ある日の昼休みに食堂に行くとMr.セイナンが一人で食事をしていた。ちらっと見た時、彼は台にあったソースを持ち上げ、皿にかけた。

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食べていたのはカレーライスだった。僕はとても不思議なものを見た気になった。この食堂は古い鉄パイプの椅子とテーブルを並べただだっ広い所で、うどん、カレー、カレーうどんなど豊富なメニューが目白押しだったけれど、毎回素うどんしか頼まない僕には十分だった。朝早くから出て来ている僕は2時間目の終わりの休み時間に弁当を済ませ、ーーそれはしかし粗末なもので、四角い弁当箱の一画に魚のアラと一緒に煮たであろう里芋の添えられた、汁の染み込んだご飯だけという内容だったけれど、我が家ではそれが精一杯だった。月に3000円ほどの小遣いをもらっていたので、足りない腹はそれで満たしていた。うどんは一杯たしか140円かそこらだったと思う。僕はたいていそれを注文していた。今日も小母ちゃんにうどんを頼むと待っている間にミスターのところに行ってたずねた。

「どうして、ソースをかけるんですか?」

これは僕が幼少期の頃から疑問に思っていたことで、うちではカレーにソースをかけようものなら、物凄い剣幕で母が怒り、嘆き、果ては泣くまでのことだったからだ。

6、7歳くらいのことだ。テレビで西条秀樹のコマーシャルする『ハウス バーモントカレー』を観た僕が食べたいとリクエストすると母が作ってくれた。

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リンゴと蜂蜜が入っているところからみてこれは元々、海軍カレーだったのだろうと思われるが、甘さを売りにした子供でも食べられるカレーということで我が家で初めてのカレーだったのだ。母のこさえたそれは、玉ねぎとニンジンとじゃがいもだけが入った黄色いものだった。あつあつのご飯にかけられた皿が食卓に並ぶや、父がいきなりソースをザーッとふりかけ始めた。すると、その様子を見た母がイキリ声をあげた。

なんしよるとね!

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それは絶叫に近いもので、この世が破滅するのではないかと勘違いするくらいの怒号だった。

「はしたない!」「行儀が悪い!」「育ちがわるい!」

と立て続けに怒声が飛び、最終的には家柄のせいで夫の作法がなっていないのだという結論になる。

禁止事項のやたらと多い家だった。僕はもう物心ついた頃からテンテコ舞いさせられた。

焼肉をご飯に1バウンドさせてはいけない

パンをシチューにつけて食べてはいけない

卵ご飯はぐちゃぐちゃに混ぜてはいけない

味噌汁は必ず温めて食べなければいけない

オレンジジュースを飲むときは氷一個だけ

汁かけご飯は絶対禁止 絶対禁止絶対禁止

醤油かけご飯は言語道断火炙り打首首晒し

これに今回、

カレーライスにソースをかけてはいけない

が加わったということだ。

母はスプンを持っている父の手を弾き、なにするんだと言いながら父がご飯粒がばらけたスプンを拾い上げるとまた叩く、2、3度その攻防を繰り返すと父はとうとう席を立ち、向こうの部屋で食べ直す。

父には当然の行為に思われていたが、自分が傷つけられたと感じた母にはしこりが残ったようだ。

1970年代(昭和40年代)僕がまだ小学校にあがる前の母は父によって「オルソン夫人」同等あつかいだった。オルソン夫人は『大草原の小さな家』に時々登場する、非常に気さくで物わかりのよい温厚な夫を持つ神経質な女性だった。

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その後、『アルプスの少女ハイジ』が放映されると、

「あいつはロッテンマイヤーだ」になり、

漫画オバタリアンが流行ると

「あいつはオバタリアンだ」になり

田嶋陽子がテレビを賑わせると

「あいつは田嶋陽子だ」と流行を追って変わっていった、その初代がオルソン夫人だった。

オルソン夫人を演じられた女優キャサリン・マグレガーは、あんな役を演じられるのだからおそらく大変な人格者なのだと思う。だが、それを地でいく我が家のオルソン夫人。おぞましい悪意を秘めた性格を素でいく僕のオルソン夫人。

よく観察していると、躾というより、オルソン夫人はそうしていないと自分の気が収まらないから他人に強制しているのだった。ヘキ、執着のたぐいを平気で他人に強要してくる。そのことを僕はもう小学校にあがる前には承知していた。夫人は自分の考えが絶対正しいとして、触る者皆に強制した。

大草原の小さな家で、すぐに神経に障るネリーの母親(オルソン夫人)を見ていたはずなのに、実際に一緒に生活していると当たり前になっているというか、なんともおかしいと思わなかったのだろう。僕は我が家のオルソン夫人に文句を言うことはなかった。幼少期もそうだったし青年期にも成人後も、あまり両親にとやかく言ったことはない。ましてや批判めいたことなど。ーーただ、どうしてあんなに喚かなければ気が収まらないのだろう、とは思っていた。

しかし周囲によってすでに母に対する正確な分析はなされていた。親戚のある人は「エゴが強い」と言ったし、夫は「幼稚だ」と吐き捨てた。そして本質はこれだろう。

僕がほんの2、3歳のころ、だっこをせがむとオルソン夫人は、

ダメ!

と大声を出して威嚇した。それは子煩悩に流されそうになる自分を戒めているようでもあったが、僕は実に不満で、不快なかんじがした。だっこ、だっこと言う僕に母はこう言った。

幼児性が強い!

早く大人にせんと!

と暗い顔で僕を突き飛ばした。これなど、石原慎太郎の『スパルタ教育論』の文面だけを読んだ、あるいはテレビで聞き齧りした独善的な母親による被害なのであるが、オルソン夫人は自分の行動の根っこが自覚されていなかったようだ。幼児が幼児性の強いのは当たり前で自然なことだ。25歳を超えてまだそれが残っているようなら、その人の魂の年齢がその程度だということだ。オルソン夫人は自分の姿を僕に投影していることに気がつかない。自分に対する批判を幼少の僕になすりつけることで拭い去ろうとしたのだ。

だが、この病はそうそう治るものではない。人格そのものがさせている症状だからだ。

僕は種から芽を出し双葉を開き、茎を伸ばして長く大きく成長していく植物は、人知れず、ちいさなちいさな努力と革命を起こしているのではないかと思ったりした。

人間の本質的な病。

罪悪感を発動して終わるのでなく、また他者のせいにしてタメにするのでなく、まっとうな反省をして悟るという行為を毎日毎日少しずつ少しずつ積み重ねて大きく変わっていくのではないかと思う。怠惰さとは、まさにこれを実践しないことであろうと思う。

オルソン夫人は、縁側にいた僕にりんごを剥いてやろうかと提案する。しばらくすると持ってきてくれた。

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しゃりしゃりかじる。オルソン夫人は教育熱心で耳学問の名士だった。皮を剥いたりんごが赤くならないように塩水に浸けておくとよいと知れば、どんどん塩の量を増していく。台所から縁側までの歩数を計算すると小さじ3杯は必須。もうちょっと多目に、とさじ加減。おかげで幼少の僕はりんごは塩辛い食べ物だと思っていたほどだった。特に幼稚園時の弁当などに入ったりんごの切り身は奈良漬とみまごうばかりの辛さだった。おそらく食べるまでの時間を計算してくれてのことだった。

オルソン夫人は、熱を出して幼稚園を休み布団に横たわっている僕の看病をしてくれる。とてもありがたい。いつもは食卓に出ない鯛の切り身を買ってきて精をつけるよう一切れ食べさせてくれた。高熱を出して唸っている僕の額にタオルを乗せようと、風呂用の手桶を運んで来る。カランカランと氷のぶつかる音がするので、やっとこれで楽になれると期待していると、おでこに乗せられたタオルからは冷気がこない。そしてすぐに熱くなる。しばらくして替えにきてくれた母を見ていると、これでもかこれでもかと親の仇のように満身の力を込めてタオルを絞っている。

「もうすこし、冷たい水を含ませてよ」

と頼む僕に、

「いけません! 水がたらたら落ちて布団が濡れる!」

そこまでびちゃびちゃにしろとは思わないんだけどなぁと思いながらもう言葉が出ない。僕は熱にむせながらぐったりと眠りにつく。

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我が子への愛情にはちがいない。だがオルソン夫人には適度、適量、適切が分からない。良いと言われると、そっちに突き進む。これは執着、粘着、固執であり、調和とか喜びとかそういった高度な目的を見失った行為だ。しかし、それを「正しい」と呼びゴリ押す。それが僕の体調より布団を大事にすることになってしまうのだ。いつの間にか、愛情が僕から布団に移行したのだった。

高い目的に照らせば中庸という境地に行き着くのだろうが、そのまた中庸の意味がいかなるものであるかは、人それぞれの進化の度合いに応じる。自己探究とか真理の探究はすなわち霊性の進化に応じるのだ。

しばらくするとまたカレーが出た。夫人の陰謀だった。またソースをかけようとする夫に、

「ふふんっ!」

と鼻息で牽制する。

「カレーぐらい、おいしく食べさせてくれよ」

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と訴えるオルソン氏に間髪を挟まず、

だめーーーーー!

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夫人は呆れながらくどくど、ガキにでもするかのように説教しはじめる。すっかり白けた父は怒ってテーブルをひっくり返し、向こうの部屋に行ってテレビをつける。母は相手がむかっぱらを立てることを思いつくのが上手だった。

それから我が家では時々、夫をいじる手立てになる上に、家計を節約できると知った夫人によって味噌汁ばりに薄くて黄色いカレーが度々食卓に出ることになった。が、オルソン氏がそれを食することはなかった。肉体労働者であった腹の減った父は白メシに醤油をかけてかきこんだ。朝の残りの味噌汁があれば、猫まんまにして食べることもあったろう。すると、その様を見た母は、下品だとかなんだとか言って悔やんだ。ソースをかけて食べることが許されなかった。もう、ほとんど嫌がらせだ。

けれども、日がな考え事をしていて、あまりに夫が憐れに思えたのか、自分は優しい人間だと思い返した夫人がカレーの内容物を砂糖と醤油で煮込んだ代用品を用意することもあった。

何度かそういうことが繰り返されると、夕食がカレーであることを察知したオルソン氏は、外で何かを食べてから帰って来るようになった。

カレーの食べ方一つでこれである。

他がいかに愚かなことがなされ続けていたか、簡単に想像できることだろう。

物事を、目の前の事象を、気位 虚栄心 世間体 見栄でねじまげる。心配 優越感 劣等感で歪める。そして自分の言い分に従わないとヒステリーを起こす。

女性性の中には普遍的にそういう性質があるのだろ。それが未熟な出方をする。洗練されていない。

それらが幾重にも輪をかけ、母の中でループしていた。

母でさえ扱いにくいのに、近代ヨーロッパの上流階級では、女性はひきつけを起こして倒れていたので、そのお守りは面倒きわまりないものがあったことだろう。

もちろん幼少期の僕にリベラル・アーツなどという考えはなかったし、成長してからも自分の価値観を他人と共有したいという気分がないかと言えば嘘になる。

オルソン夫人は言葉遣いにも厳しかった。同じ時期、僕が魚の骨を喉にひっかけた。オルソン氏が、

「おい、ご飯をかまずにひん飲め」

と言うや、

「そんな言葉使っちゃいけません」

と夫人が制する。

「なしてや?」

とオルソン氏はいぶかしげな顔をする。それもそのはず。動詞『飲む』を強調しているに過ぎないからだ。僕の喉の魚の骨はそっちのけで二人は言葉遣い争いにかまける。

小学校で先生の話の中に出てきた「蹴転んだ」を使うと、そんな言葉使っちゃいけませんと来る。下品だと言うのである。そのことを先生に伝えると、先生は国語辞典をめくって見せ「正式な日本語だよ」と教えてくれた。帰ってそのことを報告すると、先生を嫌った。その先生は僕が習った先生の内で三指に入る人だったのに。

夫人は「ひっつく」とか「ぶん殴るぞ」にも、ううん! と不快な唸り声を出して抑制した。おったまげた・おっぱじめる・おっちんだ・うっ止まる・さっぴく・すっとばす・ひん剥く・ひっぺがす・ひり出せ・・・などの言葉をオルソン氏が使う度に、もう、そげんこと言うたらいかん、と夫人は使用を禁止した。そんな夫人に氏は、ハイハイ、なんでんあんたが正しか、と応じていたが、それがまた夫人の神経(エゴ)を逆撫でした。

あるときなど、氏が「よっぱらいが、実に倒れとってじゃんーー」

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などと陽気に話をしていたら、夫人は、

「もう、よっぱらいなんて言っちゃいけません」

さっそく禁じ始めた。氏はしばらく考えて、

「よっぱらいは、よっぱらいじゃろもん」

と返したが、夫人はぶるるんと首を振るわせ、またしても使用禁止にした。「お酒に酔った人と言いなさい」

夫人はしかし「前につんのめる」とか「壁にぶち当たる」とか「耳をつんざく」とか「くっちゃべってないで」とか「ひっかく」とか「張り倒すよ」とか「ひっぱたこうごたる」「蹴飛ばしたい」などは、なんのひっかかりもなく使用していた。要するに、自分の慣れ親しんでいない表現に対してカマトトみたいな反応を示していたのだ。他人に制限したり強制したりするように自分にもしていたから鬱憤が溜まり、それを解消するために夫に突っかかっていたのだろう。

後年、僕には日本語の豊かさと映る表現をオルソン夫人は下品と言ってのけていたのだった。

少し横道にそれるけれども、僕はどんな幼年期をおくっていたか。

4歳頃までには、教えられると僕はすぐに時計を読めるようになったし、教えられない前に雑誌や辞典が読めるようになっていた。父がサインコサインタンゼントと言い始め三角比の計算方法を教えればすぐにできるようになったし、平方根の考え方や計算もすぐにできた。古事記や日本神話やキリスト教の聖書の物語に興味を示したので、父が会社の図書を借りてきたこともあった。6歳ごろに、父の持っていた医学書をめくると図が書いてあった。

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それは女の人の卵巣で「避妊するにはリングかペッサリーを挿入します」と書いてあるのを自力で読み解いた。どうして僕がそのことに興味をもったかと言えば、内には供養している水子や供養していない水子がなんにんかいると聞いたし、実際に毎日母が拝んでいたからだ。4、5歳ごろに、母方の叔母が「あんたのお父さんは、壊れた蛇口の持ち主なのよ」と言ったことがあったので、僕は父の工具箱を探したことがあったし「姉ちゃんがなんかいも中絶するから、うにゅうにゅ」と言葉を濁したし、4歳離れて生まれた妹のことを供養している「美琴ちゃんの生まれ変わりね」などと言ったからだった。ペッサリーの方は入り口をふさぐので理解できるが、ただ丸い輪っかであるリングとやらでどうして精子が卵子に到達しないのかが疑問だったので、しばらくはそれが僕の悩みの種だった。

小学校2年の時には介護疲れで精神を病んだ高齢の女性教師の代わりに臨時でやってきた先生が、数学者ガウスの話をし、

「1から100まで足すといくつになりますか?」

と質問したので、僕は1と99、2と98と足していくとそれが49行あるので、それぞれの和である100をかけて残りの50と100を足せばいいとすぐに思いつき、ハイと手を挙げ、

「5000です」

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と答えた。先生はちがう、とひとこと答えて説明し黒板に向かって始めたが、僕が、あ、

「50を足し忘れていました。5050です」

と答え直したが、先生はいぶかしげな顔をして取り合わなかった。算盤でもやっている生徒が計算間違いをしたのだろうくらいに思ったのだろう、これから自分がする自慢げな話の腰を折られて不愉快だったのかもしれない。後からよく理解したけれど、少年ガウスの方法の方が均整が取れて美しい。

小学校3年の時には、平方根のことを憶えていて休み時間に先生がその話をしたときに即座にルート2が1・41421・・・とその場でメモ用紙に計算して見せた。が、なぜか先生は僕に敵意を剥き付けてくるようになった。(僕は多分、自覚なしに教師を逆撫でするような言動を取っていたのかもしれない。が、転校した町の小学校ではむしろ称賛され認められた)

両親に明かしたことはないが、僕がまだお襁褓をしてハイハイすらできない時分に、父の借りたちいさな自動車で母の実家から戻ってきていたことがある。その時、父の愛読書であった女性のヌード写真を集めた雑誌が後部座席にあり、横になっている僕の傍でそれをめくっていた母が、

「どうせなら、全部見せればいいのにね」

と局部に海苔巻きのように黒く隠しを入れてある、ハイヒールを履いた20人ばかしのすっ裸の女性の切り抜き集合写真について言った。

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すると運転していた父が、ニヤニヤしながら、

「それがいいのよ」

と答えた。

「全部見せないところがいいんだよ」

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父も母も、赤ちゃんの僕には解らない、と決めこんでいるようだったが、僕は、ちゃんと解っているのになあ、と思って聞いていた。これにはちょっとしたカラクリがあった。つまりこの時の彼らの会話を記憶しておいて、言葉を憶えてから代入して意味を明確にしたのだ。

そして母は決して知らないだろうが、2、3歳頃にいた借家に何冊か置いてあった女性セブンなどのその手の特集記事も読めていた。そこには、より興奮する手立てとして夫婦が互いに別の好きな相手の名前を呼び合って事をいたすなどといった読者からの投稿が載っていた。

2、3歳ごろにも大人がハッとするようなことを言い出すなどそれまでもあまりに早熟で、僕は親に似ない優秀児だったから、不義の子の疑いが生じたり産婦人科で取り違えられたのではないかと両親ともども、親戚中の話題だった。

幼稚園年長時に受けた知能テストでも、母は普通の公立小学校には行かない方がいいとアドバイスされたらしい。実際、嫉妬心を剥き付けてくる者が時々現れ、僕は隠すようになったり愚鈍な素振りをして見せたりすることもあったが、32歳までは普通のルートをだどるという人生設計があったので自分が特別だとか、生きにくいとか奇異な存在で損をしているとか被害を受けているとは思ったことがなかった。

そんな僕からすれば、両親は不可解だったけど、毎日毎日いろいろなことで言い争いをする両親の家は動物園みたいで楽しかったので、僕は僕の本当の両親のところには戻りたくないなあと思っていた。(そうは言っても、小学校中学校を経る間にいつしか彼らのレベルに引き下げられていったのを高校生になってから自覚し、慌てて修正し始めたのだったが)

こんな家庭に育っていて、ずっと僕の心にひっかかっていたことの一つがカレーにソースをかけるという仕草だった。

丸刈りのむさい生徒に見つめられていたミスターセイナンは、口に入れたカレーをもぐもぐさせながらこっちを見ていた。

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10年間、僕はカレーにソースをかける者は卑しい者という洗脳がなされていたため、ミスターの行為がちょっと奇異に思えたのだった。こいつは、もしかすると、おしゃれな洋風を演じているが、実は貧しい家の育ちなのではないか、などと頭をよぎらないでもなかった。

答えないのかな、と思いながら待っていると、やっと噛み終わった彼が、んぐんぐと口の中の物を喉に流し込み、答えた。

おいしいから

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これが、母の常識を破った一撃となった

ミスターセイナンにしてみれば、自分の母校である西南大学にはゼッタイ通らない平凡な生徒のたあいもない質問に映ったことだろう。いつも自分の学歴をひけらかしていたので。けれども僕にしてみれば、その一言が10年来の疑問を半壊させた記念すべき日となった。非常に失敬な質問だったにもかかわらず、そのあまりにそっけない答えを返してくれた先生に感謝した。

僕の家では命がけで繰り広げられていた闘争が、おいしいから。このひとことで片付けられる。ある意味、この時の衝撃が僕のリベラル・アーツの始まりであったと言っていい。

リベラル・アーツは、一般教養と訳されることが多い。新制の大学になった時に、旧制高校だったところが最初の2年を担当することになった。リベラル・アーツを標榜していた旧制高校、そこが『一般教養部』と呼ばれた。つまり、全部ということだ。旧制第一高等学校や東京高校は東大の教養部と共に『教養学部』も担った。旧制浦和高校を包括している埼玉大にも『教養学部』がある。旧制静岡高校は『文理学部』となった。分離しているのに一体。文科と理科の融合。旧制広島高校を母体とした学部は『総合科学』とされたので、これもリベラル・アーツの訳だろう。いずれにしろ、広く世の中全体を見渡す眼を持つということだ。何がどうなっているか、全部観た上で、一つを掘り下げていこう、または最善を選ぼう、という態度。調和という目的、進化という目的に照らして最善はどれか? 

偏りを感じさせず、優雅さが漂う響き。それが Liberal Arts

(説という説もない)自分の説を批判されたからといって激怒する。(多くはエゴに基づいた)自分の価値観が認められなかったからといって相手を人格攻撃する。噂を流して囲い込んで虐める。

そんなのは、リベラル・アーツとは呼ばない。勉強だけできる幼稚なおバカちゃんのお遊戯にすぎない。

そのご、25歳になり会社の研修で関西に行くと、カレー専門店にはどこも普通にソースと醤油が置いてある。みな、当たり前のようにかける。

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母は知らないのだ。世の中を。

出張で方々に出かけていた父はカレーの食べ方がいくつかあることを学んだ。嫌いな類のカレーをおいしく食べる方法を。

なのに躾や行儀と称して自分の価値を絶対のものとして押し付けていたのだ。

僕も小学校、中学校と給食で何度もカレーを食べたけれどもソースや醤油をかける文化のなかった九州にいたので、そんな方法があることは知らなかった。けれども母に倣い、行儀がわるい、はしたない、躾がなってない、などと急いで他人を非難しようとは思わなかったし、ずっと九州にいた僕にそんなチャンスは訪れなかった。

まともな大学を出た人がそんなふうに非常に局所的な、個人の流行的価値観を絶対のものとして他人を非難する様をあまり見たことがない。そんな精神ではたいした点数が取れないのではないか。(だからといって逆に難関大を出た人ほど人格者のはずだという見方は依存的な期待であるが)

おいしくなるからというより、ターメリックのにおいをごまかして食べる行為は夫人の虎の尾を踏みつけた。それで絶対にソースは許されなかった。

ソースをかけないとカレーが食べられない父にとって苦痛以外の何物でもなかったろう。ソースをかけてしか食べられないカレーに氏はこだわっていなかったのだろうが、カレーを介して嫌がらせする夫人の根性の浅ましさは決して拓けたスマートな人とは思えなかった。

たったこのくらいのことと思うかもしれない。だが、これができていない人であふれているではないか。いつも自分の価値観、倫理観で他人を裁き非難している。

オルソン夫人と同じで、母はそういう自分は淑女の鏡だと勘違いしていた。僕はある時から、いつ太宰治の『斜陽』冒頭部を読ませようかと思い始めた。

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母が少しくらい文学に興味があれば、これを読んで即座に悟り、それなりに自己修正ができるのではないかと思ったからだ。

だいたい、ソースを作るときの材料とカレーはほぼ同じなのだ。香辛料の種類と煮込み時間と酸っぱさが違うくらいのものだ。それを混ぜたからなんなのだ。

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無知。エゴ。支配欲。そんな理由しか思い至らない。

つまり、私がせっかく作ったのを元の味を楽しみもしないでいきなりソースで味を変えて! と癪に触った。自分のいたいけな労がわかってもらえない。自分は被害者だ。そんな考えで夫を責め立てるのであった。

家庭の中でのエゴの覇権争い。それが当時行なわれていたことなのだろう。

どっちのエゴが支配権をもつか?

それが争点だった。

カレーをおいしく頂こうとか、わいわい楽しく食事をしようとか、そんなことどうだってよかったのだ。理由もなく、とにかく無批判に自分がこうと決めたことに従うか否か、ハジメと同じ。法律の勉強など無意味。ただただ威張る。押し付け、ゴリ押す。その権力を握るための夫婦の争い。だが、責任はない。ただ押し付けたいだけ。

その時、その時、自分が正しいと思ったことをーー昨日(さっき)言ったことと正反対のことであっても、全員が無批判に従うかどうかだけが問題なのだ。

全部を見渡して最善を選ぶ。高い目的に照らして。それが僕はリベラル・アーツではないかと思う。

ミスターセイナンの回答から40年の時が流れ、父が亡くなったあとに僕は母にたずねた。

「おやじ、どうしてカレーにソースかけてたか、知ってる?」

「いいや」と当然のごとくに首を振り「知らない」

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どうでもいいのだ。半世紀以上に亘って連れ添った夫の好みなど。自分の正しいと思うマナー、正しいと思う食べ方を押し通すことだけに興味があったのだ。カレーに限らず彼女の強制する正しいことをどこでそれを仕入れてきたのかと幼少期の僕は母の実家を観察したが、母の兄弟も姉妹も、祖母も曽祖母も母と同じことを僕に強いることはなかった。むしろ寛容で、めったに怒ることはなかった。母が禁止たり押し付けたりしたことをすることはなかった。

母はしかし夫のせいで自分の性格がこうなったと嘆きむせび泣いた。

「優しくて大人しいだけだった私が、こんなになってしまった」

と。祖母に確認するとどうもそんなわけでもないらしかった。結婚する前に行なわれたおない年の兄嫁とのいざこざは「善かれ」と理屈をつけ、「しきたりだから」などと言って文句の言い返せない人に対して勝手な価値観を押し付けていた模様で、若さを超えたあまりにも直情的で性急な性格が故だったのではなかったか。

「へー、カレーにソースかけるんだ。なんでなんで?」

と興味津々で質問したってよかったのだ。

ところが自分の知らないことを見るとびっくりして拒否反応を示す。未熟な人間にありがちな性質なのではないか。

自分の味をけがされたという嫌悪感はエゴ、それが先に立ち、相手の趣味、嗜好などお構いなしになぎ倒す。自分が正しい、絶対正しいとする根拠にいつも母は実家の家柄を持ち出してきたけれど、それを他所でやらないで欲しいと願っていた。ーーお里が知れるから。

母の実家その親戚一同、実に物静かで明るくて、気さくで物腰の柔らかい人が多い。だからといって家柄を根拠に自分のちいさな、狭い価値観をゴリ押すのは、家の品格を疑わせる。母こそもっとも家柄を持ち出して威張ってはいけない人はない。どうせなら、大根足なことを根拠にして威張ればよかったのだ。私は大根足だから言うことが正しい、なにも間違っていない!と。

学歴、年収、役職、受賞、家柄、そういうのは創意工夫と自己革新、人格の向上をした成果であり誇りはしても、威張り散らし自分を正当化するための根拠にしてはならない。

母の質は、家の教育のせいでも結婚した相手のせいでもない。生まれつきだ。省悟して成長しないから、魂が幼いのだ。いつも何かをよりどころにして自己正当化をするから飛躍的な進化をしない。その輪廻を繰り返しているのではなかろうか。

父はこう言った。

「ああ、カレーのあの黄色い粉のニオイが嫌いなんだ」

ターメリック(ウコン)のことだ。

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特に『バーモントカレー』は黄色かったので、父は一も二もなく、ソースで匂いを消そうとしたのだろう。

見方を変えれば、ソースをかけてでもカレーを食べようとチャレンジしてくれていたのだ。

僕が、父のカレーにソースをかけるわけを話してからしばらくして、どうして父がカレーにソースをかけていたのか憶えている? と確認した。すると母はこう答えた。

「おぼえていない」

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よほど父のことを軽視しているのだろう。自分のエゴを撫でてくれなかった相手に恨み、辛み、を募らせ、自分の虚栄心を満喫させてくれなかった相手

そんな奴の好みなど、すぐに記憶から消す。

尋ねたこともないのだろうし、興味もない。知らないのだし、どうでもいいのだ。自分の価値観を押し付けることに精一杯で。押し付けて勝つことが第一義なのだし、夫に優越感をもてば満足なのだ。

インスタントカレーなど、誰が作ろうがさほど違わないし、第一、肉の入っていない、貧乏根性で水増ししてビシャビシャの、しかも初めて作り研究の進んでいない故に野菜も原形を留めている状態のカレーに私もクソもないのである。もちろん、父も「お、カレーか、うまそうだな」と言ったあとにまずは一口、息を止めて食したのち、

「すまんが俺はカレーの黄色い粉のニオイが好きでなから、ソースをかけさせてもらうぞ」

とでも断りを入れるくらいの思いやりがあれば、若い主婦の自意識を傷つけずに済んだのかもしれない。だが、中卒の労働者で女を観る目のない父にそんな演出など期待する方がバカ。と思えないところが彼らのよく言っていた「どっちもドウドウ!」なのだ。

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太宰治を読んで聞かせる。そのチャンスは父の終末期に訪れた。

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文章を読んで聞かせたのではなかったが、要点をかいつまんで伝えた。

「これが、本当の高貴というものではないだろうか?」

と。すると母はひどく素っ頓狂な顔をした。それまで絶対に正しいと信じ込んできたことが打ち破られそうになり、彼女は拠り所を失ったかのように見えた。

革命の時だ

「あなたの本当に美しいところを出して下さい」

と僕は言った。

「家柄なんかひけらかして自分が高貴だと思い込んでいるのが最も下賤なんです」

もちろんエゴの抵抗が始まった。

この私になんてことを意見するのだ? 許せない。私に意見するのだから、あなたはなんでもできるんでしょう? そうした態度を取り始めた。僕の幼少のころとなんら変わっていない。こんなに成長していなかったのか。僕はちょっとがっくりきた。

家柄を根拠にしてエゴを正当化する。すべてを耳の遠いせいだとする父と同様、家柄のよい自分のすることなすこと全てを正しいとして少しも譲らず反省もしなかった夫人の醜態がオルソン氏の死際に集約された。

おそらくは、長年服用し続けた肩や腰の痛み止め剤の副作用と律儀に4回も連続で打ったコロナワクチンが引き金になっていると思われるが、父の胆管が破れ黄疸が出た。もちろん、そんなところに重篤な症状が出るのは妻の態度や性格にいちいちドス黒い怒りを発動させたり欠かさない飲酒の習慣によってだろうが、口内炎のような白いえぐれが食道から胃から腸まで点々をできていた。それがおそらく胆管にまでできとうとう突き破ったものと推測する。

これも常用していた湿布薬の副作用と思うが糞詰まりになるとマグネシウム剤をもらい下痢がつづくとビオフェルミンをもらいで軟便固便を繰り返していたところにワクチンの連続投与。風が吹いただけで倒れたり、段差にバランスを崩して倒れるなど体力に自信のあった父に異変が生じ始めた。どうにも調子が悪いというので様子を見にいくと顔が黄色くなっていると孫たちが言った。

入院したその日の夜に十二指腸がやぶけ出血多量の緊急オペとなった。そのあと日を置いて胆管にステントを入れる手術をしたにもかかわらず、父は嫌だといって病院食を拒否した。予定では1週間後に自分の足で歩いて帰れるはずが、早く家に帰せとばかりに父は痛い!痛い!と狂言をぶち、帰さないとこの管を引き抜くなどと点滴のチューブをロープをたぐるように握って見せたので入院期間も伸び、医者は癌用の麻薬などを処方した始末だった。コロナの時期で思うように面会できずになかなかこちらの意を伝えられないでいる内に、腹水も溜まり始め、体力も落ちて歩けなくなっていった。

「みかんが食べたい」

と伝えてくる父に、やっと持って行けたのは、あまりの暴れように手を焼いた先生が個室に部屋を移してくれたてからだった。電話でみかんはあるかと尋ねる僕に、母は「ある」と答える。見舞いの朝に行って見るとこぶりの八朔を冷蔵庫から出した。彼女はそれが好きだ。

「それ、おやじ食べないよ」

と言っても、いいや、これでいい、と言い張る。仕方がないので近くの物産館に探しに行った。父は昔から、ザボンや八朔やポンカンの類は食べない。温州みかん一筋なのである。果たして病院に持っていく。

はい

と差し出す母の手元を見て、

「あ、こりゃいかん、それは食べん」

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とぞんざいに言った。もっと妻の労をおもんぱかった言い方はあろうが、田舎者で肉体労働者で粗野な父にはそういう受け答えしかできない。(看護婦さんをまるで飲み屋の姉ちゃんくらいに扱っている自覚もないようだった)

それで僕が手提げから、じゃあ、これは? と言いながら温州みかんを取り出すと、

「これこれ、これが食べたいんだよね」

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嬉しそうに言いながら皮を剥き始める。ちょっとたどたどしい手つきに、だいじょうぶか? と思わないでもなかった。医者の話だとご飯を拒否して点滴だけで生きながらえているのだとか。固形物は副食で出てくるゼリーしか食べていないのだそうだ。

ともかく予後の父の振る舞いは最悪だった。1週間で退院して自宅療養し始めたら、僕は治してやる自信があった。5月に入院してからすぐに誕生日を迎えた彼はすでに86歳であったが、快復させ寿命までは健康に生かすことができると思っていた。しかし、2週間近く点滴だけで、しかもリハビリまで拒否して家に帰せと暴れていた父の振る舞いは健常者でも死の坂を転がるような所業だったにちがいない。ーーその後のことは別の機会に譲る。

驚いたのは、オルソン夫人が夫のみかんの好みを知らなかったことだ。55年も一緒に暮らしていたのにもかかわらず。僕の幼少期には、縁側でスイカをかじり、そのタネを空気鉄砲みたいに庭に吐き出す父を責めなじったり、みかんの房を縦にしてちゅぱちゅぱ吸い付くような音を出して食べる上にねぶりきって体温に上昇しクタクタになったオレンジ色の薄皮を剥いた外皮になすりつけるようにベタッと貼り付ける。それが母は虫酸が走るくらい嫌悪していた。それはそれで構わないのであるが、夫のみかんの好みを知らなかった上に、自分の好みのみかんを無理強いしようとした視点の貧しさ。夫人にとって、夫の好みなどどうでもよく、ただ行儀とか躾とか、そういうことだけが重要だったのだ。しかもその行儀がいとも独善のようなことなのだ。

家に連れ戻ったてから、南側の座敷に父の介護用ベッドが置かれた。夕日を部屋に取り入れようと障子を開いているとしかめ面をした母が言った。

「閉めといて、人形に陽が当たるから」

それを聞くや憮然とした。この人にとって父は人形の色があせることより大事でない厄介な置物なのだ。

「なにを言っているんだ?」

怒り気味に返し、僕は障子を開けた。「これは向こうの部屋に移動する」

水子供養をしている台の横に僕と妹の節句人形のガラスケースが置いてあり、その前に孫の節句の飾りが置いてあった。夕日うんぬんの前に、ベッドの前と横にあるガラスケースは看護中の移動に支障をきたしたので、ふたつあったガラスケースを東側の部屋に持っていった。中学時代に我が部屋だったそこは半ば物置になって飼い猫が寝泊まりしていた。

一旦自宅に戻り、次の日にやってくると人形は元のところに戻してあった。

癪に触ったのか? きっとこの位置にある人形と共に20年以上暮らしてきた母には何かこちらの知りえないストーリーが出来上がっていたのかもしれないと思い直した僕は静かにこう言った。

「これは本来うちに置いておくべきものだ。ごめんね何十年も置きっぱなしにして。こんど車で来た時に持って帰るから」

だが、どんな理由であるにしろ、病床の夫の快適さより、そこに人形が置いてあることにこだわるとはどんな神経なのか。長年置いていたのをズラすのを嫌ってのことだ。なんてこった、と思った僕は、我が母ながら、

「よくあんなのと結婚したな」

と父に向かって言った。我ながら自己矛盾も甚だしい言いようだ。

「俺だったら、3日だな。3日で離婚する」

それを聞いた母は落ち込み、それから回復するためにまた例の家柄を持ち出して意気揚々と話した。

父は、

「一緒に暮らしてみるまでわからんもん」

と言い訳したが、人を観る目を養って来ずに、未熟者のくせに「誰でんよか」などと玄人風情を気取るから最も自分にはそぐわない相手と結婚するのだ。人目を気にし売れ残るのを恐れ、もらってくれるならと、そして優柔不断なのを優しさと取り違えた母と玄人ぶった父の一致が結実して僕が生まれた。父の立場に立ってみれば、あんな置物みたいな女はそれにふさわしい男がいるものだ。けれど、自分と最もソリの合わない相手だからこそ学びは多かったと言える。不幸な一致だっただろうが、そのことには感謝するべきだ。

夏の暑い盛りに差し掛かり、34度あるのにクーラーも入れてやらず、水も飲ませない。僕がちょっと自宅に戻って支度し直して戻る間には「早よ来て早よ戻ってきて」と電話をかけてくるばかりでやることは何ひとつやっていない。カラカラに干からびて濃い紫色になった唇を見て、

「なぜ、口を湿らせてやるくらいのことをしないか」

と問う僕に、夫人は

「水を飲ませると体重が増えておむつが替えられない」

看護師さんに任せっぱなしで一度も替えたことがないのに、平然と言ってのけた。南側にある父のベッドを眺めながら北側の薄暗い台所にひっこんで様子をうかがっている。家計収入の3分の2は父の側の年金なのに、死際にいる者の不快さよりも電気代のことが気がかりなのだ。

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まるで砂漠で干からびているミイラのようになった父を眺めながら、僕は水枕を父の頭の下に敷き、OS1と山で組んできた水を混合した冷たい水を入れた吸い飲みを父の唇にあてがう。もうなんというか、レモン哀歌だ。水枕をしてやろうともしないし、したことなどその後も一度もなかった。

訳のわからぬ不安で何をどうしてよいか解らずおろおろしているのか、それとも積年の恨みか。いずれにしろ、残酷さの自覚のない残酷さだ。

補聴器をつけてくれと頼む夫につけるはいいが、ボリュームは最低になっているはスピーカーの先端が耳の穴にちゃんと嵌っていないはで、まるで汚い物でもあつかうかのようないい加減さで耳殻にかけてあった。

そして呆れ返ったことには、僕の留守中に、勝ち誇った顔でベッドの脇に立った夫人が、あんたもうなおpiiiiiiiiii。はpiiiiiiiiiiiiiね。いつまで私に迷惑かくっとね?

と氏ににべもなく言い放ったそうだ。

毎日毎日こんなぞんざいな振る舞いが随所に見られ、たまりかねた僕は、ある日の夜、台所に腰掛け分かり易く懇切丁寧に、人間の本質はエゴでなく愛だ。と説いた。そしてそれを発揮するにはどこをどう成長するかを講義した。すると、頭が混乱してきた母が叫んだ。

もう! なんで一生懸命育てた息子に そんなこと言われんといかんの?

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もう、出ていく!

などとおじゃる丸みたいな声で言うと、エーン、えーんと幼児のような泣き声を出して廊下を歩いて行って便所に閉じこもった。(これでこの人は自分の精神年齢が20歳だと思っていたのだった)

え? どうしてそんな反応になるの? と僕は思った。意外も意外。僕の言っていることが全く理解できていなかったのだ。なにか批判されたと思い込み跳ね除けようとしたのだった。僕は母をかいかぶっていた。僕が見積もっていたよりも幼い。

まったく変わっていなかった。僕が小学生、中学生時代の母はああやって父とやり合ったあと、本当に外に出て行ったり便所に篭城したりしたものだ。

責めているのではないと何度説明しても無駄だった。

「あなたが一生懸命ミシンを踏んで育てた息子が、世の中どうなっているか、人間がどうなっているか解ったから教えているんだよ。まさに、俺の言うことはあなたの果実じゃないか」などと言いながら、もう少し、視野を広げてください、と。少しでも愛で見てください、と。

だが、なかなか打ち解けなかった。

そんなこととがあった翌朝、朝日が僕を優しく起こしてくれたのだが、目覚めと同時に僕の頭の中で『If You Don't Know Me by Now』が流れた。なんだ、これ? と思った。以前、ひとに教えてもらったシンプリーレッドの曲は『二人の絆』と訳してあったしその曲調からして失恋の歌か何かと思っていた。

だが、調べると元々は黒人のグループHarold Melvin & the Blue Notesによるソウルミュージックで、

If you don't know me by now

You will never, never, never know me

と歌っていた。

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要するに、今言うて解らん奴はずっと解らん というのが本来の歌詞の伝えたいところらしかった。それが、僕の頭の中に流れたのだ。誰がどんな方法でそんなことをしたのかは解らなかったが、

ーーまあ、そうだろうな、と諦めた。

 

※ 残念ながら、字数制限のため、ここまでです。続きはseesaaブログでお読みください。

僕の偏差値狂時代 高2その12 オルソン夫人とリベラル・アーツ