ここ半年くらい、エゴについて閃きがある。うえが伝えてきているのだと思う。

まず初めに来た重要な真実は、

愛とエゴは共存できない

ということだった。

初めて聴いたとき、そうなのかな? と、ちょっと疑問に思った。けれど、よくよく観察すると確かにそのようだ。すでにこのことが当たり前の認識のひとはいるだろうし、よく分かって自分の選択を誤らないよう注意しているひともあるだろう。ともかく、エゴが強いと今回の次元上昇に乗れないと伝えてくる。どれがエゴか明確に分かっていないと知らず知らずにエゴで行動することになるから、おさらいとして伝えてきているのか、やたらと身近に迫ってくる。

わたし個人としては父の介護の最中に、母の在り方によって明晰にエゴと愛の違いを見せつけられた。これまであやふやでおぼろげだったそれらの差異を母は非常に明快に教えてくれた。名教師であったが、今回目覚める予定はないようだった。頽齢に達した父は瀕死の状態になったことによって薄眼を明けたが覚醒は次回以降に持ち越すのだそうだ。今生では、3次元世界の闇を存分に楽しんだ模様だ。あの世代に共通する、ガンバリ・ガマン・ガムシャラ・ガンコ・自己犠牲・自暴自棄・自縄自縛など分離の経験のマスターを通り越してドクターの域に達していたのではないか。

それはさて置き、進化の方向性を、これまで霊格の指数や六道によって表現してきたが、エゴという切り口から説明するのが、今の時期、理解しやすいようなので、ここではその側面から描いて観る。

 

※ 蛇足しておくけれども「エゴをなくしてアセンションの波に乗りましょう!」と言うつもりはない。優越感をくすぐる選民思想というのはそれ自体がエゴであるので、そこは勘違いなさらぬよう。己の本心の選択を尊重して構わないと思う。

まず自分だけが助かろうとし、それでは気がひけるからと他人もお誘いするみたいな、団体を大きくしていくのに組み入れられた救済集団を観察していると、その思想と活動自体がエゴ地獄だ。

第1波に乗るのはほとんどがスターシードとかライトワーカーとかそうした類の者たち中で早めに眼を開いた者たちであり、いわば突撃部隊、先兵隊のようなものだ。その様子を見てから決めても遅くはない。

しかし、日常の苦しさから逃れたいと思っている人たちも多いことだろうし、その原因が自分とエゴの関係にあることを知っておくのは、第2波、第3波に乗るときの参考にはなるかもしれない。波に乗らずとも、いきり立った日常が和らぎ楽になっていくのではないか。嘆きもせず後悔もせず責任転嫁も自己正当化もせず、自信をもって「今回の人生はありとあらゆる苦しみを経験するのだ」と堂々と宣言できるならわたしは崇敬の念をもって微笑みかけよう。

さて、エゴと愛が共存できないとなれば、今為した選択は、エゴか愛かのどちらかでしかないということだ。思考・言葉・行動、そのどれもエゴでないときは愛だし、愛でないときはエゴなのだ。と、示した時点で、ちょっと1日の自分を振り返り観察してもらいたい。本当にそうなのかどうか。

上が伝えてくるには、自分の選択の99パーセントくらいをエゴで満たすことができるらしい。言い換えれば、全てをエゴに乗っ取らせることはできないということだ。日常をどんなにエゴで埋め尽くしても、眠っている時だけは、さすがにエゴが介入できないのらしい。(肉体がほとんど停止しているから)

となれば「偏愛も愛の内」というのは、訳が解らないのである。おそらく、言葉遊びにすぎないだろう。エゴにも程度やバリエーションがあるように、愛にもそれらがある。だが、制限のあるものは愛ではない。(と書いてから、エゴには程度があるのかな? という疑問がわいた。誰か答えられる方がおられたら教えてください。エゴの程度の差はおそらく小さいのではないか。それに比して愛の程度は無限大なのだろう)

偏愛も愛の内などというロジックは、砂つぶも全ての内に含まれると音を発しているに過ぎない。

偏愛者が暗い口調で「そんな自分を愛している」などと言うことがある。観念による言葉遊びに思う。実体は、そんな自分が嫌いなはずだ。そして、嫌いなものを無理やり好きになろうとする。右往左往行き来している。幼く未熟でエゴが操縦している自分が好きだの嫌いだの。自分をかいかぶり過ぎているのではないか。

偏愛と呼ばれるものは執着にすぎない。独善的な価値で固執、粘着するのはエゴの所作だ。まずは自分自身をそう扱っているから、外側の何かを偏愛、執着する。

執着も存在から創られているが、愛ではない。愛とは似つかわしくない、フェイク、イミテーション、愛の周波数とは相容れない、遊び。(愛でないものは遊ぶために創造されたと言ってもいい。遊びは楽しい。苦しみも楽しい。だが、忘れ切ると苦しいだけになる。だから、本質、愛を思い出してよ、そういうことなんだろう)

愛と愛でないもので全てだ。全て、には愛と愛でないものが含まれている。この表現の方が正確だ。存在は本質だが本質とは似ても似つかないものを創造した。そうやって本質が本質を知ることになった。また、本質そのものを進化させた。進化が本質そのものだからだ。進化は停滞や退化を創造することで進化した・・・。

偏愛は愛ではないが全てには含まれる。これが全体、宇宙の実体や本質を表している言い方だ。なんと存在(全体)とは、2次元でも表現可能だったのだ。

本質が本質でないものを創造したので、エゴも本質でできてはいるが本質ではない。本質が明確になるよう、本質によって本質でないものを創った。それが宇宙、相対的な世界である。

冒頭書いた「エゴが強いと」という言い方は不正確らしい。エゴがあると、次元上昇できない。これは当然のことのようだ。なぜなら、エゴは物質次元の想念であり、そこにとどまることは高い意識でないことを選ぶに等しいからだ。解るだろうか?

バシャールが言うように、エゴはせいぜいあのような使い方ができるくらいで、選択する必要はないのである。

弥勒の世にはエゴの介入する余地はない。

すなわちそこは、目覚めて悟りをえた人が作る集合意識の社会ということになる。

エゴを愛するとどうなるか。エゴを突っ走らせたり、過保護にするのではない。愛するのだ。エゴの言いなりになるのは、愛ではない。

エゴは愛ではないが、愛することはできる。エゴを愛したとき、エゴは愛らしく発露される。他者のエゴを理解し、自他が進化・創造していくためにそのパワーを使うのではないか。

愛はエゴがエゴだと観察する。どれがエゴでどれがエゴでないかを正確に見極める。見極めた上で、選択・相対化される。自分にとって好ましい結果を創り出さないエゴをわざわざ選ばない。

自分の今選択し、据え置いたエネルギーは宇宙中に放射されている。制限などないのだ。エゴにも愛にも。

もし愛の適用範囲に制限があるなら、それは愛でない。一見、愛に思える、恋人への、家族への、親族への、同胞への愛は、愛でないということらしい。飽くまで、エゴなのだ。

イエスは、

自分を愛するように他者を愛しなさい

と教えたが、というより、そうしかできない。常に誰でもそうしているのだ。自分を扱っているように他者も扱っている。

自分を愛しない者は他者も愛していない。エゴをなすりつけているのみだ。

エゴは、肉体意識のことだ。肉体が自分だ、と思い込んでいる人がエゴが自分だと思い込んでいる。

 

意識はなんにでもあり、細胞個々の意識、肺・胃・肝臓・腎臓・膵臓・脾臓など各器官の意識、心臓や脳や大腸の意識、そして肉体全体の意識とあり、それをエゴと呼んでいる。

エゴにどんな働きがあるか、それは主に物質・物理次元で生きるための補正や類型化などである。

個々人が安全に生きるための『私意識』といってもいいだろう。

いずれにせよ、霊魂がこの世で生きて行くための道具にすぎない。

視覚もだいたいそのように作られている。たいていは幽霊は見えないし異次元空間は見えない。物質として形を有した物だけが見えるよう波長が調整されている。

だからといってその制限の中だけが全てだと見なすと人生が非常に困難になる。

自信がないからといって自分を置き去りにし、『私意識』と欲、恐れの結びついた観念や信念でだけいると、人生は劇場と化し手前勝手な妄想におののき震えることとなる。さらにR-コンプレックス(爬虫類脳)と手を結び活性化させると、これもなくてはならない性質ではあるが、縄張り意識・他人の足を引っ張る・強迫観念・恐喝・脅し・攻撃・いたぶり・固陋さ・迷信・支配と被支配・序列意識・強いものへの服従などが強調される。

エゴにすべてを代用させると、魂は成長せず、いつも奥の暗がりで怯え縮こまっている。そして、劣等感や優越感が異様に発達し、自分のエゴにそぐわないことを聞くと、「言われた」と被害者となって報復するといった反応を繰り返すことになる。

 

介護の期間中、母があまりに愚かなことをしているのでわたしはついに、バカだなあ、と言った。すでに何度か説明した上で、それでも自分が正しいとやり続けたので。

すると日を置きしばらくしてやり返してきた。

「バカな親から、どうして頭のいい子供ができるかなあ?」

考えたのだろう。これなど、肉体(遺伝)と賢さが同じものだとみなした物言いである。

「あのね」とわたしは説明する。「1足す1は2。2足す2は4。そういう計算の頭、それから親父の様子を医者や看護師に説明する時の過不足のない正確さ、それはバカなどころか、素晴らしいよ。でもね、魂が、」・・・幼い。

恐怖と不安で自分が縮こまっていたのだろう。それゆえにエゴの助けを借りて強くあろうとしていたのにちがいない、と取っておいた上で、母がどんな愚かさを繰り返したか。ーー言いたくもないね。

ともかく、現状から早く逃れたい、早く楽になりたい、という考えから発想した言動を発明し、貫き通したのだ。他の見方もあるから早急に決めつけたり母を糾弾するつもりはない。だが、わたしには悲惨、残酷、虐待に思えたし、ひいては彼女自身が困ることになると思えた。

その自覚はもちろんなく、受け入れられそうな理屈を強弁し美しい言葉をまぶし、自分自身を虚偽っていた。

自分を否定されたと捉え、怒り、やり返す。自分を押し込め、忘れ、否定し、いじめ、さいなみ、エゴに自動運転させている者の取る反応の一つのルートだが、彼女は、自分を「優しい人間だ」と言う。勘違いと虚飾。これなど、ぜんぶがぜんぶエゴによるものではないか。優しいというより、モジモジ引っ込み思案、控えめというより逡巡、失敗を恐れる、批判に耐えられない・・・

本当の自分を知らない、いや本当はこうありたいと望む姿を言葉で表明しているのにちがいない。

聞けば、わたしの守護神である治元大三は彼女を「エ権化」わたしのハイヤーセルフは「エゴジラ」守護神たちは「エゴ8」「エゴ市」などと呼んでいた。

 

※ 守護神

自分の神の名を明かして大丈夫か、という問いがあることと思う。一度はわたしも書くのを躊躇した。しかしかれが言うには、正確に読める者がいないので構わないとのこと。

大日本帝國をダイニホンテイコクと発音しても無効なのと同じ。オホヤマトスメラミクニとでも呼んだ時、多少は効力を発するのらしい。

眠っている時に漢字で表記されたのであり読み方までは伝えてこなかった。初め、なんのことか解らなかった。が、次第にそれがわたしに着いている神性であることが判明してきた。

「治」ひとつとっても、ち・じ・はる・なお・おさむ・・・など、多様である。仮に、おさむであっても「おさめ」なのか「おさみ」なのか、あるいは「すめら」なのか。それが他の三文字にもありえ、どの組み合わせが本当の名前なのか? 実はわたしさえも知らないのである。

とりあえず、ジゲンダイゾウと発音している内は害はないらしい。他の読み方をした途端、祟りがあるそうな。(^ ^) 詮索もほどほどに。