フェリーが船着場についた。
僕たちは船着場に降り、ゾロゾロと目的地に向かって歩いた。
今日は、クラスメイト7、8人で来ることになった。久しぶりの潮の匂いだった。小学生の時に両親に何度も連れてきてもらった海辺。見慣れた風景だ。西戸崎駅方面から行くなら、長い橋を渡りきった所にある右手に見える海水浴場だ。この夏も、たいして暑くなかった。
今井とか柴崎とか長渕とか、釣りもたしなむ連中だったので皆おのおのに竿や仕掛けを持ってきていた。桐川は参加していなかったと思う。予備校の夏季講習か何かに通うためだ。藤井は家が貧乏を理由で来なかった。(同じ理由で彼は、当時珍しかった中国への修学旅行にも行かなかった)
待合室を出て物産館の脇道を歩いていると、
バス停の向こうに海水浴場が見えてくる。
ここに来ると僕はどうしようもない気分にかられる。志賀島という場所にある種の胸の高まりを感じるのだ。それは憧憬というか恋にも似た胸の張り裂けそうな想いだった。結婚した後、マイホームを志賀島周辺にしようと本気で考えていたほどだ。福岡市が好きなわけではなかったが、僕にとって志賀島は旅情的な、そしてまた猛烈な郷愁を感じさせる何かがある。小学生の時に両親に連れてこられていただけではない。何か、もっと遠い思い出だ。
夏休みに入る前に越野が主だった連中に声をかけ、博多駅で落ち合った。
西戸崎線ではなく、フェリーだったと思う。鹿児島本線の博多駅から乗り換えて吉塚まで上り、そこから築港まで歩いてフェリーに乗り込んだ。
志賀島といえば、岡本和夫に同名タイトルの小説があるが、
そんな重い話ではない。戦争を忘れ切った青年の、歴史の断絶した青年の、愛国心のカケラもない青年の、他愛もない夏の日のことだ。
5年ぶりの志賀島は、少しも変わらなかった。たった5年で僕は小学生から高校生になっていた。家族で来る時はたいて国民休暇村の方に行った。今日は、志賀島の入り口あたりの海の家が越野の知り合いだということで格安に泊めてくれることになっていた。
彼らと一緒のクラスになって1年と3ヶ月ほど。やっと、互いにいるのが当たり前になってきた時期だったろう。成績順で分けられた僕らのクラスは3年間、ほとんど入れ替わりがなかった。中にはもっとスポーツがしたいと商業科に移ったり、他の高校から引き抜かれてやって来た者がひとり、ふたりいたくらいで、成績で入れ替わったのはわずかに1名。3年になって自ら希望し1組の特進クラスから引っ越して来たのが1名。
これがどういうことか。
高校入試の序列が微動だにせず維持されているということだ。だが、入試の直前に誰が伸びるか計り知れないのが若さというものだ。
海の家に泊まるのは始めてだった。
僕たちは誰もが、心のどこかに素敵な女子との素敵な出会い期待したほのかな想いを抱いていた。
歌謡曲にあるような、一夏の恋・・・。
海の家は広く、ガラんとしていた。
僕らは持って来たリックサックやボストンバッグを床に下ろした。
この年の7月21日は土曜日で、土曜日はまだ休みでなかったから、働く父親の自家用車で海水浴に来る家族はいなかったこともあって、僕たちの独占状態になった。
海の家には小学生らしい少女が一人いた。
あどけなさの残る端正な顔の女の子だった。どうやら海の家の経営者の家族らしかった。うつむいた顔があどけなさと共にまっすぐな黒い眼が凛とした子だった。
かつて僕は、おおた慶文の絵に魅かれるところがあった。奈緒子の面影をどこかに見出そうとしていたのかもしれない。だが、それはなかった。所詮は美少女のパーツ寄せ集めの水彩画とオリジナルの魂では格が違うのだろうと思う。
20代、30代と思うところがある度に、僕は西戸崎線に乗って小さなちいさな一人旅に出ることがあった。
じりじりした白く眩しい光
高高度にある太陽の作った前髪の影
乾いたアスファルトの砂を蹴る音
街の喧騒の中に現れる一瞬の静寂
アスファルトを照り返す熱気
時折吹く涼しい風
僕は80年代のそんな夏を楽しんだ。
感傷的な気分を懐いて列車に乗った。というより、列車に乗ると感傷的な気分になった。西戸崎駅からバスに乗って志賀島まで行く。感傷的だったり淡白だったり、その時々の僕の気分に応じて古い電車は外の風景を見せてくれる。
感傷的な気分は31歳までで終わった。僕はそのことを確かめるために西戸崎線に乗った。無味乾燥な風景が流れているだけだった。
それは僕の青年期の終わりを告げていたことだろうと共にこれから命がけで生きるという決意と覚悟を我ものにしたからであったろう。
しかしそれはこの時から15年先の話だ。
近藤真彦の『ケジメなさい』が流行っていた。彼の着ていたサマーセーターが気になった。
夏にセーターを着るというのが背徳的で魅かれた。けれども懸念が一つあった。
チクチクしないのか?
という問いに叔母が、あれはそういう繊維で編んであるから大丈夫だと言った。
デパートに行って海水パンツなどを揃えるついでに衣料品売り場に行くとラウンドハンガーにかかっていた。紺色と白の、肌にしっとり馴染みそうな湿ったシルクのような毛糸で織ってある目の荒い、ちょっとギリシャ人を思わせるセーターだった。
これを着たらきっとカッコよくなるんだろうな、と思った。けれど、セーターを見ている僕には僕の顔は見えない。それを着た自分がどんな塩梅になるのかは鏡を見るまでもなく、田舎い。冷房のきいた静かな音楽の奏でられているデパートのフロアで何度か逡巡した末にやめた。
実際、僕は中学2年の夏休みに全教研の夏季講習に通った際、白いズボンを履いた長身の中学生を見た。先進的でモダンな久留米市は周辺の市町村と違い丸刈りが校則になっていなかった。長髪で背の高い彼が履いている白いズボン、あれさえ履けば僕もあれくらいカッコよくなれる。と思った僕は偶然にも西鉄駅の衣料品売り場で同じズボンを見つけた。値段も高くなかったので即座に買った。
次の日、さっそくその白いズボンをキメた僕はいさんで全教研に乗り込んだ。ゾロゾロと校舎に向かう中学生に混じって彼がいた。僕を見た横の友達らしき少年が、お前と同じじゃん、といった風に腕を叩いているのが見えた。
それから3年経って、今の己にそれが似合いか似合わないか想像してみて、これさえ同じなら同じようにカッコいいはずだと思っているのが滲み出たようなアンバランスな洋装をするのは恥ずかしい気がしたのだった。ーー所詮、僕はプロバイド売り上げ1位のマッチにはなれない。
釣りをした。場所は、バス停から橋の方に歩いた堤防の脇にある砂浜だ。そこでキスを釣った。
自宅が川のすぐ横にある長渕は釣りが得意だった。砂浜で20センチクラスの見事なキスを釣り上げた。
防波堤に移動してアジコを釣った。
ここで横になっていたらいつの間にか眠っていた。疲れていたのだろう。僕は海に落ちそうになった。
昼食を取った後、ガードレール背にしてみんなで話をした。夢を語り合ったのだ。
北原の横暴に皆良い思いをしていなかったが、その話は1秒も出なかった。北の字の『き』すら出てこない。普段、食堂脇の自販機の前でたむろしている時も奴の話など出てこなかった。それは憎むべき輩の話をするのは場が穢れるとか時間の無駄という考えさえなく、長渕が言うように、
「歯牙にもかけない」
からだった。
いつになく腰野が真面目な顔で話す。
「将来、どうする?」
横に並ぶ僕らに順番に質問して言った。海の音と
で、隣の隣のやつが何と答えたかは聞こえない。
この時点で長渕が何と答えていたかは知らない。けれども、指折り数えていた越野の指からして大学進学を希望していたのではなかったか。彼が就職に転向したことは3年になって内定先を知らされてから知った次第だ。
「全員、大学か」
と越野が言った。
全員大学
所詮、僕らはこのレベルなのだ。
「東大はどこの科類にする?」
でもなく、
「東大にする、それとも医学部?」
でもなく、
「国立、それとも私立?」
でもなく、
「工学部にする?理学部?」
でもなく、
大学進学、なのだ。
就職か進学かの選択肢。
スポーツ強豪校は県にいくつかしかないのに、受験の進学校は県に何十校もあるのは人によって定義が異なるからだろう。ある者は就職より進学(短大や専門学校も含む)する人が多ければ進学校。ある人は旧帝大に10人も受かっていれば進学校。ある者は、東大に10人の合格者を出せば進学校。中には、東大合格者ランキングで10位以内でなければ進学校と呼ばない、という方もいらっしゃるが、そこまで厳格な定義をしている人は日本中にそう多くはない。
となると、進学校は地域に1つ以上あって、地域が小さくなっても必ず1つある。そうすると県に何十校と進学校が存在することになる。にもかかわらず我らが刻子高校に進学クラスはあっても、進学校の呼び名はなかった。
スポーツなら全国大会常連校が強豪校であれば、進学校を自負するのなら東大に毎年学年の5%くらいは通っていなければならないだろう。しかし非進学校のカテゴリーに埋没して諦めないためにも、あるいは地域ナンバーワンだからと進学校の誉に乗じて慢心しないためにも、進学校か否かはともかく、己の所属する学校の状況を正確に把握しておくことだろう。そして最も大事なのは、己の目的や目標をしっかりと見定めておくことに違いない。
この時、海に行ったメンバーは皆大学進学を希望していた。が、その後も互いに励ましあってなどはなかった。切磋琢磨もなければ、違いをライバル視するほど小癪な成績上位者でもなかった。
夕陽が沈むのを見た。
僕たちは海の家に戻り、シャワーを浴びたと思う。それから夕食を頂いた。さっき釣り上げた小魚も一緒に。長渕はキスの塩焼きの味見を渋々させてくれた。こんな味がするのか、と思った。
蚊取り線香と蚊帳。
波の音がしていた。
夜はたあいもない話をしていたと思う。
この外泊を企画した越野は陽気なやつで僕らは1年の頃から教室でよくつるんでいた。と言っても、3年間で学校以外の付き合いはこれ1度だけだった。彼はいつも楽しいことを見つけてはニヤニヤして笑う癖があった。
背が高くてちょっと太り気味で、目が細く、眉毛を剃って短くしていた。香水をふっていた。その彼がどうして僕のところに寄ってきては面白いことを言って笑っていたのか解らないのだが、休み時間になると時々やってくるので話していた。短ランボンタン赤シャツでスキンヘッドで眉剃りで目が細いから、ちょっと見にはワルいかんじがした。
父親が警察官の彼が不良みたいな格好を中学の頃からしていたのは、どういうことかと思わないでもなかった。中身はおとなしくいい奴だったので、どうやら不良対策だったようだ。道を歩いていると因縁をつけてくる奴が普通にいた時代で、そんなのに絡まれると父親が警察官だけに面倒なことになる。そう思った彼は、喧嘩を売られない程度のファッション不良をコーデしていたのだろう。そんなことをたどたどしく話したことがある。けっして、大声を出したり他人に突っかかったり、他人のことをとやかく言うでもなかった。中学のクラスで5番から15番だけを集めた生徒たちは意外に真面目だったのだ。
辟易していた僕と違い、越野はガッデム先生の上を行っていた。
「将来は薬剤師になるから」
と言う。黒板を背に僕の席の前に来て。そこは僕が奨学金という名の借金をしたあと、授業に平気で15分遅刻してくる教師に、ーー遅れてくんなよ!と言っていた席だから、1年の終わり頃のことだったろう。
彼は校則を逆手に取ってスキンヘッドのようにしていた。というか、赤っぽい地肌が短くて疎らな頭皮に透け、顔と頭がつながっているように見えていただけだった。
「大学はどこでも関係ない。国家試験さえ通ればいいんで」
だから、私立の薬学部の九州で偏差値の一番低いところを志望していた。
「親父がカネ出してくれるって言うんで」
薬学部など考えたこともないし薬剤師がどんな仕事かも全く知らず、聞いていて僕はわけが解らなかったけれど、彼が一応、将来のことを考えていることが解った。それでも旺文社の偏差値で合格者平均が47くらいだったから、試験ができなければ普通に落ちる。ある時、
「久留米ゼミナールに入った」
と言った。そしてノートを取り出し、なにやら難しい数式をツラツラ書いて見せた。
このクラスでは、勉強をすることに妬みを覚えて足を引っ張る者も、勉強することに引目を感じる必要もなかった。中学のクラスで5番から15番で公立高校に落ちた生徒の心理は、上でもない下でもない、勉強に否定的でもない、かと言ってコソ勉でもガリ勉でもない、サンドイッチに喩えるなら卵サンドみたいな立ち位置にいたからだろうと思う。
「こうやって、こうやって」
と言いながら鉛筆を動かした。それはまだ習っていない3年の範囲の微分積分だった。しかも実際に入試に出題された問題だった。僕は、なんだかよく解らないなあと思いながら見ていた。なにせ、僕はKの助言に従い、一番簡単な問題ばかり解いていたから、先に手を出すこともなかったし(できなかった)入試問題は3年の半ばすぎでいいと考えていたからだ。それまではじっくり基礎に取り組み筋力を貯めて溜めて、最後にジャンプしようと企てていた。
地金
素地
を徹底的に磨いてから塗装した方が綺麗になる。基本的な問題を完璧に解けるようになってから入試問題に手をつけても遅くないのではないか。あるいは時々解いて、自分にはどこが理解できていないかを知るのではないだろうか。
ゼミナールでは教科書を超えて入試問題をやっているようだった。話では放課後毎日のように通っているのだとか。家に行ったことはなかったけれど彼の家は西鉄沿線らしく駅が近く、久留米駅で降りれば塾はすぐだったので学校より手軽な距離感があったのにちがいない。
芯のしっかりしたところのあった腰野は、
ガッデム先生が、
「北里大があるぞ」
と勧めても、
「いや。第一薬科で」
「東邦大は、付属高校が東大合格者常連校でーー」
などとうんちくを垂れても、
「いや。第一薬科で」
「日大にも薬学部はあるぞ」
「いや。第一薬科で」
「福大もか?』
「受けません」
と言い張ったのに違いない。ガッデム先生お勧めの『お買い得大学』を上回る効率の良さ。なかなか攻めてるな、と思った。
教室に戻ってきた越野は、ーー大学は福岡で暮らしたい、と言った。
「福岡がおれの大都会だ」
「って言いよるとに、ガッデムが」
と、笑いを噛み殺しながら憎々しげに吐いた。僕は黙って聞いていた。この彼の憎しみと笑いの入り混じった言い方に、下手をすると深刻になってしまいそうな僕は何度も救われた。
プロ教師の野望はことこごく弾かれていきつつあった。桐川や今井などと西鉄組のかれらは僕が聞いた以上の話を交わしていたのかもしれない。ガッデムの性格分析には興味がなかった。くたびれたハゲおやじの心を深堀りする暇はないし、知りたくもない。ともかく表面で否定してくる奴には結果で示すしかないと思っていた。そんなわけで、僕はガッデムの心理や意図を読むなどしなかったけれども腰野は、
「育てもせずに、いや、要らんことばっかりやっているのに、収穫だけはしようとする」
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と言った。
おそらく成績上位者たちは皆同じ思いを抱いていたのだろうと思う。僕だけがそんな世俗的な男の企てが解らずにいた。そんなことをする人間がいるなどと夢にも思ったことがなかったからだ。
初めから私立と思っていた者たちはガッデム工作の工程が1つ少なかったことでストレスが少なかったのかもしれない。そして、己の学力と伸びを控えめに見積もり、手近なところで考えていると宣言した、たとえば藤木などはガッデムの魔の手を逃れていたのではないかと思う。桐川や今井、岡靏くんや関野、それから僕などにはハゲしく執拗なアタックを繰り返していたので皆嫌な思いをしていた。僕らからしたら大きなお世話なのだけれど、ガッデムにしてみれば余計な仕事をさせる奴らに思えていたことだろう。こんなに仕事をさせられて安月給くらいに考えていたことは想像に難くない。
波の音が静かに打っていた。夜風は涼しかった。
次の日の早朝
眠たかった。
曇りだった。
希望者3人が共船に乗ることになった。
船外エンジンを積んだ小さな漁船で目的地まで航行した。
漁師さんは、2人。白髪まじりの固くて短い髪に、顔は指も日焼けしてただれ、深いシワが刻まれていた。
仕掛けていた網は畳10枚くらいだったろうか、テレビで見る沖合漁業や延縄漁とは違い原始的な物だった。
言われるがままに、僕らは網をたぐり寄せた。
丸木棒のように真っ直ぐに固まったようなサバが2、3本
かかっていた。漁師さんが、
「大量だ」
と言った。
これで大量なんですか? と僕は素朴な疑問を投げかけた。すると漁師さんは、
「何もかかっていない時もある」
と答えた。
なるほど、と僕は思った。サバが2、3本獲れたことに感謝する。その精神は学ぶべきものがある。
塩をまぶして炭焼きにしてくれた。これが僕たちの朝食だ。
潮の匂いがした。
この時代の豚は今より臭く
海も臭かった。
豚には残飯を食わせ、海にはいろんな物が流れ込んでいた時代だった。
だからそれが逆に自然さを感じさせ、旨味があった。
朝から僕たちは海で泳いだと思う。
あまり記憶がない。
でも多分、泳いだ。
朝は曇天だったけど、日中は晴れた。昨日も今日も僕らが海にいた日は晴天だった。
僕たちは荷物をまとめた。
帰り際、あの少女がいた。越野が声をかけた。
「しょうがくせい・・・?」
するとその少女は、うんと小声で答えた。
そしてじっと海を見ていた。もしかすると、あまりに大人びているが故に心に憂いをかかえここで療養しているのかもしれない。とは、この時は思いつかなかった。
「なんもなかったな」
と越野が立ち上がりながら言った。同感だった。僕たちはリックをかかえ出口に向かって歩き出した。
「ひと夏の恋やらあるかと思ったら、小学生に声をかけただけだった」
ニヒルな感じで笑った。
同じ思いだった。
「ボウズだからな」
と嘆息した。
みんな、黙っていた。
ともかく、僕らの17歳の夏は終わった。
