プロローグ

 

公立高校の入学試験が間近にさしせまってきた頃、国語だかの教師が板書をとめ、ちょっとこちらを振り向いた姿勢のまま言った。

なだかいせいらさーるあざぶ

初めて聞く言葉だった。おそらく、大学進学を目論む生徒たちには興味をそそる脱線だったにちがいない。東大合格者を多く出す高校なのだそうだ。だが、僕には異世界の話に思えた。がくげいだいふとかつくばだいふなんかもありますけど、と先生は付け加えた。

「毎年100人以上の東大合格者を出す灘高校は、神戸の酒造家の人が作った6年間一貫教育をしていてーー」

などと先生は話した。そして、東京のがっこうぐん制度が、どうとかこうとか、きょうさんとうがどうとかこうとか、聞きなれない単語を羅列した。

あとから調べるに、それまで盤石の地位を誇っていた日比谷・西・戸山など東京の公立高校が、共産党都知事の押し進めた学校群制度で没落するのに乗じて擡頭し、東大合格者トップスリーの座を形成したのが私立の中高一貫校だった灘、開成、ラ・サール、麻布なる高校だった。神戸と東京と鹿児島にあるらしかった。受験に関心がないどころか受験勉強に違和感を感じていた僕は、近所の高校しか知らなかった。

 

2月の受験期には、あいつは愛光を受けたが落ちたらしいとか修道を受けに行ったようだとか青雲に合格したらしいなどの噂を聞いた。僕の住む田舎から半径300キロ圏内にある私立進学高校だった。噂をしている生徒たちはどれも学力に秀でた者ではなかったので、そうした高校の名前は受験生には常識だったのだろう。僕はその時分になって始めて知った。

受けて落ちた生徒たちは誰も、1年生の時から学年で1位を競う学力上位者ばかりだった。その彼らが敗北して帰ってくるのだから、どれほど難しいのだろうかと思った。

そんな中でKが久留米附設高校に合格したと聞いた。学年の成績上位者たちはまるで神を崇め奉るように称賛した。Kは、3年になってから450人ほどいる学年のトップに躍り出て、そのまま唯一、滑り止めではない私立高校に受かったのだった。

僕はといえば、3年になってからも全く振るわず、55から61くらいの偏差値をうろうとする中途半端な成績徒だった。

 

緑の園

3年生は緑先生が受け持ったクラスになった。。この人は、保健体育か何かを担当していて、僕は直接授業を受けたことはなかったが、1年生の時には副担任をしていた。
この年が55歳だったかで、
「みなさんが、最後の担任です」

とおしゃった。先生には殊更感慨深い1年だったのかもしれない。 
見事なクラス運営と生徒指導に僕は『
緑の園』と銘打つ。僕史上、この人より悟った教師を見たことがない。
腹式呼吸で発声する彼女の声は澄みきっていて、やまびこが返ってきそうだった。
晩年の司馬遼太郎そっくりの風貌で、白髪に黒縁めがね、背が低くて、三角フラスコを底面で二個合わせたようにずんぐりしていて、したっぱらが出張っていた。
「みなさん、気になっているかと、思いますが、わたしは、
ダッチョです」

ダッチョです、とことさら気にする風でもなく、悲しげでもなく、胸を張っているのでもない言い方で、教壇に立ちおっしゃった。1年生の夏くらいだった。

年配の女の人の中には、そういう体形の人もいるのだろうと、僕はちっとも気に留めなかったし、誰もそこをついてあだ名をつける者もいないにもかかわらず、先生は自分から白状したのだ。

数日前、ツヨシが遠くから叫んでいたのを思い出した。教師に悪口を言ってイキがっている。そんなやつだった。だが、格の違いから遠くからしか言えないのだ。

なんでも、幼い時に腸ねん転だかを患い死にそこなったのだとか。それ以来、腸が不全に陥り、食糧事情がわるかったために、彼女の成長も不良を起こしたのだろう。小柄な体格をされていた。そんな個人的事情はともかくツヨシの発した「脱腸」は明らかに悪意をもっていた。

ダッチョはダッチョなんですから、そう呼んでもらってもかまいません

吸っていたタバコを投げ捨てながら、暗い顔をしたツヨシが緑先生のことを陰で何度もそう吐き捨てていた現場に居合わせたことがある。

「人間の欠点は長所であります。と、同時に長所は欠点であります。たとえマイナスの特徴でも、それだけでその人が表せるなら、他の人にはない独自のものということです」

と緑先生は言った。

体形や人格に対する攻撃を気にする生徒の手本であったかもしれない。いなし方、心構え。そのことを先生は自分に対する悪罵や陰口を例にとって伝えておられたのだろう。

自分の悪口を言った生徒に、評定で復讐するスパイク先生とは大違いだった。(この教師については今後は出てきません)

 

先制攻撃でも卑下でも悲しみでもない、まったく無理のない提案に僕はちょっと呆れた。自分の思い描く理想の自己像のように見てもらいたい盛りの僕には、彼女の考えはつかまえ所が無く、奇異に映った。だが、『言葉の指し示しているもの』と『それを言う意図』のちがいについて先生は説明しているのだった。

ツヨシは小学生の頃は健全な野球少年だったが、中学デビューを果たし、3年になってからはサボりがちな部活にタバコを吸いながらやって来ては、チームメイトに悪態をついて見せ練習をダラダラやって嫌な気分にさせた。そんなツヨシを先生がどんな目で見ていたのか? 

他の教師たちのように鼻をつまみながらも何も言わず、不可触賎民のように扱ってはいなかったろう。一人一人の才能や特性を見抜いていた先生はおそらくは、周囲からどう見られるかを気にせず、まじめに極めれば大成するのに、という思いだったのではないか。

先生はさらに、

「ちょうど戦争中の青年時代にわずらった腸チフスでいまわのきわをさまよった」

と話されたことがある。全校一斉清掃の時にみんなで屋上に居たときだった。

おそらくその際に悟りを得られたのだろうと思う。生来高かった霊性が死ぬ目にあった時に発揮し始めたのだ。

ダッチョは緑先生の悟りの象徴。誇らしい体型だった。

 

春の遠足

 

遠足に向かうバスの中、教生の先生が同乗していた。福教大の女学生か、おそらくはこの中学の卒業生だろう。その人も後方の席にいた僕の近くにいた。

僕に話があったのか、緑先生は一番後ろの長い席にいた。そうして、教生の先生の至らなさをズケズケ指摘し、

「あんたより、この子の精神年齢が高い」

と僕を指して言った。教生の先生は笑顔を作っていた。

「この子の精神年齢は25歳と同じくらいだ」

と言い、僕の方を向き直り、

学年1番になってもおかしくない」と力強く言った。そしてさらに「東大に行ってもおかしくないんだがね

と、腕を組んだ。

 

 

そういえば、僕の居るクラスにはいつもI.Qが160の生徒がいた。

中学1年の時も2年の時も3年の時も。母が二者面談の時に聞いていた。2位とは大差をつけて突出していたようで、それを聞く度にすごいなあと思っていた。そんな生徒が同じクラスにいるんだ、と誇らしかった。

高校生になっ周囲に同じ中学出身者がいなくなっても、その生徒は同じクラスにいたから、どうして僕につきまとってくるのだろうと不思議だった。

 

幼稚園の時に受けた簡単なテストでは全問正解で、そういう子だけを集めた特別な学校に入れることを勧められたらしい。父は「末は博士か大臣か〜 十で神童 十五で才子〜 二十過ぎれば只の人〜」と鼻歌を唄ったが、幼少期から大人の驚くようなことばかり言ったりしたりしていたらしく、この子は、と思った母は福岡教育大付属小学校の受験を考え、僕に勧めたけれど、僕はいやがった。

中学にあがる時も公立中以外の進路を提示してきたけれど、どういうわけか乗り気ではなく、僕はそのまま普通に進んだ。そのわけは、後々、あとになって自覚したのであったが、この時分には自然な拒否として現れていた。

小学校の頃から日夜、密かに勉強したり塾に通う子がいるのを尻目に、僕は釣りに泳ぎに工作にと精を出し、勉強は学校の授業だけでいつも100点だったし、スポーツもほとんど1番だった。賞状も何十枚ももらうような少年だった。

それが、中学以降になると、それまで目立たなかった運動音痴のコソ勉の生徒たちがじわじわと頭角を現し始めた。かれらは軒並み、全国の旧帝国大学に進んだ。

僕はさいごまで「絶対東大」とか「なんとしても旧帝大には」といった考えは生じなかった。大学で何を学ぶかは重要と思えたけれど、「難関を突破する」とか「見返してやりたい」とか「いい会社に入る」を動機や目的にすることはなかった。(それはそれで人によっては有意義な動機であって、やり続ける内に目的は高くなっていったことだろう)

ともかく彼らは生まれつきの能力の差をひっくり返し、創意工夫と努力によって『逆転合格』したのである。

 

4月生まれ、I.Q160のアドバンテージは中1までで、教科書は一度読めば、どこに何が書いてあるか全て憶えていたけれども、自学自習の習慣のない僕は、授業だけで定期考査はそこそこ取れても、模擬試験では芳しくなく、じりじりと順位を下げていった。

しかも3年ともなれば、猫も杓子も塾だなんだと勉強を始めたものだから、じわじわと後退していき微妙な位置、つまり、合格ラインの学年70位あたりを低迷していたのだった。

 

(I.Qが高いとされる僕は、実のところI.Q的な頭の良さを重視していない。それは、概念操作や過去のデータの解析や批判、正邪の判断でしかなく、すぐに限界がくる。どうあがいても、何も分からない

賢明さは、洞察力、透視力、予知能力、機転、本質を見抜く目などであり、頭の良さには他の要素もたくさんあり、I.Q的な頭の良さだけにこだわると頑固頑迷さに行き着くように思う。そんなことが25歳くらいなった時に確信されたので、I.Q的な頭の良さは、それ以降、想いをうまく表現するための道具と捉えるようになった)

 

緑先生にしてみれば、いつまでもスタートしない僕に勉強を促そうとしていたのだろう。160という具体的な数字は言ってはいけないことになっているらしく、別の言い方で伝えたにちがいない。が、聞いたところで僕は別段、威張ろうとか見下そうとは思っていなかったし、東大と言われても、東大どころか大学進学すら本気で考えたことがなかった。

大学とか勉強の前に、僕には愚図特有の『哲学的難問』が山積みになっていた。詰まるところ、僕が勉強しない大元の原因は勉強する意義は本気で勉強しないと解らない矛盾したものだ、と知らなかったことによるのだった。

 

ところでその日の遠足は、バスの中でみんなと腹一杯歌を唄い楽しかった。

 

マスターK

 

Kは「マスター」と呼ばれていた。正治をもじったものだが、彼の大人びた性質と勉強を習得するまで徹底的に繰り返すところからきていた。がっしりした体格で背が高く、僕は見下ろされていた。中学1年の僕の身長は140センチ、彼はすでに165センチはあったろう。

のちに久留米大学付設高校から東大の理科1類に進学した彼は、13歳にして大人だった。

 

 

1年のころはKが学年で1桁に入るようなことはなかった。40番とか50番とか、定期考査がクラスで1位か2位だったので実力テストとなると弱かったのだ。

クラスがちがったので、2年の時は校庭で会ったときに聞いただけだが、

「160点かそれくらい」

と言っていた。

彼は、169点取っても切り捨てで自己評価するタイプだった。けれども僕は(160点かぁ、そのくらいならまだそう開いていないな、いつでも巻き返せる)などと内心思っていた。己を知らぬ者の慢心である。兎も出遅れれば亀に負ける。ましてやKは、長距離飛行の得意な渡り鳥だったのだ。

校庭にいるKが幾人かの生徒に意地悪されていた。ねたんでのことだろう。ところが、まるで子供をあしらうように平気の平左を決め込んで適切にかわすKの態度を目撃した先生が、

あんた、その歳でもうそんなに大人で、将来どうするの?

と呆れた。

勉強もできるし運動もできる。品行方正で非の打ち所がない、とまるで文句を言うように言った。

Kは黙ってニカニカしていた。

緑先生の見立ては正確だった。この時からわずか5年後だった。

 

1年生の初めての実力試験の英語の点数がKと同じ32点だった。40点満点のちょうど8割ということになる。

「あー、これ、解ってたんだけど、短縮形で書かなきゃいけなかったんだ。それにこの問題は、うっかり、当てはまるものを選んでたんだよな。本当は、34点だったのに」

と僕は言った。ところがKは、

「この問題とこの問題は、なんとなく勘で書いたら、マグレで当たってたんだ。だから、おれの実力は29点だな」

と言った。

この差である。

「じゃあ、本当は、5点差でおれの勝ちだったんだな」僕は悔しそうに言う。

「そうだ」

Kはあたりまえのようにそう答えると、

「家に帰ってじっくり復習しなくてはならん」

言い、そそくさとその場を立ち去った。

Kの母親というのは、僕の母の何級か上で、物静かで賢明を絵に描いたような女性だったらしい。父親はたばこ屋か何かを営んでいたのだが、お兄さんは熊大の医学部に行き、お姉さんは熊大の哲学科に行ったそうで、母親ご推薦のお友達だったのだが、小学校の頃から、テストは勉強しなくても点数が取れるものだと思い込んでいた僕は、悪友と連れ立って久留米までゲームをやりに行ったり、平目たちと釣りに行ったりとで、彼とは疎遠になっていった。

なぜか、僕の中には、クラスの全員と話すとか、わけへだてしないといった偽善を地で行くような妙な信念があったというのもあるが、Kといると、居心地が良すぎたのかもしれない。

 

そうしてついに、3年生の3回目のテストで、Kは学年1位になったのだった。

総得点185点、偏差値75

フクトの実力テストは福岡県の公立高校入試を模した試験で、各教科40点の200点満点、僕らの学年は450人ほどいて、9割取るとだいたい1位になった。

2年生から勉強をやめてしまった僕とちがい、毎日熱心に取り組んだKはじわじわと成績を上げていき、じりじりと下げていった僕とでは2年間で雲泥の差ができていたのだった。

 

差別バスターズ

 

この時代の中学を語る上でどうしても記録しておかなければならないことがある。戦後の傷跡にできた膿の中から蠢くように発生した『差別バスターズ』のことは無視することはできない。

 

いわゆる不良とか『つっぱり』とは違うタイプの問題児がいた。

廊下を爆走してきた生徒が、なにを思ったかいきなり僕の前で立ち止まる。そして、くいっくいっと首を曲げ、肩をいからせるようにしてぐねぐね振り回すと突然両足をガニ股に開いて尻をさげ、、前に突き出した股間の前で両手を交差させ、

コマネチ!

と狂気の声を発しながら、太ももの付け根のラインに沿って両腕を上に引き上げた。

ナハッ、ナハッ、ナハッ! いひひひ。コマネチ! ナハッ! ナハッ! 甲高い声で叫びながら走っていく。

背を高く見せるためだろう、ツヨシはいつも学生帽のつばを天井に向けてかぶっていた。まるでエリマキトカゲだ。くねくねしたアクションが癖になっているのか、どこからどう見てもカッコよく見えるようにと気にしているのか、走るときもツヨシはぐねぐねしていた。

 

同じクラブだったが、2年になると練習を休みがちになった。廊下で僕を見つけると、走ってやってきていきなり臀部を蹴り、きへへへ! と奇声を発しながらUターンして遁走した。なにをしたいのか、判明しなかったので、僕は首をかしげて唖然としていた。

「権力者と良い大学に行った奴ほど悪いことをするからな。ナハッ、ナハッ、ナハッ。コマネチ!」

走り去りながらツヨシは狂気の声でそう言った。

「いまの内に潰しとかんといかん!」

どうやらそれが彼の行動の理屈なのらしいが、自分の見知っている数人の優秀者の足を引っ張ってどうなるというのだろうか? 日本全国には数え切れない優秀者がいると言うのに。

 

最先端の思想だと思い込んでいる最も世俗的な輩。大衆意識に感化されてつっぱしる暴走俗。ツヨシこそ、この時代の善を身にまとっていたのだ。

「ビートが悪い」

と言う教師もいた。

「いや、矢沢でしょう」

「なめ猫じゃないですかね」

「いや、全共闘ですよ」

「横浜の銀蠅のせいだ」

「なんにしろ、悪平等主義ですな。諸悪の根源は」

というところでおさまりがついていた。腕を組みながら溜め息をつき、職員室でタバコを吸いながら現代社会談義をする教師たち。

芸能人が大衆意識を作り出しているわけがない。あの人たちは、ブームに乗って出てきただけ

相変わらず、緑先生だけは鋭いことを言った。

「では、悪影響はないか? それはあるでしょう。ということは、しかし同時に、良い影響もあるということです。大衆意識は、痛みを踏まえたおおきなうねりなんです。ひとりふたりの人間で作り出せるような、そんなもんじゃありません」

 

仲間に平目というのがいた。

ツヨシと同じ小学校から来ていて、彼も同じクラブだった。小太りで、しもぶくれの顔は仏像みたいにおおきなまぶたが目を覆い、その悟り澄ました細い目の奥はいつも泳いでいた。そうして、終始、小狡そうなあざけりの笑みをたたえていた。

「へっ、そうやってすぐマネをバカにするけど、これがどれほどタイヘンなことか、ゼンゼン知らないんだ、へっ」

バカにしてもいないのに、勝手にバカにされたと言い張り、知ったかぶって仕返しをする輩だった。

平目は、だるんとだらしなく伸びた右の鼻の下に、おおきな丸いホクロが付いていた。『鼻くそ』とあだ名するには大きすぎたのか、どんなに口の悪い連中でも何も言わなかった。けれど、彼の間抜けなかんじをよく表していた。

 

1年生のある放課後、クラブに行こうと運動場に歩いていると平目がパンをかじっていた。

「はらへった?」

ヒラメに声をかけると、横にいたヨッシャが、

「なんちか、この!」

とすごんだ。

「のぼせるな。てーげにしとけ」

自我が軽口に対してどのように反応するのか、わからないでもない。だが、よほど虐げられた家庭環境で幼年時代を過ごしたのだと結論づけて慰めるわけにはいかない何かがあった。

「なんか、文句あるなら、かかってこんかい!」

黙っている僕にヨッシャが言った。

ツヨシはヨッシャと呼ばれ、平目はヒラメマンと呼ばれていた。

横で平目がヘラヘラ笑っている。彼が怖いからではなく、わけがわからず不快だった。無理が通れば理屈はひっこむという言葉を実感していなかった僕は、内心首をかしげていた。しまいにヨッシャは、

「俺と、お前じゃ、身分がちがうんだからな!」

とすごんだ。身分てなんだと僕は思った。そんなものが、いまどきあるのか。彼らの世界では、勉強ができればできるだけ身分が低いことになっていた。自分より成績の良い者は、普通に話しかけてはいけないものらしい。

「この、キチゲエが!」

と罵った。これは異常に勉強ができるという意味のようだった。そして黒っぽい鬼のような顔で吐き捨てた。

「この嫌われもんが!」

この二人は、同じ市内の別の小学校の出身で、そこの強い野球チームに所属していて、中学で一緒になり、羨望の念を持っていたのだが、どんどん不良化していき、しまいには辞めるわけでもなくクラブに出てこなくなった。

ああ言ったこう言ったと、周囲にターゲットにする者のあらぬ噂を撒き散らして嫌わせる。そうやって既成事実を造りあげ、それを根拠に侮蔑しているのだった。

何かやられたからでなく、生まれつき能力の高い者、努力している者、何かに秀でているというだけで引きずり降ろそうとしているのだ。やられてもいないのに、やられたとインネンをつけ、やり返す。おそらくは、彼らに入れ知恵した何者かがいる。

 

日頃から平目のチクチクにイラだっていた僕は、同じようにイラだっていた研二くんが平目を伸したとき、横で「おれだってな、こんくらい強いった」などとすごんだことがある。だから、要らぬことをしてくるな、という意味だったが、平目はそう取ってはいなかったのだろう。これを上背のあったヨッシャに報告したのだ。あれ以来、ヨッシャが絡んでくるようになった。

なにも言わない、なにもしない内から、急に鬼のような顔になり胸ぐらをつかんできたり、例のぐねぐねした格好で狂気の雄叫びをあげながら走ってきて、ケツを蹴って逃げていったり、非常に不可解だった。おそらく同じことを他の生徒にもやっているのだろう。

研二くんに平目がへらへら、へらついて嘲っていたのは、研二くんが男前で女子の人気の的だったからだ。

                      

カッコイイ男子も、豚がお、短足、低脳、無能、ずんぐり、むっつりスケベの平目には攻撃の対象だったのだ。そういえば、覚えたての「むっつりスケベ」という言葉も、平目は誰それ構わずに投げかけていた。

 

ある時、その彼らがチームを結成した

僕らのクラスが美術の授業で別教室に移動していると、そこにやってきて、

 

サベツ、バスターズ!

 

と叫び、二人でポーズをつけた。

これはなんと、ゴースト・バスターズから取ってきた名前ではなかった。まだ、その映画は宣伝も公開もされていない。

プロレスの、ブレーン・バスターから取ってきて命名していたのだ。しかも、複数のsを付け忘れていない。(もっとも、かれらの知っている英語は、What do you say? だけだったろうが)なんというネーミングセンス。

サベツするやつをやっつけていく

と絶叫し、廊下や階段を走り回り、主だった生徒を見つけると罵声を浴びせかけたり、蹴りかかったりした。

三島由紀夫の楯の会もまっさお。

本気で何かをやっている者を嘲り笑う。運動部で活躍している生徒、勉強のできる生徒、リーダーシップのある生徒を見つけると、ぎゃあぎゃあ口を極めて罵り、意気消沈させ、やる気を削ぎ、成績をさげるという戦法だった。また、裏では集団無視を指揮し、陰口を言い、ありもしない噂を流して回るというやり口だった。いったいなんにんの者がこれをやられて嫌な気分になったことだろう。

「ナハッ、ナハッ、ナハッ。今の内に、金持ちと勉強のできる奴は、潰しておかなければならん。コマネチ!」

そんな姿を見て、

「ツヨシはキチガイじゃ」

と笑いながら安田が言った。安田は土建屋の息子で番長風情だったので、ツヨシに対しても言いたいことをズケズケ言った。

 

こいつらは、こんなことをして仲間内で足を引っ張らずに、私服で登校するとか長髪にするとか、大元の権力にでも反抗すれいいのに。大事な大事な友だちを悲しませ、嫌な気分にさせてどうする?

そんなことをすれば、自分が本気で何かを決意してやろうとした時、自分で自分にブレーキをかけることになるのではないか。よくなろう、伸びていこうとする自分を否定することがどんなに自己破壊的なことなのか。

どうしてこいつらは、独自性の勧めとか公平や機会の平等の実現ではなく、結果の平等を要求したり差別撲滅を訴えるのだ?

そんなことをするのは、火に油を注ぐのと同じことではないか。いつまでも自分たちの運動が終わらないようにもっていくのは、いつまでも自分たちが正しいままでいようとしているだけではないのか。

第一、こいつらほど他人の差別している者はいないことなど、周知のことだ。

 

映画 ブリキの勲章

 

3年のいつだったか、学年全員で『ブリキの勲章』を観に連れて行かれた。市民会館だった。

荒れた家庭で育った『つっぱり』の主人公が『禅』を通して改心していくというストーリーで、それなりにおもしろかった。

映画を集団鑑賞させることに同意した教師連の意図は、つっぱったって仕方ないことを覚らせたいだったにちがいない。

けれども、なぜ『つっぱり』がつっぱって見せているか、この映画ではその根本原因がまったくつかめていなかった。

映画の原作本が、拙い、ど下手な文章で綴られており、しかもつまらぬ正義感で見立ててあるので、興ざめだった。『ハイスクール落書き』にしても、どうもこの手の教師目線で『不良』をテーマにしたエッセイや小説はつまらない。

あの時代に『つっぱり』が跋扈した大きな要因に、管理教育があったのではないかとみている。全共闘運動のあとに再発防止をもくろみ、大学運営臨時措置法の執行された大学では『クラス解体』が、中学生にはぎちぎちに規則で縛り付けて身動き取れなくする政策がとられた。それに対する自然な反応が中学生には『反発』という表現方法で出たのではないか。それが横に横にいさかいを生み出し、学校の推奨する規則を守る生徒をいじめるようになった。やられないように髪の生え際を剃り込み、眉を消し、ズボンをぶかぶかにしていく。メンチの切り方を練習し、すごんで見せる。

短絡思考の教師がそれに対してどんどん規則をきつくしていっても、実行するのは優等生やまじめな生徒ばかりで、当の締め付けたい対象たちは規則を破るのが生きがいになっていたから、どんどん教師が閉口するような違反の仕方を思いついた。

『つっぱり』などというのは、管理教育によって捏造され腐った文化に思える。全共闘運動をなんとかしろと言われてムカついた官僚や政治家の腹いせのようにも思える。対処対処対処で狂いに狂ったしわ寄せが中学校に溜まっていた。

この『つっぱり』連中と『差別バスターズ』は異質なものだった。『権力による過度な押し付けや規制に対する抵抗』と『他人を引きずりおろして勝ちほこる欲望』では発想の領域がちがう。

 

教科書ガイド先生

1年時の数学教師は抜群だった。授業は最高に解りやすかった。

あるひ、こんな話をした。1次関数の授業だった。
「X軸とY軸の交差しているここは、○と書いていますが、ゼロ、じゃありません。オーです。この原点О《オー》は、宇宙です。宇宙のどこかです。さしおり、どこか、ここと決めて、そこを基点にして等間隔に離れていく点をとればそれが1、2、3・・・となるのです。あるいは、マイナス1、マイナス2、マイナス3・・・。ゼロというのは、ありません。宇宙には、ゼロがないのです。見えないだけです。形を変えているだけです。あるいは、次元がちがうだけです。そのことに気づくか気づかないか。学問は宇宙を取り扱っているわけでありますから、たとえ2次元平面でも3次元立体でも、あ、いや、宇宙の空間は無限立方と言っていいのかも・・・・」

そんなことを話しながら、答えの出し方を教えていった。けれど、こんなこと(宇宙の真理)を堂々と言っていいのは、科学の中でも数学と物理だけなのだろう。

「僕は、数学が大嫌いだった上に、まるで解らなかった。だから、みなさんがどこでひっかかっているか、よく分かる」

と言うだけあって、このひとの授業を聞きさえすれば、とくに勉強しなくとも高得点が取れた。

「どこが解らないかが分かるので、教える仕事は向いているのでしょう」

彼が学生時代によほどできなかったことは解る。僕が習った中で、その後も、この人ほど教え方のうまい人はいなかったから。デキないところからデキるところに至るまで、相当の努力をされたのだろうと思う。

「でもね、理屈が解るだけじゃダメなんです。こと受験に至っては、デキなくてはならない。それも、制限時間内にです」

線の細い、優しい声だった。

「その単元を理解しているか、していないか、「解っている」と口で説明しても、本当に解っているかどうか客観的に判らないからです。ただ、暗記して、オームのように繰り返しているだけかもしれない。

公平性がない。知能指数の順番に合格させては、逆転のチャンスもない。努力とか知恵とかいう分野が入り込めない。それに、解るだけなら、まあよほどのことがないかぎり、誰でも解るものなんです。その中から、誰かを選ばなくてはならない。それで、問題を解かせて、理解度を測ろうとしているわけですが、今度は、別の問題も生じてしまいます。本当はよく解っていないのに、デキてしまうことも多々あるからです。

デキたからといって、解っているかどうか疑わしい問題もたくさんあります。答えだけを書かせる試験ではそれが多く起こりえます。公立高校の入試やマークシート方式の試験です。同じ点数でも理解度には差がある。それをもっと細かく測ろうとするのが、難関高校や大学の記述式の試験問題です。解っている度合いを正確に測れる問題が良問と呼ばれるものです。作成者側もそういう問題を作ろうと腐心しているのです。明治以降、試験の歴史が始まって、もう百年ほど経ちましたが、いまだに、完璧な問題はできていません。常に改良改良の歴史です」

 

こんな話、ほとんどの生徒には、その人生に無関係なことだろう。けれども、解らない、デキない生徒も自分のことのように愛らしく思えているのにちがいない。

 

「デキるには、訓練が必要です。始めは訓練です。むりやり一緒にいるんです。まるで、お見合いで結婚した夫婦みたいですね。いつも一緒にいる。寝食を供にする。数学の問題集をいつも持ち歩く。いつも解けない問題のことを想っている。そのうち、問題集が手垢で汚れてボロボロになってくる。だんだん、愛着がわいてくる。そして、慣れに慣れて、楽に、苦労せずにデキるようになったころ、周囲が天才だの、ひらめきがあるだの言い出すのです。本当は、いつも一緒にいて慣れ親しんで、数学とすばらしい友情が芽生えただけなんですね」

 

この先生の話が身にしみて解るには、それなりの気と時間を数学にかけなければならなかった。やらずに、ふわぁーっと聞いているだけでは自分のものにはならなかった。

 

「そうなると、理解を超えて、分かる、分別がつく、問題文を読んだ途端、じわっと解法が浮かんでくるのが観えるようになります。みんなも仲の良い友だちのことは、厳密な弁明を聞かなくとも、ツーカーで分かり合えるでしょう? それと同じことです」

 

「いっ科目でもいい、そういう科目を持ってください。もし、中学、高校の間にそういう教科を持てたら、幸せだと思います。そしたら、不思議と他の友だち(科目)とうまい関係を結ぶ方法も分かってきます。でも、僕らの仲はもう大丈夫と思い上がらないことです。そうなると、築き上げた友情は、もろくも崩れ、また、苦手な科目に戻ってしまいます。常に、相手のことをより深く、より高くわかっていくよう視野を広げてください。でないと、親密な関係は保てません」

 

不思議なことに、この人からはデキない者への優しさが滲みだしていて、本当に責任をもってそんな大逸れた宇宙論を語っているのか、試してやろうという気は起きなかった。

 

また、こんなことも話された。

僕らの1年生の頃までは、教科書に『集合』の単元があった。ところが、テレビのコマーシャルにも出ていた、

「有名な数学者が、こんなもんやったってしょうがない」

と言ったので、単元から消えたのだそうだ。

広中平祐さんだったか。集合は好きだったので、残念だなと思った。

有名な数学者の鶴の一声で何を勉強するべきかが決まる。数学って、そんなものなのかと思った。

それ以降、学習単元から削除された。

「この単元をやるのは、みなさんで最後です」

と言った。

僕は得意だったので、ちょっと残念だった。

 

こんな素晴らしい教師から習っていたにもかかわらず、僕は学校の数学や受験数学に重要な意味を見出せないでいた。

ともかく、その先生の場合、授業を聴いているだけでよく理解でき定期考査でも高得点が取れた。この先生は百点の教師だった。

 

ところが、

2年生の時の先生は、0点、もしくはマイナスの教師だった。

ずいぶん歳をとったおじいちゃんで、いつも15分遅れてきて、ずっと雑談をする。世の中に関する持論を述べるのであるが、毎回同じ話だった。

そして残り10分で、教科書の練習問題の答えを黒板に書く。それでおしまい。解き方は教えない。ときどき時間配分を間違えると、答えを書いているあいだにチャイムが鳴り始める。

授業が終わって先生が退席すると、クラスで1番と2番の生徒が、ふぅーっとため息をつく。安西女史と瀬戸橋くんだった。

これではさすがに勉強にならない。

彼らはまだ塾に行っていたようなのでなんとかなったと思うが、授業だけ聴いてテストに挑んでいた僕は全くのお手上げだった。あるクラスメイトが、

あいつは、教科書ガイド先生だ

と言った。彼は一番うしろの席にいたが、なかなか観察眼が優れていた。

「なんで?」

と尋ねると、

「おれも全教科持っているからわかるけど、あいつはいつも教科書ガイドの答えを写している」

と言う。次の授業の時に教師の持ってきて机にこづんだ本を見ると、確かに数学の教科書ガイドだった。

もともと、

「社会を教えていたのが数学に回された」

と愚痴をこぼす。不本意な担当を割り当てられて、不貞腐れていたのだろうか。戦後のどさくさで、教師が戦死したのと教育制度が改まったための教員不足を補うため、旧制中学しか出ていないのに採用され、そのままもぐりで居座った。そんな教師だった。

 

公立中学の教師はこんなものだと1年生のときに担任の先生が言ったのを思い出した。

「教え方の非常にうまい先生、それからあまり上手でない先生。どの先生に当たるかは運不運です。しかし3年間で平均すれば、皆同じくらいになります

3年生の時の数学の教師の記憶はまったくない。おそらく可もなく不可もない50点の教師だったにちがいない。100点足す0点足す50点で平均50点だったのだろう。

 

さて、あだ名の命名者は、出席番号順にかわるフクトの実力テストの時には僕のすぐ後ろに座ることになる。試験中、うしろからカラン、コロンと音がしていた。そして試験の終わりに答えのプリントをもらうと、やった! 当たった。と拳を握って喜んだ。

「どうした?」

と問うと、自慢の道具を見せてくれた。

カンペンケースに入った細工入りの鉛筆たち。ほとんど記号選択の問題しか出ないフクトのテストは彼の独壇場だった。6角形をしている鉛筆は[1から5の番号から選びなさい][あ~おから選びなさい][aからeから選びなさい]の全てに対応できた。

彼は鉛筆の尻をカッターで削り、ーー鉛筆はどれもフルサイズのままだった、そこに数字やアルファベットを書き入れ、試験の時にはリード文など読まず設問だけ読んでアルファベットかひらがなか数字かだけ判別するや、まるで釣り師がその時々のハリスやウキを取り出すように、カンペンケースから適切な道具を引き抜くのだった。祈りを込めて机の上に転がす。

そうして、

「よっしゃ! きょうのしけんは、勝った」

と言うのだった。

0点を逃れ、5問くらい正解を当てると、勝ちなのだそうだ。かれは、200点満点のこのテストでだいたい30点から40点、得点していた。

6面ある鉛筆に1から5まで書くと1面あまる。

「なにも書いてない面が出たらどうなるのか?」

と尋ねると、

「もう一回ふるだな」と言った。

スゴロクか?

この学校では学年1位が180から185点、最下位が3点ほどだった。まったく問題を読まず、考えもせず、解きもせず3、40点をもぎとり、試験を勝った負けたで表現する彼は『教科書ガイド』先生の上を行く策士だったのだろう。

ところで彼が教科書ガイドを毎日学校に持ってきているわけは、万一、授業中に当てられ答えを言わされたり、黒板で解くことになった時の用心のためだった。

 

教師の中にも、『デキる先生』と『解説をなぞっているだけの先生』がいる。後者がいわゆる教育職員で前者が実力者なのだ。質問に行くなら実力者のところでなければ、苦い顔をするだけだ。

 

 

その2につづく