努力の消えた夏
夏は僕にとって天王山というわけではなかった。天下分け目の関ヶ原でもない。涼しい顔でやってきた。そして陽気な顔で過ぎていった。
卒業生に学期と夏休みの区別はなかった。
『努力は実る』だの『継続は力なり』だの、バカバカしくなってくる。習慣になれば、当たり前。息を吸う吐くくらいのことだ。くさい精神論が必要なのは、起動初期段階だけなのかもしれない。たかが勉強、便所に行くのと同じくらい簡単にやる。片意地張ってやるものでもないと僕は思う。やって当たり前。やらないとどうなるか、良い見本がうちにいる。ふたりも。
どうやら努力一辺倒のガンバリズムなどというものは、予備校の手前勝手のようにも思える。そうやって責任を受験生側にすべて委ねたい。やらせるだけのことはやらせたと。
質より量ですなんて。とにかく時間をかけさせ、量をやらせようとする。落ちたのは言う通りにやらなかったからだ、と言い訳を用意しておくかのように。だが、勉強する目的が高次になければ、時間をかけるのが目的になる。量をやるのが目的になる。それではやったふりに終わるし、消化不良を起こしては元も子もないのだ。もちろん量は要る。時間もかかる。けれど、なんのためにそれをやるのか? そこを履き違えてはならない。点数を取るに終わらない、もっと高次の目的。なぜ勉強するのか? たとえば知識の網羅度を上げる、知識の関連、物事の正確な捉え方、本質の読み取り力、構造解析力、抽象化力、一般化された定理の具体化力、離れた事象の連関を観る、同一視されたことのねじれの位置や次元のちがいを観る、表と裏、目に見えることを支えている見えない下部構造を想像する、ありのままをとらまえる把握力・・・など。この世界をより広く、より多層的に、よりシンプルに、より核心的に捉えて行く眼力を養うためであるのではないか。(こられは気づきと呼ばれる、科学主義者が最も嫌悪する魂の働きによるものである)そうすることによって楽に生きることができたり、より高度な技術やシステムが創り出されるかもしれない。それが学問の意義だと思う。科学の精神だ。(嘘や欺瞞を見抜く眼でもある)といっても学問のレベルでは、物質の範囲で限定しながら物事や人間、自然を考察するにとどまるが。
ひとくちに量と言っても、高校時代に僕が経験したように、実力に合わない問題の前でうんうんうなっているのでは時計の針が回転するばかりで、量はこなせない。たとえば、量をこなすには今解ける問題よりほんのちょっと難しいレベルの問題の時だ。そうやって解ける問題の難易度を上げて行く。一番簡単な問題を確実に解けるようにすることで基礎を修得する。量はそこから始まるのではないか。飽くまで本質を理解しそれによって問題をほぐしていくのが目的なのだ。そういう意思の元に取り組まなければ徒らにたくさんやっただけに終始する。より高次元の目的で取り組むのが質であろうと思う。
誤解のないように付け足してておくけど、僕は量を重視している。
社員になった後輩の話では、福武書店は自宅自習の時間を1日4時間とって欲しいと指導していた。
勉強時間は減ってくのではないかと述べた。実際、僕の勉強時間は高校生の時よりも減った。3教科で10ー12時間やっていたのが、5教科になったのに8-10時間になったし、それで十分と思えた。
なんでも時間と量だけ増やして解決しようとするのでなく、むしろ減らしていくという視点をもって初めて次元をあげ質が上がるのではないかと思うのだ。
もちろん時間と量を追求していく時期はあると思っている。
すなわち、次元があがり質があがっていっているのに、同じ時間やり続けるなら、成績は上がっていくはずだ。
成績が上がったら受験校のランクをあげてもいいだろう。するとまた量や時間は増えるかもしれない。
時間が最大なら、期間は伸びていくだろう。
だが、僕のこの受験期にあって、あと9ヶ月で満点のある教科の得点を揃えていくには、時間というより期間の問題の方があると思ったのだ。すると3500時間やろうが3000時間だろうが、ほとんど違わないと踏んだ。
受験期には12時間に制限していた勉強時間も30歳を過ぎた頃には16時間でも20時間くらいやれるようにはなっていた。けれどもやはりすっきりした気分でいるには8−10時間くらいが最適ではないかと思う。
そしてまた、僕も努力していた時期があった。高校1年の秋に受験勉強を始めてから長時間机についていられるようになった2年生の春くらいまで。それ以降は勉強においては努力という感じんはなかったけれど、人格障害者北原稔也による日々の罵倒、人格攻撃、能力否定、罪悪感の植え付け、受験校の押し付けにとても不快な気分がしていたし、それゆえに苦しかった。だから、なんだか高校時代すべてが努力じみていた。
高校時には、行きたくもないところを無理矢理に受けさせられたかんがあったから『絶対合格』などと片意地張っていなければいけなかったわけで、こうして自分の舵取りで勉強して行く大学を選べるとなると、肩に力なんか入らなかった。
「もう、そこに居る」
俺はやった。
I did it.
やりながら振り返り自分をよく観察して自分にとって最良最善最適な勉強法を確立していくのだ。
血相変えてやるのは、不安が大きい証拠ではないか。
勉強法は、あれかこれかそれかではない。他人のやり方を参考にしながら自分独自の方法を創造していくのだ。継続とは、創意工夫、より効果のある目的にかなった方法に高め続けるということだ。
誰かの一つのやり方を真似したところでそっくりそのまま同じとは限らない。表面や形式だけ同じで肝心なところが抜けているかもしれないではないか。ここは青年の独立心や独自性を大いに発揮する場面だ。
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他人の言いなりになるな。責任は全て持て。それが己の運命を創る。
僕はこれらのことを将来に自分に向けて言い放つ!
点数主義に走らなかった自分、他人の方法の奴隷にならなかった自分、くさい精神論に翻弄されなかった自分、参考書マニアにならなかった自分、偏差値偏重に陥らなかったこと、
ぜんぶ、誉めてやる。
笑顔で居続けたこと、余裕の気分であり続けたこと、胸踊る心境だったこと、いつも溌剌としていたこと、より進化させていく独自の方法を貫いたこと、友達の成功を称えたこと、自分の人生の方針を見定めたこと、
よく、やった。
大人の僕は自分の青春から学んだ。19歳の僕は、薄汚れた大人よりも、本当のことを知っている。
そしてまた、やった! という達成感は合格時に覚えたのではない。やっている最中からずっとあった。毎日、唐突に、やった! と思っていた。問題が正解した時でなく、何の気なしに脈絡もなく嬉しい想いが出てきた。俺はやった!、と。
西方先生は「過去のことは、どんどん完了形を使っていいです」とおっしゃっていた。
それでいうなら I have done it ! すでにやり終えている。やりきったという感覚。
やっている最中にやり遂げた時の想いがあったのだ。やった! スゴイ 俺、なんでも持ってる、ありがたい。そんな気分だ。
やると決めた自分との約束を守り続けることで自分への信頼が増大していく。すなわち自信だ。
『現状』と『成る』の間に距離がない。時空が介在しないから、自信なのだ。
根拠など要らない。だが、自分との約束を破り続ける者には自信など育まれていないだろう。約束を守り続けるから、意図した結果も出すという推測でなく自信なのだ。今に因と果が同一で在る状態が自信なのだ。もう、そこに居る。そこに居る自分を確かに感じている。国立大学での学生生活はもうすぐそこ、僕の手中にあった。高校3年生の時に学級日誌に書いた宣言文どおりの大学生をやっている僕が見えていた。
俺は決心したことを実現する者だ
そういう認識になっていく。高校1年16歳の時にした、あの決意を僕は守っている。守り続けるには、進化していかなければならない。進化することが守り続けることだ。飽きるとなく伸び続ける。それが真理の本質的理解をさせていく。
日々、毎旬自分との約束を守り続けて行った先は己の目的へと収束していく。
この夏、僕にとって勉強は、なによりの安息の時となった。自分の世界に入り、自分の世界を広げていく崇高で神聖な時となったのだった。息抜きなんてする必要もなかった。
ーー自分との約束。19歳のこの時分には、受験勉強と読書であった。数学を毎日5題。と同時に以前に間違った問題をやり直す。英語は毎日数題の逐語訳。必ず芸術的作品や難解なエッセーや批評文を読む。模試は必ず3回は復習する。これと思ったテキストは10回繰り返して自分のものにしていく。など。これだけは絶対に欠かさないと決めたことは必ずやった。
32歳の時に、自分との約束を守り会社を辞めて独立してからは『思いついたことは必ずメモする』と決めた。その約束は99・9999%守られている。おそらく10万枚に及ぶメモを書いてきた。便所でも寝室でも車の中でも。バイクに乗っていて思いついた時には側道に止めてメモをした。初期の頃は、憶えておけるだろうとかめんどくさいと思って飛ばしたこともあった。中期には、眠くて仕方なくてペンが握れないこともあった。けれどもたいてい再現できないので(再現される時もあるが、ちょっと変性している)眠くても、殴り書きでもいいからメモを取る。(眠りっぱなと起きてすぐにアイディアが生じることが多いので)
この他にも会社員時代にもやっていた『毎日新しい知識に触れる』『本を読む』など40年続けて来たこともやっている。32歳からは『毎日、自分の魂に語りかける』(自分自身と対話する)もやっている。初期的にはきつく苦しい時もあるが習慣化してしまえば当たり前のことになる。
自分との約束をたとえば10万回果たし続けてきて「自信がない」とか「自信があるかどうかわからない」となるだろうか?
そうしてまた、努力を重ね、自分を極限まで追い込んで没頭した。死ぬ手前まで悩み抜いた。
「その自信の根拠はなんだ?」そんな怒りともつかない問いを発しているようでは、生ぬるい。自分に甘いのだ。自分を超えて超えて超えていくのである。それが進化であり、進化するから真理の本質が観えてくるのだ。涼しい顔をして静かに生きていられるのはなぜか? その根拠が何か、自ずと分かるだろう、自分を超えてきた者は。
そうしたことをやってきたなら、社会的に出た結果がなんであろうが、自信があるのではないだろうか。あるいはその結果が出るにふさわしい自信を育んできたか、魂は知っているのではないか。その定量が、自分の未来をどのくらい予想できるかと合致しているように思う。
25年前、僕が独立したとき「もう少し上手になったら始める」と言っていた完璧主義のある漫画家志望者が「どこにそんな自信があるんだ?」と嘲り笑いながら聞いてきたことがある。この2つの物言いが同じ文脈であることが解らず、自分がどのレベルに居るのか分からないレベルに居るのだと分からないのが解っていない、と分かる。下手→上手のレベル。完璧でないからという言い訳。このような者は始めない。今日からやると決めた事さえ3回でやめ「明日から」になってしまう。筒井康隆のいう『大いなる助走』をなるべく遠くからやろうと後退していくのだ。
そしてそういう者は、本気を笑う。本気でやり始めた者をヘラヘラあざける。本気でやって失敗したらみじめだから本気になるのを踏みとどまる。自分は生活のためにやるのでないから、そうならなくてもいいなどとご大層な理想を掲げ失敗したのではないと言い訳を先に考えている。その理想を実現していくための努力も研究も観察も行動もしない。愚図愚図した評論屋さんに甘んじる。他人の成功に嫉妬する。
僕はこの夏までに8000時間ほどを勉強にかけてきた。高1の秋から。だが、下手をすると中学、いや小学生の頃から勉強にかけていた者も全国には存在するし、身近にもいたことが後から知れた。(それは以前話した通りだ)
うちにはこういう聞きかじりの知ったか大将が一体居た次第だ。やってからほざけ。と言いたいところだが、このことを自分の体験と観察眼で明かした人は本質を突いている。というか、こんなことは誰でも知っている。誰でも知っていることを実行するか先延ばしにするか、諦めるか。ほとんどその違いしかないと分かるために、消化試合のような人生をおくっている父が最適最短で導く者だったことは僕には幸いだった。彼は他人には偉そうな説教をしたが、自分には「なにやったちゃ一緒」と言って為にしていた。
言い訳を3つ考えつく暇があったら、やる。それだけだ。やっている内に進化する(認識があがる)。そうするとやり方も進化していく。それが質だ。質の向上だ。量か質かなんて問いはナンセンス。バカの考え休むに似たりである。量が質に転換していくのだ。あるところを超えると明らかにパワーを持ち始める。パワーを持ち始めると階乗で伸びていくのではないかと思う。
パワーを持っていない状態かどうかは、なんでも心配する、見るもの全てに恐れを抱く、いちいち他人と比較して上下や優劣を決める、誰にでも嫉妬する、なんにでも言い訳を用意している、すぐに他者のせいにする、ツイテナイと嘆くなどで判別できる。スタートを切らない者は、なんでもかんでも誰にでも「スゴイ」と評したり、あれはいかんこれはいかん、こうしなければいかんと評論し、失敗すると見るや、ホーラ、あんなことしたってうまくいくはずがないと勝ち誇ってほくそ笑むみじめな老人になっていくのだ。その実、エゴと我欲を満たすために、全員に好かれそうなことを言ったりやったりする。
高校時代の僕の勉強時間がそれなりに多いのは、いくつかの例外を除いて授業が何の役にも立たなかったからだ。しかも、試験の点数を取る以外の視点でやっていたからだ。受験勉強は真理の探究の一端と位置付け、おおいに自分の目する研究や活動をするための時間と空間を持つ大学に入る手段であって、点数を取ることに集中したのではなかった。それゆえに共通1次の選択科目も点数の取りやすさでなく、今何を学びたいかその優先順位1位にくる科目を選んだのだ。
ところで、この補習科では『夏期講習』などと称して別納入の授業料は不要だった。都合10数回ほど実施された模擬試験も最初の授業料に全部含まれていた。
重永の快挙
7月の半ばごろだったか。晴れた日だった。
同じ高校、同じ組からこの予備校にはなんにんか来ていた。彼らはほとんどがそのまま私立理系のクラスにいたが、重永だけは私立文系にクラス替えしていた。
高校は3年間僕と同じ組だった。彼もガッデムの被害にあっていた同志だった。しかし文転するとは思ってもみなかった。
高校時代に、彼が本を読んでいるのを時々見かけた。元々頭が良かったけれど、中学の時にはワルい友達と『不良』をやっていたのだった。
休み時間に私立文系のクラスに行った。ここは人も多く、ごった返していた。たまたま廊下に出てきた重永に会ったので話しかけた。
「どお?」
「いやあ、まあ」
あいまいな返事をした。坊主あたまが似合っていた彼も少しは髪を伸ばしたようである。だが、雰囲気がまるで違ったようには思えなかった。むさい感じはそのままだった。
彼も高校のカリキュラムや授業を完全に無視している一人だった。ガッデムとは、ーー重永は「担任」と呼んでいたが、ーー「犬猿の仲」だと自分で言っていた。ガッデムが教壇で何か大仰なことを話しても聞いていなかった。あとから何か言うこともなく、黙っていた。ガッデムが近づいてくると、雰囲気を消してスッとどこかに移動した。取り残されたガッデムが、おい、待て、おい、と大きな声で呼んでいたのが印象的だ。
2年の中頃に、知能検査みたいなのがあり、それが良かったのでガッデムに目を付けられたのだった。生徒にしてみれば迷惑な話だった。持論を実行させるべく、重永にも特攻を仕掛けていたのだろう。
授業中に日栄社の『1日1題完成 英文解釈 初級編』をやっていたのを憶えている。現役の時にどこを受けたか知らない。どこも受けなかった、と言っていたように思う。
「文系に変えたん?」
僕が聞くと、重永はタバコを取り出すと吸い始めた。
「ううん。まあ、いろいろあって」
「おれも」
と文転を伝えると、
「国立?」
と聞いて来た。
「そう」
重永はそれについては何も言わなかった。タバコの煙を吐き出した。
成績を尋ねると、
「60くらい」
と答えた。
旺文社の場合、私立文系は私立文系を志望している人の平均と標準偏差で産出されるので、国立文系の僕の偏差値と単純に比較できないけれど、3教科で60ならその母集団の中では相対的にまずまずの位置につけているようだ。
国文と私文では受けている模試がちがった。春には僕らが受けた進研模試でなく、旺文社の第1回記述模試の結果を言っているのだろう。僕らは進研模試で、偏差値の算定方法の異なる両者では単純に比べられないと思ったし、数学と地理の得点力のなさを自覚していたので、聞くだけにとどめていた。その後すぐに僕ら国立組は夏の旺文社の第3回模試(9月)を受けた。結果は秋になって返ってきたのだが、僕は自分なりに満足のいく点数と偏差値を出していた。彼と比べてどうとかいうのでなく、去年の僕より伸びていたので嬉しかった。
特に英語が偏差値70を超えていたのが嬉しかった。長い間求めていたことだったから。点数が74点あったこともよかった。けれど数学と地理はまだまだ得点力がなく、半年間まったく手をつけていない生物は現役時より落ちてきた。(数学は現役時の理系数学でなく文系の数学だ)秋の第5回模試ではさらに偏差値は伸び、同時に教科の偏りも是正されることになる。北原稔也氏は断定断言していたけれど、僕の偏差値は最後まで伸びていった。
要するにあれは彼の受験時代の個人的な体験であって、なんの普遍性もなければ僕に当てはまることでもなかったのだ。生活に困窮した自己愛性人格障害者の妄想と無理強いだった。みじめな失敗をするための。それだけのことだ。あの男の個人的な体験は他人には当てはまらないし、統計も、めくらの予言も、何も真に受けることはないということだ。北原稔也自身がいかに馬鹿で怠け者であるかを大声で暴露していたとは、お笑いなのだ。
全国展開する前(1985年ごろまで)の代々木のオープン模試なんてのは、回を追うごとに参加者が少なくなっていき、しまいには代ゼミ生それも東大京大を始めとする難関大志望者ばかりになっていくものだから、勉強しているにもかかわらず偏差値が下がっていくといった現象が起きていた。東大受験者ならそれでも正確な判定が出たのであろうが、地方の旧帝大までの志願者なら旺文社や進研あるいは河合全統オープン模試の方が実際の受験者が多く参加し、偏差値や判定は正確だったのではないだろうか。昭和40年前後の受験生だったガッデムみたいな多浪生は、春には高偏差値を出すが夏には失速し秋には惨敗しそのまま優秀な現役生の追撃にまくられて不合格を重ねる、を繰り返していたものだから、あのような定理が培われたのだろう。それでも、東大に入ることが目的となっていた低俗な男の、人生をかけた憐れな敗北は合格よりもマシな結果だったと僕は思う。
この年、僕は最後まで偏差値を伸ばしていったが、次の年には頭打ちを自覚したとも限らない。いずれにせよ、僕は目的にかなったところに入るのだ。
参考までに、2次英数国社2の5科目であるが東大の文3はA判定76・6(75%)B判定72・6(50%)C判定67・7(25%)で11月の第5回模試の判定で出ていた。英数国の九大文はA判定71・8(95%)B判定65・8(60%)C判定59・8(20%)だった。この時代の旺文社記述式模試のレベルにだいたい見当がつくと思う。
しかもこの時より少し前に返却のあった進研模試が偏差値のインフレを起こしていたのを差し引き、高3の時の旺文社で僕が出していたくらいだったので重永の成績は「けっこう伸びたんだな」と思った。
重永と話すちょっと前、6月の終わりか7月の初め頃だったか、5月に受けた、ーーガッデム北原稔也が旺文社より難しいと言っていた進研の記述式模試の結果が返ってきた。初めて受けた進研模試だった。
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英語81・2 数学52・8 国語60・4 地理37・8 生物75・8 だった。晴れた日だった。配られた結果をもって生物の教室に行った。
これを見た公立高校出身の五十嵐は、
「すごいじゃないか」
「おっさん、すごい」
と感心した。が、ーーかれは人のことを、おっさん呼ばわりする癖があったーー、僕にはそれより興味のある事柄があった。まずもって、
偏差値のインフレか?
と思ったと同時に、明治大学には学力がなくて落ちたわけではなかったと確信した。
(旺文社模試は実際に受験した受験者より学力の高い生徒が受けたと想定した母集団で偏差値を算出していたので、ここまで高くは出なかった。上の表参照)
英国生物3教科の平均偏差値は加重平均で73・2、この時期はまだ浪人生には有利だったが、決して低い数値ではなかった。明治大学農学部は64でA判定が出ていたので、十分すぎるほどの学力だったと言える。この偏差値は私立文系であれば早稲田大学慶應大学相応だった。早慶のレベル帯にあったのだ。ちょっと話はそれるが、早稲田と慶応が九州になじみが深かったのは、早稲田が佐賀出身の大隈、慶応が大分出身の福沢の作った学校だった伝統があったからかもしれないと思う。官立に通らないあるいは官立の嫌いな者が東京を体験して仕事をしようとするとき、旧制高校ー帝国大学というルートでなく、むしろ反骨在野の精神を養成するかっこうのルートだったのだろう。
代々木の私大模試偏差値に10足したくらいだったので、3教科に関しては2月の受験期でもこんなものだったのだろうと思った。
生物に至っては95点ほど取っていたので偏差値はこれ以上うえは少ししかなかった。
ともかく、この3教科は県の公立トップ進学校の上位に入るほどの偏差値なのだから、明治不合格は実力相応というわけではなかったのだ。だから僕は、現役時の敗因を学力には置かなかった。むしろ、ガッデムの強制に屈し志望先を曲げたことにあると思った。
数学と地理を始めたばかりで得点力がなかったのに、すでに熊大文学部はA判定が出ていた。実質、現役と同等の僕はここからさらに伸びる余地はあったにちがいない。(参考までに、熊大と同じ2次が英語と小論文の広大総合科学も阪大文もA判定だった。A判定偏差値 阪大文78 広大総68 熊大文64。僕の判定偏差値は81・2)
ただしこの時点でのA判定は僕の場合、信用ならない。1次の数学の得点力が読めないからだ。
阪大はいくらか上回って上でA判定が出ていた。けれど、よし! 行ってやろう! とはならなかった。
それは僕にはいくつかの大学選びの指針があったからだ。闇雲に偏差値の高いところとは思わない。だが一応掲げていた。
五十嵐は、僕の成績を見てことらさ驚嘆していたが、国立に替えた僕には偏差値平均を上げているだけの、英語と生物のいたずらな高偏差値など眼中になかった。2月21日から再開して3ヶ月ほど、偏差値は50を超えていたものの、数学の得点力がないのが懸念だった。共通一次試験に偏差値はどうでもいい。得点だ。物化生地、地歴倫社、平均点と標準偏差に違いがあるのに、点数で合否が決まる。
数学でドカンと落とす可能性のある僕に、他の科目の偏差値がいくら高くても全く保証がない。
「現役の時に3つしかやっていないんだから、当たり前だろ」
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と僕は答えた。
五十嵐も、英語は僕よりちょっと低い偏差値73くらい、国語は同じくらい、生物も僕より少し低く80点台か90点台と高得点を出していた。前年5教科7科目やって、僕の3教科に迫る数値なのだから、その方がすごいのではないか。数学と世界史は僕の2倍以上の得点があったし、前年に5教科ともやっていたので五十嵐は教科ごとのバラツキが小さかった。彼の驚きと感心は、少なくとも2教科負けていることを知って発奮したからだろう。
「去年5教科7科目やってそれなんだから、凄いじゃないか」
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と僕は付け加えた。
私大受験で、偏差値がA判定ラインより5以上高かったにもかかわらず不合格だった経験から、僕は偏差値をあまり信用していなかった。あくまで、目安。自分の成績の上がり下がりを管理するものであり、自分の弱点を知る道具であり、またどの教科にどのくらい力を入れるかの分別をつけるためのツマミにすぎない。第一、大学受験で受けるのは模擬試験でなく、大学の作成した問題だ。C判定以上なら、受ける権利があるくらいのものでしかない。ガッデムの呪縛から免《まぬが》れ、入学試験で点数を取ることを重視した勉強法にシフトできたのはありがたいことだった。
たぶん第3回の記述式模試の成績返却と同時と思うが『合格へのパスポートライン』という冊子が配られた。これには旺文社の模試を受けた人の、昨年の各大学の合格者の平均偏差値がランキング形式で掲載されていた。合格者平均は明大農学部農学科が58・4だった。合格者の平均なので、これより下の人も合格者には半分くらい含まれていたと推測される。農芸化学に至っては62・9で、どちらの学科も昨年の模試の合格判定に使われた数値より高かった。去年の僕の3教科の平均偏差値は60でA判定だったので合格者平均を超えていた。が不合格。やはり、バイオテクノロジーブームに乗り、国立大農学部や理学部志望者のみならず私立上位の理工系志望者までが流れていたのだろう。
だが、すでにこの時の僕は明治大学にみじんの未練もなかった。あの日試験会場で「やめ!」の号令があったと同時に鉛筆を机に置いた瞬間、もう別の方を見ていた。
のであるが、自分の過去を正確に振り返ることは有意義なことなので分析を続けた。大学3年生まで4年間。それにしてもあの、受験時の目の前に梨地ガラスのかかったような状態はなんだったのか? 不思議だった。この時点では理由が不明だった。
東京農大農学科は58・6、農芸化学科は61・0。日大農芸化学は55・9。いずれも合格者の平均偏差値が統計に出ていた。この学科に関して言えば農大は明治と同等、かなりの難関だったのだが、研究不足の僕には知名度の差が難易の差のように感じられていた。
日大の合格最低点はあの難易度で240点/300点満点だったので、おそらく面接の評価が最悪だったのだろう。お行儀と品の良さは、社会においては偏差値に勝る重要な要素である。面接試験は、偏差値至上主義者の不本意入学を減らすための最善の策だ。
ともかく、偏差値はもういい。問題は本番試験での得点力だ。そこを間違うとまた現役時代と同じ轍を踏む。
こうして1年目の失敗の総括が終わり、もう振り返ることはなかった。
煙を吐き出しながら、重永は
「社会を日本史から政経にかえた」
「今年からそれで受けられるようになった」
と言った。彼にとっては大変更だったことだろう。
政経をやり始めてそう日がないこの時点の偏差値はわるくもなかったが良くもない、そこそこのようだった。元々頭のよい彼はすぐに得点力を伸ばすことだろう。
「政経の方が点数が取れると思って」
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と重永は言った。結局は彼の変更は成功した。
翌年の2月には、同志社大学の文学部美学芸術学科に通った。
ありえないことだった。
僕らの高校から、しかも私立理系のクラスから、浪人しても、そんなところに合格した実績はなかった。自分の適性を自分で見極め、完全にマイペースを貫いたのだった。
胡散臭いと思って日本史から地理に変えた僕、得点しやすいという理由で日本史から政治経済に変えた重永。考えてみれば、僕は生真面目すぎるのかもしれない。融通の利かなさすぎる。
それにしても重永が、文学部の、それも美術科など、顔に似合わない学科を志望したか、僕にはなんとなく解る。ーー穴場学科だったからだけではないように思うのだ。つまり、それはーー。
しかし重永は湯田を訪れなかったのだろう。
実際、あそこに行くための経路は梁山泊を分け入るような、日に数本しかない、渓谷に設置されたむき出しのレールの上を行く鈍行列車にはよほどの光を見ていなければ乗り込む気がうせる。京都に行って心境の変化もあったのにちがいない。
翌年の3月の半ば、受験が終わったあと家を訪れたが、バラックみたいなところだった。掘っ建て小屋を補修して補修して、まるで組木細工のようになっている家の側面には多様な蔓植物が絡みつき、耐震強度を補強しているような、そんな家だった。重永の身なりから、かなり貧乏だとは思っていたが、これほどとは。玄関で声をかけると男の人が出て来た。
重永に比べてずいぶん小柄な父親が顔を見せた。たぐりあげたニッカポッカのふくらはぎにゲートルを巻いた人足みたいな格好だった。
ちょうど重永はいなかった。僕を見るや肩をいからせた父親は
「どこ通った?」
と聞いてきた。
父親は息子の成功をたいそう喜んでいる様子だった。饒舌だった。半径100キロ内には敵なし、といった勢いだった。
答えると、国立? 国立か。と言いながら、
「国立もスゴイがウチの子もスゴイ」
「なんてったって同志社大学は西日本1の大学だからな」
と意気込んだ。もうまるで出入りに勝利した後のヤクザの高揚感といった感じだった。
「凄いと思います」
高校の僕らのクラスからはありえない快挙に僕は喜んでいた。もちろん重永の頭が良いことも同志社大学が名門であることも、そこへの合格も素晴らしいことと認める。が、同志社の方が良いという一部世間の物言いや見方に対して僕は異議をもつ。個人的には、私立専願から国立に鞍替えした身として、しかも偏差値70以上を出していた者として、同志社には京阪神落ちの極めて優秀な者が含まれていることはその通りだ。だが、専願の3教科で、しかも数学の伴わない文系で高偏差値を出さない方が難しいと思っていたからだ。九州で学力優秀な生徒はまず国立を第一志望にする。それが九州一円の国公立大学に散らばって行くのであって、京都の私大や東京の私大に行くのは、特別の志の人に限られる。多数の定員を有する同志社の学生の上位層の一部には京大阪大落ちの最優秀の学生が含まれるが、一般的には九州でも関西でも国公立進学者の方が層が厚いし密度が濃いと思われる。
一方で、京阪神落ちの極めて優秀な者がいるので同志社の上位層が京阪神と大差があるわけではない。にもかかわらず、関西ではそんな扱いでないのは、同志社の学生自体が、自分は『京阪神落ち』という劣等意識があるからかもしれない。それプラス、国公立を諦めて3教科にした自分を知っているから、心のどこかに卑下がある。大学時代に行った韓国で、延世大学に留学していた同志社の女学生が妙に卑下していたのが気になった。会社にいた同志社出身者も国立大への気後れみたいな雰囲気を出している人が多かった。京大も上から3分の1以外は同志社の上位層と格差があるわけでもないのだから、無能な京大生の圧迫感みたいなものを受け入れず自信をもって能力を発揮すればよいと思う。受験に有能過ぎてかえってバカの京大生はたくさんいるのではないか?
大学のランクや偏差値もさることながら、受験を経てどんな自意識を得たかが重要に思う。だが関西という土地に独特の序列意識が強いのは、ーーそれに比して九州では協力関係の色彩が強いのだが、江戸幕府のお膝元であった関東の序列とはまたちがう、官位を出す権威と権力をもっていた天皇の存在があったからではないかと思う。関東のそれとはまたちがう、京大を頂点とした国公立至上主義とやたらとランキングにこだわる文化がある。天皇も幕府もなかった九州では同族仲間意識が強いのではないかと思う。他地域の人たちは自分たちの感覚で九州をみるとズレる。ちょっとだけ読み替えなければならないと思う。
将来、こうしたことを成すのだとベストを尽くし志をもって入れば、どこの何大学であっても誇りこそあれ卑下だの劣等感だのがあるはずもない。ところが大学受験が一大目的化しているから、劣等感だの優越感だの周囲への復讐心だのいったつまらない次元にとどまるのだ。いや、実は自分は自分なりにできることはやったし志もあると、そこから大事なことを学び得たと、決して自己正当化するのでなく感謝をもって過去を読み替えてみれば過去の現実が瞬く間に高次に変化するから自分の内面を真摯に見つめ直すことをお勧めする。(そうしたところで周囲の者たちの人格が向上するのでも彼らの意図が変化するのでもなく、ただ高次の自分から観れば周囲はあの時の自分を向上させるために働いていたと読み替えることができるのだ。これが過去を今変容させる秘宝である)
実際にその卒業生たちと触れ合った経験をもとにしても、僕は同志社大学が早慶に劣るだの、立命より優れるだの思わない。学風の違いくらいの差しか覚えない。
ともかく僕たちが証明したのは、あの高校と威張るために学校に来ていたガッデム汚腹のやり方では希望の大学へは行けないということだ。重長もまた、ガッデム汚腹の予言をひっくり返した一人だった。僕はもうもろてを挙げて賞賛する。
重永の父親が息子の快挙に得意になるのも自慢したくなる気持ちもわからないでもなかったし、入ったあとにどのくらい自分を伸ばすかが需要だと思ったこともあり、また若い僕はおべっかの相槌を打つこともなかったので顎をつまんで黙っていた。
家の周囲には布やタイヤや厨房機器など、ありとあらゆるガラクタがこづんであった。同志社の年間授業料65万円が、この家のどこから絞り出されるのか、と思わないでもなかった。だが、どういうわけか、受験に成功すると、ーーすなわち親の喜ぶ大学に受かると、そのくらいの金はどこからか湧いて出てくるので不思議なことだ。
しばらく待っていると重永が戻ってきた。
「よ」
なんというか、高校時代には特にそうだったけれど背中を丸めたおずおずとしたような態度でなく、堂々と胸を張っているように思えた。春だった。
ここまでしか入りませんでした。続きはseesaaブログにて
