続きです。
1 久々の白秋
1 『久々の白秋』は共通1次出願に必要な書類を取りに、半年ぶりに高校に行った時の話です。
2 『暗記数学と200点満点』は秋、冬のマーク式模試の結果と受験状の下見の様子です。
ふたつとも、1986年(昭和61年)の秋冬ごろの話です。40年前の大学受験事情の一端が描かれています。これからゴールデンセブンと呼ばれる18歳=受験世代の増加が始まる時期にあたります。経済的には金融バブル期に入っているとされていたのですが、まだまだ現実的には実感のない時です。
僕には、40年前のあの時を今もう一度経験するリアルな出来事でした。あの時の思い、今思うこと、それから当時何がどうなっていたのか。一点でしか見えていなかったことをもっと多次元的に、いくつもの視点で捉え直すことで僕のたどってきた人生を振り返るとともに今の生き方の次元をあげることができたかな、と思います。
一部をご紹介
1『久々の白秋』
秋、10月12日の日曜日。高校に行った。共通1次出願に際する書類、卒業証明書を取るためだ。
数ヶ月ぶりの学校は無機質な建物だった。晴天。風魔殿のように感じていた校舎が明るく見えた。思えば3年半前の4月に校門をくぐったところで、歩く奈緒子を見たことがこの学校での苛烈な3年間を決意させたのだった。
共通1次試験は来年の1月24(土)、25日(日)に実施される予定だったが、その出願期間は今年の10月27日から11月7日までだった。(受験料は、9月1日から11月1日の間に納付)
正門から入り、正面の建物の入り口をくぐった。休みの日だったので学校中がガランとして静かだった。
小窓から書類を受け取るとき、事務の女性が、3年の担任だった教師に受験校を知らせてくれと小さな紙切れを渡してきたので、2階の教員室に行った。ガッデム先生はいらっしゃらなかった。通りかかった人に尋ねると、そこ、と去年と同じ机を指差した。そこはあの場所だった。
グリーンのデスクカバーの敷いてある机を見た。なんの感情もわきあがってこなかった。
「じぶんでは、」
「書けねえんだよ!」
1年半前、嘘をついてまで無理やりに明治大学に志望を変節させたこの場所。
空の事務チェアがこっちを向いていた。
今年また僕が失敗してほくそ笑み、多浪を重ねていくのを待っている台座。自分の説に従わなかった者の末路を見下すための背もたれ。
受験校はまだ確定していなかったので、自分の名前と、とりあえず「九州大学・熊本大学」と書いて置いた。
こう書いておけば、九州では空気だ。(ふつうなら)
入った所とは反対側の出入り口から職員室を出た。僕たち普通科生徒の新しい方の校舎だ。振り向いてちらっと目をやった教室は閑散としていた。
なんの感情もわきあがってこなかった。まるで初めて見る建造物のように無味乾燥としてあるだけだった。卒業の日からすぐに僕には異世界、異次元の世界に移行したように感じていたが、北原先生にとっては何も変わらないあれからわずか半年経ったにすぎなかっただけだろう。僕は階段を降りて校舎を出た。
次の日の朝、僕の氏名と共に大学名の書かれた紙切れを手にしたガッデは落ち着いて、
「ほう。彼はそんなところを受けるまでに伸びたのか」
「たいしたものだ」
「素晴らしい」
と顔をほころばすだろうか? それとも、
「こんな所に通るワケがない!」
「高望みしすぎだ! 自分を勘違いしている!」
反射的にそう叫び、
と言い張っただろうか?
紙切れを見た北原先生は、躊躇することなくあとの方を選択することだろう。北原先生には九大・熊大で出したけれど、実のところ九大を受けるつもりは強くはなく、広大と熊大と阪大のどの組み合わせにするかで悩んでいたのだった。
2『暗記数学と200点満点』
この時期に受けた直前期のマーク模試の結果をみていこう。戻ってきたのは、12月半ばと1月初めだったと思う。
11月旺文社 英語143点 数学108点 国語158点 地理52点 生物92点 合計553点
12月河 合 英語153点 数学 66点 国語139点 地理74点 生物69点 合計501点
授業以外にほとんど全く何もやってこなかった生物が春夏秋とじりじり得点を下げていたのでちょっとテコ入れして受けると90点台に戻った。
この年度は、事前出願だったため、河合塾は前年までより一回多い『出願校決定模試』と銘打った最終第4回マーク模試を12月に実施した。問題の数学は、11月の旺文社が108点、12月の河合が66点だった。
10月の進研マーク模試では140点取れたのが、11月12月のマーク模試では落ち込んだ。けれども僕は少しも動揺しないし焦らない。過去問でこんな点数にはならなかったし、この最終時期の模試は過去問の難易度や範疇から離れた予備校の作成者の趣味性の高い問題になっていると思えていたからだ。
ただし今年度は科目が減った分、過去問より若干難しくなるのではないかと予想していたし、その難しくなりようがどのくらいかにはちょっと懸念のないことはなかった。
理系の生徒の中には、どちらの模試ともに200点満点を取った者が数名いるらしいと聞いた。すごいな、と思った。自分が66点しか取れない試験で200点とは。来栖もその一人だった。
階段の踊り場のところで会ったので質問した。
「チャート式の解法を暗記する」
と言った。他の者もそうらしい。なるほど。そんなやり方があったか、と思った。が、今更そのやり方に変えようとは思わなかった。僕もまあ、基本操作の段階までは暗記していると言えばそうだ。
続けて彼が言うには
「理系で高得点を取った者はみなそうしている」
なのだそうだ。つまり、解法の1行目から答えまでをそっくりそのままチャート式に書いてある通りに憶えるのだ。そうすると200点満点が手に入るのかと思った。それでも僕の心は揺らがなかった。
1986年末のこの時代にはまだ『受験は要領』は刊行されていない。
この指南書が発行されたのは次の年でまだ一般には流布していなかったが、おそらく伝統的な進学校では受け継がれてきた方法だったのだろうと思う。彼は鳥栖高校出身だった。僕の行った高校では聞いたことがなかった。
それまで受験生を導いていたのは、入江伸さんではなかったか。精神論を主ベースにした受験指南で、努力とかセンスとか思考力とか、志とか、そんなことを主眼にされていたようだ。だが、押し寄せる波に飲み込まれてからテクニックに特化した指南書がもてはやされるようになった。そんな時代の潮流期に僕はいたのだろう。いずれにしろ僕は彼らのことは全く知らず、大学に入ってから入江さんの信奉者だった同級生から本を紹介されて読んでみたのだった。
浪人時代の僕は愚直なまでに『傾向と対策』と『整理と演習』しかやっていない。つまり過去問とそれに類する問題だけだ。それによって、出題者の問題作成の意図が知れた。また、初見の問題こそが我が数学と思っていた。一回見たことのある問題や解き方を知っている問題にしておくといった受験対策は好きではなかった。内野のゴロのように常に初めて飛んでくるボールをうまく捌くことに醍醐味があると思っていた。それは失敗もするだろう。だが、いつもいつも練習したのと同じボールが来るのはつまらない。パターンから外れた打球こそ本物の野球だ。
来栖から大量得点の秘訣を聞いても、僕はチャート式を購入しなかったし、解法を暗記しようとも思わなかった。それより単元を理解し、基本的な数式変換や操作方法をできるようになるのが先決と思っていたからだ。それにもまして、いまさら変える余裕もなかった。また、北原氏のごり押していたセコい方法には胡散臭いものを覚えていたからだろう、自分の立てた勝算を信じてやりきろうと思っていた。しょせん1次試験だけの数学だ。満点を取る必要はない。それに、模試で点数を取って見せるパフォーマンスは、もう嫌だ。あくまで本番で最高にもっていくための課題あぶりだしとみなした。
参考書研究をしているであろう各社の模擬試験ではチャート式になぞらえた問題が出るのかもしれないが、本番の試験ではそうとも限らない。出題者はときどきパターンをハグらかしてくる。出題傾向を読まれ受験産業にそれへの対策をされたら、ちょっとズラしてくることがあるのだ。思考力を試そうとしているからだ。寺田の鉄則すら買うのを躊躇した。研究出版のチャート式はパラパラめくってみても、僕には迫ってくるものがない。なぜかはわからないが、僕には合わないと直感した。そのチャート式の解法を暗記するなど、ちょっとやりたくない。数学に関しては模試で取れなくても構わない。直視しているのは本番の試験問題だけだ。
数学は好きだけれど、受験数学は好きではないという嗜好が僕にはあった。受験数学はあまり生活の役に立たないが、生活の中に数学や定理はいくらでもある。それを発見していくのは面白い。なんというか、僕は他の教科でもそうだけど、どうやって点数を取るかという発想で勉強していなかった。これをいかに人生に生かそうかと考えていた。学ぶとはそういうことだと。受験なのだから点数を取らねば仕方ないのだが、それが目的なのは時間の無駄だと思えた。受験勉強するという機会は同じだ。だが、それをどんな目的として使うかは僕の自由なのだ。
数学とかいかなるものか? そんな認識というか数学観を深めていく暇があったら、1点でも得点できるようにした方が合理的なのかもしれない。が、そこは僕だ。余裕をこいた大馬鹿者だから仕方ない。
しかし受験をするからには点数を取らないわけにはいかない。基本操作を道具として使い、問題を解きほぐす。僕の基本方針はそれだった。おそらくこの方法を続けていけば、2次試験の数学でもそれなりに解けるようになると確信していた。実際、東大の文系数学なら1題は正解が出せるし2題目にも手をつけるくらいにはなっていた。基本操作の習得だけでもそれくらいはできるのだ。(あくまでこの時代の問題での話だ)
やり方を忘れそうになるくらいの期間でもう一度解き直す。それが僕の復習法だった。つまり、できなかった問題の最初の解き直しは3日経過くらい。次は1週間か10日開けて。しかし回数ではない。スムーズにできるようになるまでだ。
僕が数学の得点が爆発的でなかったのは数学というものを神聖化してみていたからだ。すなわち受験においてはブレーキをかけながらアクセルを踏んでいるようなあんばいになっていたのである。ある意味、馬鹿にして、こんなもん次元が低いわ、と取り組んでいれば済んだことだったが、そこは青春のこだわり。未熟さだった。
奈緒子に際してもそうだったと思う。本人に言わせれば、
「少女Aよ、わたし・・・」
「特別じゃない、どこにもいるわ」
といったところだったかもしれない。もっと軽くみていれば、受験数学などしょせん人間の浅知恵でこさえた偽物、2次の数学が科学のテーマというより出題者が何をやらせたいのかに着目して問題を見つめたことだろう。条件や範囲の中で排他的に「そうだ」と認めざるをえないように浮き彫りにしていく。それだけだ。問題は、未熟な僕がそこまで吹っ切れたか、点取りに撤せられたか、そこだ。
続きは、seesaaブログにて
1 久々の白秋
[付録]
ところで、このおはなしの歌ができました。題名は『千の言葉の向こう側』なのだそうな。
『初めての寓話』をインスパイアして作っているようです。
[第1幕:冬枯れの通学路]
冬枯れのススキが揺れる川べりの道
ペダルを踏む足に 深刻な問いが絡みつく
「僕の天職はなんだろう?」
答えの出ないまま 腰を浮かせてこぎ続けた
ガッデムの声が背中でぎゃあぎゃあ吠えても
僕の心は別の空を見ていた
学歴の賞味期限なんて疾うに過ぎ去ると知って
もっと深い真理(ことわり)を求めていた
[第2幕:歪んだ鏡と孤独な戦い]
ゆがんだ鏡に自分を映し
正しくなろうとする大人たちの笑い声
「お前の偏差値じゃ通らない」と
切り捨てる定規の冷たさよ
だけど他人の過去のデータは 僕の未来じゃない
石ころだらけの土手を下り 出会った作業服の男は言った
「尖った角を削るな、そこから溶岩をくっつけていけ」
胸の奥の錨を引きずりながら
僕は僕の言葉でノートを埋めていく
[サビ:千の言葉の向こう側]
ラジオから流れる『If』の調べが
冷えた空気のなか 心に染み渡る
千の言葉では表せない君の面影を
僕は余すところなく 言葉にしてみたい
遠い空へ響け 僕の小さな決意よ
誰も真似できない未来のアンカーを打ち込んで
今、風の中へ漕ぎ出していく
[ブリッジ:幸福の青い鳥]
自分探しの旅に出ても 青い鳥は外にはいない
胸のうちにある熱だけがすべてを照らす
理不尽な嵐の中でも 魂のセレクターは
いつも気高い方角を指し示している
迷ったら困難な道を選べ
ワクワクする鼓動に従って生きていこう
[大サビ:女神へ捧ぐ詩]
ガッデムの呪いも 時代の雑音も
すべては僕を自由にするための向風(むかぜ)だった
真理を求め、小説を書き、人々に光を届けるために
僕はこの人生を歩み始める
千の言葉では表せない君よ 僕のたったひとりの女神よ
[アウトロ]
自転車をこぎながら口ずさむ カントリーロード
未来はいつだって 僕の手の中にある
千の言葉のその先へ――

