志賀島から戻った僕は、市立図書館に通う。ほとんど独占状態だった。その合間に、盆前の2週間くらいは選果場のアルバイトに行った。長いベルトコンベアから流れてくる梨や巨峰をコンテナに詰める作業だ。早朝出かけて行って10時か11時か、日によって違うが昼前に終わることが多かったと思う。去年に引き続き近所に住んでいた幼なじみの仁科さやかも来ていた。

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背も高く、スラッとしたスタイルの彼女は明善高校の食物科に通っていた。いつまでも坊主頭でうだつの上がらない僕は、声をかけたり話をすることはなかったけれど、姿を見るのが嬉しかった。

中学3年の時には同じクラスだった。僕はもしかすると緑先生の陰謀ではないかと疑っている。

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自分が最後の担任を引き受け、奈緒子ではなく仁科と同じクラスに采配し接点を強くしたのだ。
3学期の定期試験の時には彼女の机が偶然にも出席番号順に並び替える僕の席になった。それを知った仁科は、机に鉛筆で歌詞を書いていた。
ーー
恋も2度目なら 少しは上手に 愛のメッセージ 伝えたい

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中森明菜のセカンド・ラブだ。
ーー
帰りたくない そばにいたいの そのひとことが 言えない
母親同士が知り合いで、同い年、幼少の頃から知っていて最初の小学校は同じ。3年が終わる時僕が転校したが、彼女の家も数百メートル離れたところに1年後に越してきた。5、6年生の時には別のクラスだったけど、ずっと気になっていた。

1982年の11月にリリースされたセカンドラブは仁科の想いを伝えるにはうってつけの歌詞だったにちがいない。
机に鉛筆書きされたメッセージの意図は解ったが、僕は何も反応できなかった。むろん、僕も同じ想いではあった。幼少期の初恋、そして今。けれど、どうしていいのか分からない。恋の幼さは、物語を紡ぐことさえできないくらい儚いものだった。伝えられないで、すれ違うからこそ恋なのかもしれない。
一方で、中学の僕は夢の数ほどではなかったが目移りばかりしていた。仁科は奈緒子と同じ陸上部にいた。陸上部には彩女という名の女子もいた。小早川彩女という鮮烈な名前の響きは彼女の品格を高めるのに一役買っていた。結婚して苗字が変わるのが勿体無いと思った。小学校の1、2年ごろの事件のことで中学になって僕のところにやってきて、ーー
やっとありがとうと伝えられた、と言った。

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その事件のことはここでは詳しく述べないが、彼女の無実を示す僕の目撃証言のことだ。小学校の3年が終わると同時に転校して行った僕に、中学になって再び同じ学校になったのであの時言えなかった感謝の想いが伝えられたと。ーーあなただけが私でないと言ってくれた

丸い額にちょっと奥目の彼女もまた目を見張るばかりの美人に変貌していた。三人とも好みだった。
1年の時には奈緒子と同じクラスだったが2年になって離れ、3年の時には緑先生が担任になり仁科さやかと一緒になった。身近になったおかげで僕は醜態を晒す羽目になった。奈緒子とは2年3年と話すことはなかったが気になる存在にかわりはなかった。
高校受験が済み、仁科とは去年の夏休みにここで再会したが会話を交わすこともなかった。声をかけたかったが、勇気がなかった。坊主頭で偏差値40台で何の取り柄もない僕・・・。悲しみ2(TOO)ヤングーー幼すぎたのは僕だけだけど。
幼い頃好きで、中学になってまた好きになった彼女の3回目の恋は高校2年生の今年にも芽生えなかったらしい。少しだけ未練を残しながら、二人で映画にでも行けたらいいなあ、などとあらぬファンタジーを掻き立てるこはあったが、僕は現在の自分のことで精一杯だった。模試で点数を1点でも多く取ること、そして国立大に通ること、近々の課題で手一杯で、恋に恋することすらできずにいた。たとえ好い仲になったところで、晩生の僕はどうしていいのかわからず、不器用に消滅したのではなかったか。
中学、高校、大学と自分が成長していくと女子の好みも変わっていった。そんな自覚はなかったが人生の目的を遂げるのにぴったりの相手を探すようになったと思う。

仁科さやかは美人で初恋の人だったけれど、いや、だからこそ自分の人生に付き合わせる人ではないと思う。

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奈緒子について緑先生の語ったことで省いていたところをつけ足そう。何かの折に仁科がいいと言い、さらに奈緒子と勉強のことで喧嘩して、喧嘩したことすら忘れたある日、それはまだ中学1年生の時分だったけれど、放課後、クラブの用事で職員室に行った時だ。

「あんたたち、別れたの?」

緑先生が僕を呼び止めて聞いてきた。

別れたもなにも、付き合っているとさえ思っていなかったし、つきあいたいとも思ったことがなかった。というより、クラスメイトの時々口にする「つきあう」というのがウブな僕にはどんなものか解らなかった。

仁科と奈緒子は同じ陸上部に入っていて緑先生は顧問だった。いつも、唐突に話を切り出すのでたいていはその場では何を言っているのかつかめない。が、非常に深遠なことを言っていたし、達観者だった。

「私は、上のお姉さんふたりも知っているがね、素寒貧の中で生え抜いてきたんだ。あの可憐さときたら。三人とも、月のような光を放っている。あの姉妹を見た男子は、目がくらんで、ほろほろっとなってしまうんだ」

まったく別世界の話を聞かされているような気がした。

「ちやほや近づいていくんだがね、格のちがいに気がつくと、一歩下がってひざまづき、姫をお守りいたします、ってなるんだね」

僕が奈緒子のそんな特性に気がついたのはもっとあとになってからだった。

ーーあんたなら、うまくいくと思ったがね

ーー他の子がよくなったのかね?

ーー仁科さんより、数段いいと思うが

ーーあの子はあんたに気があったと思ったがねぇ

立て続けに先生は言ったが、僕は答え方に窮して黙っているしかなかった。

緑先生は自分が戦争や病気のために結婚せずに独身でいたのと生涯の伴侶は中学生の時に好きだった人と結ばれるのが一番いいという持論の人だったので、こうして教師の特権を生かして両想いの男子と女子をカップリングしようと裏工作していたのだった♡

仁科さやかは気になっていた女子のひとりで、普通に好きとか恋愛感情といえば彼女にあったかもしれない。奈緒子とはバンバンと魂がぶつかり合う、すごく嫌いだけどすごく魅かれるという相手だ。僕を素直な道に引きずり込み引っ張り上げる女神だった。死を覚悟した強さに守られ、胆力のある腹の座った女性。深い慈愛と母性を兼ね備えている。

それにしても、教師のくせに『不純異性行為』に発展するかもしれない関係に対して嫉妬し食い止めようとするどころか、逆に勧めるとは♡

「ま、いまのあなたじゃ、あの子は乗りこなせないだろうがね」

勝手に結論づけて話は終わった。

乗りこなせないのはもちろんのこと、人生の目的がまったく異なるように思えたのはずっと後のことだったが、先生が惜しそうに言ったのは意外だったし、得てもいないものを失ったとも思えなかった。けれども確かに奈緒子が僕の女性像の基準になったのは間違いない。そして先生の言う通り、奈緒子と仁科では格が違った。ーーこの時点では。けれどその後、大病などして仁科の人格は数段向上したのではないかと思う。

口に出して言ったことはなかったけれど、小早川彩女も気になる一人だった。奈緒子はおろかこの仁科さやかにしても、せっかく取り計らってくれた緑先生には申し訳ないが、この頃の僕には頼り甲斐などなかったし、失望させただけだ。そして高校2年生の今も、全く風采の上がらない僕だった。話しかけることさえできない。本当に僕は遠くの白百合でも見るように仁科を見ていた。海でもアルバイト先でも、まだなんの成果も出していない僕に気軽に話しかける女子はいなかった。ーーその僕が選果場で果実出荷のアルバイトをしているとは皮肉なことだ。

ちなみにこの年の夏は中森明菜は『十戒』を歌っていた。

愚図ね、カッコつけてるだけで

何も 一人きりじゃできない

優しさは軟弱さの言い訳なのよ

やわな生き方を変えられない限り

限界なんだわ坊や、イライラするわ

 

選果場のアルバイトのない時、僕は図書館の開館時間から閉館時間まで居座った。この時代の図書館には新聞や週刊誌などは置いておらずそれを目当てにくる暇つぶしの老人も皆無だった。来場者は僕以外、入り口付近に設けられた児童書コーナに来る小学校、それも低学年の子供たちばかりだった。僕は絵本や童話なども書棚から引き出して読んだ。『ズッコケ3人組』シリーズはこの時に読んだ。

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図書館が新館に移る前には役所の前方左手にあったが、小学生の時にも時々そこに行き、目に留まった事典や推理小説などを読んだ。特にエドガーアランポーシリーズやアーサーコナンドイルを読みあさった。

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奥の方には雑然と置かれた写真集や資料集がこずんであった。そこで僕は例の南京大虐殺の写真などを見た。
遠い昔のことだと思えた。白黒の写真がそう思わせたのかもしれない。

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特に旧日本軍の異常な蛮行には思えなかった。戦前の日本を責める気持ちなど湧いてこなかった。首を切られそうになっているの上半身裸の人が日本人にしか思えなかった。後であの写真のほとんどが偽造や捏造であることを知った。また、日本図書センターのいかにも正確な資料集ですという装丁の『画報近代百年史』も見た。写真は当時のものであったが、特に戦後分の解説文は左翼によってねじ曲げられているのが後になって解った。

この夏、最大のテーマは英語と数学である。以前、Kに数学の勉強法を教えてもらった通り、僕は基本問題を解き続けた。なべつぐ先生の推奨するように、ノートの上に問題を書き写して解答し、合えばそれまで。間違えば、数日後にその上にトレース紙を貼り付けて解き直す。できるようになるまで、この手順を繰り返した。

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「おめえの偏差値は上がらない」

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「それどころか、下がる!

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「おめえらには、共通1次はムリだ!」

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ガッデムは国立大学を断念しない者に向かって平気でそう断言した。が、実際、その断定とは裏腹に僕の偏差値は2年の間あがり続けた。その数値的事実を見てさえ、彼は己の信念を変えようとはしない。ーーえてして信念とはそういうものだ。目の前の事象でなく、あらかじめ仕込んでいる観念を目の前に持ってくる。この男は、人生はだんだん悪くなっていくものだという信念を持っているのだろう。しかも幼いゆえに暗い未来予測を断定した。

だいたいこの人はなんのために大学に進み、そしてこうして子供らにものを教える立場にいるのか? 火を見るより明らかだ。このプロ教師を自称する男は、この場限りのルールに徹底するというのは、厳格さというより、ずるい割り切り、己の成長の放棄ではないか。と、言葉には出せなくても、生徒は見透かしている。人生をしょせんカネとか権力と安くみなしているこいつの程度に対して、辿ってきた学校教育の無力さを痛感する。

偏差値についての勘違い

が僕の学力を引き上げた。この時の僕は、偏差値についての理解がそれほど深くなかったために、中学時代と同じ感覚でいた。

つまり、偏差値75が上限で、70くらい取れればまずまずと。その勘違いは、成績をあげることに作用していたと思う。学研の模試に参加する人のレベルが高くないと言っても、浪人生や東大受験者などと最上位層がいないといっても、そういう人は公立の各中学に1人いるかいないかであり、また中学の頃から東大進学校に入っているのだし、地方のおおかたの高校生には関係ない。

普通科の生徒は例えば福岡県ではこの時代、公立中学生の3割程度の定員にしてあったので、僕らのようにそこを落ちた生徒を含めても上位4割くらいの人たちが受けていたはずで、偏差値50は中学の時のように全体の50%のところではなく、上から20%くらいのところに移動している。そうすると中学の時の偏差値58くらいが学研模試の50くらいになるのだ。にもかかわらず、僕は中学と同じ感覚で56とか60になったと思っていたのだった。クラスで1、2番の彼らに追いつくには最低でも70は欲しい。75になりたいと思っていたのだ。

ところが実際には、英語の56は中学偏差値に換算すれば63に相当するのだった。数学の60は66ほどになる。このくらいの数値でも中学ではまずまずなのだが、国立大学受験となると箸にも棒にもかからない程度だ。だが、僕は自分は中学の感覚で56や60だと思っていたので、つまり自分の成績を低く見ていたので、まだまだこれからだ、習得することがたくさんあると思って夏休みの勉強に挑んでいたのだった。(学研模試で偏差値70となれば、中学時代の73くらいに相当する)

この時点での僕は模試が学研以外にあると知らなかったし、模試によって偏差値の出方が異なることも知るよしもなかった。3年になって旺文社の模試にかわった時に、こんなのもあるんだ、と思ったほどで各種予備校の主宰するオープン模試や特定の大学をターゲットにした模試があることなどまるで知らなかった。いずれにしろ、基礎学力を身につけている2年時には、偏差値そのものよりも、伸びや伸び率を重視するべきではないかと思う。

模試の偏差値70と共に、僕はひとまず共通1次では700点/1000点満点を目標にしていた。中学と高校1年での不勉強のディスアドバンテージからして3年の終わりにはそのくらいまではいくのではないかと見積もっていた。この点数は、1次試験では+0・5σ、偏差値では55の位置となり10万番、中学時代の偏差値に換算すると67程度となる。僕の行った中学は405人いたので、上から20番くらいだ。9クラスあったクラスでは2番。フクトのテストで言えば160点台から170点台/200点満点。それが把握しやすいイメージだ。学研の偏差値になおせば、61といったところか。学研の偏差値であっても61を取れば、クラスで2番、学年で20番以内に入っていたことになる。ーー僕はそれを知らずに70を目指していた。けれどそれがかえって偏差値を引き上げることになったのだった。

ところでこの男が一度でも、ただの一度でも、勉強の仕方について話したことがあっただろうか。

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ただ、評論するばかりで。しかも否定的な断言だ。それについてガッデムはこんな言い訳をした。

「学校はおおやけなのだから、点数やルール違反でしか、人を判断しないのが当然だろう。考え方とか事情とか、そんな個人的なことを考慮するのは、仕事の内に入らない。そこでは1円にもならんのだ。だいいち、そんなことは、越権行為だろう」

そんな非情で極端な考えをするのは、利口者と相場が決まっている。そして僕らを自分の奴隷にするために劣等感と罪悪感を植えつけようとする。越権行為どころか自虐行為も甚だしいのである。

ガッデムだけではない。この高校のほとんどの教師が入試レベルに至っていなかったし、それでなくても僕たちに教えるのは時間の無駄だと思って予習もしてこずに授業をしている有様だったので独学自習をせざるを得なかったし、それが大学受験の王道でその後の人生においても有用だったのだけれど、この時の僕は周囲の受験生と比べてディスアドバンテージにあると思っていた。だからダメな結果が出ると怒るのでなく、そういう状況の中でどうやって自分のつきたい進路に乗るか、その方法と哲学をしていた。たとえどんなに授業が良くても、教師が優秀でもまず自分でやって問題点を把握しておかなければ豚に真珠、猫に小判なのだ。

1学期にこいつのやらかした教科書窃盗事件の際、国立大学を諦めないことと教科書を取りにこない僕達に向かい、

「そっちがその気ならこっちはこうだ」

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などと、ガッデムはつぶやき攻撃を激化させたが、その気もあの気もない。黙って、勉強させてくれ。というのが願いだった。その点、夏休みは誰にも邪魔されずに集中できてよい。

ガッデム先生は紛れもなく、自己愛性人格障害者だった。

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表向きには誇大型自己愛傾向に見せているが、過敏型自己愛傾向が隠れている。その姿は蒲池や鮎川は見せられたことだろう。みんなの前では気勢を張っているけれども本当は心情を吐露する弱い人だと彼らは思っていたのだろうが、おそらくガッデム先生は病気に域にまで逹していたものと思われる。体の不自由な人のデンに倣えば、人格の不自由な人だったのだ。こういう人に教師などやらせてはいけない。

あと2年あるのにもかかわらず、

「今の偏差値に見合ったところを目指して」

などという考えは、伸ばす努力や創意工夫は要らないと無理強いしているに等しい。それでは人生は切り開かれないし、終わったおじさんの怠惰な生き方を押し付けているにすぎない。成長や向上や進化というものを知らない知能も知性も低い、人生に倦んだ中年男は自分の青春時代を忘れている。

人生というものは、伸ばす、伸びようとする力で成功していくのであって

「今の偏差値でーー」

などと言っている時点で堕落していくのは確定しているようなものだ。

第一、ほどほどの学力バカにありがちな、進化や成長を無きものとして扱う態度、それらを嘲り笑う姿勢。人生など概念の操作だけで事足りるとタカを括っているのに違いない。だが、そんなに単純なものではない。知能では人生は解決しない。悩みは知能ではおさまらない。このような、意識の低い人間というものは向上心もなければ分析的思考も拙い。哲学的思考もなければ倫理に対する洞察力も低い。その単細胞が東大を目指していたというのだから愚の骨頂とはこのことだ。

高校のクラスには椰葉くんというのがいた。ガッデムの異常性、傲慢さを示す好例と思う。1年の時から一緒だった。背が低くひょろっとしていたのに上着だけ2サイズくらい大きな学生服に身を包んでいた。というのも、彼は背骨が曲がっているのか、肩甲骨の片側が突き出したような変な格好をしていた。それを覆うために背丈の長い学ランを着る必要があったのだろう。大人しくて他人の悪口なんか聞いたこともないとてもいい奴だったのだけれど、パッと見、ルパン3世に出てくるマモーみたいな体格だった。

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そのせいか、背中の浮き彫りになる体操服を着たくないためだろう、椰葉くんは体育の時間にはいつもいなかったと思う。例によって中学の時にクラスで5番から15番くらいの生徒というのは真面目でしかもほとんど全員が受験失敗者であるため心の痛みを知っているからか、クラスメイトは椰葉くんの体型について何も言わなかったが一人、北原捻也先生だけは平気で彼を罵倒した。

「背虫男」

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「サリドマイド」

ふだん、仏頂面を決め込んでいるくせにこんな時だけはニヤけた顔で言うのだった。サリドマイドについてはご丁寧にお得意の化学式まで書いて説明する始末。椰葉くんは小さく反応したが、まるで小川のハヤのように表情も変えずスイスイと受け流した。1967年生まれの彼はサリドマイドとは関係なかったが、おそらく小学生の頃から差蔑や偏見に遭い、耐性と人格判定の術を身につけていたのだろう。ガッデムにしてみれば弱い奴は叩けとばかりに責め突いていく。まさに、ひとがやってはいけないと言うことをわざとやる反抗期の少年だった。

他人の特徴をつかまえて嘲笑や侮辱をしないではおさまらないプロ教師ガッデム汚腹先生の横暴はこれだけにとどまらない。

教壇での話ぶりからして、どうやら三池炭鉱近くに居を構えているようだった。三菱系の会社に勤めていたのだろうか? それは判らないが、時々、労働者のことを話した。

「あの闘争している連中は、テレビとか新聞に書かれているようなていのものではありません。働きもせず権利や給金だけを要求してくる卑賎奴なんです。あんな奴らに人権などあるわけがありません」

そしてこうも言った。

「差別しないなんてできっこありません。教師と言えど人間です。好きも嫌いもあります。それを同じに扱えなんてできません」 

一人ひとりの志向や希望に沿うために個々人にふさわしい指導をするのでない、自分の言うことに平伏さない、自分のエゴを撫でない生徒を毛嫌いするという意味だ。

また、海岸付近に住んでいる集落の人たちのことを悪し様に言った。

「沖端やあの辺には不可触選民が住んでいる」

それを聞いた椰葉くんが、ちっと舌打ちした。おそらくその辺りに住んでいる彼をさげすむために引き合いに出してきたものと思われる。(おそらく彼がふと口にした〝ガッデム〟という言葉が密告されていたのだろうと推測する)僕はその地域について全く知識がなかったけれども、この人の中では差別するべき部落なのだろう。

僕自身、粘土に竹串でひっかいたような極細の吊り目でエラの張った中学時代の同級生の不可解な差別に遭った経験からして、ガッデム先生の説も、それなりに承服しないこともない。おそらく、その地域は何千年も前から繰り返されていた、戦乱を逃れて大陸や半島から逃れ着いた者たちによって構成されているらしいことは後から知った。彼らの社会がどんな性質なのか、どんな差異を持っているのか、それらをつぶさに観察し、不調和を生み出す負の在り方をしているのなら、是正していくべきであろうが、蔑まれているから蔑むといった態度はとても高度とは言い難い。

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双子のキムラやヨッシャや平目などは人のことをよく、このひゃくしょーが、とかメーズが、などと僕の住んでいる地域(部落)の名を崩して罵った。静かに「うちはサラリーマンだけど」と返したり、引っ越してきたばかりで愛郷心も育っていないし、それを言うのは土着の農家に失礼じゃないか、と思っていたが、彼等の差蔑、侮蔑意識が半端じゃなかった。また、憐れみの令を持ち出し江戸時代の日本人のことを蔑んだ。どうして同じ日本人なのに? と思わないでもなかった。

キムラは兄にも弟にも、犬など哺乳類のように生まれつき鼻の下が割れていた。口唇裂だ。そういう身体的シンボルのある者を忌み子とか畜生腹というのらしい。縫ったのか自然に塞がったのかは知らないが、向かって左に突っ張ったような筋が一本痕跡として残っていた。ヒラメには同じ位置に大きな黒いホクロがあった。何か特別の示しを付けられて生まれてきたのか、僕には解らなかった。中学時代の僕は特に気にも留めていなかったが、当人自身は臆することでもあったのか、大層な劣等感を持っていたようだった。それが他人を貶めようとするように作用していたのだと思う。口唇裂や鼻の下の大きなホクロを蔑んでいるに違いないといった妄想を前提に他人に接していたのだろう。

そしてこいつらはよく、ーーボケが! と人を罵ったが、その意味は、ぼくちゃんを解って、ぼくちゃんのエゴを撫でて、ぼくちゃんを丸ごと愛してという意味だった。そしてまた、身に覚えのないことを決め付ける。ぬすっとだのぺてん師だのと身に覚えのないことを横でボソボソつぶやく。人のグローブを盗んでボロボロにして返したり、ありもしないことを言って自尊心を奪おうとしているのは、お前らじゃないのか? だが悪口とはそういうものだ。全く異なることを言って汚れをなすりつけ引っ張り下げようとする行為だ。そういうことをする度に彼らは自分の格を下げていることに気がつかない。

こいつらはツッパリでなく、ヒッパリだった。他人の足を引っ張って平等にしようとしていたからだ。

あとから解ったことであるが、彼らはガッデム先生の蔑む炭鉱労働者の家の息子だった。僕は彼等の住んでいる地域を特定したことはないし、親がどんな職業に就いているか全く知らなかった。あとから、彼等の言動を分析するに、炭鉱に近い、市の外れに位置していることを知ったことによって知れた。彼等が僕をサベツをしていたからこそ認知するに至ったのであり、こちらから積極的に知り、さらに見下したことはない。不可解で奇異で、よく分らなかったのが正直なところだ。

そうやってされてもいない差別や侮蔑を『やり返し』た。運動ができる、勉強ができる、見てくれがいい、教師に好かれているというのを理由に。

ツッパリの連中は学校や社会に対して反抗しているのであるから、バカにしたり笑ったりしないかぎり他の生徒に手や足を出すことはなかった。それに反してヒッパリの連中は、自分たちを相対的な地位を上げるために他の生徒の自意識を貶めようと働いた。同じ野球部に所属していたけれど、彼らの目的は野球を楽しみ強くなっていって強いチームに勝つことでなく、日本人をおとしめることだった。

キムラ兄弟は世間を賑わす凶悪事件が起きる度に、

おめえがやったんだろう

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とすでに犯人が逮捕されているのに言った。僕はこいつにネガティブなことを言ったことはない。むしろ、野球のできる奴として敬意をもっていたほどだところが平目の敵は俺の敵とばかりに攻撃していたのだった。たかが13、4歳にしてもう、くだらない大人と同じ卑屈な敵愾心を持っていたのだ。常時、人を疑って生きている。悪いことをしやしないかと。また、いつ自分が被害に遭いやしないかと。おそらくそういう人は自己保存からくる一種の恐れでなく、自分が常日頃から他人を貶めているし、嘘を吐いているから他人もそうだと決めつけているのではないか。民族や家庭の中で培われ肥大した恨みが行動様式や文化にまで登り詰めている。

ヒラメの敵は俺の敵とばかりに、ヨッシャに至っては、

「殺すぞ」

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とまで凄んだ。(ど素人がヤクザの真似をし)訳のわからないインネンをつけて。

もちろん彼らは、彼らの世界観に照らせば、すべて正しい。100%正当な理由があってやっていることだ。

善悪で考えれば、人間の考えつくこと、為すこと、全てが正しく善である、と同時に全てが間違っていて悪である。悪を裁定、宣言するのはもちろん他者である。

僕らは誰も、間違って悪を実行することはできない。「悪いと解っているが』あるいは『だからこそ」もしくは「絶対に正しいから」やるのだ。己の『正しさ』や『善さ』から抜け出すことは難しい。因果律を知った時、それから自由になり自在になっていく。因果を知れば、絶対正しかろうが、より正しかろうが、自分に不利益な現実を創造する行為は自覚してしないだろう。

つまり彼らは、自分はうまれつき能力が乏しい。自分たちは浮かばれない。不公平な世の中だ。自分たちは完全な被害者だ。世の中が変わらないかぎりひどい目にあう、と信じ見ている。

その考え思いと行動が彼ら自身に与える影響や結果について

人間を始めたばかりの魂もしくは成長の遅い魂は、それがみえてくるまでそれなりの期間を要するようだ。

ということに僕は長らく気づかなかった。

けれど、彼らに対してやるべきはガッデム先生のように差蔑されているから差蔑するのでなく、ーーそれではますます差蔑が渦を巻いていく、ーー彼らの在り方をしているとどんな現実がつくられ、どんな結果を手にすることになるかを諭すことではないか。

彼らは、生まれつき恵まれている者はなんの努力もなしに何事かを達成していると信じているし、ダメな自分は努力をしてもダメだと思っている。彼らのレベルでは、僕は生まれつき恵まれた、努力もなしに何事かを成し遂げる奴と見なされていたのだろう。

それはそうだとしても、そんなのは中学1年(13歳くらい)までではないのか。それ以降は、なんらかの努力や創意工夫をしなければ、放っておいても百人なみになるのであって、才能など畏れるものではない。そのことは、日本中、世界中、人類すべてを見渡せば容易に知りうる事実だ。いや、親や教師をみるだけでも解ることだ。

他人をねたみ、足を引っ張る人生を何年、何回続ければ気がすむのか?

ともかく、自分自身に低劣な意識を持つように持っていこうとするのだ。そしてその挙句「サベツすんなよ」とか「サベツした!」だのと指摘した。かれらに接するたびに、脇から背中にかけて得体の知れない寒さ、気色悪さをかんじていた。

彼らのサベツ意識は自分自身にも向けられていた。ヨッシャが言うにはクルメにある私立工業高校は「狂ポン」で、ヤメにある西のつく短大付属は「二死ポン」ヤナガワにある自分の通っている高校は「嫌なポン」なのだそうだ。どれもこの地域の滑り止め校だった。

僕はこう思う。

異なる存在を同じに扱うことほどのサベツはない

自分や自分たちと違うからといって侮蔑するのが低い在り方であって、差異を認めるのは単なる事実の把握にすぎない。それがたとえ程度の差であってもだ。

キムラ兄弟やその仲間とガッデム先生は同じ地平線にいる。左と右だ。天秤が吊り合っている。共産主義は、自分を最下層の愚劣な存在だと見なし身を置き、そこから上を攻撃するというやり口だ。下に下に下がっていけばいくほど有利になる。ような錯覚がある。その反対を唱えるいわゆる差別主義者は彼等と平等。同じ地平線の対極に位置し合う補完的な関係だ。

「教師も人間だ。好きも嫌いもある。嫌いな奴は蹴り飛ばしてくれる!」

などと教えるプロ教師ガッデム汚腹先生は、成長不良のキチガイおやじだった。僕が見る限り、およそこの高校の最大の問題児は彼だった。彼は自分の言いなりにならないだけでも僕たちに仕返しをしていたのだが「ガッデム」と口に出す生徒には容赦無く報復した。彼は勘違いしていた。彼は僕らに何かをやっている、そして僕らが期待とは異なる反応をしていると思っているようだったが、仮に僕たちがみんな教室に並んで腰掛けているだけの無反応なデク人形だったとしても、

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彼の行為はすべて彼に跳ね返っている。それが因果というものだ。僕らがどうであろうが、彼は自分の信念の発露者であって、他者に向けて発する前に自分の信念の程度に応じた作用を受けているのである。しかし立場を利用し50人の生徒に発すれば、彼の眼を非常に早くに拓いてくれるであろう反作用が起きては来る。ありがたい状況にいたのだった。

差別バスターズとは、自分たちが頂点に君臨して威張るための彼らなりの『共産主義革命』だったのだろう。あらゆる日本人の上に立っていることを示すための威嚇や暴力。そしてそれに対抗して威張り返すのがガッデム汚腹という構図である。権力闘争と言えばカッコいいが、要するに威張り合いなのだ。もっと言えば、弱い奴らの恐怖の発露に過ぎない。

あることに対する認識を聞けば、他のどれもが同じ程度にあるのだろう。実際には同じ個人であっても側面や部分に程度の差が生じているものであるが、この男の場合は均一化しているようだ。どこを切ってもガッデム汚腹。であれば、社会に対する認識がこれほど拙いのだ、受験に対しても推して知るべし。それを信頼するのはどういう人物か、そしてどんな結果を手にすることになるのか。

 

担任が誰であろうが、この夏休みにあたって、僕がまず第一にやらなければならなかったのは、徹底的に

自分は愚かである

勉強ができない

ことを心底認めることだった。そうしなければ革命は起きない。これらを認めない限り、言い訳や自己弁護もしくは嘆きや自己憐憫に時間を要し修正にも改善にも時間がかかる。それでは2年間で国立大学に通らない。

知能指数が高いとか、

やればできるとか

そんなプライドは要らない。

やればできる? やらなければできないではないか。やる。やるのだ。

知能指数が高い? そんなもの、瞬間風速でしかない。すぐに忘れる付け焼き刃。知能指数などマラソンの大学受験には何の役にも立たない。

素のプライドを育んでいかなければならない。

勉強の習慣は大学受験だけのものではない。人生の長きに亘って要するものだ。知らないことは即座に調べる。すぐに理解できないことは懐に入れて気づくのを待つ。常に新しい知識を取り入れ、認識を高め、己を革新していく。

観察眼

洞察力

直感力

を養い、物事の本質、人物の性根を見抜く。

Kも、図書館に現れた。高校で補修授業があっていたのか、この年はお盆過ぎごろに現れたと思う。彼の家は僕の家より図書館からずいぶん離れているので開館してからしばらくして姿を現した。昼休みを過ぎてから来ることもあったと思う。Kの家は古刹の間近にあった。

僕が居ることに気づいていたのだろうが、黙って横を通り過ぎ、僕の席より3つか4つ離れた一番前の(と言ってもその先に何かがあるわけでもない)机に腰掛けた。そして黙々と勉強を始めた。僕が小休止を取ったからといって付き合うことはなかった。自分のペースでやり続けていた。彼は、

「東大の理科1類」

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を志望しているのだと言う。聞いたのは次の年だったかもしれない。しかしおそらく中学時代から東大を意識していたのではないかと思う。最終的には学年1位に昇り詰め久留米大学附設高校に合格した彼も1年の時分は140点/200点満点、学年で45位くらいからのスタートだった。定期試験には1番になることもあったがフクト(実力テスト)では塾に通う者には敵わなかった。中学1年の最初の実力テストで405人いた学年で1位になったのは廣松道恵さんだった。180点/200点満点だと担任の先生が言った。掃除の時間中に彼女と同じクラスの男子から廣松さんが『ポピー』なるものをやっているという話を聞いた。ちょっと幼稚っぽい響きだなと思ったものの、

あ〜、俺もそれやってりゃ、一番になれたのに〜

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と教室脇の校庭で嘆いた。

馬鹿か? やってないんだよ、お前は。やっていないんだ、何も。

これは父親の思考パターンそのものだった。人生を体良く諦めた愚か者と同じ考えが知らぬ間に侵入していたのだ。まったく、目的を自覚していない者の陥る穴だ。馬鹿の真似をしたがる。それが高校になって痛い目に遭うまで分からなかったのだ。眼暗の愚か者。

廣松さんとは小学校4年の時に同じクラスで、端正で可愛らしい彼女はその時からいつもテストで100点だった。聞けば、この頃からすでにポピーをやっていたそうだ。触発された僕も100点を取るよう心がけるようになった。おかげで僕の通知表には◎が20個以上ついた。そんな話をクラスメイトにしたら「おれの友だちも同じくらい取っているよ」と隣のクラスにいた磯部が紹介された。見比べると僕の方が多かった。というのも僕は体育も音楽も習字も図工も評価が高かったからだ。しかし習字や絵画は担任の先生の指導の賜物であって、前の小学校のネチネチ陰湿ないじめをしてくる狐みたいな老女教師や狸みたいな暴力教師とはまるでちがった人格者による言わば他力による幸運だったのだ。

磯部とは次の年に同じクラスになったのでよく家に遊びに行った。閑静な住宅地の一戸建てに住んでいて昼間は両親はいなかった。あーだこーだ言って父親に阻止された金曜ロードショー『ルパン三世 ルパンVS複製人間』のせめて音楽だけでも、と、持っていると言った磯部のところに聴きに行ったのだった。レコードは両親の寝室に置いてあったので僕たちはそっと忍び込んだのを気取られぬよう持ち出して聴いた。磯部は電気工作や化学の実験が好きだった。バルサ材や方眼紙を使いモーター駆動のリモコン自動車を一緒に工作したことがある。

4年生のある日、図工の時間に肖像を描くことがあった。男子は男子を女子は女子に頼んで書いていた。僕も初めそうした。けれど性別を跨いでいいと先生がおっしゃったので、恥ずかしかったけど勇気を出してモデルに廣松さんを指名した。了解を得た。ドキドキ緊張しながら描きあげた。くるりとひっくり返して画用紙を向けると、それを見た道恵さんは無言だった。

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なにかおかしなことをしたかな、と思った。

モデルには喜ばれなかった肖像画も先生には高評価だったのだろう。その時分にはいつもニコニコしていた彼女は中学時代、いつも暗い顔をしていた。周囲の妬みがすごかったらしい。

全家研の月刊ポピーには付録がついていて、古典が紹介してあったり高名な作家や学者のエッセイが載っていたりしたのを後から知った。それは心を育むために毎号、別冊子で付いていた。心の成長と学力の向上がリンクしていることを知った人たちの作っている教材だったのだ。

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こんなのがあるなんて聞いたことがなかった。おそらく彼女の親は教養高い人たちだったのだろうと思う。廣松さんの家は神社の表参道のすぐ脇にあった。のちに、廣松さんが大阪外国語大学のモンゴル語学科に受かったのを新聞で見た時、もしかすると司馬遼太郎が好きだったのかな、と思った。小学生の頃から古典や歴史や人生訓などの教養に触れていた彼女ならシバリョウに行き着くのは必然だったのかもしれない。

朧げな記憶では、僕は母にポピーがやりたいと訴えた。母は、

「そんなカネはどこにもない」

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と渋い顔で突っぱねた。日頃(心配から)勉強の習慣だの、本人の自覚だの、野球部をやめろだの、どこかで聞いたふうなことばかり言って説教していたのに、いざ何か買う段になると夫への依存心が頭をもたげたのだろう、ギャーギャーぎゃーぎゃーわめいた。両親はそういう言動が13歳くらいの少年には微妙に影響しているとは考えないタチだった。勉強させたいなら、勉強しようという気になっている時を逸してはならない。それでも1回だけという約束で取ってもらったと思う。実力テストで得点力の皆無だった数学も英語も、こんな簡単な、解りきった問題を解くのは時間の無駄だと思えた。それで1回こっきりでやめた。(1年の範囲だったし、その簡単な問題を確実に習得することの大事さが理解できていなかったのだ)母に気を使ったのではない。

 

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