本編の一部抜粋です
第4幕 初めての寓話
他人を嘲る者は必ずみじめだ。
生徒の知能指数に嫉妬するガッデム汚腹の高速度映像
威張ったバカは、自分にヘコつくやつ以外をバカにする。みじめな自分を救うためだ。
いや、いずれ自分にへこつくやつもバカにする。バカな自分に諂うやつはバカだと。
バカがバカで在るのを見抜くのは卓見、しかし自分に阿諛追従しない者を嘲りバカにするのは、バカ。この男は、東大の駒場キャンパスに4年も通っていながら、己がバカだと自覚できなかったのか? バカを自覚した時から賢者への道が拓かれるのだ。
バカは周囲に誰が居ても同じなのだろう。観察眼がないから、自分が優位なミクロの世界に閉じこもって生きているのにちがいない。己のバカを認めないからこそ、虚勢を張る。東大に入る意義のひとつは己の知的ポジションを自覚し、たゆまぬ努力と向上を決意させることにあるかと思うが、東大生でもないのに東大生の中に紛れていたからこそ、尚更自分の愚かさを認められなかったのかもしれない。世間の妄想している『東大生』を演じることに長けたのだろう。みじめな自意識を救うためん虚勢を張らねば生息できなかったのかもしれない。
自己を肯定するとは、今の愚かさを認め、より賢明になっていく、元々の自分は叡智のかたまりだと知ることある。そして宇宙の叡智を進化させていく流れに乗るまでに成長することではないかと思う。
教師になったなら、生徒から学ばなくてどうする?
それが、教師の仕事なのに。
教育者とは学ぶ者だ。教える人にあらず。ましてや押し付けるなど、もってのほか。経営者とはマーケットから学ぶ者、物を売る者にあらず。宗教家とは衆生から学ぶ者、そして実践する者だ。性交もせず鎮座する者ではない。
何を学ぶのか。自然のことわり、すなわち愛だ。
さて、愛とは?
これが人生のテーマなのだ。現世的な価値を求めながら、触れ合う人々やマーケット、自然からより深い愛を学び、また創出する。意図してこの道につけるか、それが始まりだ。
学べば愚かさは解消され、愚かさに溺れることもない。高度な愚かさ即ち知性へと昇っていく。
善でも悪でもない。正でも邪でもない。本質。それを見抜き、見極める眼をより強く自覚するか。善と悪とを眺め、正と邪を臨む眼。主眼、主体、主観。これの本当の意味、視座が分かるか。それはどこにあるのか。気づいた者は儲け物。事は楽に運び、運命は自動的だ。愛で生きらないではおられなくなる。だってそれが最も自分に利益を齎すもの。だってそれが最も他人に気づくチャンスを提供するもの。
3浪もして東京農業教育伝習所にしか入れず、管理職不適格者として会社を馘になったのに、まだ認めない。
結果=未来 の観えない眼暗、それがバカ、魯鈍な愚か者。それを隠そうとして威張り散らす。他人を嘲笑い、犠牲者ぶる。お定まりのパターンだ。このワンパターンのカルマから抜け出せないのが地獄なのだと気づかない愚かなバカ者、それがプロ教師ガッデム汚腹大先生。
何を見ても、何を体験しても、誰に諭されても、絶対に考えを変えない。自己正当化し、なんでも他人のせいにする。
体験してより高次の考えに気づき、あるいは創造していくのがこの物理世界の目的だとすれば、なんでも解っている奴の出る幕はない。(その割にはこの話にはいつも出てくるが)
前置きが長くなった。
1984年の秋ー冬はまだ、汚腹先生から学んでいる最中だ。巡り廻ってよくもまあ僕の前に現れてくれたものだ。
毎日の鬩ぎは鬱屈した気分を醸造した。誰にも吐き出せない気持ちを僕は文章にしたためた。
秋になっていたが、まだ暑かった。(9月の終わりか10月の初め頃だったと思う)学期の切れ目など時々自転車通学をしていた僕はいつもは僕が長淵の家の方角に遠回りして帰っていたのだが、今日は珍しく彼が僕についてきた。どのへんに住んでいるのか、一度は自分の目で確かめたいということらしかった。
「ここを曲がったところ」
中学の敷地を囲う道につづく、ブドウ畑にはさまれた細道を抜けるところで僕が言うと、彼は自転車を止めた。そこでしばらく僕たちは話をした。北原の話が出たので、僕は鞄の中から大学ノートを取りだして長淵に渡した。それは昨日書いたばかりで、ページ一枚半ほどの短いものだった。どこにも吐き出せない不条理感を僕は寓話という形で表すしかなかった。それは他人に見せるような代物ではなく、また精神の治療にすらならなかったのだが、そのときの僕の思いを正直につづったものだった。
読み終えた長淵は言った。
つづきはseesaaブログにて 僕の偏差値今日時代 初めての寓話
