受験心得帖
顔も名前も、どの教科を教えていたのかも憶えていないけれども、言ったことだけは鮮明に残っている。そしてまた、当時の僕には理解できない、許可することのできないことも多分に含まれていた。
「親に理想を求めても仕方ない」

と、彼は唐突に話を切り出した。このクラスか別のクラスかでなんらかの事件があり、捕まった生徒が親のせいでこうなったなどと言い訳して、自分の行為を正当化したのかもしれない、と思いながら聞いた。
「借金だらけで酒飲みで、ギャンブル漬けの親父でも、そいつのせいで自分がダメになったと思ってはいかん。世の中は、そうやって外的要因のせいにして君らを見るかもしれない。だが、そんな甘えた物の見方を取り入れても、自分の現状は変えることはできない。
いつもイラついていて、すぐに暴力を振るう父親でも、そいつの子で、そいつの家庭にいて、そいつが持ってきた金でメシを食うなら、そのメシには悪罵や暴力や恩着せが付属していても文句は言えない」

この時の僕には、奥の方で嫌悪感がわいているのが感じられた。泣き寝入りこそ最善だと言っているように聞こえたからだ。だが、一理ある。
僕がこの先生の話したことで最も印象に残っているのは次のことだ。
「教師や警官が親なら、厳格さがつきまとう息苦しい生活と引き換えにメシを食うことになるかもしれないし、芸術家なら収入や精神の不安定さも含めての今日のメシだ。のんべいの家族なら、酒代をさっぴいた分が生活費だ。子供がメシを食うということはそういうことだ。
逆に、巨万の富を持つ財産家に生まれたなら、イエスマンばかりとりまいてチヤホヤし、世界の多くの部分に目を覆うかもしれない。成功した芸能人の子供ならいつも比較されたり、うまくいっても七光りのせいだと評価されるかも知れない。公務員になればうるさい市民に悩まされる仕事上の愚痴を聞かされるかもしれない。
物事には必ず、光と影、功と罪、裏と表が同時にあるものだ。そういった意味で公平だと見なすことが人生を自分のものにする第一歩かもしれない。
親父が、メシを食うために犠牲にしている部分を家族は引き受けなければならない。と、そう覚悟して生きているなら、親に理想など求めない。それどころか、感謝すらするだろう」

きっと、この教師は、そんな苦境から這い上がらざるを得なかったのだろう、と取るのが皮肉にならなければいいと思う。
この教師は、また別の機会に板書の手をとめて、
「なんで勉強なんかしなくちゃならんだろう、と君たちは思っているだろう」
と言った。
「試験なんか、なぜ、なんのためにあるんだ、と。言ってしまえば、それはやり始めない者の嘆きであって、哲学の問いではない。勉強というのは、思うように目標が達成できなくても、努力する。その間の工夫や試行錯誤が大事なんです。どんな人にも、それに応じた目標と達成、挫折があります。達成して慢心するか、満足してさらなる上の目標を目指すか。挫折して、そこで己の限界を決めるか、うまくいかなかった原因を己の内に見いだすか。どのレベルでそれをおこなうかの違いがあるだけで、誰でもそうしているものです。目標は大きい方がいい。登る山は高ければ高いだけ登り甲斐がある。けれども、山の頂上を目論みながらも、目の前の一歩に全身全霊を傾ける。結局は人生はこれに尽きます」
このひとの言う言葉は、まったく意味をなさなかった。たかが公立中学の一教師の言うことが重要であろうとは思えない。という考えを自覚してはいなかったものの、僕は自分の求めている答えの少なくとも一つを聞いておきながら、聞き流していたのだった。目の前のことに全身全霊で取り組む。そして自己ベスト。緑先生の言ったこととつながるのは、ずっと先のことだった。若人は、わざわざ自分で答えを出さなければ気が済まないのだ。
「給料というのは、生活給です」

とも彼は言った。
「それでご飯を食べて仕事をする。そのためのお金をもらっている」
給料はあくまで仕事をするための存続費用ということだ。では、その仕事は奴隷労働なのか、それとも芸術活動なのか。奴隷労働であればあるだけ、与えられた給金には不満が伴うだろう。
とりわけ、僕は大金持ちになることを望んではいなかったけど、それでは虚しいなと思った。父の姿を見ていると、『仕事』は辛いものでしかなかったからだ。
「みなさんが就く仕事は、たいていの場合、そこに要求されているのは、正確さです。たとえば、この荷物を、いついつまでにどこそこに運んでくれと請われれば、地図を開き、路線を検討し、荷物を壊さずに送り届ける。これが仕事です。学校の勉強も、ほとんどこれと同じです。習った知識を正確に運用できるか。その正確さが問われていると言っても過言ではない。就く仕事によって、その正確さが高度な次元であったり、特殊、専門性をもっていたりするだけで、給料は正確さに対して出ていると思っておいてください。正確にやれることがなにか。それが自分の適職ということになります」
正確さは丁寧さとか緻密さと言い換えてもいいものだろう。
また別の日にはこんなことを話した。
「正解は、時代によって変わります。明治には正解だった答えが大正になったら間違いになる。明治時代に不正解だった答えが昭和になったら正解になる。あとの時代には正解になった答えを早くから勇気をもって書いた人が学校を不合格になる。そういったことも実際にあったことでしょう。間違っていると知っていながら、いま正しいと信じられていることを記入して点数をもらう。入学試験なんて、そんな程度のものですよ」
ちいさな声で弱々しく言った。
「間違い。間違いというより、狭く限定された物の見方と言った方が正確かもわかりません。新しいことが解明されるまで、狭くて限定された空想が答えということになる。それが科学であり、歴史というものですよ。つまり、私たちは、常に、未来より間違った答えが正しいと信じていることになる。そして、それが世界を作っているんです。だからといって、究極の答えが出るまで、なにも信じられないと傍観者を決め込んで嘆いていることはありません。究極の答えは、すでに明らかにされています。科学がそれを実証していっているだけのことです。科学は迷信や盲信の排除であって、その先にはやはり科学が解明できない領域がある。そこはもう、あるかないかではなくて、あると信じるからあるという次元です。あるという思念を向けるから物や状況が実在してしまう、そういう次元で私たちは生きているんです」
なにを言っているのか、サッパリわからなかった。けれども憶えておく価値のあるものだと思った。
勉強や受験とは関係ないが、こんなことも話した。
「中学の時には体の成長の遅い者に暴力をふるったりイジメたりする者があるが、高校生になったり大人になってから仕返しされたという事件がありました。今は体力差があると思いあがっているかもしれませんが、やめといた方がいいですよ」

実際、小学4年の時のクラスメイトで野に山によく遊んでいた、チビでひょうきんな性格だった文良は中学を出ると住吉会系一家に入った。

身長も驚くほど高くなり、黒いサングラスに踵の高い白いエナメル靴、ダボダボの赤いシャツと白いズボン、髪はリーゼント。青ガエルをおもわせるふうていと、どこか臆病なところがあったからか中学になっていじめられているようだった。なんとかしてあげなければと思っていたら、ある時から様変わりした。そして道仁会だ。(神道に進んだ彼は龍に守られていることだろう)
文良と同じく、小学校の時(中1の時まで)はひょろっとして温和な印象だったのが連鎖的して防衛のために服装や眉剃りで武装化した者がどれだけかいた。見かけだけで人を判断するゲスに合わせることもないと思うが。
ともかく、この教師の話したことは、すぐに僕にまつわる諸問題を解決しはしなかったが、心に強く残り続けた。なんの教科だったか、名前さえ憶えていないのは残念だ。中学時代には気の利いたことを聞いた気がしていなかったけれど、それは僕の大いなる勘違いだった。
ジッタとカンニング事件
1年生の時に英語の授業を受け持っていた、東八郎に似た生首みたいな先生がいた。


この人を僕はとても好きだった。正常に話せないほど耳が遠いのに、英語を教えていたのだ。小型ラジオのような補聴器を胸ポケットに携えられていた。ちょっとカッコイイと思った。
英語の発音が正確でないからと毎時限カセットテープを聞かせてくれた。それでかえって正確な発音を知ることができた。
言葉がうまく発音できないとなれば、先天的にか幼児期以前に聴力を失った聾唖とまではいかないが極度の難聴だったのだろう。イントネーションやアクセントは正常なのに鼻にかかったような声を出していたところをみると、頭蓋骨に振動している音を真似て発音されていたのかもしれない。
耳からの情報が少なくまた不正確かもしれないのをなんとか工夫しながら、通常ならばアウアウとなるところを、他人に正確に聞こえるようしゃべる訓練をしながら、おそらく死ぬほどの努力をして師範学校なりに入られたのであろう。
もう定年間近という年齢だった。いつもニコニコしていた。根の腐ったところがなかった。耳の遠いハンデを抱えながら幼少期や学童期をどうやって乗り切ってこられたのかが垣間見えた。耳が遠いという点で父と同じだったので親近感を持つと同時に、父のていたらくぶりを知る
ベートーベンの逸話にもれず、自分の肉体的ハンデを魂で補正して外界を捉える術を体得している彼の人柄と物の見方にはとても心魅かれた。
その先生が2学期のしまいだったか3学期になってすぐだったか、授業の時に質問した。
「この中で塾に行っている人、手を上げて」
なんと、ほとんど全員が手を挙げた。僕はちょっと驚いた。平目でさえ通っていたのだ。45人いるクラスで塾に通っていないのは、Kと奈緒子と僕と、絶対に受験などどうでもいいと思っているであろう汲み取り屋の喜一など十名にも満たなかった。
我が子には少しでも有利なルートをという各おやの一つ一つの思いが集まって集団化していたのだ。
先生がこんな質問をした背景には、戦前には限られた人だけが関わっていた受験が昭和40年代から過熱し始め戦争並みの状態を呈してきた上に、神奈川で起きた金属バット両親殺害事件についてニュースやワイドショーなんかでにずいぶん報道していたせいでもあったろう。家庭内暴力などが盛んに報じられ、テレビと新聞の好きな僕の両親も戦々恐々として何かに怯えたようになっていた。
アズマ先生は塾には反対派だった。けれども、加熱する受験戦争が今後も加熱すると嗅ぎ取っていたのと粗悪な教師がまぎれている公立中学の現状を知る親たちはより良い教育を求めて塾通いを進めたのだろう。
「塾が隆盛して受験対策をすればするだけ、試験問題が難しくなっていきます」

と話し始めた。
「そうなるともう、努力して合格を勝ち取るなど通用しなくなるのではないですか。元から頭の良い人が難問を解いてすんなり通るようになります。学校だけで勉強している方が『平等に』合格できるんです。塾に行くから、それまでの問題で差がつかなくなり、問題を難しくしなければならなくなる。そうなるともっと塾に行くようになる。その堂々巡りなんです。
みんなが塾に行くから難問奇問が出題されるんです。いわば、自分たちで自分たちの首を絞めているんです」
と言った。パッと聞きには理解できない論法だった。けれども、あとから、なるほどと思った。
中学の定期試験で高得点を取るのにわざわざ塾に通う必要はないと思っていたし、アズマ先生の意見にも賛同できたので、塾に通うのは自分ではないと思うようになった。そう思っていたせいか、僕はその後の中学高校の6年間、在学期間中に週に幾日か塾に行こうと思ったことはなかった。(例外は母に強く勧められて行った中2の夏期講習だけ)
そんな時代背景の中で、ジッタ先生のもよおす社会の中間考査がやってきた。

試験の最中に、前から1枚の紙切れが回ってきた。それは試験問題の答えそのものだった。なんだ、これ? と僕は思った。答えあぐねていた問題の答えが目に飛び込んできた。見るとはなしに見てしまい、瞬間記憶に冴えた僕はこともあろうか憶えてしまったのだ。ちょっと考えて後ろの席に回した。後ろはKだった。Kは睡眠中に起こされて不快な吐息をもらしてもう一度眠るかのように、その紙には目もくれず、機械的に後ろに回した。
憶えてしまった答えを解答用紙に書こうか書くまいか迷ったが、書いた。
あれはなんだったのか?
答えはすぐにもたらされた。休み時間に謎が解明された。
ジッタ先生は定期試験が近まると業者の発行した単元のプリントを全員に渡した。それを勉強してこいという意味だった。僕は教科書で調べ、完璧に答えを憶え込んだ。
ところが、試験本番にはジッタ先生は別の業者の、別の教科書の出版社に準拠したプリントの問題をそのままコピーして出題したのだった。正解となる答えは同じでも、別の角度から問われた問題に僕は戸惑い、お手上げ状態だった。
ところが、中学近隣の塾ではジッタ対策が施されていて、その塾に通う生徒たちはテストの答えを配布してもらっていたのだった。ジッタ先生が中間テストは配布した通りの問題そのまま、期末テストは別の出版社の教科書にそった問題プリントをそのまま出題していることが研究されていたのだった。
どこかイライラするジッタに対する当てつけや反抗だったのかもしれない。完全に見透かしたナメ切ったあざけりも聴こえる。または、自分たちだけカンニングまがいに点数を取るのが気が引けたのか、誰かが答えを回したというわけだ。
それでも僕はちらっと見て憶えた2問だけだったので、64点かそこらの点数しか取れなかった。実力で解ききったKでさえ68点かそこらの似たような点数だった。ところが、ジッタ対策をしてくれる塾に通う者たちは軒並み80点台90点台を取っていた。
けれども、残念ながらというか、幸運というのか、先生のさじ加減というものがあり、好き嫌いとか贔屓とか呼ばれるそれで、テストの点数通りに評定をつけないのがジッタ先生だった。プリントの答えをそのまま暗記してきて高得点を取ったからといって『5』をつけるわけではなかった。彼は毎回授業が始まる前に生徒を一列に並ばせ、予習ノートのチェックをしていた。
彼の重視していたのは、まじめさと努力だった。効率よく点を取るのは嫌っていたようだ。彼の生き方そのものだったのではないか。
誰かがタレ込んだ模様だった。
ジッタは授業中に押し殺したように怒り、カンニングしたやつ並べ、と号令し教壇の前に一列に並ばせた。全部書き写していたのに並ばなかったやつもいたけれど、一応、ちらっとでも見てしまったのだからと僕も列に並んだ。20人くらいいただろうか。ジッタ先生はまるでベルトコンベアに設置してあるマシンのように、一人一人、順番にビンタを食らわしていった。僕の番がきた。
ちょび髭、スキッ歯、鼻の穴からハミ出た剛毛をまじかで見た。
といった顔で舌打ちしながら、ジッタ先生は僕にもビンタを食らわした。

どうも九大には愛がない。世間の評価とは裏腹に、僕の偏見はこの時に形成されたといってもいい。僕は先生というものを嫌ったり馬鹿にしたりするものではない、と小学校の時から思ってきたし、中学になってもその信条は変わらなかった。人間性がどうであれ、何かを学ぶのだと思っていたし、ジッタ先生を尊敬してもいた。が、なんだか的外れで頓珍漢なかんじは否めないのだ。憧れを抱きにくい先生だった。だが、逆説的に彼に欠けている部分に僕は強い憧れを抱くようになった。
他の教師が自動車で通勤しているのに、彼だけが無骨な黒塗りの豆腐屋さん自転車をこいでやってきていた。彼の周りだけ明治時代だった。明治期の理想の青年像を地でいく努力家でまじめで一本気で母親おもいの好青年であることは大いに認めるし、おそらくは戦争で父親を亡くし母親と二人で土貧乏をしのいでこられたのだろう。
「あいつ、給食を2回食うんだよね」
と2年の時、クラスメイトの一人がつぶやいた。見ていると確かに、職員室で一食分平らげたあと扉を開いて歩きだす。片手だけをスラックスのポケットに入れて颯爽と。職員室や校長室などのある管理棟の廊下を歩いて右に折れると見えなくなるが、階段を昇ったのだろう。それから、上空通路を渡って右折し階段脇の教室に姿を現わす。そして、「すりきれイッパイについでおけ」と命令した給食を教壇の椅子に腰掛けざま匙ですくってもう一度食べ始める。規則や倫理違反ではないが、品格がーー。
奨学金を借りて大学に通い、教師になって返還を免れ、試験問題は業者のプリントをそのままコピーして出題する。孝行と節約と倹約が過ぎて、あざといまでに姑息なセコさに達していたのではあるまいか。ーー土貧乏な暮らしが美しさにまで昇華されなかったのは惜しいことだ。
そのご、九大の卒業生に素晴らしい人が多いことを知ったのだったが、ジッタ先生体験は、なんだか僕がリベラル・アーツに憧れた要因の一つではあったように思う。広い教養、深い洞察、人間性の許容、フランクな議論、瞑想、沈潜、フラットな見方、鋭い仮説、理論の汎用性、本質を見抜く眼、真善美・・・。そういった要素がみじんも感じられない、正しいことに照らして賞罰する、ありきたりの地域教育みたいなことばかりやる。
リベラル・アーツの時期を経ないでいきなり中等教育の狭窄な視野で専門性の高い大学学部に入る、そして小学ーー中学ーー大学の、大学で修得したはずの大きな学問がまるで発揮されず暗記暗記努力努力、辞書を食べんばかりのクソ勉強に走った勉強法を推奨するジッタ先生に、アカデミズムの育たなさを感じたのだった。
歴史の流れや面白いエピソードなど交えず、ただただ教科書の太字の言葉をこじつけてでも暗記するスタイル。職務に徹していても滲み出てしまう何か得体の知れないもの、そんな雰囲気がまったくなかった。朴訥なだけで他に取り柄のない朴訥な旧来の教師。抜け目のないように見えてその実ピント外れの抜け作。時にはそれを破って出てくる光みたいなものを僕はみたかった。
学校周辺の塾講師に見透かされ、簡単な対策をされている自分の出題方法を省みる場面で、生徒の非を咎めて頬を弾くオトボケぶり。
クソ勉強は一つの成功法ではあろうが、教科書の重要部分だけを憶え込んだ普通の大人にはなりたくないと思った。こういう人が、塾のない時代には大いに成功しえたのかもしれない。
悲しい色やね
僕が中学1年から2年にかけての頃、父は疣痔を発症し、円形脱毛症をわずらった。そのちょっと前には、金冷法を試みるに至っていた。学歴がないから何をやっても無駄だと言い出し、本を読まなくなって5年が過ぎ、7年が過ぎていた。
3年生になり、秋頃のそんなある日、ゆらーっと歩いてきて廊下で僕に会った時、
「おれのこと、どう思う?」

と聞いてきた。奇しくも上田正樹の『悲しい色やね』が流行っていた。僕は正直、返答に窮した。するとさらに、
「いなくなってもいいか?」

と言った。
「いいよ」

と僕は答えた。
幼い頃からどういうわけか僕は他の人と違った境遇がカッケーと思うタチで、父が出奔を望むなら、それはそれでかえって面白いのではないかと思ったのだった。

父はもう一度確認した。
「いいのか?」

「うん。いいよ」
すると父は、ふっ、とちいさく笑った。そして背中を向けて部屋に行った。

幼少期からのメンタルと共に、僕は父がそれが一番良いことだと思うならした方がいいのではないかと思ったから、了解したのだったが、もしかすると「困る」と言ってトメて欲しかったのかもしれない。
あとで判明したことに、どうやら『蒸発』を考えていたらしい。
蒸発は、やるなら黙ってやらなければ成立しない。
だが、父にしてみれば「オレがいなくなると、こいつらはどうなる? 路頭に迷わせるわけにもいかんだろう」といった最低限の責任感が働いていたようだ。
やっぱりおれがいなければ、と思い返し、これまで通り家に居て会社勤めをすることにしたようだ。母方の祖母や伯父などと話をして、そう思い直したのらしい。(彼の今世での課題でもあったし)
そして耳も遠かったせいか、どうでもいい、とりあえずの生き方をしていた。
「なにやったってどうせ一緒」
そんな信念を持った父は何事も詰めが甘かった。彼は、遡って何か一つでも良くないものがあれば、それから後のすべての人生は何をやっても無駄、という考えをもっていた。
その信念はあらゆる所に表現されていた。ある時(小学校56年生の時だったか)、撮り終わったカメラのフィルムを巻き戻そうとしたら誤って蓋が開いてしまった。それを見た父はすかさず、ああもうだめ、と言ってカメラをひったくり、ビーっとフィルムを全部引き出してしまった。なぜか、怒りをあらわにした奇行だった。言いようのない絶望感が広がった。それは親戚の姉ちゃんと久留米城で撮った大切な写真だった。
「なんてことすんだ!」
「もうだめじゃん、あげんなったら」
と強弁に言い張る父。たしかに蓋のすぐ下のフィルムは感光して台無しだったろう。けれども、大部分は現像に耐えうる品質で残っていたはずだ。しかももしかすると、あとあと何十年か先のコンピューター技術で補正できたかもしれなかったのだ。だが、そんなことを考えられる父ではなかった。
物を壊すとなじる 物がなくなると他人がとったと決めつける どうしてこうせんかった?と結果を見てから人を責める ・・・などなど。諦めた人生の枠組みの中でいつまでも抜け出せない幼児性。
人生の一時期にも「どう生きるか」など見つめたことがないのだろう。自分の知見だけで決めつけ、ズイズイ生きている。彼の諦めの人生の悲しさや絶望感は、きっとこの時僕が経験したものと似たようなものだったにちがいない。
けれども、こんなことを他人に、こともあろうか息子に尋ねるなんて。よほど自信がなくなったのだろう。世によくいる威張り腐るのの反転バージョンに過ぎないけれども。
父には昔から、突如として黄昏る癖があった。本など他からの高度な知識や知恵を絶ってしまってから小さな自分に凝り固まるようになり、何もかもがうまくいっていないと落ち込み、果ては自暴自棄になっていたのだ。
この時期、父は放課後、会社帰りの足をとめ野球をしている僕をグラウンドのネットの向こうの側道からぼぉーっと眺めていた。まるで最期の別れと言わんばかりの物悲しい目で。
父には、ドスぐろい怒りと憎しみを抱く癖があった。それは根深く、険しい表情と共に本当に顔が黒くなる。何か物が無くなったら「あいつがとった」と決めつけ「早よ、出せ」と手を出した。疑われた方の実行だったことは10の内1回あるかないか。そういう父の癖を見て、僕は、何かなくなったらまず自分を振り返れ、という認識になった。また、物を壊すと狂ったようにイカり責めさいなんだ。たかが100円の茶碗を割って、人を殺さんばかりだった。それらは自分が幼い頃にやられたことばかりで、成長していない。そういう積み重ねもあって母は報復に出ていたのだろうが、母は母で、いずれは嘆くことになることを最初にやり始めるのだった。たとえば、ちょっと物を動かすと、厳しい声で「触らんで」と怒るとか。
そしてまた、つまらぬことに慌てたり焦ったり、何かの事態にくだらない処方をしようとアタフタするなど母の無様な醜態に触れると、悪魔のような暗い形相で、さげすみ見下すようなせせら笑みを浮かべた。
嘲りは、相手の性根もさることながら、いやそれとは無関係に当人の卑屈さや劣等感、自虐などを表現するものだと学んだ。
元気のなくなった父は、おれがバカになって済むなら、バカになっておこう、と黙って妻の鬩ぎに耐えることにした。だが、何事につけても、
私は賢いのか?
まず問うのはそれだ。賢くない自分が思いついた考えが果たして賢いのか? 愚かな考えがつくりだす現状や結果は、愚かなものだ。それにはマグレも偶然もない。確実に愚かさの程度に見合ったものを醸し出す。そんな反省機能が彼には搭載されていない模様だった。
「これで甘いもんでも買って食べな」
くらいの気遣いで、母のフラストレーションはおさまるものを、秋の空を介しない彼にはそんな演出などできたものではない。
バカになっているのでなく、生粋のバカなのだ。バカがバカなことを思いついたにすぎない・・・。
オバリンピック
母の信念にはこんなのがあった。
「なんでもできんといかん」
なにもやったことのない人のセリフ。ひとつでも極めれば御の字である。
「誰にでも合わせられんといかん」
だからこの人は誰ともマトモに付き合えず、何一つ達者でないのだ。威勢の良い内弁慶以上の者にはなれない。モジモジ尻込みして、相手の思っていることや言っていることをオーム返しして気に入られようとする『自分のない人』の思想にすぎない。これらは母に限ったことではなく、この時代の世間に通用していた世間並みのおためごかしであった。
先ずは、何より先に自分自身と真剣に付き合うこと。そして、これと決めたことをとことん伸ばしていくこと。
結婚して間もない、まだ鉄工所を自営していた頃のことを父は時々愚痴った。
「モジモジして、うまくしゃべれず用を足さずに帰ってきた」
耳の遠い自分のかわりに納品先に行って集金してもらいたかったができなかった母の無能ぶりを話したものだ。それができていれば、雇われ人にならずにいれたのにと。
この父によって塗りつけられたスティグマを払拭するために母は父の非をあげつらってを責め立てたのだろう。また、幼少の僕に初めて洗濯物を取り込み畳むよう指示したときに「ちゃんとできないなら、なんもやってもらわない方がマシ!」と怒ったのにちがいない。厳しさでも教育でもない。
依存心が強いので他者への、とりわけ『私の旦那様』には特別に要求度が高く、その理想と現実のギャップを埋めるがごとくに、わめき立てる。ほとんど仕返し。すべて、エゴのなせる業《わざ》だ。
「発破をかけている」と言ってケシかけ、発奮させようとしているつもりなのだろうが、効果は逆に出た。ますます父は自暴自棄になり落ち込んでいく。
そして、父に言いたいことを母は僕に言う。
「女に迷惑かけてはいけない」
その頃はなんとなく聞き流していたけど、あとから思えば、母の場合は要するに、思想の出処が、本気で女をやっていない、甘えた女のエゴなのだ。この母の幼稚さや甘えについては若い頃からそれなりの人が指摘していた。が、母の父に嘆く通り「本人がその気にならなければ成長しない」のだろう。
何事に関しても、カーッと頭が熱くなって舞い上がり居ても立ってもいられなくなる。長男の初めての受験に際してもそうだ。怖くて怖くて仕方がない。早く受験から解放されたい。母はそう思っている。ケチと不安だけは何にでも付けられるもののようだ。これも、エゴの所作である。向き合わず逃げ出したくなってそわそわする。受験をする当の本人をさしおいて。恐れや不安は勝手に発動しているだけなのだが、まるで対象の方が惡いように思い込んでいる。受験体制や受験する息子のせいで自分が居ても立ってもいられなくなっていると。そして、その不安を押しやろうとして父に喧嘩をふっかける。
これが成熟した大人の行ないだと思う人、手を挙げて。
社宅から茶畑の中の一軒屋に引っ越したわがや。終日こつ座、機械化と個人作業に変化した家事によって、特に志もなくひとりになった母は、主婦のご多分にもれず、それまでの恨みがわき出してきたようで、家族に暴虐を働き始めた。あの精神状態は、気づかぬ内に忍び寄って居着いてしまうから恐ろしい。
「よっこらしょ」
と玄関で靴を脱ぐ彼に、ひどい剣幕で母がわめきちらし押したり蹴ったりし始めたので、父にしてみれば、母が訳の解らぬことを口走りながら刃向かってくるように見えたことだろうが、彼がとうに忘れているかつての行ないを踏まえた抗議でもあったのだ。だが、父はこうぼやいた。
「あいつは気が狂った。みょうなことを言ってくる」
一緒にいる時間の長かった僕にしてみれば、赤ちゃんの時には、ほっぺたをつねって嘲り笑いを浮かべたり、躾と銘打って幼少期には襟首をつかんで振り回したり、不可解なことをさんざんやる母と付き合ってきたので今更というかんはあったが、周囲には他の家もなく日中独りで居て雑念を弄んでいる母は、その傾向がエスカレートしてきたのだろうと思っていた。(長屋の密集した社宅を出るときに母はたいそう喜んだものであったが、今度は孤独に悩まされたようだ)
赤ちゃんの僕に半ば虐待じみたことをしていたのは「こんなにしてやっているのに」という執念だった。無能な自分がこんなに気を揉み、こんなに親身になって世話をしてやっているのに、
それが反動としてかわいがっている子供をつねる。叩く。かと思えば、子煩悩の極みのようにかわいがる。その躁鬱の繰り返しについては、鈍感で眼力のない父でさえ把握していた。それが昼間に独居となって爆発していたのだろうし、僕の受験に際して激化していったのにちがいない。昼間、一人でじっと押し黙っている姿は僕ら家族は知らない。知っているのは、その反面の暴れ回っている母だけだ。
自分が我慢して嫌なことを嫌々ながらやっているので、他人にもそれを強いたくなる心理。
僕が小学4年の時に引っ越してから中学3年が終わるまでの5年くらいに亘る狂乱行為は、父に対してだけでなく僕に対してもあり、戸惑ったものだ。
妹に至っては、この頃の10年ほどの期間の記憶がないらしい。ーーあまりの惨状に。妹は僕が盾になり防波堤になっていたので直接の被害は免れていたが、小学校にあがったばかりの歳なら、わきで見ている方が強烈だったのかもしれない。
鮮明におぼえていることがある。新居に引っ越して1年半が過ぎたころ、僕が小学校5年の時だった。雨の中をやっとの思いで家に帰り着くと、母が待ちかまえていた。般若のような形相で迫り来ていきなり叫んだ。
「あんた、なんね!」
僕は首をかしげた。
「勉強ができるのは悪かこと! 勉強なんてできたってしょうがない」
そう言うと、まだ肩にからっていたランドセルをひったくった。
あ!
確かに僕は四月生まれだったので、このころまでは月齢の関係で学校ができてはいた。けれども、母の勧めで初めて受けた私立中学用の模試では平均以下で、しかもはじき出された偏差値46というデータが平均以下ということすらわからない始末だったのに、母にはたくさんの賞状をもらい通信簿に◎の20個以上ある成績優秀者と映っていたのだろう。
「そんな奴は、こうしてやるぅ!」
母はそう叫ぶと、勢いよく座敷の戸を開き、


降りしきる雨の中めがけてランドセルを放り投げ、教科書を庭にぶちまけた。
そしてこう捨て台詞を吐いた。
「勉強ばっかりできたってね、人の気持ちが解らないようならダメなの!」
昨今、こういう考えが流行っているのか、母はすぐに世相に流される癖があった。学歴偏重の時代に、息子の優秀さが永遠に続くとでも錯覚したか、人間性の教育に最もふさわしくないエゴと不安の横暴さを示した。
僕は戸の前に立ち、外を見た。雨の中濡れないように持ち帰ってきた教科書たちは水溜りに散乱し、そこに雨が降り続けた。
「教科書が濡れちゃったじゃないか」
「うっせぇ!」

と母はありったけの大声を出した。
「私の知ってる人の話でね! 良い大学は出ているけど、他人を馬鹿にしたり、意地悪したりする人がいるのよ! あんな人間になっちゃいけません! あんな人間になるなら、勉強したって同じ!」

それが僕とどんな関係があるというのか、と思った。日頃言っていたこととはまったく異なる剣幕に、僕は戸惑った。それに、人間性と学歴が正比例するとも思えない。支離滅裂なお説教に僕はまたしても首をかしげた。悲しかった。
学校ができてかつ物識りで、同時に人間性豊かではいけないのか?
仕方ないので僕は靴を履き、外に庭に出た。教科書を1冊、1冊拾い集めた。ひとたび濡れた本は元の通りにはならない。乾いてもくっつき、剥がそうとすると破けてしまう。ゴワゴワになった教科書。
教育的指導にかこつけたストレス発散。
「その場限りの感情に流されて、白黒つけなきゃ気が済まないんだよ、女って生き物はよ」
父は、スルメを齧りながら言った。
でも、持っていないものが、感情に任せて出てくるわけがない。母の持論だったのではないか、と僕は思った。いたいけな自分を解って欲しい、かまって欲しいという願望。
日中、周囲に誰もいない家で独り、あれこれあれこれ雑念が嵩じてくる。

ムカ!むか!Muka!मुका!มูก้า!Мука!Μούκα!穆卡!

溜まりにたまったフラストレーションが僕に八つ当たりしている。かつて自分がやられたことを思い出したのか、最近そんなことがあったのか、テレビやラジオで取り沙汰されて触発され、そんな気分になったのか、この時の僕には計り知れなかった。
子供に甘えているのだ。いつもこんなにあなたのことを想い、身を挺してしてやっているという驕り高ぶり、恨み。
子供を産む以外に取り柄のない女。『産む装置』と称されても文句が言えない、一点集中の役割ぶり。過剰に任務を遂行する。
ところで僕は幼少期、おとなしい無口な少年だったが、母によく虫下しを飲まされていた。この意味が解るだろうか?

かわいがっていたかと思うとふと気が変わり、イライラしたのか、赤ちゃんだった僕のほっぺたをつねったり、つついたり叩いたりし始める。悪意を感じた僕が鳴き声をあげると、不敵な笑いを浮かべる。予想以上に泣き止まないので「しからしか、すぐ泣いて」などと嘆いた。そして言葉が分かる頃になると「あんたにはどげん手を焼いたね」だの「苦労させられた」だの言った。
難産で、帝王切開になってまで産んでやったと恩を着せるだけでなく恨みに思って仕返しをしていたのだったが、妊婦は栄養をつけないと、と言われたのに固執して(マタニティー・ブルーとかいうのを紛らわしていたのだろう)焼き肉用の牛脂をばぐばぐ食べ続けたので母子ともに太り、僕が産道を出られなかったので仕方なく施術されたのだった。それでも出て来なかったので、僕は鉗子で頭を挟まれて引っ張り出された。おかげで頭頂部の右に凹みができ池ができそうだったし、左側には変なデキモノができたので、文句を言うべきはこっちかもしれなかった。
無能な上に人の10倍心配し気をつかい妄想して忙しいから疲れ切ってしまう。それが「こんなにしてやっているのに」といった恨みに転じる。溺愛している反動で仕返しをする。幼稚園の頃までは、ちょっとでも言うことを聞かないとなると、時には体力に物を言わせ、押し倒し伸し掛かり両膝で僕の肩を押さえて動けなくした。すると、ぷーんとこかんのにおいが漂ってきてもう僕は涙が出てきた。
石原慎太郎の『スパルタ教育論』が間違った形で母に入ったので、さらに愛憎の幅が広がったと思う。母親自身が自分を高めることで子供への対し方が変わることを説いているのに、低次元のままに表面上の厳しさだけを真似する愚か者。自分の幼児性を僕に投影し虫下しを飲ませる無駄金使い。
およそ、僕が壁を叩いて大きな音を立てる『壁ドン!』療法での回避術をおぼえる16歳になるまでは、ああしなさい、こうしなさいと、自分の考えが絶対に正しいこととしてぎゃあぎゃあ喚き立て、やるまでしつこく強制した。
僕はそんな母の行動を冷静に観察し、
「なぜ?」
と問うと、理由が答えられないということが僕の幼少期には何度もあった。
ーーちゃんと!しなさい!
ーーどうしたら、ちゃんとになるの?
ーーこれこれこう
ーーどうしてそれが「ちゃんと」なの?
・・・・。無言。
ある目的上、それが正しくなるのであり、それを正しいと考える自分がどんな目的であるのかを観察することが苦手な人の一人だ。そうやって何かにつけていちいちガミガミ言うので、父がまだ調子に乗っていた頃は、
「ロッテンマイヤーだあいつは」

とぼやいていた。「あれが出なきゃ、いいやつなんだがな」

小学生の頃の僕には母がロッテンマイヤーには見えなかったが、あとで思うに、カトリック的厳格さというか、似た要素はあった。自分が小さい頃に言われたことを絶対に正しいものとして信じ込み、目的など御構い無しに、ああせんといかんこうせんといかん、そうでなければ世界が破滅すると言わんばかりにぎゃあぎゃあ喚き立てる。
母の感情や情動を観察するに、感傷と落ち込みと躁鬱とカラ元気と優越感、引っ込み思案、妄想・・・などなど。情緒、情操などというものがほとんど発達していない。
あとで解ったことには、それまでこっそり飲んでいた抗鬱剤の副作用だったかもしれないと察するに至った。鬱状態を抑えた反動が、恨みや憎しみの感情を増幅させ滾らせ、それだけが現実だと思い込むようになり、感情の抑制が利かなくなる。
精神安定剤だとして渡された薬物に頼るに至った乱高下する感情の起伏は、もしかすると当時まだよく知られていなかった塗装用のシンナーを少女期にまちがって吸ってしまったからではないか、と外傷のせいにして本人を守りたくなるほど、かわいそうで痛々しかった。
エゴと恐れと肉体を自分だと思っている。それが答えだ。この勘違いがあらゆる精神的異常を発するのは、万人共通のことだ。
ともかく、このエピソードひとつ取っても、僕が受験を主軸とした出世が目的で生まれてきたのでないことが知れる。ーーあえてこの夫婦の下に生まれてきたのだから。
母はしかし、その癖が出ていない時には絵画のような可憐な少女でもあった。
新年
1983年が始まった。
23日。
再び降ってきた雪。

緑先生は、カーテンを開けた。ーーみんな、見なさい。
「白皚々(はくがいがい)たる銀世界です」
いつもの張りのある声で言うと、降り積もる雪の様子をしばらく眺めた。
高校入試はじまる
1983年昭和58年2月
初旬に私立高校の入試があった。僕の中学からは100名くらいが受けたのではないか。99%の生徒が『滑り止め』で受ける高校だった。受験料は7000円。
意外に難しいと思った。が、落ちることのない高校だったので特に動揺もなかった。落ちたところでなんとも思わなかったに違いない。人生をかけて勉強に打ち込んできたのでもなかったし、たとえそうだったとしても、望まない結果にさえ、生来、僕はいちいち落ち込むメンタリティがない。
トータルで6~7割程度の点数だったのではないか。
入学金は1万円。
そこから公立高校の入試まで40日ほどあった。その期間に160点/200点くらい取れるほど伸びたと思う。過去年度の入試問題をやっても特に難しいとは思わなかった。
実質、僕の高校受験の勉強は夏の中体連が終わった7月からは始まらず、8月、9月と少しだけやり、10月くらいから取り組み始めて3ヶ月、1月のフクトでは成果が点数に現れず、やっと2月の半ばに上昇してきたといった案配だった。
公立高校入試 前夜
3月の10日、試験の前の日のことだった。
幼稚園、小学校の時も、ときどき行なわれていたことだが、僕の中学時代の3年間、一度の休みを取ることなく、それは繰り返された。
父が会社から戻ってくると、待ち受けていた母が、喧嘩をふっかける。昨日の続きを始めるのだ。主なテーマは、お金と子供の教育についてだった。その日の温度が暑いか寒いかとか、なにから始まってもいい、結局はそこに行き着く。まず、午後5時から7時までふたりは座敷に対座して互いに相手をとがめる。彼らはふたりとも、怒るのは馬鹿のすることということでは一致していたので、静かに行われる。過去にさかのぼり咎めると、さらに過去をほじり返し、さらには捏造して事実だと言い張り咎めるという試合だった。
途中、ご飯の時間は中断され、8時から再開される。食事は母と僕と妹の菊子がテーブルでとり、父は別の部屋でとった。冷静な憤怒のぶつけ合いも、数日に一度は皿が飛び交い、殴り合いが始まったりする。そして11時になるとおしまいになり、風呂に入って別々の部屋にねる。
あさ、父は母に会わないように早くから出かける。僕の学年が2年3年と進につれて、終了時間は11時、12時と押していき、日をまたぐようになった。さらに午前1時、2時とエスカレートしていき、僕が受験を間近にひかえた1月や2月には、とうとう徹夜で繰り広げられるようになった。この頃のことを僕は日記にこう記していた。
『(前略)中学に入った。しかしその時分から、家庭の雲行きが怪しくなってきた。家に帰ると必ず両親が何かを深刻に話し合っていた。そして私の顔を見るやいなや私は正座をさせられ、なにやら説教を始めるのだ。心当たりはない。そしてえんえんと2時間も3時間もそれは続き、クラブで疲れた私の精神を疲れさせた。「疲れた」ともらすと、母は「だから運動部はやめなさいと言ったじゃない」と言う。運動部にいる時間は、母から解放されているではないかと思った。
時に母は泣き叫び、私は心を悩ました。私は家庭のことで胸がいっぱいで一日中、ぼおっとしていた。勉強ができ、服装の乱れもない私だ。普段から私をおもしろく思っていない連中はここぞとばかりにつけこんできた。すると当然のごとく、腐ったミカンが伝染するように、全員が私を嫌い始めた。どうにも挽回できない。家に帰れば、いつものように深刻な両親が私を迎えてくれる。どこにいても憂鬱な毎日だった。それまで親しかった女生徒も私と話さなくなった。しかしこのことで私はひとつのことをさとった。非難を浴びている者をみんなと一緒になって非難しないということだ。
2年生になった。学校ではおさえている分、家に帰ると母親の愚痴に対しても怒りを発するようになった。そうすると母は一層増して僕に愚痴を言い募る。だいたいはこうである。「父親を見習ってはいけない」僕には喧嘩に負けた腹いせにしか聞こえなかった。「女に迷惑をかけてはいけない」
両親の争いは毎日エスカレートするばかりだった。朝から言い募り、学校に遅刻してまで母親の愚痴を聞いたこともある。勉強もまったくしなくなった。(勉強しなくなった理由は別にあったのだが)
3年になった。みな一斉に勉強し始めた。私はいっこうに勉強しない。成績は下がった。クラスで二桁まで。それでもとりかからない。勉強ができる状態ではない。父と激論したあと、母は僕に延長戦を仕掛けてくる。彼女を理解できるひとは近くにはいない。母は半ばノイローゼ気味となり、動転した父は親戚中に言い回った。
母は病院に行った。しかし病気ではなかった。父はただオロオロするばかりだ。母は気を取り直して少し明るくなった。ふがいのない父に愛想をつかすことでそうなったのかもしれない。母は気を紛らすためにタバコを吸い始めた。父は激怒した。タバコをのんではいけない、と彼の兄たちに言いつけられていたからだ。ある朝、母がタバコを吸っているところを見つけた父は、顔をまっかにしてカンカンに怒った。母を殴った。なんども殴りつけた。目の前で母は泣き崩れた。そうしている内に父は母の実家に電話をした。「いま、殴った。早く引き取りに来て下さい」と言った。
どうしていいのかわからなかったが、ともかく私は学校に行った。母方のひとと父は一日中話し合っていたようだ。そして夕方にはひとまず和解したようだ。学校から帰っていると、祖母を乗せた父の車と出くわした。送り届けているのである。ふたりとも平気な顔をしていた。私にはそんなことはできない、と思った。理由はなんにせよ、あんなことをして、とても義母の顔をまともに見ることはできない。よほど自分が正しいと思いこまないかぎり。
それからも両親はよく激論した。たがいに、相手のためを思って言っているし、殴っているのだと主張する。他人に献身的に尽くしていると言う両親がノーベル平和賞を穫らないのはなぜだろう』
日記の細部については既に話してきた通りだ。
ところで3年間で僕は2回だけ、口論している最中の彼らに苦言を呈したことがあった。1回目は「やめなよ」とひとことだった。2年生の時にそう言った時には
「子供のくせに、なにがわかるか。親のやっていることに口出しするな」
とふたりして僕に矛先を向けた。それで、僕はそれ以来なにも言わなかった。3年になって、僕も人並みに受験勉強を始めた。彼らの罵声とつかみ合いの喧嘩の音を聞きながら、僕は黙々と問題集を解いたりした。それでも僕はいままでの不勉強が祟って、合格ラインぎりぎりのところにいた。
ざっと計算しても、平均すると日に8時間は面と向かって口論していたから、365日×3年×8時間で、8760時間、彼らはいがみあったことになる。時給6百円としても、2人でその時間アルバイトをしたならば500万円にはなる。あるいは、本を読んで議論し、高い認識に到達したならば、彼らが解決したかったことなど造作なくクリアできたのではないかと僕は思う。学歴やカネや権力で解決できることは限られている。そうでないことまでそれで解決しようとしても無理な話だ。

夫婦が同じ目的で協力してやればよいところを、お前が、あんたが、と分業を進める。結局のところ、自分のやるべきことを相手に押し付け合っているだけのことではなかったのか。
父は4歳、母は6歳。この未熟なふたりの抗争は、中学の頃には、母による父のいじめの様相を呈していた。

けれども、暴力を受けた被害者であるという理由で依存・甘え・責任転嫁を正当化して責め続けた。かつての恨みを返し続けた。

こんなこと、心理学をかじった人がみれば、ああ、なるほど。性的欲求不満の解消か。と納得するような破廉恥なことであるのだが、魂の叫びとはそれにとどまらない、奥の奥には進化の欲求があるのであるが、それを目の前の他者に求める人類共通の轍を踏みしめているのだった。
そこから抜け出せない彼らを幼少の頃の僕はなんとかしてあげたいと思った。けれども、そんな力量は中学になってからもなかった。
ふたりとも基本的にはとても優しくイイ人であることは間違いないのだが、時折拭い去れない何かが衝突し合った。
ーーここで字数制限のため、やむをえず『その6』に続きます。






