霊ー魂は不滅。(言い伝えられてきたことだ)

魂が無くなるわけではない。

だが、その魂がそのまま生まれ変わるのではない。

魂はあの世に戻る。あるいは、この世とあの世の境をウロウロする。幽霊として認知されるものだ。

あの世には、個別の自己がある。それを霊と呼ぼう。

死後、その霊に今生の魂が入る(戻る)。

全体の一部になる。

それによって個性を持った霊のデータが増える。これまでの派遣によって集積されたデータによって認識が作られる。

次に生まれてくるときには、その全体のデータとアクセスできる新しい魂と共にある。

新しい肉体と新しい魂。

それが新しい人生を創っていく。

だから継続性がある。それまでの人生のデータと全体の認識を継承している。

これが輪廻転生と呼ばれたシステムの仕組みだ。

したがって、過去生はある。

過去生はあるが、1つ前の魂そのものが再び物質世界に転生したのではない。

私という全体のデータとそれから抽出された、これはこういうものだ、という認識

個性の育まれていく個別でありながら他と繋がっている霊は曼陀羅構造をしていると想像してみよう。

 

真ん中にあるのが、私やあなたの個だとしよう。
それを取り巻く丸い円が、以前の人生のデータを保存したところ。

そこにこれまで生きた人生のデータが保存されている、いわばクラウドコンピューターのようなものだ。
今回の人生の魂とはそれとアクセスするための端末機器だと言えるだろう。

クラウドは他のクラウドとも繋がっているので端末である魂を辿ってそこにアクセスすることもできる。

魂は、今ここ を認知する
脳もそうなっている 一個しか目の前に置けない
だから、すぐに忘れるし、引き出しにくい
記憶とは、今ここにデータを即座に持ってくる能力ということになりはしないか。

以前のデータを引き継いでいるという点で、輪廻転生はあると言える。

また、ある人生の魂がそのまま生まれ変わってくるのでないという意味で生まれ変わりはないと言える。

以前のデータを引き継いでいるという点で、生まれ変わりはあると言える。

また、ある人生の魂がそのまま生まれ変わってくるのでないという意味で輪廻転生はないと言える。

万人が、以前のデータを全てキャンセルして全くゼロからスタートするわけではない。

今生だけで一人一人これだけの差がつくのは理にかなっていない。

データは引き継がれるし、それらによって導き出された『個性的な』認識もある。中年がよく口にする「いろいろ経験したからなんでも知っている」のいろいろな経験が人によって差があり、それゆえにーーこれはこういうものだといった認識も違う。

より調和的で、効果的な認識に至った人とそうでない人がいる。という言い方は2元的だが、認識の程度には差がある。

人生をどう過ごすか、何回過ごすか、どんな体験や経験をしたかでそれらの差が生じることは、この度の人生を振り返っただけでも想像がつくと思う。

死とは、肉体がなくなること。実際には、肉体を形成していた物質は再利用される。
死とは、肉体と霊との繋がりが切れること。
魂はデータを霊に送る装置だとするなら、その機能は失われる。が、一部始終のデータは保存されている。
むしろ、こうして生きているときには、この人生のあらゆる場面や思いや経験や他人からの見方など全てを顕在意識や脳に持ってくることはできない。

魂も肉体の再利用と共に再利用されるのかもしれないが、霊にはその人生のカテゴリーとデータとして保存されているので、消滅することはない。

データの転送装置だと見なせば府に落ちる。あるいは、アクセス装置。死後、この魂が分解再利用されたとしても、この人生は記憶として引き出すことができる。

輪廻転生や生まれ変わりの仕組みはそうなっているのであって、そうなっているからそれらを否定するのは、どういうことだろう? と思う。

例えば、今の魂がそのまま新たな肉体に宿るかといえば、そうではないが、これまでの時代にはそう説明しなければ理解ができなかった、いわば方便のようなものだろうと思う。

霊界を介して行なわれているという、スケールを壮大にしただけなのに、輪廻転生や生まれ変わりそのものを否定するべきではない。

肉体も魂も新しくなった方が、より創造的な新しい人生が創造できるのだから、そのまま使い古すのではないだろう。

前の人生のカテゴリーもデータもあるし、それにアクセスすることができるが、前の肉体で使っていた魂がそのまま、全てのデータを携えたまま転生しているのではない、というだけのことだ。

今回の人生は1回きりだ。

この肉体と魂を持って体験・経験する人生は1回きりだ。

だが、それらのデータにアクセスできる新しい肉体と魂を創造することはできる。

他の個性の霊よりも自分のデータにはアクセスしやすい。

他の霊の持っている情報にもアクセスは可能だ。それらの情報を利用した方が今回の人生もより豊かに、より高度に、より好ましいものになるだろう。

死んだら、肉体も魂も消滅して無くなる、というのは正確な表現ではない。

あの世もなければ、過去生もない、生まれ変わりもないと言うのもそうだ。本質を外している。

もし、そうなら、京楽的な、奴隷支配的な、刹那的な、力でねじ伏せる、肉欲とエゴ(我欲)に従った生き方こそが奨励されることになる。

今生で、自分の行なった全てのことが保存されるからこそ、それによって霊の進化具合が決まるからこそ、それらはむしろ戒められている。

今回の人生は一回しかないが、データは全て保存され引き継がれ、霊の認識を創っていくからこそ、大事にするのを勧められるし、向学心や成長や進化が求められる。また、それが霊の欲求であり意志であり性質である。

霊は進化し成長していく。消滅しない。
魂はデータを霊に転送しアクセスする任務を終えたら再利用される。今生のデータが保存されるという意味で不滅だ。

死後、魂があの世に戻るとは、霊にジョイントするという意味だ。
データはすでに転送済み、
この世に未練と執着、思い残しのある霊体は魂と共にこの世とあの世の境に在る。それが幽霊だろう。
分離は2元性の世界、物質世界、とそれに近いところで生じる特性だ。

肉体には肉体の意識がある。
魂には魂の意識がある。
霊体には霊体の意識がある。
人間は何重にも重なり存在している。
この世にあっては、ときには一体であるように振る舞うし、ときにはバラバラであるように振る舞う。

心臓には心臓の意識があり、胃や肝臓、腎臓にもそれぞれの意識がある。脳にも腸にもそれぞれの意識がある。
その器官を構成している細胞一つ一つにも意識がある。

私、の意識とは性質の異なる意識が。

私の意識はそれらとアクセスできるし、統合することもできる。

ーーここまでは理解した。

だが、新しい肉体の魂に霊がどういう方法で繋がるか、生命エネルギーを与えているか、そのところについては未だ不明である。
どうやって、肉体に『私』と同期させているか、その方法は解らない。

死後、すなわち肉体の機能が停止したとき、魂を通じた生命エネルギーの供給が終わったとき、

肉体的なことは薄れていく、(寒い、暑い、痛い、冷たい、熱い、暖かい、・・・など)
感情的なことも、
観念的なことも
エゴ的なことも 俗世の価値観も
死後、だんだん、薄れていく。
だが、データは保存されている。全ての場面で抱いた感情、持っていた観念、エゴを発動したかそうでなかったか。

トラウマや心癖は保持される。それが、これまでの私の成果だ。到達点だ。どのような認識で在るか。それが私の到達したレベルだ。

あの世にいる私というのは、霊のことだ。これまでの全てのデータを持った私だ。過去生の全てとアクセスした状態。あらゆる場面で抱いた感情、考え、思い、肉体的感覚、またそれと関わった全ての人がどう思い、どう考え、どんな感情を抱いたか。
全てとアクセスした状態。それがあの世に移行し得た私の感覚だ。

霊と一体化した私は、もっと高度に進化したくなる。それが性質だからだ。

また物質世界での体験を望む。

トラウマを解消し、好ましくない心癖を昇華させ、これはこういうものだという認識をより高度にしたいと懇求する。それが、この人生のテーマとなる。

その程度を他の霊はすでに達成しているかもしれない。だが、私がそうなるのが重要なのだ。私もそうなり、そうなることを支援する。

霊と幻想的に分離した状態であることによって、過去のデータに囚われないことによって、今ここにだけいることによって、体験し経験し、到達する程度を変えることができる。

そういうシステムとして作られたのが、この世、物質世界、現世、物理世界、2元性の世界である。

だから、過去生はあるし、そのデータも消えないし、到達した程度も保持されるし、そのデータと認識にアクセスできる新たな肉体と魂として物質世界に転写=移動=降り立つ=生まれるのだ。

死んで無にすることはできないし、
逃げることもできないし、
到達した程度を他の高度なものに取り替えることもできないし、
この魂がそのまま転生するのでもない。

苦しんでいることは、ほんのちょっぴり考えの程度を上げるだけで終わる。なぜ、どうして、自分のどんな考えが、どの考えが自分を苦しめているのか? よくよく見つめる。
そう考えるべきなのか? なぜそう考えるのが正しいと信じているのか?

解決し得たところまで、上げた認識のところまで、それが自分の到達した今だ。

それによって次が決まってくる。

したがって、未来生をどう創るかもこの人生が創っているとも言える。

大した考えをしていないから、苦しみをつくり出しているのだ。それから逃げようと、他人のせいにする、時代のせいにする、親のせいにする、あらゆることを責任転嫁する、憎み恨む。大失敗。人生の破滅。失意のどん底。絶望。それらを貴重な経験とみなすこともできるのに。

挙げ句は自殺して終わらせようとする。ーー終わらない。

あるいは、これほど残忍で残虐なことをすれば終わるだろうと夢想する。ーー終わらない。

終わらない。

無くならない。

無さえも存在しているのだ。存在は、無という存在すらつくり出している。

無は幻想だ。無の正体は全てだ。全てがつくり出した、全てでないという全て。

永遠回帰と進化。

それが大霊のシステムだ。その中にいるわれわれ個別の霊も同じ性質とシステムをやっている。永遠の今にだ。過去や未来でなく、今という永遠でだ。

 

常に、終わりであり始まりである。あの世にはその区別がないし、この世にはあるが一体だ。

無くならない。逃げられない。ーー全てが、全ての霊が、人が、自分自身の内側にいるのに、どうして逃げられようか!

全てが大霊の中で再構成、再生産されているのに、どうして無くなると妄想するのか。全てが大霊の霊を使って創造してあるのに、どうやって消滅するのか。あり得ない。

物質が分解され、電子が外れると、視界から消えているように見えるだけのことだ。

何も無くならないし、自分以外のどこにも行くところはない。

本質である愛から離れた、外れたという幻想に囚われるから、破滅したと錯覚するのだ。失敗したと思うのだ。失敗も成功と同じく貴重な体験だ。

失敗のやり方もよく観察し、よく研究することができる。失敗という現象がどのようにして生じ、どのような仕組みで引き起こされているか。世俗的成功とはどういうもので、霊的成功とは何か。

死んだら無になるという考えと同様に、死んでもまたどうせ生まれ変わるという考えも誤解と浅はかな行動をさせる。いや、それを理由に浅はかな結論と行動を選択する。

死んでもまたどうせ生まれ変わるとこの人生を軽く扱う。あるいは、命を軽視し死んで見せる。
その人生で得たデータも全て私のオリジナルとして保存される。今生の終わらせ方も、その時の境地(例えば苦しみ)すなわち、その時の到達した認識が継続される。
が、あの世では変更できない。(しにくい)

死んだら無になるという考えも、死んでもどうせ生まれ変わるという考えも本質を外している。霊界の一部として物質界が創造されているという仕組みからしてどちらも本質を捉えていない。

この肉体と魂での人生は一度きりだし、一度きりだがその全ては保存され継承される。

だからこそ、悔いのないよう生きよ、と言われてきたのだ。

全力で、全身全霊で生き抜け。

 

この世は、おもしろい冒険に満ちている。