十五の春を泣かせるな

 

ー1983年1月の終わり頃ー

 

職員室に行くと、

「福島に下げるかね?」

と緑先生が尋ねてきた。「そこなら確実に受かるが」

福島というのは、福島高校のことだ。

いえ、八女にします

どういうわけか、なんの淀みもなくきっぱり答えていた。

3回あったフクトのテストで、僕はちょうど当落線上にあった。135点くらい取っていると、だいたい合格と言われていた試験で、僕の点数が伸び悩み、125点とか、それ前後だったので打診しているのだろう。

「福島なら、上の方で通るけどね」などと先生は補足して話された。「国公立大にも少しは通るよ」

絶望的に英語と数学ができていなかった。国語と理科・社会はどれも40点満点中、ほとんど授業だけで30点前後取れていたのに、英数は20点くらい。棒グラフが2本だけ凹んでいた。

実際の入試の合格ラインがどのくらいなのか僕は知らなかったが、フクトより簡単な試験だから、145点か150点かそのくらいだろうと思っていた。

そこが上から80%のラインで偏差値で言えば57の地点だった。

八女高校は第10学区の公立トップの高校だった。そこは久留米附設やラサール、愛光、修道、青雲などの東大進学校に進まない限り、上位層から中堅層までが受験し入る田舎の進学校で、偏差値にすると55から73くらいの幅広い生徒がいて、45人ほどいた中学のひとクラスから上位7人は合格する。この中学からは毎年、60人から80人くらい進学する。

3回目(1月実施)のフクトが2回目(10月実施)より上がるどころか下がったことで、先生は受験先を思案されていたのだろう。10月から11月にかけてはまだ勉強に手をつけていなかったことは明白。偏差値も55くらいで、1月30日から2月2日までに出願手続きをしなければならない日程上、受験先を確定しなければならなかった。最後の最後に変更のチャンスを持たれたのだろう。

尚も先生は続ける。

「五木寛之が第1期生で、昔は難しい高校だった」

と魅力を語ってくれた。この人は、本当に僕の将来のことまで見据えてものを言ってくる方だった。僕だけでない。クラス全員、ひとりひとりを親身に思い、いまの時点での最も適切な人生の選択を考えてくれた。そのことが先生の声の張りからにじみ出ていた。

感謝で頭がさがる。

 

福島高校は1954年(昭和29年)には九大に12名、東大に1名の合格者を出している。50年代の九大合格者数は、1955年は八女が8名のところ福島が10名 1956年は八女が6名で福島が11名と八女高校を上回っていた。

ところが、70年代の終わり頃には第10学区の成績上位層はすべて八女高に流れ、この年、昭和57年の福島高校の難易偏差値は53だった。

「場所も、自転車で行けるし、たいした距離じゃない」

とおっしゃった。ところが僕には、福島高校がまるでイメージできなかった。先生が行ってみなさい、と勧めたので同じクラスで福島を受ける友達と行ってみた。けれど、そこで試験を受け、そこに通う自分がまったく想像できないのだ。かといって、八女高校に殊更の思い入れがあったわけでもない。プライドとか、「せめて」とか、見栄とかそんなものでもなく、ただ、そこしか思いつかなかったのだ。

変えません。八女を受けます

と僕は答えた。

膨大な勉強量と強烈な意志に裏打ちされた揺るぎなき自信。

だったわけでは断じてない。僕は全国の受験生どころか、同じ中学の生徒がどれほどの熱量で勉強に打ち込んでいるかなど、まったく気に留めていなかった。

けれども、あとひと月、受験日までに合格目標の150点以上にもっていける目算はあった。

 

どうして僕が八女高以外に思い浮かばないのか? それはなんとなくでもあったけど、僕の心にずっとあった想いだ。母方の祖父は旧制時代の八女中学に行って、五高をめざしていたそうだ。ところが、家が保証人倒れして中途で中学を辞めて家業を継いだのらしい。そういう怨念も僕には引き継がれていたのかもしれない。

僕の住んでいる地域では、ほんの30年前までは旧制五高に行くのが誉れ高きエリートの道だった。佐賀高校や福岡高校や七高ではなかった。その雰囲気がまだ町には残っている。努力して五高に行った者の勉強三昧の日々がいまだに伝説として語り継がれていた。新制の熊本大学となってからも、その威光は輝き続けていた。旧制高校の破天荒ぶりや哲学沈潜の学生生活などが町の人や教師の口から話されていた。憧れを持つのにふさわしいのは、旧制高校だった。『志望』という言葉に熱烈な想いを込められるのは、旧制高校だった。第五高等学校が存続していれば、僕は一も二もなくこころざした、と思うのはないものねだりだろうか。

   

明治期                  大正期

 

実際僕は小学校時代(1978年ごろ)にドライブがてら母の先導で父に熊大を観に連れて行かれたことがある。始めて見た大学は熊本大学であった。だからだろうか、僕の旧制ナンバースクールへの憧れは旧帝大へのそれを駆逐した。けれども、僕の心の奥底にあった想いを自覚したのはずっと後になってからのことだった。

ところで、旧制の学校制度を廃し6334制を導入したのはGHQや教育刷新委員会の仕業だと吹聴する者がいる。けれども、そうではない。たしかに、GHQの要請ではあったが、無理やりに押し付けたのではない。1945年当時の日本有数の教育者が集まって話し合った結果、変えたことだ。

中等学校ーー高等学校と進めた者にとってはよいが、他の進路をとった者が袋小路になって出られないことが何度も繰り返し議論された。もう、エリート養成の必要もなくなった。開国からの課題であった国家防衛も『最終戦争』を経た後となっては、それのために全国から才能を選りすぐって教育する必要もなくなった。明治建国の理念は終えたのだ。

『日本が堕落した』のは、アメリカ文化の流入のせいばかりではない。日本国みずから自由の度合いを広げたのだ。それが、大衆教育と、いつどこからでも最高学府に進学できる制度への変更だった。

早めに人材を見つけてまっすぐ大きく育てることから、おのおのの成長伸度に応じて育っていけばよくなったのだ。したがって僕のようなおっとり型、刻苦勉励の意義が分かるのが遅かった者にとっては好都合だったと言える。

 

僕の返答を聞いた緑先生は、

「そうかね」

と同意し、意向通り願書を出してくれた。
この季節、『十五の春を泣かせるな』というスローガンのもとに高校全入運動が盛んだったのはなんとなく耳にしていた。翼をくださいだの十五の春を泣かせるなだの、いかにも好みでない緑先生が僕に受験校の再検討を促したのは、私立高校に行くことの悲惨さを知っていたからかもしれなかった。

 

 

十五の夜

いつのことだったか。
5限目の授業が終わり掃除が済んだので、教室を出て廊下を歩いていると一つの教室にヨッシャを含む数人が集まっているのが見えた。
打ち合わせをするようにヒソヒソ話していた。
次の朝行くと、
学校中のガラスが叩き壊され、廊下や壁には消火器が撒き散らしてあった。鉄筋コンクリート3階建ての新校舎で、まだ真新しかった。
                  
みんなで掃除をした。やつらは雲隠れしていた。
それまでも、授業中に警報機が作動することが度度あった。あれは前アタリだったのだろう。先生たちは話し合い、鳴ったらすぐに現場にかけつけた。それを繰り返していたら、警報機はやんだ。ーーそして、これだ。

刑事が来た。
家が中学校の近くだからか、僕を疑っているのか、それとも情報通の僕なら知っていると聞いて来たのか。けれども僕は、
「知りません」
と答えた。答えている最中に母が横に来た。刑事は母には何も説明せず、僕の返答にちょっと首をひねったがすぐに退散した。
翌日には犯人が捕まった。
7、8人ほどで夜中に金属バットや鉄パイプで叩き壊して回ったのらしい。やっていたことはあとで尾崎が歌った『卒業』の通りだった。全国の中学で流行っていた。
誰かがタレ込んだのか。事情徴収で見当をつけたのか。
「正座させられて、ボコボコにされた」
とあとで安田が楽しそうに話した。警察署での取り調べの様子を。
ガラスは2、3日中には全て入れ替えられた。
傷つきやすい彼らのハートはきっと粉々に砕けていたのだろう。進路と厳格な規則の押し付けに。

 

 

二十四の瞳

昼間に再放送されたテレビドラマを観て、母が興奮気味にその感動を口にした。
「あんな先生のクラスで勉強したかった」

 
彼女の歓喜に共感する術のない僕は黙っていた。「ねえ、あんなせんせいの、あんなせんせいの」
悔しそうに、泣き出しそうな声で繰り返す母の感激に、テレビを観ていなかった僕は共鳴できないでいたが、きっと素晴らしい先生だったのだろうと思った。
幾人かのクラスメイトが緑先生の回りにいた。この人のいるライ麦畑では、軌道を逸してはしゃいでも、ワル乗りして踊っても、ふざけて駆け回って落っこちても、ゼッタイに捕まえてくれるという安心感があったのか、センセイ、センセイとキラキラした目をして集まっていた。
「二十四の瞳は素晴らしいですよね」
母の言ったことをそのまま自分で思ったことのように緑先生に言った。すると、
あんなドラマが一番駄目です
と切って捨てた。
意外だった。先生がこんなふうに全否定するのは珍しいことだった。
先生の周りにはいつも生徒がいて騒いでいたが、決して常軌を逸する生徒は出てこなかった。このクラスでは、奪ったり破滅的になったりといった、暗い不良行為を行う者は出なかった。
私を堅苦しい枠に押し込むのは、やめなさい。私は学校管理者から目を付けられているアクニンです。私は、『二十四の瞳』といった小説が大嫌いです。教師を理想化してはいけません。教師も」
人間です。
などとは、付け加えない。それは、自分に対する甘さ、失敗の擁護でしかないことを知っているのだろう。
自分で自分の理想像を選ぶ権利があります
と、言った。

教師を主人公としたドラマといえば、この時代に流行っていた『金八せんせい』なる番組を僕は一度も観たことがない。親戚の叔母は、あんな先生がいれば・・・と従兄の進路指導に不服そうであったが、僕はあのドラマを観たところでなんとも思わなかったにちがいない。


ずいぶん後になってリバイバルか何かで観たとき、ずいぶんしょってるな、と思っただけで、心酔するなどなかった。

緑先生があんなに言うから、僕はあとになって小説を読んでみた。なんというか、昔の、日本の、村の、田舎の、素朴な人たちの、戦争の、センチな、慰めの、・・・・、終戦直後の日本には受けたのだろうが、作者の反戦を美化した思想がやや鼻につく。
淡々と描写し、主張しない漫画『この世界の片隅に』のリアリティには及ばないと思った。

だいたい母は『二十四の瞳』が戦争のない平和な暮らしを強調するために新米教師と村の子供たちの心温まるふれ合いを仕込んでいることを読み取れたのだろうか? そんな作者の意図も分からず、母は感傷に耽ったとしか思えない。
緑先生が嫌いなわけが解った。こしらえごとなのだ。反戦を訴えるために理想化され美化された教師と子供たちのふれあいは全く現実的ではない。空虚で空想的なもので、実体や実感がない。

学校の管理者から目を付けられているアクニンの方が、実際には理想の教師であることの皮肉。

 

 

受験直前期の新聞配達

上尾くんに誘われて秋から新聞配達なんぞした。受験前だけどなあ、と思いながら、販売店の景品か何かなのだろう、『高校入試の徹底研究』なる冊子をくれると言うので、それが理由ではなかったが始めることにした。夕刊。
        
きっと、配達員に窮した店長が、誰かいないかね? と勤勉な上尾君にぼやいたところ、僕にお鉢が回ってきたのだろう。
上尾のことは幼稚園の頃から知っていた。極貧の家庭で、小学校の高学年の時から新聞配達をしていた。朝夕、大量の新聞を自転車のカゴに乗せてペダルをこいできた。彼にとって新聞配達は日常生活の一部だった。
両端を残して左手の3本の指がなかった。小豆に爪のついたような小さな指が3つ付いていた。幼稚園の時に、どうしてそうなったのか、と尋ねたら、かれは「電気のコンセントに鍵を入れたらショートして指がなくなった」と答えた。ずっとそう信じていたが、もしかすると生まれつきのことを親がそう言ったのかもしれないと後になってから思った。
最初の何回かは、上尾くんが配る家を案内して教えてくれた。
一緒に新聞を配りながら、
「何点くらい取っているの?」
と聞いた。
「145点くらい」
と彼はいつものか細い声で答えた。
毎日、朝夕、雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も欠かさず彼はこの5年間、新聞を配り続けてきて、しっかりと合格するくらいの点数を取っていた。
幼稚園の頃には何も気にせずいたのだが、中学の時には自分の指のことで悩み自暴自棄になったことがあったようだ。ある時泣いている彼を見た。指をいじった跡があった。ちぎろうとしたのか、付け根が3つとも赤く滲んでいた。
同じ指をしている男の人を何十年も経ってから本州の山奥の朽ホテルのフロントに居たのを見た。顔もちがうしメガネをかけているし体格もちがったので別人だったのかもしれないが、指はそっくりだと思った。あんなにそっくりな指をした人がもう一人いるのか? と思ったのが、生まれつきだったのではないかと思い直したきっかけだった。
1ト月に9千円だか1万円だかもらった。久留米のベスト電気まで行ってお気に入りのヘッドホンを買ったりもした。みつきくらいはやったろうか、辞めた。というか、受験が迫ってきたからという理由でお役ご免となった。
上尾くんは有明高専に受かった。
僕が大学に受かった年に汽車の中で会ったことがある。彼は高専の5年生だった。凄いなあ、と感心してくれた。指のことは気にしていないようで安心した。

僕が新聞配達をやってみようかなと思ったのは『がんばれ元気』に出てくる火山少年に憧れがあったからでもあった。貧乏人の家の端くれとして一度くらい新聞を配らないでどうする、という思いだ。上尾くんと違って、ほんのお遊びでしかなかったが。

 

 

コソ勉の川原くんとアラッケ

大塚デパートの屋上には中学1、2年生の頃によく上がった。コンピューターゲームが置いてあったからだ。
    
    平安京エイリアン            PAC-MAN

この頃には1回50円だとか50円で2回やれたのでほんの100円か200円あれば、十分堪能できた。もちろん、学校は禁止していた。僕と僕以外のほんの数人が屋上にまであがる生徒だった。日曜日に生活指導係の教師が連れ立って監視しに来ることがあった。僕も1度出くわしたことがある。ちょうど階段を降りていた時だったので現場を目撃されることはなかったが、ちょっと嫌な気がした。ホームルームで彼らは、ゲームをすると不良にからまれるので行くなと諭した。それでゲームのあるところに行くのが禁止だった。
なんだか手前勝手な理由だと思った。僕は日本に初めて登場したパーソナルコンピューターとプログラミングに興味があったのであり、それを忌避させるような観念を植え付けるのはどうかと思った。
しかも、繁華街やデパートやゲームセンターには『不良』どころかどこもガラガラで、そこに行く僕たちを規則違反の不良と認定する彼らの知能の程度が不可解だった。

大学1年になった春、帰省した際、数年ぶりに大塚デパートに寄った。服を買うためだ。どれにしようかと眺めていると文房具を買いに来た川原みのり君が現れた。小学校6年以来話したことはなかった。中学では同じクラスになったことはなかった。
「大学、どこ?」
と聞いてきた。答えて、たずねた。
「東北大の文」
と小さく言った。

なるほど、と思った。
彼は小学校時代にコソ勉をしていた一人だ。磯部のように堂々と志望を打ち上げ、中学受験をするために久留米の全教研に通うのではなく、なにやらコソコソやっていたのだ。なぜ、コソコソというかといえば、悪い意味ではない。みのり君は勉強をやっている風にもかかわらず、テストで僕のようにいつも100点でなかったからだ。だから、勉強が目立たなかった。
僕のように走るのもクラス1位で市の小学校6つを集めた体育大会でリレーの選手に選ばれたり、野球チームのレギュラーで鳴らしたり、表彰があるといつも賞状をもらうことはなく、学校が終わるとさっさと家に帰り、遊ぶこともなかった。しかもおかっぱで濃ゆい眉毛がみけんのところで繋がっており、大きな目に濃くて長い睫毛で、分厚い唇で、歩き方も牛をおもわせる風態で、おまけに歯茎から血が出ているタイプだったので、女子にも人気のある方ではなかったと思う。
   
ただ、漫画が面白かった。彼の描く漫画は絵が独特で話も奇怪でおもしろかった。人付き合いは、ちょっとつんけんしたところがあり、むしろ僕を毛嫌いし敵視さえしている風だったので、あまり好きではなかった。(僕の周囲を気遣わない態度や目立っていることへの警告もあったろう)
彼は大塚デパートのすぐハス向かいの古い家に住んでいた。聞くところによると、父親が早くに亡くなり母子家庭で貧しい暮らしをしているようだった。

ちょうどその頃1970年代の終わりに、同じように3畳一間に寝起きする激貧の母子家庭出身の少年が、努力の末に難関国立大に合格したというニュースが流れていた。さっそく父と母は小学生の僕に、そのニュースの少年を引き合いに出して説教した。
「親がダメでも子供がしっかりしていれば、どんなことでも成し遂げられるんだ」
僕はみのり君のことと重ね合わせながらも、なんだか、おもしろいことを言うなあと思っていた。
中学3年生の終わりに、愛光や青雲、修道など難関私立高校を数校受けたが玉砕し、西南高校に行くことにしたとまでは人づてに聞いていた。西南高校は福大大濠と同じで、落ちていくところというより、修猷館や筑紫丘あたりにチャレンジしたがわずかに及ばずといった優秀な生徒が集まるイメージがあった。
それを知った時にもちょっと、
なるほど、と思った。
3年間、彼が学年1位になり名前が知れ渡ることはなかった、ーーそれゆえに妙なねたみの餌食になることもなかったろうが、小学校時代からやっていた勉強を続けていたのだとわかった。難関私立高校を受けている時点で、かれの隠れた志向が見え隠れしていた。
そして、東北大の文学部だ。
1年浪人して入ったのだそうだ。親しげに声をかけてきた彼にかつてのわだかまりは覚えなかった。なんとなく、互いに分かり合ったような、同志になったような気がした。それは直木と再会した時にもあった感覚だった。僕の、というより彼らの安心感を感知したのではないかと思う。話の解らぬ田舎モンスターではない者として。
僕は白いジャケットを買い、デパートをあとにした。

小学校のクラスにはもう一人、コソ勉のアラキくんがいた。かれはおっとりしていて、クマのプーさんに似ていた。アラッケと呼べれていた。
             
成績優秀なお兄さんがいて、そのせいか小学生なのに中学の参考書で勉強していた。いちど社会で教科書に書いてあることが解らず彼にたずねると、これがいいよ、と中学の参考書を持ってきて貸してくれた。
「難しいけど、詳しく書いてあるからかえって解りやすいよ」
と言った。たしかにそうだった。やはり運動ができるタイプではなかったし、勉強でも目立たなかった。特に家庭環境が悪いわけでもなさそうだった。歯嚙みして刻苦勉励という風でもなかった。おっとりしていて、いつも涼しい顔でいた。頭の切れる印象はなかった。愚鈍でもなかった。どこか近所の塾に行っているとは言っていた。が、僕はそれをズルだとか羨ましいとは思わなかった。勉強は学校でやって事足りるものだと思っていたし、人が塾に行く時間に僕は野に山に、川にと駆け回っていた。
彼のことは中学3年間まったく知らない。すなおに八女高に進み、その3年が終わった時に九大の工学部に入ったと聞かされた。この時にも、
なるほどと思った。
小学生の時には中学生の参考書で、中学生の時には高校生の参考書で、高校生の時にも常に1学年上の勉強をしていたのだろう。お兄さんも九大だったそうだ。

二人とも、僕のようにリレーの選手に選ばれて緊張したり、うまく走れずに悲しかったり、練習の時に監督の教師に罵倒されて嫌な気分になって落ち込んだりすることもなかった。学級長になってクラスメイトの目に晒され妙な期待を背負わされることもなかった。野外で遊びまわることも、ゲームセンターに行くこともなかった。

           
帰宅組だった彼らは運動で注目されることもなく、勉強でも学年1位にはならなかったので勉強のできない振りを演じる必要もなく、クラブの中での程度の低い余計なことに関わることもなく、いるのかいないのか分からない存在感の希薄さを利用し、己の分と特性をわきまえその範疇でやることをやったのだろう。
飲み会での思い出話しのタネにしかならない無駄ごとと豪語する人もある、中高時代の委員会活動や放課後のクラブ活動や遊び。人間力はトータルだから、学歴はその1部であって全体ではない。他の要素がなければ進んで付けるものではあっても。
ーー体験や経験の幅と深度は職に就いた後に差を出し始める。

 

 

馬鹿ががんばって30点取る方が

 

価値がある、と緑先生はおっしゃった。秋、普段はやらない屋上の清掃を全校生徒でやっている時だった。

「この歳になって、やっとそれなりに答えられるようになった。なんでも質問して」

中学生の投げかける難問奇問に答える、と言っているのだ。

緑先生は、縁の黒い大きな眼鏡をかけていらっしゃって、髪の毛はまっしろでサラサラしていた。素性はまったく知らない。ただ、「母校に帰ってきた」とおっしゃったので、この中学が旧制の青年師範学校の時代に学ばれたのだろう。その後、高等師範に進まれたのか、進まずに教職に就いていろいろな中学を回った末に赴任されたのか、僕は聞いたこともなければ先生が話されたこともなかった。

 

ところで僕は、偏差値55から61くらいをうろうろする中途半端な生徒だった。1年生のころは定期試験前にはそれなりに勉強していたのが、2年になると全くしなくなり、3年になってもやらず、夏の中体連で、入っていた野球部が1回戦で負けたあとにようやっと、取り掛かり始めるのを始めたのだった。

それでも定期試験ではそれなりに点数が取れていたけれど、3年も後半となってくれば、みな勉強し始めたので、クラスの順位も学年順位もじりじり下がっていった。評定も意欲のある生徒に高くつけたいのは人情なのだろう、定期考査の点数の順位から予想される数値より低めだった。また4教科は、先生の好き嫌いで評定を付けていることが、いくつかの実験の結果、確信した。

まさに当落線上にいて、第3回の実力テストが第2回より上がるどころか下り、合格は確実ではなかった。

 

どうしてこんなことになっていたのか? それは、中学1年の3学期の期末考査をもって、僕は勉強停止を宣言していたのだった。

その試験は、45人ほどいるクラスでおそらく1位だった。というのは、どういうわけか、この試験だけクラスの順位を出さない、と副担任だった緑先生が言ったからだった。

1学期2学期とそれまで、上位3番か4番だったので、1番だったKを抜こうと最後はそれなりに取り組み、返ってきた答案の点数を成績上位者で見せ合ったところ、Kよりも取っていたからだった。

でも、僕はそれを最後に定期テストの事前勉強すらしなくなった。僕が『学校の勉強はバカらしい』と思った理由は次の通りだった。

ーーそのことをめぐって、僕は奈緒子と1年生の終わりに喧嘩して以来、話さなくなった。(具体的には述べない)

 

① 繊維産業に携わる女工の過酷な労働のわけが「経営者が女工を機械の一部だと見なしていたから」でなく『生糸の需要が急激に増加したため』になっていたこと

② 大阪城を建てたのは誰か? の答えが工夫でなく『豊臣秀吉』になっていたこと

  ・これら学校の提示する正解は、事実というより信念の押しつけや操作に思えた。

③ 学校で数学を勉強する理由が『点数を取る』以外に解らなかったこと

④ すでに答えの印刷されているるテストを450人の生徒が朝から夕方まで取り組んでいること

  ・その労力と知恵を未決の問題に出し合えばよほど効率的だと思ったのと、450人が前を向いて問題を解いている姿が個人主義的で競争主義的で排他的で、友人との戦いを強いられているように思えた。

⑤ 知識を得るだけでなく、なにをどう『思う』かが大事だと確信したこと

 

これらの理由で勉強を停止してしまったので、2年生も終わりになる頃には、そう思って自らやめたことすら忘れる有様だった。意識が蒙昧となり、薄弱となり、自分が何者でどこに行こうとしているの、どうなりたいのかさえ分からなくなり、ぼぉーっとした亡霊のような父親のようになっていたのだった。

最低だったのは、自分で大事だと宣言した『何をどう思うか』が、下に下に同化していき、愚かで曖昧模糊としたものに成り下がっていったことだった。クラスにある雰囲気に流され、学校にある雰囲気に流され、両親と妹と住まう家の雰囲気に流されていったのだった。

痛みを伴って思い出したのは、これから半年後、高校1年の夏頃のことだった。勉強をやめて2年半が経っていた。

 

結論から述べるけれども、挙げた5つの理由で、

だから勉強し、勉強の意義を解るようになる」

でもよかったのだ。

理由と『勉強を止める』には必然性はない。僕が勝手に結びつけていた。

 

であるから、僕が受験直前期まで得点力がなかったのは、家の雰囲気のせいばかりではない。というよりそれは関係ない。(あったとしても、なかった)あまり好ましい影響とは言えないが、得点力に関しては、僕の意思の産物だった。

 

ということで、疑問を解消するべく、僕は緑先生に問いかけた。

 

「答えを出すために問題を解くというのは、確かに学問とは逆のことをやっているね」

先生は、いつもこうして、僕の言っていることに重ね合わせて、自分の意味に変えて話しをすすめた。その度に、僕は『あなたの考えも一理ある』と認められたようで誇らしかった。おそらく彼女が、誰の言い分も否定せず認めるのは、どんな考えも分断されていないひとつのグラデーションに属していると見なしていたからだろう。

学門(科学)とは探求と究明、発見であって、誰かが制作したクイズの答えを当てることではない。

が、しかし、と先生は別の観点から話し始めた。

学門に限らず、全てのことは答えが先にあって、そこから答えに向かって出発していくものです

もちろん、それなりに早口で話す先生の言葉の意味や意図をこの時の僕が的確につかんでいたはずはない。

「けれども、頭の中ではこれを逆に捉えることができるから不思議なことです」

ーーこんなこと聞かせるのは、いまのあんたたちには、毒だけど、と前置きして続けた。

勉強していった先に、すばらしい結論が待っていると考えているのは、お利口馬鹿です。頭脳明せきな幼稚園児です。そういう人は、大学の研究室によく見受けられます

幼稚なままお勉強して、30年かかって幼稚な結論をだす。退官論文で、積年のうっぷんを晴らして終わりです」

 

皮肉でも嘲りでもなかった。他人の人生を勝手に達観したかのような言い方だった。当然、この時の僕にこんな観察ができていようもなく、ほとんど理解できなかった。先生は続ける。

「飛行機は理論が先にあって飛んだんじゃありません。飛ぶことはわかていて、後から理屈がついたんです。

 

人生もそうです。志と呼ばれる最高の目的を見つめて、そうである自分を証明していく。なにごともかわりありません。

 

理性の極地だと見なされている数学にしたってそうです。定理の証明には解いた人の個性が出ます。破綻や飛躍がなく定理が真であることが示されているだけのことです。それはそれを証明した人のアプローチの仕方であって、同じ定理を別の角度や切り口で証明したって構わないのです。誰かが歩いた道を自分なりの斬新なやり方でもう一回歩けば、それは自分の人生を生きたことになるでしょう。

 

まあ、そうは言っても、誰かが到達すれば、あるいは突破すれば、あとはそこに行くのがかなり楽になるのは不思議なことですがね。先駆者というのがいかに偉大か、ひとびとが壁だと思っていたことを打ち破ったのですから」

 

それを聞いた僕は、

「理想を持つのが大事なんですね」

などと、お安い結論を述べた。すると、

「理想だけ持つのも馬鹿。地道にやるだけも、馬鹿」

大声で先生は言いきった。

「最高の目的を抱き、しかし常日頃は、低い、ちいさな目標を達成して喜ぶ。これが、秘訣です」

 

なにも実のある話しを聞かなかった印象しかなかったが、しかしこうして振り返ってみると、僕は実によく緑先生と話しをしている。

 

「努力が大事ですよね」

と僕はまたしてもツマラナイまとめ方をした。

「頭が良いなら、馬鹿みたいに努力すればなんとかなるけど、頭が悪いなら、知恵を出して、工夫してやらなければ成績はあがらないね。努力すればなんとかなるって言ってる者は、頭が良いと自負している者だよ。自分が馬鹿と認めたときから、人間は心の眼を開き始めるもんさ」

 

そうして、

「馬鹿が頑張って30点取るほうが、利口がスラスラ90点取るより価値があります」

と、続いたのだ。

つまり、生まれつきのディスアドバンテージを知恵と工夫によって挽回したのだから。

と、今では簡単に把握できることでも、当時は、先生が何も実のあることを言っているように思えていなかったた。その言葉の重さに気づかなければ。

知恵と工夫は知能指数を超えた、霊性の開花であるのだ。本物の知性とはこれのことだ。アインシュタインも大学入試には失敗しているではないか。

教育の目的とは、いかに霊性を啓かせられるか、そこにかかっている緑先生の聲が聴こえてきそうだ。

 

しかし、多くのクラスメイトの心に響いているところをみると、僕より他の級友たちは自分に素直に生きていたのだろう。

こうしてみんなの前で言うことは、全員に共通することで、僕の疑問に的確に答えているようにその人に合ったことを言っていたのだろう。

しかし、口の悪い連中からは、このあたりの方言で、

「あっちよかごと、こっちよかごと」

八方美人だ。

と陰口されていた。そんな声は、僕にはトンと聞えてこなかったが、先生は自分で言うのだ。調子を合わせているというより、そうとも言えると認めているように聞えた。

あまりの人気に、おべっか、生徒にこびている、口に出しては言わなかったが、同僚からはそのように見なされていた。と緑先生は自分で言った。
口ばっか
なのだそうだ。
口だけで最高の教育ができるなら、生徒一人一人の心を開き、自分の道を自覚してしっかり歩んでいけるのなら、それに越したことはないのではないか。と僕は思った。
中学で嫌われている教師というのは、いわゆる依怙贔屓する人だ。つまり、自分に都合が良いかどうかで、生徒の善し悪しを判断する教師である。

彼らには、生徒は幼稚だから、宿題を出す出さない、規則を言う言わないなど自分に都合の良さだけで好いたり嫌ったりしているように見える。だから、生徒に好かれている教師は生徒に媚びているとしか見えないのである。それを遂行するのが、職務であり、また生徒の将来を心配して、あえて厳しいことを言う教師がひがんでいるのである。
「あいつは、何もしていない。口だけだ」
実際、この人は、他の教師のように職務をまっとうしてはいなかった。
そう。口だけ。舌先三寸で、なにも為なくてもうまくいくことを彼らは知らない
と言った。
規則を作る、守らせる。破られる。罰を与える。反発する。規則を教科する。まったく、無駄なことです。イタチごっこというオアソビです。人間喜劇の中で、最も笑えない
 

と言った。

教師/生徒の対立図式を描いて、なんでも教師一人で押さえつけようとするより、生徒と教師が一緒になって同じ問題を見つめていった方が楽だね

この考えはすぐに、教師にとって都合の良いことを自動的にやらせようとする教師によって、生徒同士で裁きあい、罰を与えあわせようとする怠慢な方法にすげ替えられる。そんなことをしても、教室に調和が漂うわけもないのに。

 

ある日、授業が終わったあと、教室を出ようとする男性教諭に尋ねた。

「どうして進学した方がいいのでしょう」

すると、教師はたちどまり、

とりあえずだ

とだけ答えた。そしてさっさと職員室に戻っていく。たずねる相手を間違えた。と僕は思った。とりあえずみつくろった教師だ。

同じ質問に緑先生はこう答えた。

「この芸をしたら餌にありつけるとなれば、犬でも芸をする。餌をもらう前に、この場所に行くのが条件となれば、毎日出かけて行くでしょう。学校をそういう所と捉えて表現するのが、将来の時給から逆算した『とりあえず良い学校』説です。その言い方で納得する人も多くいるから根強くある。あながち否定するものでもありません

 

だいたい、多くの人には、命をかけてやれることとか、他人に分け与えうる好きなことが明確にあるのではありません。したがって、その時点その時点でとりあえずこれかな、と思える方に舵を切っているのが現状です。

私にしたって、そうだった。実際、お金は、人の自由度をあげるのに使うこともできる。しかし、その意義では食い足りないなら、もっと別の高邁な目的で進学就職したってかまわないんですよ。誰かの言うことが正しいわけじゃない」

僕にとって最も高邁な理由とは? この問いが僕の心にひっかかった。

その答えが出たのは、大学受験の末期に至ってからだった。

 

「なにをしていいのか、わからないんです」 

        
僕は情けない質問をする。

先生は、ふむふむと考えてこう返す。
「目標を定める前に人生の目的が見えていなければ、目標なんか決められないって言うんだろ?」
僕はうなづく。
「その通り。それが見えていなければ、志望校も目標点も意味をなしません」
と言った。快活な声だ。
「人間の目的は、結局のところ、成長か堕落か、そのどちらかしかありません。もちろん、何を成長といい、何を堕落というかは人によってちがいます。ーーまあ、こういうことを言うと、変な目で見られるのでしょうが、神や如来に戻っていくのを私は成長と思っている。だから逆に、物の見方を苦しみや地獄にしてしまうのが堕落ということになる」


言葉尻をつかまえたり、証明を求めたり、頭から否定したり、あざけったり、なんでもすることができただろう。けれど、彼女の言葉はそれを包み込んでしまうほどの強靭さがあったので、僕はだまっているしかなかった。


「とても保守的な考え方です。神や如来に戻るのは賢明になっていくということです。地獄に落ちるのは無知無明、愚かになっていくということです。どこまでもどこまでもそうなっていけます。愚かにキリはないし、賢明にもキリはない。どこまでも落ちていけるし、またどこまでも広げていける」
僕にはもう取り留めのない話に思えた。今の僕は、愚かにはキリがあると思えている。たかが知れている。そっちの旅をするより、賢者の旅に出た方が面白いし遣り甲斐があると思う。

先生は尚も続ける。
「利口と賢者はちがいます。馬鹿と愚か者もちがう」少し間を置いた。「
馬鹿で賢者になんなさい
おかしなことを言うものだと僕は思って内心、おかしかった。その笑いには、多分に嘲りと軽蔑が含まれていた。わきあがるような。僕の中のLIVEがひっくり返ってEVILとなって神聖な言葉をあざ笑っているのだ。
どうして僕はこんなに素直にこの人の言うことが聞けないのだろう、と情けなくなった。
そろそろ「お利口さんね」が褒め言葉でなくなる年頃だった。

 

 

父と母の教育論

 

3年生のある日、母が父に言った。

「あんたは、どうしようもない人ね。それでも父親?」

すると父は、ぎろっとした目で僕を見て、

「おりゃ知らん。お前の人生た。よかごとせろ」

情けない声でもらした。

おそらく母は、成績が伸び悩んでいる僕のことを学級懇談か何かで知り、心配に心配を重ねていたのだろう。何度も「あなたからもなんとか言って下さいよ」と、せっつかれてむかむかしたのか、父は僕を見かけるたびにこう言った。

「おまえの人生た。よかごとしろ。おりゃ、知らーん」

こんなことを言えるほど、彼は財産持ちでも権力者でもなかった。

新制中学の1期生か2期生かで、ラッキーにも中学に行けたと思っていたのが、すぐに高校進学率がぐんぐん伸びていき、あとから入ってくる若手がどんどん高学歴になっていった時代の苦渋を味あわないで済むよう、不感症になって防御していたのか、この頃の父は低迷しきっていた。

 

父も母も中卒で、昭和11年生まれの父は46歳、昭和15年生まれの母は42歳だった。溶接工の父の月収は15万円、母は無収入。この頃の平均年収が340万円なので100万円ほど低かった。

僕の高校受験については無知で受験が無体験だった。

自分たちの不和と諍いの原因はカネだということになっていた。

 

受験をしたことのない父は受験に対して無知だったし、怖かったのだろう。いずれにしろ、僕にはこれが「もっと勉強しろ」という意味であることがさっぱりわからなかった。

「勉強しないと俺んごとなるぞ。安月給でヒーヒー言わやんごとなるぞ」

そういう脅しともつかない言い草はむしろ幼少時代にこそよく聞いた。僕はいつも黙って聞いていた。そしてまた、父はこうも言った。投げやりに。なんでん、

「おまえのするごった」

これは実に高度な認識だった。英語に訳すと、

All that you do creates your Life.あるいは、Your life will be the result your efforts.

すでに人生をあきらめ、最低限の責任と思っていることしかしないと決め込んだこんな人でも、自分の人生は自分で創るものだということを知ってるのである。

父親となった僕は息子にこう諭す。How you are creates your Life.同じ言葉であるが、意味がちがう。

 

この人の教育方針は、ハッキリしていた。『まったく干渉しない。金だけはなんとかする』である。なんとかすると言っても、東京の私立の医学部に一人暮らしさせる、なんてことは不可能だ。

もちろんこれは、彼の自信のなさと怠慢からきている考えであったが、お陰で僕は、一から自分の目で見て決めることの重要性に気がつき、なんらかのデキあがった正義との格闘をしなくて済んでいたことに後々になってから気づいた。

 

母の行動パターンは、

失敗を恐れ、何もしない。

批判を恐れ、何もしない。

女だから、何もしない。

自分を見るのが怖いから、他人に頼る。

夫がやるべきだ。男がやるべきだ。と訴える。当の夫の男は、

耳が遠いので、諦めている。

中卒だから、諦めている。

背が足りないので、諦めている。

自分はもう何も変わらないと決めつけている。

その態度を見て、「私の夫なのに情けない」と軽蔑し、もらす。

「私はなんでもできる」と勝ち誇って強がる。

男に勝る自分は世界一だと思っている。情けない夫に勝る自分は世界一だと思っている。

 

ーー私の夫なのに、なんにもできない。情けない

これがエゴの作り出した論理、すべてはここから発している。母にとって極上に正しい理論なのだ。

私の方が正しい。葛藤。より正しい。

私の方が優れている。根拠は、家柄。そうやって自信のない夫に優位に立ち、それがまるで世界の頂点に立っているかのような錯覚をしている母。世間知らずの幼稚な専業主婦によくある勘違い。

それはまた、父の世代に特有の男尊女卑を跳ね返そうとしてのことだったかもしれない。自信のなさから来る女への侮蔑を。

恐れとエゴ。依存心と優越感。支配欲と劣等感。・・・甘さ、自分に対する。幼少期から、彼らはその姿を見せつけて僕を育てた。

もちろん、そのまま真似すれば痛い目に遭うことを知らせ、さらには僕を大きく悟らせるためだ

 

             

 

                             その4につづく