度はわたしの程度を落としたが、彼らの程度を落としてはいないし彼らの現実を創り出さない。再び地獄に落ちたカンダタを静かに見つめるお釈迦さまのように超然としたままだろうし、地獄の底でカンダタが神仏を呪っても届かない。その行為は、おのれを地獄に張り付かせるのに役立つだけだ。

原子核の減らし方あるいは魂の矮小化の仕方については後に詳しく述べることとして本文に戻る前に、ひとつ付け加えておく。

面罵したり陰口を叩いてわたしに観察対象とされた者たちは、わたしの彼らに為した見立て見極めが違うと思うなら変わることだ。わたしの見立て見極めを全て間違いにしてしまう方法は、成長することだ。霊的に進化し別人格となれば、わたしを「悪口言い」にしてしまうことができる。そうしないなら、わたしはいつまでも慧眼の持ち主のままだ。彼らの在り方そのものがわたしを証明する。

 

2022/4/20」

 

 

さて、小題に戻る。

「アイディアんあったっちゃ、カネんなからんなら、何もできん!」

と考えるのもアイディアだということに気づいていないほどの眼暗。

何もしないで金だけ欲しい。

何も考えない。勉強もしない。何もしない。という宣言。

バカ。餓鬼の領域。75くらいはあるのだろうか?

アイディアがベースなのだし、それがどの程度のものかが問題にもかかわらず、なんでもカネのせいにする。カネを恨み、そこから派生して財産のない親を恨み、カネを与えない政治家を憎む。カネに復讐するために他人を騙して儲けようとする。ところがそんな自分に気がつかないように、他人のせいにしたり理屈をこねくりまわしている。

カネの奴隷。カネが主人。

カネに振り回される典型的な輩。どう観ても、100以下だろう。

 

アイディアこそ実行。実行して観察し、より適したアイディアを実行する。

これが本筋である。到っていくのは、より高度な認識。

 

アイディアは富。

アイディアは豊。

アイディアは德。

 

損して得取れ。損得勘定でなく、尊德の精神。天に德を積んだ一部が、望むならカネで戻ってくるという観察に至れば、生活は実に優雅であり幸福そのものだ。

 

ところが、このアイディアと実行の間の一直線の途中に根を張り、「失敗したもうダメだ」「破滅だ」とばかりに失望して見せたり、「あいつが悪いんだ」「あいつのせいで俺が失敗した」と責任転嫁を始めたり、嘆いて見せ、悔やんで見せ、怒って見せ、被害者づらし、過去に過去に遡って責め立てたり、・・・と延々とループして行き本筋に戻ろうとしない人がいる。

こういうのも人間の心の中にはあるのだから、5秒くらいで収まれば賢明だが何年も何十年もしつこくこだわり続け、一生を棒にふる。そうして、その出来事を失敗として確定してしまう。失敗した人生である。非常に硬くて融通が利かず、眼が開いていない印象を受けないだろうか?

 

アイディアが金を生むの例は枚挙にいとまがない。

詩を作り曲をつけて歌を唄う。

人々がイイなあ、と共感し感動すれば、売れる(こともある)。何度も聴きたい、その歌と共に暮らしたい、歌い手や演奏者と一体化したい・・・、そんな風に思える曲を作り得たら、昔であればレコードやCDにパッケージ化して販売すれば、人々はそれを買うのに金を出し惜しまない。

それまでなかった、アイディアという『富』が、金という形の富に変化したのである。こういう歌を世の中に捧げたい。心を込めて唄う。心に届く。感動する。商品化や金銭のやりとりといった有象の裏ではそうした無象の受け渡しが行なわれているのである。

 

巨万の富を築いた世界の大金持ちは、たいてい無一文、裸一貫から財を成した者も多い。

 

ビルゲイツの成功譚など有名だし、日本でも松下幸之助には学ぶところが大きい。松下幸之助は、心、意識の世界をよく知っていた。そこで出来た事(アイディア)が物理世界に現れる事実を使いこなしていたと思える。

資産王となったビルゲイツの「慈善事業」には首をかしげるけれども、若かりしころ三十年前の彼の快進撃など、ビジネスで成功したい者にとって羨望の的である。インターネットの発展に寄与した彼は、それが悪事にも利用できるが遥かに迅速で正確な情報共有など人類の進化に貢献したと言えるだろう。それによって彼の「慈善事業」という名の野望は知れ渡りうまくはいかないにちがいない。

 

資金があったからできたのではなく、アイディアと行動でカネを作ったのだ。つまり、それこそが本当の『資本』というものなのだ。福沢諭吉の説く『財本』とはまさにそんなものだろう。

アイディアという富(プラス)を与えたから、カネという形の富で戻ってきた。原理はそれだけだ。

 

 

2022/6/8

 

たとえば孫正義という男をわたしは全く好ましく思っていないが、彼のアイディアと行動力はたいへん良く評価している。

特に、初期の頃のアイディアと行動で有名なのが、例のルーター。回線の一部で、最も安価な物を無償で提供した。「これなんだろう?」「どうやって使うものなの?」という問いから、もらった人たちが回線を完成させる。パソコンのある者はつなぎ、ない者は買い、さらにインターネットに契約する。そうやって利用者を促進したのだ。

しかも出生の特異性を悔やむどころか武器として、外国人の感覚で大立ち回りをやった。大企業にも国会議員にも、臆することなく接見し事業を語った。

しかし、育ちの悪さから、基本料金は安く見せかけ通常は無料でありそうなサービスで高額な使用料を請求するといった、品のない集金方法を取るなどボッタクリに近いことをやっていたところにちょっとわたしは首をかしげる。無料ルーターの後払いというわけだろうか。

会社が伸るか反るかの時期であれば事業(社会的サービス、インフラの促進)の成果の方に重きが置かれてもバランスは取れるのかもしれない。しかし彼のその後を観察すると、いつまで経ってもただ投資金額が増えていくだけで、德の低いアイディアばかりやっているように思える。ある時期から現在の彼は宗教団体の教祖になっていて、集金システムのカシラに祭り上げられているように思う。

ともかく、大金を手にしたいと本気で思うなら、彼のやって見せた錬金術を見習うべきだろう。

それを「アイディアんあったっちゃ、カネのなからんならーー」などとほざいているようではいつまでも指をくわえてヨダレを垂らしている羽目になる。

 

だいたい養豚場のあるじでさえ、アイディアと実行でカネを得てきたのではないか?

しかし柵の完成後にどうなったか、それをみていこう。

数キロに渡ってやまやまに張り巡らした柵は、ほんの一箇所でも瑕疵があれば、全部ないのと同じ。そこからイノシシは出入り自由なのだ。破れは日々、不測の場所に発生する。朽ちた古木が倒れたり、雷で折れた大木がのしかかったり、イノシシ自身が追突し噛み破り、ほころびができる。するとそこからイノシシは現れ、柵の中だけではまかなえない分の食料を人間の田畑から補給する。

食器棚のガラス扉がほんの5ミリでも隙間があれば、ゴキブリにとって全開に等しいのと同様、数キロに渡って張り巡らされた鉄柵の敗れは、すべてがないのと同じなのだ。

 

そうなるともう、猛り狂った拝金主義者たちは、イノシシを害獣認定し皆殺しにするしかない、とばかりに鉄砲を抱えて山に踏み込む。撃った肉はハンバーグにして売りさばく。

すでに売る肉のなくなった販売所は閑散としている。

かつて「山の神」と称されたイノシシのいなくなった山がどうなるのか? わたしには予想がつかない。

わけのわからない病気が蔓延するか? ある種の害虫が大量発生するか? 

自然の連鎖を完璧に予測できる知見をいまのところわたしは持ち合わせていない。適度な間引きと全滅は自然に与える影響として雲泥の差ではないか。専門職であったマタギでなく土素人の殲滅主義は周り回って自分たちに不都合な結果をもたらすのではないかと危惧している。

などと言えば、くだんの者たちは、

「ほんなら、ほっといてよかとの?」

とトボけた顔で憎々しげてたずねるが、なんにしても極端は病気である。ほどほどにして調和を取ることを勧めるばかりだ。

 

一箇所の瑕疵が全てを台無しにする山の囲いは、すべて徒労、すべて無駄ガネ。人々を言いくるめてカネをもぎ取るのが目的だったアイディアだから、まさに杜撰のひとことだ。

こういうのはワルぢえの類で、奪う行為に等しいと思われる。本当に防獣を目して実行されたのなら、企画者が多額の利益を着服するだろうか? その場しのぎの対処で済まされるのか? 柵が壊れた時の対応まで熟慮して実行されるのではないか。そして、誰もが自分の問題でもあると見なすなら、見張りや柵の破れを見つけたらすぐさま報告し、修復するにちがいない。ところが、養豚場のあるじはこう嘆く。

「誰も協力してくれない」

 

こういう搾取、マイナスの德を出していると信用を失い軽く見られつまらぬことで散財する羽目になる。周囲の水を自分のテリトリーにかき集めていただけだから、自然、元に戻る。

 

アイディアが富と言ってもそれがプラスでなければ、マイナスの富を与えることになる。マイナスの富はいずれ己の富を奪い、減らす。信用をなくし、来るべき仕事がこなくなり、持っている土地の補正などマイナスの富が発生する。マイナスの情報をもった者だけが近づいて来たり、必ず損をする儲け話が・・・

 

包丁を出して「金を出せ」とするのも、アイディアなのだ。

脅威を与え富を得ようとしている。これは最低のマイナスで最高のプラスを得ようとする行為。無理がある。

地獄の領域にいる。

10以下。

見るに「馬鹿な真似はよせ」と諭すのは的を射ている。聞かずに実行すれば、まごう事なきバカ。自分が何をやっているか全く観えていないのだから。馬鹿を馬鹿と見極めるのはマイナスではない。むしろ護身術のひとつとさえ言える。もちろん、本人に面と向かって言うかどうかはまた他のテーマである。

馬鹿は馬鹿でも大馬鹿というのもある。同じく自分が何をやっているのか自覚していないが、多くの人に貢献するおお仕事をしている場合である。個人としては一時的に損をするのであるが、魂は大きくなる。

 

勝った負けたの投機目的の金融商品など、いま社会にあるパイ(カネ)を奪い合う、ぶんどり合戦、すなわち争い(=マイナスの富)であり、新たに富を創り出しGDPを拡大するアイディアではない。

後者のアイディアには德があるとしておこう。

徳が高ければ高いほど、おおきな巡りの中で調和が取れ、結局は自分だけでなく他人も自然も宇宙もありがたさを覚えるのではないだろうか。

まずは、他者にアイディア=プラス=富=徳を与えることが自分にももたらすことになる。

他者に与えるのは己に与えている。己に与えているのは他者に与えている。

という認識に達している者は自他に何を与えるか。ーーここにその人の德の高さが出る。より広い範囲で調和をつくり、より深く感謝しえることを提供しているか。

他人に何かを与えるのは自分が損する、と考えて出し惜しみする者は自分を貧しくしていくということだ。与えているように見せかけて奪うのはマイナスを与えている。

 

よく、お金に対するブロックを外せば儲かるだの引き寄せだの思えば叶うだの結果に期待せずただただ与えろだの自己イメージを高めろだの、スピリチュアル界隈ではけたたましいけれど、大事なことを、故意にか無知ゆえか押さえていないと思われる。

前提として、愛を振りまいているとか德の高い生き方をしていなければ、お金という形であろうがなかろうが、返って来ようがないのである。それがあれば自ずとブロックだの、ネガティブな信念だのはなくなっているのではないか。空間にプラスのエネルギーを出している。これは、古来「天に德を積む」とか「神様に預けている」とか「宇宙貯金」などと言ってきた。この認識に達した人たちが「損して得取れ」とか「損得勘定から尊徳環状へ」となり、会社を繁栄させたり幸せな家庭を築いた。バックを期待して愛を与えたり、德を積むのではないけれども、受け取るものが与えるものなら、できる限り高次元のエネルギーを放出しておくのが好ましい。

けれども、確かに愛を与えることが始まりではあるが「くれるものならもらっておこう」とばかりに他人の優しさを貪り食う、かまってちゃんに与え続けるのは愛のレベルではないのではないか。むしろエゴの表れであり、相手を足腰立たぬまで依存させる手段になっているかもしれないのだ。こうした関係は、やられる方だけでなくやるほうも共倒れする。(だから、「返品期限なし」とか「全額補償」とか「永久保証」といった、欧米や日本で成功する方法が韓国ではアダになる場合がある)

たとえそれが金銭目的であったとしても、何かやった時にうまくいくのは、常日頃から愛で生き、德を積んでいるからこそである。日頃のおこないが、その事業や行動を通してもたらされているのだ。

 

この原理を聞いたあと、

・して欲しいから施す 

・「して欲しいから、言いよっちゃろ」と邪推する。

・「してやっているつもり」を己の望む形で返させようとする

・善いと思っていることをひたすら自己満足のために与え続ける

など、低い精神性や幼い魂のままに解釈し実行すると、その程度が創造され実現する。

 

愛を拒絶する人、愛をむさぼる人は、存在自体には価値があるけれども、とりあえず愛(というプラスエネルギー)を振りまいてはいない。愛を素直に受け取らない、あるいは愛を素直に出せない人は、愛が歪んでいる

話が飛ぶように感じるかもしれないが、どうして癌の治療に『陽子線療法』が有効であるかと言えば、陽子=愛 中性子=調和 であるので、歪んだ愛に正常な陽子を照てることで、病症でなくなるからではないかと思われる

 

見方、考え方がちがう、というのは、同じレベルのバリエーションでなく、レベル、ランク、階梯がちがうので、それは能力のちがいと言い換えてもいい。

信念や認識は育まれ得るものであり、高度さに差がある。

そのように実行するにはそれ相応の能力が兼ね備わっていなければならない。言葉だけ憶えていても知ったかぶり以上にはならない。また、その言葉をこねくり回す学問的頭脳が良いからといって実行できるとは限らない。

実質的に德の高い人というのは、カネ以上のものを得ている。カネで買える以上のものがある。

ひとだまが本当に求めているのは、それだ。

にもかかわらず、カネで買える程度のことが至上だと見なすのは、いかにもビンボーくさい。

この人たちに実行できるのは、直接カネを得ようとする行動なのだろう。

高度になればなるほど、回り周っての周回が大きく、因果がないようにさえ思えるような巡り方をしてくる。

今日買った一冊の本、今日言った「ありがとう」、今日やった手伝い・・・

最も高次元なのは、他者の霊的進化に寄与していることではないかと思っている。それも意識的に自覚的になればなるだけ高度になっているのではないか。(手柄を横取りしたり恩着せがましいのではない)

 

ちょっとここで、またしたも余話をはさむ。

 

癌など深刻なやまいと見なされている症状は、足立郁郎さん的に言えば、エクサピーコ(≒魂)陽子や中性子が歪んでいる状態だとは以前に話した。

この、陽子や中性子が「歪んでいる」とは、文学的な表現である。もう少し科学的に言うならば、陽子や中性子を構成しているエネルギー粒子「逆回転」すなわち左回転している状態でそれがどれだけか含まれているということになるだろう。

これが人によって割合、度合いが異なるので、(癌の)療法が画一化されないのであろう。

ーーこの頃わかったことであるが、どうやら医者は病名のつけられない、なんだかよく解らない症状のことを「癌」と呼んでいる模様だ。そして、それに対して現在の医学、医療界では手の施しようがない。(当たり前だ。彼らは癌そのものを原因と見なし、癌の原因が何かを突き止めていない)

癌に限らず病は、取り込む毒と体内で作り出す毒によって引き起こされ、何を飲み何を食べ、どんな感情制御、統御をおこなっているかによるのであるので、人の認識や信念、そのレベルに依拠しているのは明白である。(二元論的観念の強い、科学の端くれである医学・薬学・医療界は、それらを敵である宗教だと禁忌している)

この地点で「自然」「健全」「高次」であるなら、病自体が起きないのは道理であり、これこそが真の予防なのである。

「自然」「健全」「高次」と言えば、なにやら難しいことに錯覚するかもしれないが、人間の魂のいたってデフォルトなものであり、いわゆる愛・幸福・感謝・調和・喜び・生き甲斐・極楽の状態にすぎない。

普通は、地獄(修羅・畜生)にわざわざ出かけて行ってそこに執着し粘着しているので、難しいように思われるのである。

眠りこけていたために病となっても、眼を覚まし歪みを直せば症状は消える(治る)のである。すなわち毒を排出し、毒を取り込まず、また魂のデフォルト状態に戻るのである。

霊格がうんぬんという話は、デフォルトである愛・幸福・感謝・調和・喜び・生き甲斐・極楽などがどの次元に達していくかということであり、そこまで至っていないというか自ら落ちていった所から戻るのは、そろばんや書道、武道などの級あたりのことである。段位を取ってからが初めてそれをやっているという次元であることは、下手の手習いにも見所はあったとしても、それなりに観る目のある者には当然のことであろう。心からエキサイトする、思わず引き込まれ、自分もその気になるなど、それが本物のレベルにあるかは自らの魂が知っているのではないか。

愛とか感謝とか調和とか、その域に戻ってからが人間であるのであって、地獄をさまよっている人は「ご苦労なことをしている」メクラ、アマチュア、愚か者であり、人間としての見所に乏しいのではないか。(だから、人間未満とされているのだ)

「覚醒」というと、「悟り」と言い換えてもよいが何か凄いことのように思うかもしれない。けれども、元に戻っただけなのだ。覚醒など、ーーとりあえず目覚めるなど、宇宙では当たり前のこと、普通、普遍なことにすぎない。砂浜の砂つぶのように取るに足りない当然の価値なのである。(ひとつぶひとつぶが無ければ全体の砂浜を構成できないので)

ところがこれが地球だと覚醒は「貴重」なこと「稀なこと」になるのであった。確かに以前はそうで、空海の時代にあの程度まで悟るとなると並大抵のことではなかった。ついこの間までは固く、硬く、堅く、戦前に勧められていたとかいう『日本精神』なども、それの本意をつかんでいたかは大いに疑問符なのである。多くの日本人が神社に参拝するけれども本当に『日本神道』の真髄を心得ているか。もちろん、日本人の遺伝子には何か知らぬが、そうしてしまう想念と行動が刻まれてはいるにちがいない。が、大多数の者が、顕在意識まで引き上げて自覚しているわけではなさそうだ。

「覚醒」のことを、本当の自分から分離していたのが元に戻ることなので「統合」とも言うのであるが、分離の幻想は人間的観念や迷信によって造られたものであるので、いちいち言い表すことでもないのかもしれない。本当の自分から離れたことは実は一度もないのである。覚醒、悟り、統合、本来の自分、自然な自分・・・どれも同じ状態のことを表している。

自然な自分に自覚して戻り、さらに進化させて行く時、はじめて知的生命体として認知され銀河の仲間入りができるのである。二元的幻想つまり『不安とエゴの脳内劇場』といった眠りから覚めた状態が宇宙ではごく普通の状態であるからだ。眠っている人とはつきあいたくてもつきあえないだろう? また、銀河には病気はない。それらが不要なレベルで生きているからである。(病気を表現した疾患が魂の歪みを伝えるものだという認識に至れば、わざわざ歪ませて生きるバカもいない)

愛・幸福・感謝・調和・喜び・生き甲斐・極楽などの状態に戻れば、たいての病は必要でなくなる。状態自体が病気でなくなるので、体としては症状によって歪みを訴える必要がなくなるのである。これはホーキンスの指数では300程度なのだろうか。症状にもよるが最低でも250、重篤とされる病なら500には至ってもらいたいと思う。それで自然、『本来の自分』という気がする。つねひごろからこのレベル以上にある人がなんらかの不調や疾患を訴えるのだろうか? ちょっと想像ができない。

 

自分がどのレベルにいるかの簡単なテストを出しておこう。

「外側の事象がこれだから自分は不安になっている」と考え見なす者は、極楽には達していない。外でどんなことが起きようとも、落ち着き冷静に最適・最善のことをしたり余計なことをしないでいる者が、いわゆる人間的な「右往左往」や「一喜一憂」などの地獄から本来の自分に戻っている者だ。仏教で言う『解脱』がこれにあたる。どうだろう、難しいと思うだろうか、それとも実際にその場に至ればちょっとした心持ちでできることだろうか。

振り返ってみれば、意外に簡単だということが分かると思う。というより、本当は何も動じていなかった自分を知る機会になっていたことに気づくだろう。真理や本質とは異なる「人間的な」迷信によって心が揺らされ動転しているのだと、冷静な自分は知っているものだ。つまり、自分で自分を動揺させたにもかかわらず、外側のせいにしているのである。

「重大なこと」「取り返しのつかないこと」などと不安を発動し恐怖にかられるのは、自分で勝手に決め付けているだけで、起きていることを眼を開いてよく観れば半分より少し多くは非常に胸躍る素晴らしいことが起きているのが認められるにちがいない。

同様に、愛・幸福・感謝・調和・喜び・生き甲斐なども、意外と簡単に戻れる所なのである。と、思う。

そこに至る人が30パーセントも出てくれば、世界は反転し、宇宙から高度な医療がもたらされ、あらゆる疾患は治り、どんな不具も代替され、いやそれどころか病気にならない上に事故の可能性のある技術や交通は一掃され置き換えられ、地球人類が病気や事故や怪我を恐れる必要がなくなるのではないか。

 

 

2022/6/21