ある時、村人が話し合い、祀っている社を清掃、修繕した。

氏神、土地神、産土神を鎮めようとしたのだ。

そこは、しばらく放置されていたのか、竹やぶの中に埋もれていた。

数年前、数年間、崖崩れが頻発した。ゲリラ豪雨、記録的な大雨、長雨によって、表土が崩れ落ち、山の土が剥き出しになった。


半径1キロ圏の至る所で山を削ったあとの崖が崩れ、ひどいところでは田んぼに土砂がかかったりクヌギ林が押しつぶされた。

年に2、3回、田植えと収穫の時期に村人がこぞって参るのだが、集まる意義を忘れ、敬いの心を失い、ただ、これまでやってきたから仕方なく、いやいやながら集まりに参加したり、その意義をなおざりにし形式だけを踏襲していた。また、自分たちの大事な神をよそ者に任せようとしたり、金儲けのための遍路コースにしたりと、信仰心を忘れたような所業がつづいていた。

話し合いは、すったもんだはしたけれど、長老がうまくまとめ、それまで何十年も集めていたお賽銭を出したり、各戸からいくらかずつ捻出し、また村人が自ら協力して修繕した。

するとどうだろう? 崖くずれがピタリとやんだのだ。それから数年経ったけれど崖くずれはほとんどない。
もう崖は崩れ尽くしていたのだろう、降雨量が減ったのだ、社の修理とは関係ない、偶然だよ。
いろいろな考えはあるだろう。

だが、あれからも毎年、梅雨の時期には相変わらずプールの水をぶちまけているのかというくらいの豪雨が降り注ぐ。元々雨の多い地域ではあった。けれども、異常なほどのゲリラ豪雨があっても崖は持ちこたえている。

だが、また感謝の心を忘れると再発するかもしれない。人間の奢り高ぶりは禁物である。供養や参拝だけでなく、また清掃や修繕だけでなく、山そのものが生き生きと生きていけるような手入れをしなければならない。何十年も放置し、出没する熊やイノシシを徒らに駆除し続けるだけではなく、伐採や植林、剪定や養分補強など適時適切におこなう。
そうしたとき、山や林は私たちの防波堤にもなり、日陰にもなり、調和の取れた滋養を田畑に恵んでくれるようになるのだと思う。