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第4幕 久留米

 第1章 国立文系の教室で

 第2章 久留米

 第3章 目に留まった受験生たち

 

 

第1章 国立文系の教室で

 

許可はすぐに降りた。

「文系の方の教室に行って」

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と事務のおねえさんがお達しになった。

その日から国立文系のクラスに鞍替えした。これで僕は国転した上に文転したことになる。知らなかったし知ったところで無視していたと思うけれども、こういうことをする人で成功した例は極めて稀らしい。これで受験科目は英語 数学 国語 生物 社会なった。

文系の教室に行った。受講する生徒は理系のクラスより少なかった。そこに後から入ってきた五十嵐が僕を認めてこともなげに言った。

「なんだ、おっさん、文系に変えたのか?」

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僕は黙ってニコニコしていたと思う。

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あれこれ説明したところで始まらないし、他人にとってはどうでもいいことだ。彼も深くは聞いて来なかった。半月遅れとはいえ新参者だったおで居心地はおさまらなかったけど、なんとなくここが自分の居場所だと思った。

数学はやればいい。問題は社会だ。どれを選ぶか。五十嵐は世界史を受講していた。それから数日経った夕方だったか、1階の自習室で話をした。

「腕に自信のあるやつは、世界史と日本史、物理と化学を選択する」

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「去年は現社と理科1が必須だったので、世界史と物理を選んだやつが、上の方を狙っているんだろうな」

と長机にカバンを下ろしながら言った。

そういう事情はまったく知らなかった。五十嵐は、含みや余韻をもたせた話し方をした。言葉で明言していないが文末や句読点のところで前提や思いやりなどが含まれているのを漂わせる。(平安古文みたいな感じだ)事細かにいちいち言わないけれど、僕にはわかった。ちなみに『上の方』とは、偏差値の高い、ランクが上の大学という意味である。

「今年は理社の科目が減ったからーー、平均点は上げるわけにはいかないんで、問題が難しくなるんじゃないか?」

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と言った。なるほど。
着席した五十嵐は国立受験の一般常識のことを話してくれた。

ふむふむ。

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社会はとりあえず日本史をやろうかと思って数回授業に出ていたが、地理に替えることにした。どちらにしろ去年全くやっていない。地理に至っては高校時代に授業すらなかった。数学はもともと完成に至っていなかったのを急ピッチで復元している最中だ。得点力はない。

「理系の奴で自信のある奴は理科はだいたい物理を選んで、社会は地理を選ぶ。文系は世界史か、日本史を選んで理科はたいてい生物だ」

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「物理は化学や生物に比べて満点が取りやすいし、地理は歴史に比べて暗記する用語が少ないし理屈で解けるから理系科目なんだろう」

ふむふむ。

そうするとおおまかに言えば僕は社会は理系の人と同じ集団で生物は文系の人と同じ集団なのか、と思った。

たしかに地理は理系クラスの人たちが多く受講していたと思う。最初の模試の地理選択者は32人だった。全部で92名いる国立志望者と私立文系組33名から地理選択者が32人。おそらくは32人のほとんどが国立理系組だったのだろう。どっちにしろ、歴史のやりたくなかった僕には他に選択肢がなかった。倫理は簡単すぎてわざわざ勉強する気にもなれなかったし、政治経済には興味もなかったし実感としてよく解らなかった。しかも、たいていは受験科目に指定されていなかった。

国立受験が初めての僕にとって1浪は現役と同じ気分だったこともあり、まったく不安もなく、いくつかの科目に関しては貯金もあったので、焦ることもなく、第一に、あの高校と汚腹から解き放たれたことが大きかったと思う。けれどもし2年目に突入することになれば、一般的な浪人生のような鬱な気分はあったのかもしれない。が、この補習科の生徒はみな明るかった。五十嵐も夏木も、その他、僕が話した者や女子も。1浪は当たり前の時代だったからかもしれないが、暗さは感じなかった。

担当の先生は公立高校を退官されたばかりと聞いた。小郡高校だったか。英語を教えていらっしゃった。背も高く年恰好からもやはり55かそれくらいだろう。

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担当のこの先生の授業は受けていなかったと記憶する。授業風景を思い出せないのだ。長文読解、英文解釈などを担当されていたと思う。一度くらい出てあとは自習室だ。けれど、よくして下さった。進路指導は親身になってやって下さった。とてもありがたかった。

英語は英作文のアメリカ人講師以外全部切っていた。

英語は直前期までは維持でいい。

数学をなんとかベースに乗せなければならない。それが至上命題だった。その数学の授業にも出ない。出ていたのは生物、地理、古文、漢文。

僕ほど自習室をフル活用していた者はいなかっただろう。

文系クラスを担当されている先生方には、もっと高齢の、髪の毛の薄くなった方たちの中には背丈のちっちゃな方が数人いらっしゃった。150センチあるかないか。おそらく60歳か、それ以上の方々だと思う。僕が19歳なので41年以上前にお生まれになった。ということは昭和元年あるいは大正15年かそれ以前だ。一番の食い盛りのころに大東亜戦争が始まり食糧事情が芳しくなかったのだろう。その時代に旧制の中学から高校に進まれた。学制が変わったのが昭和24年だから、おそらく大学も旧制を出られている。そうして長い間、明善高校など公立高校を歴任されてこの補習科でも教えてくださっている。旧制最後の世代に触れられたことは好運だった。旧制高校はどこを出られていたのか、知らない。けれども多くは佐賀高校、福岡高校、5高、7高、山口高あたりだろう。その精神が歩き方にも現れていると思った。内に秘めた情熱と練磨が静かな歩調と物腰になっていた。

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国立文系に替えることができた僕にはパッと視野が広がった。できるだけ旧制高校を母体とした大学という思い。
熊本大学はすでに第5高等学校ではなかったけれど、筑後地区には幼少の頃から鳴り響いていた高い志にひかれていた。学制改革後の熊大は、5高跡地にある新造大学に過ぎない。それでもやはり匂いくらいは残っているのでは、という思い。そしてまた僕の目標にしてきたのは、奈緒子を抜くということであり、その彼女が行きたくても叶わなかったところ。それが熊本大学だった。が、この時点では文系の大学学部についてまだ検討さえしておらず、よく分からなかった。パッと受験雑誌をめくるかぎり、旧制時代や昭和30年代くらいまでは難関であったようだが、国立大学定員の増加と共通1次の兼ね合いで、僕の受験時代には意外にもそれほど入りにくい感じではないと思えた。

文系数学はその背の低い老齢な先生が担当されていた。頓宮先生という珍しい名前の先生だった。懇切丁寧に教えて下さった。けれども2回出て、それ以来出なかった。

「これを解いて」

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と何度か僕を黒板に解かせる係に指名してくださったのだが、その度に僕はずっこけた解答しかできなかった。さらに、浪人なので一通り終えた前提で授業をしてくださる。これは僕がいると全員の足を引っ張ることになる、と直感したので、数学の時限も自習室で問題集を解いた。1日5題だ。野崎はずっと授業に出ていたようで、いい先生だと言っていた。

地理の授業に初めて出たのが5月の初旬。ゼロだった上に出遅れた。しかしこの地理の講師は秀逸で、週に1回か2回だったと思う。北九州予備校から汽車で来られて教えてはまた戻って行かれていた。2回目くらいの授業の終わりに教壇に行き、初めてやる旨を話すと次の回に教科書を持ってきてくれた。

「これをやんなさい」

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高等地理 最新版 帝国書院 昭和56年文部省検定済み
渡されたそれは真新しく何か書き込むのが悪いような気がした。

「これでいいと思う」

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ちいさな声でそうおっしゃった。僕はちいさくお辞儀をしながら受け取った。丸メガネをされた気骨のある50代くらいの方だった。

その後にも『二宮書店 サブノート 地理の学習』を下さった。

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ゼロからのスタートだったけれど、この5月から来年の1月までの9ヶ月でどれくらいできるだろうか、などという不安はまったくわいてこなかった。できるに決まってるとも何も思わなかった。

この講師の授業は贅肉を削ぎ落としたように一切の無駄がなく、淡々と進められた。教科書は使われなかった。毎回、馬糞紙に問題が印刷してあってもっぱらそれの解説だった。教科書は自分で2.3日かけて全部読んだ。これで高校時代にやっていなかった分を取り戻した。また、授業度にその部分を確認するのに使った。数回出た時点で、とてもおもしろい、この方に着いて行けば大丈夫、と確信した。一度も休むことなく9ヶ月間、出きった。高校の時にまったくやっていなかったのもあったが、聴かないのはもったいないと思えた。そのくらい知的好奇心をひきつけた。

メキシコガテマラエルサルバドルホンジュラスニカラグアコスタリカパナマコロンビア

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模試、本番を通してこれ自体が試験に出ることは一度もなかったが、先生が時々繰り返されるので北アメリカと南アメリカをつないでいる中米の国々を憶えてしまった。ーーあとで珈琲を飲むようになってから重宝するまでなんの役にも立たなかったが。(ベリーズについてはこの当時は触れられなかった)

初めの3ヶ月ほどは授業を聴くだけだった。

ノートにメモしたことや模試で重要だったこと、授業で聴いたノウハウなどを教科書に書き込んだ。後半は1次用の問題集を解きながら知ったことや憶えたことをノートにまとめた。

いつだったか、思い出したように五十嵐が自習室にいる僕のところにやってきて

「これ、やる」

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とノートを渡してきた。夏だったと思う。

「おっさん、地理やってるんだろ」

どうやら高校の時のノートらしい。「おれ、使わないから」

僕が九大文学部を受けるかもしれないのに?

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そしたら、君を尻で押し出すかもしれないのに?

五十嵐は自信の塊だった。そんなせこいことを彼は考えていなかった。一緒にいた期間で、不安な物言いを聞いたことがない。自信過剰なのでもない。ただ、自分の想定している未来にみじんの疑いも持っていない。ずいずい風を切って歩いていた。

几帳面にまとめてあった。

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見かけによらず女性的な性質なのか、チマチマした文字だった。それにしても、ライバルとなるかもしれない僕に塩を送る態度に感謝した。

秋から僕は独自に『国別地誌』とそれ以外の2冊のノートにまとめた。

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授業で聴いたことや問題集を解いて得た知識を国別にまとめたものだ。

その国に必要な知識をレイヤーを用いて多層的に作成した。
中華人民共和国 1枚目

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2枚目                  3枚目

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ソビエト社会主義連邦共和國  ベネルクス        北欧

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地理 その他ノート

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僕が日本史に限らず世界史もやりたくなかった理由は胡散臭いと思っていたからだ。
けれど、10年後、20年後、30年後・・・。時が経つのに比例するかのように地理に関する受験の知識がどんどん役に立たなくなっていった。歴史は歴史だから、よほどのことがない限り変化しない。ところが地理はどうだ、産出物は入れ替わっていくし人口も、産業構成もどんどん変化していく。国が大国に包括されたり新しい国もできる。

地理の試験を一番最初に受けたのは、5月の進研のマーク模試だった。授業に出始めて1週間も経っていなかった頃だったと思う。7月になって返却された時の点数は32点/100点満点で、席次は校内31位/32人中だった。偏差値は30台で、ほぼ最下位からのスタートだった。

 

第2章 久留米

 

20万都市久留米(昭和61年当時)という街に慣れてくると、僕は参考書を見に、明善時習学園から歩いて六ツ門口から西鉄駅に向かって一番街を歩いた。途中にある『たがみ書店』に行くためだ。

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国鉄久留米駅から西鉄久留米駅までの直線が久留米市のメイン通りと言ってもいいだろうと思う。

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六ツ門から西鉄駅前までのアーケード商店街が久留米一番街だ。真面目くさった中学生でないかぎり、久留米や遊びに行く場所の一つだった。

 

ーーここまでしか入りませんでした。続きはseesaaブログにて

第4幕 久留米