第1章 サボタージュ

1985年9月1日~11月

 

10月10日にある代々木第4回総合模試の生物出題範囲に『コドン』とあった。教科書にも載っていない。最も詳しい参考書であるチャート式にも出てこない単語だったので聞きに行った。生物の教師はガッデムの真後ろにいた。聞くと、

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とつぶやいただけだった。
この教師はふヌボォっとしていて実力がなさそうだったので、それ以来何も質問したことはない。
こういう態度に不平不満を漏らしたことはない。あ、そ。とも思わず、質問に耐えられない人だと認知しただけだった。チャート式に載っていないことを出題する大学は余程の難関以外はないだろうから、特に困らなかった。ただ、模試で高得点が取れないというだけで。
うろおぼえだけど、確か酒見くんは、どこかの農学部と言ったと思う。とすると佐賀大か宮崎大か鹿児島大か。水産学部だったりあるいは農学部で畜産か何かやっていたら、そりゃあ、しかもバイオテクノロジー以前の人なら、コドンなど知らないことだろう。授業は、ただ教科書を読んで帰るだけの粗末な人だった。
試験を受けてみれば、コドンとは遺伝子コードのことで、アミノ酸がどの塩基3つでできているかのことに過ぎなかった。それにしても、代々木ゼミナールも最も詳しい参考書であるチャート式に乗っていないような言葉をあえて使う必要があったのか?

この学校の僕らのクラスでは、入試問題演習はなかった。
私立理系クラスで編成されているから例えば福岡大学の数学や理科、立命館や同志社などの理系の問題を解いてもよかった。福岡大学や薬科大、岡山理大あたりは受ける生徒もいたのだが、名前が出てくるのは福大だけで、それも英語の教師からだけだった。
もし担任教師と連絡が取れているなら、ガッデム先生の推薦する東京の私大の英語、数学、化学、物理などは演習があってもよかったのではないか。だが、そんなものは行なわれない。
おそらく、数学や理科の教師にそれだけの力がなかったものと思われる。いつまでたっても教科書をなぞるだけ。
最後の方に教えに来ていた進学指導も担当している女性の数学教師は1組も担当していたが彼女が共通1次の穴埋め問題を演習したくらいで、受験さながらの入試問題演習はなかった。
受験対策はしない。受験校は強制する。質問に行っても答えられない。生徒に罵詈雑言は浴びせかけるで、不良学校だった。もちろん、教師がだ。

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第一、伸び伸びと受験勉強をさせてくれなかった。なんやかんやと横槍を入れてきて邪魔ばかりした。ガッデムのことだ。それで僕は学校に見切りをつけ、有効と思われるいくつかの授業以外、独学独習にした。無効な授業は別の教科をやったし、後半は学校に行かなくなった。朝、家を出ると図書館に向かう。そのまま夕方まで勉強する。3日に1度くらい気が向いたら夕方学校に自転車で行き、出席していました、とガッデに答え、直帰した。ガッデはその点だけは、僕の思惑をわかったようで、欠課の数を減らして協力していた。もちろん合格が欲しいからだ。

僕は2年生のいつごろからか、毎日1回は教師に質問すると決めた。特に実力を認め、どこでも通用するまとめをしてくれている九州帝大卒のグラマーの老講師、それから古文や現代文の読み方を解析してくれた福岡女子大を出たばかりの真理子せんせい。3年になってもあいかわらず教師のところに質問に行った。質問は授業が終わってすぐに教壇に行ってするか、職員室に何かの問題を解いて添削してもらいに行った。すでに僕らの教科担当を外れていた真理子先生のところにも行ったが、横にいたガッデムに化学について質問に行ったことはない。受験や人生のことについても然ることながら、教科についても聞くことはなかった。質問がまったく思いつかなかったのだ。あの人にたずねることなど一つもない、そう思えた。むしろ害悪なことを無理してまで耳に入れることはないと思った。生物の教師は彼のまうしろにいたし、真理子せんせいは左隣の席だった。その辺りにも週に2、3度は訪れるのだが、化学だけは質問しなかった。おべっかは点数にならないというより、実力で生きて行くと決心していたからだ。だからこそ無理やりにでも飲み込ませようとしたのだろう、傲慢極まりない自己愛性人格障害者は。

生物系に進もうと思っていたけれど、理科は全般に好きで、人気がなかったし軽視されていた地学ももう少し深く知りたいと思っていた。地球や宇宙の本当のことを知りたかった。また、物理は2年の時に「おもしろいなあ」と思い、定期試験の時にはそれなりに気を入れて取り組んだ。それで2学期3学期と評定があがっていった。化学には苦手意識も嫌悪もなかったけれど、ガッデムから習いたいとは思えなかった。あんな歪んだ男の教えることがいかなるものか、2年生の間、特に例の教科書窃盗事件以降、ガッデムの授業は教科書も出さずガッデムがしゃべったり板書していることから意識を外し、堂々と数学を解いたり辞書や文法書をめくって英語を訳したりしていた。明日の授業の予習をしたり今日の授業の復習をしたりしていたのだ。目の前でやって見せていたのに、『予習復習をするようになれば』などと通知表の連絡事項に書いてくる始末。本当にどうしようもない奴だ、ガッデム汚腹とは。

学校の体制や担任教師の邪魔や人格の否定と蹂躙、各教科の教師の質・・・どれも僕の成績に悪影響を及ぼしている。これはまちがいない。だが、こんな事態を招いているのは、他ならぬ僕だ、と思わないことには人生はチェンジできない。僕が白紙答案を出して故意に落ちたからこうなっているというところから始めなければ始まらない。それ以前に遡り、他人を責め立てたところでこれからの自分の人生が好転してくわけではない。
周囲がダメだから自分がダメと思うのは、たとえそれが事実であっても、依存だと捉えなければ、自分は変えられない。公立高校に行けば今よりマシ、あるいは遥かに良好な状態だったのか?
こんな、実に初歩的で大前提のことを思いついたのは、たしか高校1年16歳の秋くらいではなかったか。おそらく自分を律したり、独学独習もしくは独立心を育んだりする点ではこの学校や担任教師はかなり有効に働いている。

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(夏目漱石の真似をして当て字を使っているのだろう。常用漢字に改めた)
八女高校に入っていれば、意を決して思想を学び真理の探究なぞ掲げて自ら哲学し、勉学に取り組んだかと言えば、そんなことはなかったにちがいない。ぬるま湯に浸かり込み、井の中の底に溜まった水中で泳ぐ蛙のごとく地域の誉れの中に安住し、生物の教師以上にボォーと過ごしたのではないだろうか。
悩まざるを得ない状況に追い込まれたというか身から出た錆びで自分を追い込んだからこそ、哲学が生まれ、詩ができた。人生をおおきなスパンで観た場合、僕の偏差値が5くらい高くなったからといって、それがなんだ? 独学独習や自分で観る習慣と力をつけたことの方が遥かに有意義だった。

高校1年生の時の気分を思い出し、ちょっと落ち着いた大学時代に書いた日記を紹介しておこう。この日記から校内の様子を想像してもらいたい。僕らが決して好ましい環境にいたのでないことが解るだろう。

某月某日(一部加筆修正、しかしほぼ原文のまま)

『高校というのは、学区の有力公立高校を落ちた者を集めたデガラシ集団だった。世間の人々が口に出さないから、自分で言うが。校則のボウズ頭で町中をうろうろすると揶揄の的であったと思うのは自意識による羞恥心であろうか。ともあれ、そのデガラシの中でもまだ見込みのある者だけをひとまとめにした、特別進学クラスというのが学校にはもうけてあった。そこにいたのは、中学の成績は良かったのだが、どういうわけだか公立高校に不合格になった優秀な生徒と授業料を免除されるくらい入試の成績の良かった優秀な生徒であった。彼らは1組に在籍していた。見込みのありそうな順にクラスに番号がふってあった。

入学と同時に、われわれは禁止事項を守る誓約書にサインさせられ、囚人となった。『予め誰が罪を犯すか知れない。だから、全員を初めから罪人と見なし、罰を与えた状態にしておこうというのだ。その禁止というのが、ヘルメットを着用しないバイクの運転は禁止とか、風邪をひいたときに無理して登校するのが禁止なら、わかる。百歩譲って、たとえどんなに破廉恥なユニホームであっても、寝るときまで着るのではないから、認めよう。だが、この学校には男子は全員丸刈り、すなわち1センチ以上頭髪を伸ばすのを禁止するという項目があった。それがルールだ、それに従わなければ入学を許可しないと言う。たった、その規則を守らせるために何人もの風紀係の教師が雇われていて、ハンターみたいに目を光らせていた。おれたちは、あわれな羊そのものだ。風紀教師が指をはさみ入れ、彼の指の高さからはみ出したら即、無料でバリカンを当てられた。そうして、校則について少しでも疑問を持てば、「入学する前から分かり切っていたはずじゃないか、それに誓約書にもサインしただろう、イヤなら辞めろ!」と言った。「お前らなんか、来ていただかなくて結構!」学校の至る所で、罵声が聞こえていた』

こんなに力強いことを僕は自分で書いていたのか、と思う。さらに、日記には、こう続く。

『ルールを守る訓練をするのは、いったい社会人となる基本なのか。そして善い行いをしなかった者に罰を与えるのは、善い行いをする変化をうながすのか。強制しなければならないヤツが一人でもいると、他の者まで一律に巻き添えを食うなどといって、そういった最低の信念を擁護する者は、お高くとまったメス狐だ。だいいち、彼らが押しつけているのは、ルールではなく、手段にすぎないではないか。校長の価値観と傲慢さを守るための。こんなことを思う俺を、甘えた青二才の正義漢と呼んで、あざ笑ってもかまわない。だが、おれたちは、誰か他人の規則に従うために生きているのではないではないか。百歩譲って規則との葛藤の中で、自由な自己選択をするために生きているのだ。集団の名誉のために個人を踏みにじれば、かえって集団に傷がつくことになぜ気がつかないか。罰を与えて禁止事項を守らせるなど、まったく人間の恥部と呼ぶべき、最低の精神活動だ。規律正しい大人の嫌う、無軌道さや怠惰さが目を開かせないのと同じで、禁止もまた人の目をふさぐ。それどころか、ルールを押しつければ、いつまでも幼稚な所にしがみつかせておくだけだ。そんなやり方に、教育という名前はふさわしくない。

中学までとちがって、言葉のオブラートにくるむこともなく、校長は、現実の厳しさという名目を与えて、それらをあからさまにさらけだしていた。ハジメという名のこの校長のことから話を始めなければならない。ハジメは、生徒を痛めつけることに命をかけていた。不条理で踏みつけなければ、人間は育たないと確信していたからだ。けれどそれは、人を逞しくするどころか、イジメ苦自殺をした少年の親が非暴力を訴えるれば訴えるほど、被害者意識の強い少年の無抵抗と服従に拍車をかけているのと同じで、教育の名を付けさえすれば暴力や命令や嘲笑でひとを踏みつけにする権利があると信じる者を励ましているだけではないか、と思える』

校門圧死事件のあるような時代だった。

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学校の実態が見えてきて、それから学校に見切りをつけるまでの1年ほどの間、僕はいつも酸っぱい胃液で喉や口がむせいでいた。あまりにも不快だったからだ。だが、こんな気分や感情や情動が他人に共有されるものでないことはわかっている。だから、親にも友人にも打ち明けたことはなかった。ただただ、自分の人生を好転させていくべく、黙って勉強していた。

ところで、生物の教師と言えば、1年の時に理解1の生物の範囲を教えにきていた教師は『餃子』と呼ぶ人がいた。なんで? と聞くと耳が餃子みたいだから、と答えた。

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見ると確かに右側の耳殻が萎れた花のように内側に巻き込んでいる。しかもちょっと長い髪の毛をその耳にかけているものだからますます餃子が側面にくっついているようにも見えた。
覚悟ができている、と思った。何も気にしないどころか、隠さずあらわにしている。
彼は
「熊大出身」
と酒見が言った。僕は、ふむふむと思った。
「理科の実験の時に化学薬品がついたのかもしれん」
酒見は自分の見立てを披露した。僕は、野口英世博士みたいだと思った。

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熊大で言えば、もう一人、1年の時に、僕らの時から必須となった『現代社会』を教えにきていた社会科教師は、教科書を使わず、サブテキストやohpによるスライドを駆使し、

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静かな情熱で講義をした。学生風の出立で、メガネをはめ政治や経済、倫理に哲学など、受験に出るところと全く違う話をしているのになぜか、現代社会は購入した問題集も難なくこなせたし、ほとんど何もせずに点数が取れた。概念の背景がよく解ったから、後ろにある繋がりがよく見えたのだろう。

か細い声だったが、少し社会批判的な文脈に乗せて教科書の重要概念を語るのでスラスラ頭に入ってきた。ある角度をつけて社会を観る『眼』を知った。
静かな反骨精神。剛毅、朴訥。仁に近し

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それが体現されているように思った。この教師たちはおそらくは昭和40年前後の熊大生なのだろう。まだまだ旧5高の伝統が色濃く残り、威信が光り輝いていた頃だ。でも、1年生のこの頃の僕の成績では九州における双璧であった九大・熊大には届いていなかった。

あのグラマーの講師あの人が九州帝大を出て伝習館で教えていたことは酒見から聞いていたが、帝大を出ているということは旧制の高等学校を出ているのであって、それがどこかは知らない。佐賀か福岡か5高か7高か、それ以外か。いずれにせよ、今と比べればとても簡単な入学試験をしていた旧制の人たちのレベルが決して低くない、高かったのだと分かる。彼らは(旧制)大学入試もないのに、(旧制)高校時代に実力のつく勉強をしていたということだろう。

真理子先生は文学少女だった。

読書もせず受験勉強だけやって東大や京大の文系学部に行った偏差値カスより、本に親しみそれでいて書淫でもない本物の読書家だった真理子先生の行った福岡女子大国文科の方が遥かに情緒豊かで、僕は好きだ。

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受験をゲームに特化して捉え難関を突破して学門をフェティシズムにした偏差値エリートにありがちな宗教へののめり込みや極端な忌避は思い出すべき境地への回帰を妨げる。また、自分が話についていけないからと「本、読みすぎっけんいかん」などと言って読書そのものを否定しにかかる群畜の畜脳症は過去10年に、いや30年に何冊読んだ? 1冊? 2冊? 読んでないね、新聞以外。そんな奴はひとりふたりと数えられない。1頭2頭だ。

教師の技量には濃い薄いあったけど、教師の間には緊張もなく、授業も受験には全く対応していないのんびり未満の学校に、僕は見切りをつけた。それで朝、自転車で図書館に直行した。この学校の日常の授業は周辺の公立高校の40%にも満たないことが次の年に判明する。受験対策は皆無に近かった。

この時期、僕はもしかすると、こんな雑誌を1冊買ったかもしれない。

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そしてまた、ライン社の国語の問題集をやった。他の教科はともかく、国語はいいと思ったからだ。
NHKテレビ『英語会話』は、マーシャクラカワーとかいう女性が出てきたら、途端に興味を失った。

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あの澄んだ純真な目をしたアメリカの娘に魅かれていたのに、なんだか、若い頃の江守徹と一緒で、妙な上昇志向みたいなものが噴出しているようで臭かった。代りに『百万人の英語』のテキストを買い、ラジオを聴いた。小林克也の英語がどんなものかを判別する力は持っていなかったが、しばらく聴いていたと思う。青年期の僕にももちろん人並みな上昇志向はあった。会社時代に僕の考えをこう否定してきた人がいた。「カネや名誉とか昇進とか、一人一人が自分の欲望のために働くことで社会が発展するんだ」この反論から、僕がどう考えてそれを体現していたかが分かると思う。

旺文社『英語 マルチプル暗記』なるカセットテープを購入した。

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学校の行き帰りに聴こう、聴いて英語力をアップしようと目論んだからだ。けれども、これらリスニング勉強で英語の実力の何がアップしたかと問われると答えられない。この当時はリスニングのテストもスピーキングのテストもおこなわれていなかったので、少なくとも点数に直結したわけではなかったし、記述式の試験にどんな作用を及ぼしたのかもわからない。

せいぜい自分を英語漬けにしていたことくらいか。

これらの耳で聴く式の勉強は高校時代の間だけだった。大学に入ってからもリスニングを何度も試みたが、どうも自分には合わなかったようで、なかなか聞き取れなかった。

ガッデムが学研を否定して進研を良く言うので、僕は受験用に進研の問題集をやった。それが私大受験に有効だったかは解らない。おそらく的外れだったと思う。この時代の福武書店はまだベネッセという名もなくラジオ放送など始め(松本伊代がMCをしていた)

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全国営業をかけ始めたくらいか、基礎力をみるには学研模試もあったし、それほど重視されていなかったように感じる。ただ地方国公立受験者が大勢の九州にあっては、人づてでしかないが、主な公立高校では進路指導に進研模試のデータが採用されていたようだ。だが、進路指導をしている世代(40歳代50歳代)にもなじみ深かった旺文社模試が最も信頼されていたし、3大予備校の模試は(浪人の暗いイメージと一部の人が陰々滅々とやっている胡散臭いイメージがつきまとい)マニアックなかんじがしていた。河合の全統模試などもマーク模試はともかく、記述式は受験者層も偏っているし人数が少なかったので、進路指導に河合塾以外で重視されていたかは分からない。

学研や進研はデータそのままに偏差値を出していたが、ーーつまり高く出る、旺文社は春や夏の模試でも秋の模試の母集団を想定して補正をかけていたので、偏差値は低めに出る傾向にあった。

東大や京大あるいは早慶を狙う人たちは独自に、予備校の開催している冠模試や代々木の私大模試を受けていたのだろう。僕が現役時に明治のために代ゼミ模試を受けていたように。ただし、僕の周辺には東大京大を志望している者はおらず、またそれらを真似た冠模試があるとは知らなかった。

僕の受験生時代のあとに、進研模試が全国制覇し学研や旺文社をしりぞけた。予備校の模試は代々木より河合塾の全統模試が台頭し、駿台模試は昔からの伝統で最難関大志望者のために生き残った。

赤本(過去問)は少しでも見ていれば、その方向に勉強の舵を切れるのだが、まったく見ていない。
この時点では明治大農に絞らされたわけだが、夏休みはおろか直前期にも赤本をやった記憶はない。学習予定表にも記載されていないし、ノートにも解いた形跡がない。赤本じたい買わなかったと思う。有名私大といっても特殊な学部だから近隣の書店にはなかったと思う。東農大や日大なら尚更だ。それらの大学に至っては赤本があることも知らなかったし、あったとしても買わない。お金がもったいないと思った。たった980円×3冊に価値を見いだせない。ただし、1学期に鹿大対策にと尋ねた進学指導部で『全国大学入試問題正解 生物』を数学の女性教師にもらったので、

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明治大学の生物だけは前年の入試問題を確認したが、これも解いた形跡はない。多分、あまり難しいとは思わなかったと思う。
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これをサブノート化して全部憶えた。僕の知る限り、これより詳しい参考書はなかったので、これを全部習得することにした。

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学校の行き帰りに何度もめくったので、この参考書は綺麗に使うことができなかった。表紙はやぶけ、ボロボロになった。ノートも、もう憶えているのに汽車の中が暇だからと何度も繰り返したので擦り傷がつき、やれた。

けれどもし僕が受験予定校の赤本を1度でも見ていたら、こんなペースで、こんな時間と量をこなしはしなかったろう。僕のやり方は飽くまで国立2次対策だった。和訳に英作文、生物の考察や論述。そんな試験で8割取る勢いでやっていた。もう、その勢いで走ってきて今更、簡単容易な穴埋め問題に合わせるなど、できない相談だった。そしてあれだけ偏差値で責め続けられた影響から旺文社模試で、あるいは代ゼミの模試で高偏差値を取ることが目標になっていた。それは僕の威信を賭けて、それから担任教師に成績は上がるし国立でも通ることができると物言わぬ主張をしたかったからだ。

試験当日に日大や農大の本番の試験を見て、唖然とした。こんな問題なら基礎だけを徹底して暗記し、考察や論述問題などやらない方が得点力は上がっていたのではないかと思った。

さて、僕の受験時代を通して、単語帳を使ったのはこれが最初で最後だった。市販の単語帳で単語だけ暗記していくやり方に僕はちょっと忌避感をもっていたので自分で選んで購入したことはない。熟語は次の年の直前期に、抜け漏れをなくすためにこれを何度か繰り返した。

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ただし、高校3年には学校が国語の漢字と読み書きの階級テストと英単語の階級テストが実施したので嫌が応にもやらざるを得なくなった。
この時期がいつだったか定かでないのだが、3年456月 91011月 121月の3期だったような。全校の一大イベントとして行なわれた。合格しなければ次の級を受けられなかたようなルールだったと思う。しかもチャンスは1回こっきり、再受験のチャンスはなかったような。
単語テストは桐原書店の単語帳で行なわれた。入門・標準・上級・即戦のたしか4回だったと思う。

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ミスター西南が指揮を執っているふうだった。

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西南学院大の英文科を出ている優秀な教師だった。が、ちょっとそれを鼻にかけているところがあった。なにかと言えば、頭の中で妄想したようにニヤニヤ脂下がった笑みを浮かべる教師だったが、そこそこ英語の実力はあるようなので、それなりに信頼していた。

この年の春だったか、アメリカから留学生が来た。似たような背格好の2人の男子生徒だ。

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髪の毛が金色だった。坊主にされていた。彼らは商業科に所属していた。僕は英語の力を試そうと、昼休みにこんな英文を書いて彼らの元に持って行った。
What difference a girlfriend from friendgirl?
すると、うーんと考えて英文を書いてくれると共に日本語で説明した。
ガーフレンはいっぱいいっぱいキスをする。フレンドガーはやらない。と指を振った。

授業が終わった後、その紙をミスター西南に見せた。
「ガールフレンドの方が恋人に近い言い方なんだね」
みたいなことを言った。そしてさっさと席を立って教室を出て行った。こいつが解らないと言うから聞いてやったのに、なんだかサラッと流しやがって。と思わないでもなかった。
だいたい彼が、ガールフレンドとフレンドガールにはなんか違いがあるようだけど、解らない

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と授業中に言ったので、この質問をアメリカ人留学生にしたのだった。どうもこの人は1から10まで僕らを安く見くびっている。疑問があってもすぐに行動することなくおしまいにしているくせに。

よく考えると、girlfriendはガールなのだ。女子が先に来ている。friendgirlはフレンドなのだ。友達が先に来ている。女友達であって、恋人のニュアンスはない。俺の女、というニュアンスと俺の友達女というニュアンス。
「pーーーーーーーーーーー」

と、また別の機会にセイナンは、この留学生が商業科の生徒というかこの学校の生徒にどんな印象をもったかをヘラヘラしながら話した。どうしてこういちいちそんなことを報告するのか? 自分より下の者を踏みつければ自分が高くなるとでも思っているのか。

こんな人はどんな大学を出ていようがいるのに違いないが、どうも西南出身者にはそれが目立つ。お金持ちの子息が多く集い、大学の立ち位置からくる外圧とプライドに高さが集合意識的化学反応を起こし、それが卒業生に共有されているのか? その一方で、むやみに上品でおとなしい人たちもいる。両極端として表現されているのだろう。総じて西南学院は優秀な私学だ。英語教育においては九州最高峰を形成している。だがどこかに落ちたり、3教科に逃げたうしろめたさがあるのだ。その引け目や劣等感が優越感として発露しているのにちがいない。

意味とスペルで1点と2点の問題があり、95点が合格点のところ、満点、満点、満点で下から順調にパスしていった。上級が終わったあとだった。ミスターが、
即戦が取れなくて西南に受かった人はいない

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とヘラヘラしたように言った。
ほう、と思った。
上級は5000語レベル、即戦は6000語レベルなのだそうだ。こちとら、7000語レベルを目指しているんで。
全部憶えた。
この2年で自作のノートを使ってすでに憶えているから、ほとんど既知の単語ばかりだったので、抜けているのだけだったからさっさと終わった。試験の時、僕は桐原の単語帳には載っていなかったが同じ意味の難解な英単語をあえて3つばかり書いた。
どうだ、この単語も知っているんだぞ!
と言わんばかりに。
もちろん、単語帳に載っていた単語は間違えずにかける。けれどもあえて別の単語を書いたのだった。採点後、返ってきたのを見ると、バツがつけてある。そのせいで合格点に1点足りなかった。
合ってますよ、と辞書と共に行った。
するとミスターは、

この単語帳にないから

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まちがい

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と言った。

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めんどくさそうに。

だから、こいつは西南なんだ、と思った。(これは侮蔑でなく、矜持だと捉えてもらいたい)
では、僕が西南以上に合格して見せようではないか、そう思った。前例のない状態で。
これまでの常識をくつがえしてやる。そのジンクスを覆してやろうではないか。と思ったと同時に、だから、ダメなんだ。そんな指導だから。お前たちのレベルが低いから、この学校の進学実績はこんな程度なんだ、と思った。
即戦を超えていたがために即戦を落としたのは例外というより、この学校やこいつの度量が狭すぎるからだ。

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こいつやバメン(馬面)先生が一つの指標に過ぎない点数や偏差値だけで威張るのは、それが自分たちに都合がよいからだ。他に見せ所がないゆえに。

また、予備校や塾がより高い偏差値の大学を勧めるのは、社会的ニーズでもあるが、塾や予備校にとって見栄えがよいからに過ぎない。広告効果を狙って。個々人は、志をもって最も自分を高めうる大学に進むべきだと僕は思う。東大以外の大学には『難関だから』という理由はないのだから。

そして僕はこのあとも次の年も単語帳で単語を憶えることはなかった。この時買わされた桐原を再びめくることはなかった。浪人してからは自作のノートさえほとんど進行せず、補習科への行き帰りにも憶えなかった。高校の2年間くらいで受験に必要な単語はだいたい網羅したし、模試で知らなかった単語は終了後すぐに憶えてしまったから。自作ノートなどで憶え方、引き出し方のコツをつかんでいた僕は、もうただ眺めるだけでスペルが入っていった。接頭語とか接尾語とか、基本単語のどの部分が入っているかなどに着目するアレだ。

ということは、中学受験や高校受験で2年間ほど勉強漬けになった経験のある人は、そうしたコツを体得し、大学受験ではたいした汗もかかずに乗り切れるのではないかと思う。

ところで、

単語の思い出し方だけれど、ほとんどの単語については既知のものだったし、抜けていたのは派生語ばかりだったので何度か見たら引き出せるようになった。長い単語は、正確に引き出せるかチェックするために実際に鉛筆を動かして何度か間をとってテストして完璧にした。
2年生の時に、何かで紹介されていた方法を真似して便所の中に単語を書いた紙を何枚も貼りつけていたことがあった。けれども、どういうわけか、僕にはまったく憶えられなかったので、すぐにやめた。(一度やり始めたことはやめてはいけないだの、センスの悪ことだ)そして、すぐに例の方法に行き着いた。

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大学の1年の時、寮の共同トイレで同じようにフランス語を貼りつけている、小便器の周辺と個室があった。この方法でやる人がいるんだ、と思った。先輩にたずねると、
ーーあれは、〇〇がやっている、と言うので
「これで憶えられるもんなんですか?」
と本人に聞くと、
「部屋で見ておいて、他のことをやっている合間に便所に行きたくなった時に行ってテストするゲームにしている」
と答えた。などほど。それなら有効だろう。が、これから憶えたいものをトイレに貼っても、どうも僕には入ってこなかった。ならば、トイレの貼り紙方式は僕の自作ノートと同じ効能があるのだろう。けれど、僕の場合はノートに書いた時点ですでにOUTPUTしている、すなわち思い出す作業をしているのだ。

いろいろやって至ったことに、どうも人間は一度見たことを忘れない。ただ、引き出し方がわからないだけで知識が失われたわけではなさそうだ。記憶、暗記、忘却、定着などの概念でなく、思い出すという視点から知識の思い出し方を工夫した方がよさそうだ。

それにしても、さすが熊大生だ、と思った。勉強熱心な人が多かった。

 

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サボタージュと学年1位と共通1次と