青春ファンタジー

ある日、父がちょっと来いと言うのだ。そして近くの電気店に連れて行かれた。10月くらいだったか。
「よし、買ってやる。これでいいか?」
  
ナショナルのセットコンポを買おうとしたのだ。カタログを見ながら聞いた。
「いいよ、
要らない
と僕は言った。父は不思議そうに尋ねる。
「要らない? なんで」
うーん。と僕は考えた。20万円もするのだ。もし、20万円かけるなら、他のを単体で選んで組み合わせたいなあと思った。
要らない
と僕は言った。
「欲しいんだろ?」
「でも、
要らない
「いいから。買ってやる」
と上から2番目のグレードのを選んで、勝手に買った。
父はいつも上から2番目の物を買ってくれる。
「ナショナルは、白物家電のイメージが強いですが、ステレオには力を入れているので、音はいいですよ」
と店主が言った。社長の松下幸之助さん自身、音楽好きで、販売する製品はすべて音を聴き、最終的な音決めをしていたらしい。上位機種と比べると、spaceシリーズはかなり明るめの元気な音質だった。若者向けだからだろうか。

部活がなくなった放課後の時間に、僕はよく駅前のベスト電気に行った。ステレオをながめて堪能すると、カタログをもらって帰ってくる。
帰ってくると、時刻によってはもう始まっていた。
僕はその喧騒から気をそらすかのように、寝転がってカタログを見た。ひとしきり満足すると玄関前の部屋に入り勉強に取りかかった。
ドア1枚、狭い廊下を隔てて襖の向こうには座敷があり、正座して対峙した両親が今もディベートを行なっている。なかなか決着のつかないテーマのようだ。
険悪なムードの漂う中、僕はかえって集中して問題練習に取り組むことができた。

あべ書店の向かいにあったベスト電気からもらってきたオーディオのパンフレットなどを眺め、カセットデッキなのに20万円もするナカミチ・ドラゴンやティアックのZ6000など、各社高性能の新製品を投入してきて、あれにしようかこれにしようかとファンタジーを巡らせていたのだ。
 
             
ナカミチのカセットデッキ、『1000 ZXL limited』は85万円もして、天然木で覆われフロントパネルのゴールドメッキにはヘアライン加工までしてある。これと山水のアンプにJBLのスピーカーを組み合わせたらどんな音が出るのだろう、などとまるで天井裏のセロ弾きのような夢想をして楽しんでいたのだった。
             

     

ーーなのに先走りして、夢を壊してしまった。きっと母が、
おとーさん、かつやがステレロばかり気になって勉強が手につかないから、なんとかして
などと悲痛な訴えをしていたのだろう。
妙なかわいがり方、妙な過保護ぶり、妙な甘さ。エゴのタレかけだけど、かれらは必死だったのだ。
小遣いをやらないとカツアゲするとか万引きするからと多めの金を与える親の心理と同じ安っぽい心理だったのだろう。半分は、いつも満たされていない母が自分の物欲を投影したのだと思う。
歯止めのきかないヒステリ持ちで、こうしてはいけないそれをしてはいけない、こうしなければいけないああしなければいけないとイチイチ行動を規制され、まるで針の穴を通すかのような生活が強いられていた。

どうしてこの人たちは、子供が雑誌やカタログを見ていると、買ってあげなければいけないと早とちりするのだろう? 中1の時に登場したばかりのマイコン NEC PCー8001に興味があり、雑誌I/O(430円)を定期購読していた時もそうだ。買ってくれと言ってもいないのに、
    
「そんな物、買えない。大人になってから自分で稼いでから買いなさい」
と言った。ごんごんに嘆きながら。
たしかに僕は、芸夢狂人さんのゲーム『ルナシティーSOS』を猛烈にプログラミングしてみたかった。けれど僕だって、父の給料が12万円なのに20万円もするマイコンが買えないことくらいすぐに解る。でも、いいではないか、プログラムの仕方を勉強したり、コンピューターの理論や構造を研究しても。
コンピューターが悪い、そんな物に興味を持つのが悪いと母は糾弾したが、単に嘆きたいから、カネのないことを嘆いているのだとしか思えなかった。そして対象物をやり玉にあげる。
休日になると僕は自転車で久留米にあった『カホパーツセンター』に出かけたり、友だちの家でちょっとだけ触らせてもらって満足した。
小学校3年(1973年)の頃から『電子ブロック』が欲しくてたまらなかったが、1万円したので手が出なかった。PCー8001は16万8000円したので、TK-85でもいいか、などと考えもしたがそれも4万5000円ほどしたので足が出た。
         
僕が初めてパソコンを買ったのは大学5年(1992年)のときで、代替わりで格安だったMacintosh LCだった。(それを皮切りに数百万かけた)その頃にはもう企業が本格参入していたので、自分でプログラムするのでは稚拙になっていた。下宿の小母ちゃんが、自分の息子がコンピュタープログラムにはまりせっかく近くにある大学に行かなかったと嘆いていたが、NEC PC8001でプログラムしたカセットテープで数百万稼いだのらしい。まさに自分にとっては平行世界に思えたけれど、恵まれた先駆者たちの方が旧態依然の、大学から優良企業に進む、という道より遥かに賢いと僕は思った。
もしPC8001の出た年に僕が受験生だったら、これを買ってもらえたのだろうか?
ともかく、あまり乗り気ではなかったが、そしてどうせならマイコンの方がよかったとも思ったが、両親にしてみれば精いっぱい努力したのだろうと思うと、哀れで涙がちょちょぎれる。
ステレオを買ってもらったのは嬉しかったけど、お目当の物でなかったので感動はしなかった。

案の定、祖母は「まだ、早か。高校に受かってからでよかったのに」と僕に苦言を呈した。買ったあとに、しかも僕に言っても仕方のないことだと思った。せっかくのステレオにケチがついた気がした。

この調子で何事も、なにかしてやらなくては! なにかしてやらなくては! それが親の義務。と気忙しく焦り、せっつく。そして、最悪最低のことを実行する。
なにもしないでくれ、僕に向けたそのしつこい気をどこか他に向けてくれ。そして、二人の日課はほどほどにしておいてくれ。僕はそう思っていた。

 

 

焼け石にドーピング

 

教材を売りに来たのは、9月ごろだったか。
夏の大会が終わり、暑さもやわらいだころだった。教材売りのおじさんがやってきたのは。
ガオカは昔は大した高校じゃなかったが、いまではシューユーフッコウと並んで九大の合格者を競っている。新興住宅地ができ始めて人口が増えたせいで難易度がぐっと上がった」
などと話した。ガオカってなんだ? と思った。福岡市にある高校らしいが、学区がちがうので全く実感がなかった。けれど、それが訪問販売の話術、掴みのテクニックなのだろう。教育ママの胸ぐらを鷲掴みにする。
いかにも仕事のできる風のちょっと大きめの黒いスーツを身にまとい、生え際のM字になった頭はポマードで撫でつけてあった。ぱっと見、長嶋茂雄さんを思わせる百戦錬磨のベテラン販売員だ。

使い込んでくたびれた黒く大きなカバンを持っていた。
夕刻5時を過ぎていたので父もいた。どういうわけだか珍しくやってきて、玄関先に座り込んだ。親子3人で正座しておじさんの話を聞いた。
母は顔は心なしか白くほころんで、まるで救世主でもやって来たような喜びに満ちていた。
福岡市には修猷館・筑紫丘・福岡高校という公立高校がの御三家があることを僕はこの時知った。知ったところでなんの役にも立たなかったが。
おじさんが帰ったあと母がたずねた。
「どうするね?」
要らない」と僕は答えた。
にもかかわらず、母はもう一度言う。
「どうするね?」
この教材は10万円もする。受験用の問題集など、1万円もあれば、10冊以上買える。そしてそれの方がよほど役に立つ。
要らない
もう一度同じ返事をした。
おじさんは数日置いてまた来た。
「テストがあるし、質問には必ず応えるし、万全のサポートをします」
とおじさんは言った。
「どうするね?」
こうやって母は自分の答えと同じものが出てくるまで問い続ける手法を取る。
要らない
と言い続けたのに、勝手に買ってしまった。両親にしてみれば、渡りに船だったのだろう。金の使い方を知らないのだ。不安がそうさせる。
常日頃、金がない金がないとぼやき、出し渋り、ケチる父、それをめぐって喧嘩までするのに、散財する。無駄金を使う。なんだか僕は、貧困なこの人たちに金を使わせるのがみじめに思えていた。
売りっぱなしではなんだと、おじさんはアフターケアーに来た。いい機会だと、
「ぼくのことをよその家で言うのやめてください」
と言った。というのも、僕が決めあぐねて首をかしげていただの、なんだのと話していたとクラスメイトらから聞かされたからだ。僕がどんな教材で、しかもおそろしく金のかかる方法で勉強することになった内情を知られるのが恥ずかしく思えたからだった。『あの人も買った』方式で連鎖反応を狙っていたのに違いないが、そのごは、僕のことを言って顧客を釣り上げるのをやめたようだった。
たしかに、しかし、教材とシステム自体は非常に良かった。たぶんこれを1年生の時からやっていたらスムーズだったかなと思った。けれど、僕には『受験勉強の愚かしさ』とか『矛盾』などと、斜に構えたようなことを考えつきそれに妙にこだわっていたせいで勉強をしていなかったので、やっぱりこうでもして無理強いされなければ、良い教材に巡り遇えなかったかもしれない。
ただ、受講した者たちの顔ぶれを見ると、もうちょっと、合格を確実にするにはあと少し足りない、といった者たちばかりだった。どこかで仕入れた順位表を見て、困っている者たちを狙い撃ちしていたのだ。

父は、にげる。知らぬ存ぜぬで。自分から逃げいているように僕のことからも逃げて
猫かわいがりに可愛がっていたのは小6までで、ヒヨコでなくなった僕はもう子煩悩をむきつける対象としては似つかわしくなくなっていた。
「なんとか言いなさいよ」
と母にせっつかれ、父は、
「なんでん、お前がするごった」
と言った。グランドセオリー。その通りだ。
ならば自分はどう進化していくか、と問わず行なわず。彼の未熟さゆえんである。

母が気を揉んでいたのは、僕の成績が受験校の当落線上にあったからでもあるが、このテーマでの喧嘩は、それ以前からあったのだし、主にかれらの問題の色彩が濃い。壮大なテーマにかこつけた痴話喧嘩、仮想交接。
もっと奥底には、夫婦協力して育児を成し遂げないという思いもあるのだろうが、表には諍いにしかなならいのは、劣等感からくるエゴの発動によるものだろう。

もし僕が両親の悪口を言っているように映っているなら、おそらくご自身の被害者意識に照らしてで読んでいる。
かれら両親には、不器用なのになんとかうまく育てようとしていた、その気持ちには、深い深い、深い感謝をもっている。それでも書いている。

 

 

乾いた喉に与えられた聖水は少し足りない

もうひとつ、母の施策があった。
熊大の教育学部の人が4年生で近くに住んでいたのを聞いてきて、
「習いにいかんね」
と連れて行かれた。まだ、暖かさの残る時期だった。マンツーマンで人に習うということをやってみたかったし、温和で優しいお兄ちゃんだったので僕は承諾した。
12月から2月までの2、3ヶ月間週に1回か2回、自転車で通った。英語と数学を何度か教えてもらったけど、よかった。とても解りやすかった。
けれども、実習だとかなんだとかで休みになったり、何かの用事でと受験直前までいかず、早めに切りあげられた。
もっと習いたかったなと思った。

あれがないからできない、これがないからできないという言い訳や言い訳じみた論法がすべて封じられる形で母は僕の受験に尽力した。それらは間違っていなかったどころかとてもありがたいことだった。

2月の末には、机に20冊ほどの参考書や問題集のタワーができるまでになった。
           
3年の8月から、約200日。トータルの勉強時間は1000時間には到達していない。前半200、後半500の700時間程度のことだろう。けれども、手応えが出てきた。しっかりと自分の手にナイフを持って鉛筆を削っている感覚。垂らした針に魚がかかる感覚。重さと摩擦のある喜びを感じた。
前年度の試験を何年分か解いてみると、全部8割以上、160点くらいは取れる。

こんなもんだったのか、と思った。
この程度のものは、いろいろ考えるよりやった方が早かった。僕がこのくらい取れる試験なのだから、合格点はどのくらいなのだろうか。170点くらいか? いつも合格ラインより少し下にいる感覚だったのでそんなふうに想像した。僕の得点力が上がれば上がるほど、合格最低点も上がるような錯覚があった。

 

 

安田のこと

各クラスには、一人二人教師よりも勉強のできる秀才がいるものだが、一人二人、教師や学校を屁とも思っていないワルもいた。安田がそれだった。
俺がこのクラスで番を張る

と、宣言したのが僕ならカッコ良かったのかもしれないが、ちいさな声で静かにそうささやいたのは、安田だった。
他のクラスの奴にヤラれたら、俺に言え。落とし前つけてやる、おい、七田、いいな
ちょっとにやけながら、クラスで一番弱そうな生徒に声をかけた。直木のコバンザメをやっている七田くんだ。
「あ。はい」


七田くんは安田のところに行って返事をし、戻ってきた。
彼は自分より強そうな者を見かけると、遠くから小声で、ぶっとばしてやるとかぎゃふんと言わせてやるなどと、ぶつぶつ大きなことを言っている割に、こういう人の前では、大人しくなって敬語を使った。

ある時、安田が
先生は最高の先生だと言ったので、僕が思っていることを言ったことがある。
「でも、これが善いとか悪いとか言わないから、なんだか、肩透かしを食らったような、当り甲斐がないというか、つまらない」
「だから、いいんじゃねえか」
と安田は言った。
「そうかな」
と答えながら僕は思った。
善いことをした、善いことを言った、と思っても、
先生はそれを判定しなかったので僕は自分の投げたボールがストライクだったのか、ボールだったのか分からず、永久にどこかに飛んで行ったような錯覚をおぼえていたのだった。
もちろん、こんな感覚は僕がまだ小学生のクセが抜けきらないだけなのだったのだが、実のところ
先生のことを最も理解していなかったのは僕だったのではないかと思う。
僕がそんな風に感じていたのは、
先生が中庸を極められていたからなのだ。つまり物事の道理、本質を自らの眼で見抜き、理解し、調和を取っておられたのだった。

ある日、体育館で、校長先生が講話をされた。
「高い目標を完遂する過程を通じて人間は成長するのです。目標に向かって最大限の努力をしてください」
と、成長の大切さを述べた後、こうまとめられた。
「できた、できないじゃありません。達成に向けての過程が大事です」
学校に伝統的にある考えだ。分かった人の言ったことを訳の分からぬ輩が滅法している場合が多い。けれども僕は学校で一番偉い人の言ったことだから、素晴らしい考えなのに違いないと思いたかった。
集会が終わって、生徒たちはぞろぞろ体育館を出た。
なにいってやがんだ、できたかできねえかじゃねえか
ちょっと離れたところで上靴を履いていた安田がそう言ったのが聴こえた。校長先生の話しについてのことだろう。なるほど、世間はそうとしか評価しないものかもしれないと思っていると、安田が近づき、ちいさな声で話しかけてきた。
「税金は稼がなくていいからな、税金は。しょせん、公務員の発想だな、なあ、丸ノ内」
「え、ああ、うん」
教師が税金で食っているなど知らなかったし、知っていたとしてもそれがどういうことか解らなかった。
校長先生の言ったことの根底には、努力くらい誰でもできる。誰でも、向上のために三日以上続けて取り組むことができる、そういう信念がうかがえた。さらに、それができない者は、怠け者だと蔑んでいる。
できた、できないではない。達成に向けての過程が大事。こういった安直なまとめ方をする人というのは、過去にどんな実績をあげた人であっても、すでに努力をやめて久しいのではないか。成果の上に胡座をかいているのではないか。
いや、そればかりではないだろう。どうせたいした点数が取れないからとなにもやらずに放棄してしまう中学生をたくさん見ていると、そう言いたくもなるのだろう。


安田の言ったことを先生に尋ねた。
「彼は、父親やお兄さんたちの仕事ぶりをまじかで見てきたからね。自分も野生の狼のように金を稼ぐのだという意気込みが感じられるね」
安田の家は、建設会社を経営していた。
「安田の言う通り、この世の中、できるできないが問題なんです。プロセスや努力が認められるほど、甘くはありません。獲物は捕獲してナンボ、農作物は収穫してナンボ。そうやって、おマンマにありつけるのです。一日に二十四時間働いたって、収入が支出を上回らなくては、給料はありません」
「そうですか」
僕は力なく相づちをうった。先生の言ったことが、とてもきついことのように思えたからだ。母はいつも、人の倍頑張らなくてはならない、と言っている。それで普通だと。しかし、後から考えれば、自分の肉体だけ使えば、人の倍までしか頑張れない。それ以上やると、生活の目的と手段がひっくり返って疲弊し、鬱状態になる率が増えてくるのは、その後の母とカエデ叔母さんを見るまでもなかった。
他人の十倍、百倍の成果を出した人は、悪賢かったのかもしれない。人の千倍、万倍の成果を出した人は、志が高かったのかもしれない。体とは別の所を使わなければ、到底無理だ。
「結果を出す知恵を出し、工夫をして、望む結果を楽に出せるようにならなくてはなりません」
先生は付け加えた。
「金銭的収入を目的とするか、何か別のことを達成するために金銭を使うか。この発想の違いが人生を決定づけます」
そして付け足しのようにコメントした。
「校長の言ったのは、
結果にこだわるな。何も始める前から諦めるなという意味です」
自分を批判的にみている人の言ったことさえ、正確に読み取ろうとするのだ。

「素質は誰しも違いますし、能力にも差があります。誰もが百点を取る必要もありません。学校は、実社会のシュミレーションですから、十点の人は十五点に、三十点の人は五十点になったかどうか。そこが重要です。
利口がなんにもせんで九十点取るより、馬鹿が一生懸命やって、三十点の方が百倍は価値がある」
この人が言うと、馬鹿が馬鹿に聞えないから不思議だ。

「生まれつき頭のいい人が、生まれつき有利だってことですか?」
「そうとばかりも言えないね」
「ある意味、馬鹿の方が受験には向いているということはある。余計なことは考えないからね」
と言った。
「なぜ勉強しなくてはならないのか。この問いかけは、哲学者と怠け者が同時にする。それで、哲学者はやりながら答えを出し、怠け者はいつまでも無邪気な疑問を抱いたまま何もやり始めない。無邪気な疑問を発し続けられる自分は子供の心を失わなかった偉人とでも自負してね。全てが腑に落ちたらやり始められるのにと思っている。彼の疑問は不満にすぎない。やることを強制されるのは学校にいる間だけだ。卒業すれば、誰も言ってはくれない。それでも誰かが強要してくると思っているのは、被害妄想なんだよ。そういう人は、なんとかして自分に何かを強要してくる加害者を見出したり、作り出したりしているね」

この人の言うことはスカスカでなにも聞いた気がしなかった。僕は、自分の理解できる真実、すなわち、不安で不可能で怠慢で嫉妬深い真実ばかり求めていたのかもしれない。


「社会にでたら、不器用でも仕事を通して、なにかを把む者が重宝される。どうせ人はたいてい、自分のできる仕事にしか就きませんから。皆が同じことをやって競うのでなく、己のフィールドで勝負するのです。そうすると、結局、自己ベストの更新という概念に行き着きます
しかし、結果には執着しないことです。結果は結果として受け止めて、望んだものが出ないなら、いちいち暗くなって落ち込まずに、『さーて、今度はどうしようか』とおもしろがって効果的な次の一手を考えた方がいいね。
そこが成長のポイントなんですね」
僕にはまったく整理されていないことばかりだった。一体、自分が、全体、みんなが、何をやっているのか、どうして、なんのために生きているのか、さっぱり分かっていなかった。


さらに先生の話はスライドしていく。
「締め切りの決まっている勉強をすることで、処理能力を鍛え、記憶するためあるいは記憶を引き出す工夫をしたり、自分の中から知恵を出して、理解の仕方や時代の流れのつかみ方を考案する。実は、そこの所に受験の要諦があって、知識や科学の見方など、すっかり忘れてしまって構わない。というより、むしろ忘れなければならないとさえ言える程度のものなんだ。
ところが、学校のデキた人ほど、過去の狭かったり、こじつけたりした理論に囚われて進歩を忘れてしまう。
どっからどう出題されても合格点をひねり出す戦術、これを育んでいくことこそ受験の楽しみというものだ」
そう言ったあと、いつもよりもっと張りのある声で付け加えた。
息をつかずに話し、呼吸したからだろうか。
いいかね、選択肢のある問題は、必ず選択肢の中に『正答』があるものだよ。英作文の問題にしたってそうだ。読解問題の文章の中にいくらでも文例は転がっているではありませんか。答えは、試験問題の中に全て含まれているのです。行間にある。言外にある。含みにある。言葉の端にある。そのことに気づけるようになるまで勉強なさい」
たしかに。けれど、答えの提示されているテストなのに、どうして100点から0点まで差がつくのだろう?
おそらくこの高度な認識に達するには、試行錯誤の時間は、1万時間では足りないのかもしれない。
自分の人生の答えは自分自身の内にある。そして細部に答え(=神)が宿る。このことの意味をしっかりとつかむのと同じことだ。

こうやって僕らに言う以上に他の教師に対しても塩味を利かせ容赦なくずけずけと言うものだから、敵視さえされていたのだ。ゲスに同調した教師は、
「えらそうなことを言うな。どうせ、メシのためにやってるんだろうが」
と言った。
「いいえ」
「ふん。なら、売名だ」
という会話に飽き飽きしたのだろう。
すべて、あなたが選んで見た通りです
と言うようになった。(如是我聞の境地)
先生は教職というものについてこう言った。
「ご飯を食べなければ死んでしまう。ご飯を食べるには、金が要る。金を稼ぐには働かなくてはならない。その職業として教職を選んだ。それが彼らの姿です」
「でも、そんなの短絡思考じゃないですか」
僕のできた精いっぱいの批判だった。
「プライドがあるからね。彼らは、利口者なんです。そうでない私は、生徒に迎合しているだけの馬鹿者だと決めつけて相手にしていません」
先生は要するに、不良なのだ。つっぱり以上につっぱった悪人。それが緑せんせいの本性なのだった。
大目的の達成のために中目的。中目的の達成に小目的の達成をしなければならないと考えれば、結局は、小目的がその人の大目的になってしまう。志を持ちながらも目の前の仕事を誠実にやるとは、大目的で目の前の雑用にあたるということである。


ついでに僕は日頃の疑問をぶつけた。
「教育委員会って、なんのためにあるんですか?」
さあね
冷たく言い放ったのは、含みがあったからだろうか。それとも、批判的なことは生徒に聞かせない方がよいと思ったからだろうか。『偉大な教師』というのは聞いたことも触れたこともあるが、『偉大な教育長』など全く知らない。やがて己の観察に曇りがないことを確信したのか、先生は切りだした。
「教師のアガった立派な人が集まるところかね」
それを聞いた僕は、言葉通りに受け取って雲の上の人間のように想像した。
「そこで働くひとたちが望むと望むまいと、学校で起きた問題をウヤムヤにして煙に巻くための装置になっているね。そういうところがないと、学校が問題をいつまでもひきずることになる。学校を正常化するために彼らが犠牲になってくれてるんだろう」
と先生はおしゃる。
なるほど、そうかもしれないと僕は思った。
「人はパンのみに生きるにあらず。では、パンのみに生きるのは、なんですかね」
先生が僕に問いかける。
もちろん、僕は返答に窮する。

ビートたけし矢沢永吉シャネルズ横浜銀蝿・・・、いま中学が荒れている原因を彼らのせいだと言った教師たちのことを話し、僕はこんな恥ずかしいことを言ってのけていた。
「彼らのせいかどうかはともかく、
あんなことは誰だってやれますよ
それを聞いた先生は
「おねたみ?」
とは言わない。
その通り
いつものように肯定する。見て解るからと言って、すぐに自分ができるようになると勘違いするんじゃない、などとお説教せず、こう言った。
誰だってやれる。そのことを人生をかけて証明した人を見て知るだけでなく、己でもう一回、別のやり方で証明したっていい

            
わけがわからず、僕は口をふさぐ。先生はつづける。
「そういう悪口を言うことは、それに才能があるということです。どうかね。人生の最難関に挑戦してみる気はあるかね」

こんな話を聞くにつけ、即座に、
いやぁ、おりゃぁせーん
と、甘苦しい息を出しながら拒否する父親の情けない口癖をマネできない何かがあった。
「でも、家族と子供がいれば・・・」
「だからやれないと?」
「ええ」
「それは、真実です。不安の真実です」
認められたと勘違いし、僕は持説をおした。
「みんなが、その、人生の難関とやらに挑戦したら、人類はいなくなってしまうんじゃないですか」
君は、人類の数のために自分を犠牲にすると?
「いや、そういうわけじゃ・・・」
「他人思いの人が多いものです。だから、他人が恨めしいのでしょう。自分の本心を大事にしない者が、他人の本心を大事にできるわけがありません」
「でも、先生は・・・」
「私は、結婚できなかったんです。教職にすべてを捧げたのではありません。あまりに未熟だった」
僕は何も言えなかった。話しを横道にそらしておきながら。
「より明確に自覚して生きていくことが、人生最大の挑戦かもしれません。ほとんどの人がなにげなく、たいした自覚もないまま自分をやっている」
自分をやっている、という言い方は、まるで店でも経営しているかのように聞えた。
「考えること、言うこと、為ることのすべてで、己が何者かをにじみださせているのを自覚した生き方です。芯のしっかりした、しなやかな強さを持った己であるということです」
この人の言うことは、いつも具体的でない。
われわれは、哲学で仕事をしているんではない


彼女より年下の校長や教育長は、そう吐き捨てたそうだ。一目置くどころか、彼らはさげすんでさえいた。と緑先生は、自分で言った。
「私はいい、もう食べる心配はない。たが、出入り業者を食わせてやらねばならんだろう」
だと彼らは言うそうだ。
この考えは、動物の本能であると言っていい。慈悲や思いやりではなく、威張り、君臨するためにやっているのである。
「ゲスは『しょせん食わねばならんだろう』と言い、上品ぶりは『私は作家や政治家じゃないから』と言う。そうやって、己の怠慢さを正当化しているのさ」
と先生は言った。
「食べることに関連する事をやらざるを得ない中で、
人にも揉まれて大きくなっていくのが人間です。小さくなっていくのは畜生です

そして先生は、僕の思いとはねじれたようなことを言い出した。
「公教育と言っても、狭い、内輪の世界だからね。公教育界には、あくまでも言葉の綾だが、大人の仮面をつけた幼児や人間の皮をかぶったケダモノ、聖人のふりをした俗物、すぐに自己反省して見せる改善無しの善人。そういうのがウヨウヨいるね。いくつも理念はあるが、これを校是としているとできる私学や、結局は売り上げがあがってナンボの実業界の方がシンプルだ。公教育には、答えがないのをいいことに、堂々めぐりの暗闇が渦を巻いてもがいているよ。まあ、しかし、そんなことろは、あまり見ない方がいいね。そんな世界ばかりじゃないから」
先生の言葉を反芻しながら意味と意図を捉えられずにいた僕に尚も先生は話を続ける。
「勉強から逃げた者は、勉強ときちっと目を合わせて対峙するまで、勉強に追いかけられる。どこまでもどこまでも、つきまとわれるよ。勉強を呪えば、勉強に呪われる。あんたがもし、どこかで仕事を得ようと思って面接にいくだろう? そうすると、学歴は? と聞かれる。そしてそれに見合った時給が算定されるんだよ。あんたが三十になっても、四十になっても。五十になってもね。おかしいだろう、その間の人生経験はいったいどこに加味されているというのかね」
僕はちょっと考えて幼稚な問いを発する。
「逆に、こちらから勉強を追いかけたらいいんですね」
「追いかけたら、逃げるね」
「逃げる」
「そう、どこまで追いかけても追いつかない」
「じゃあ、どうすれば・・・」
「あんたたちは、学校を卒業したら勉強も卒業くらいに思っているが、
本当に勉強を卒業するとは、即ちしなければいけないことから、すすんですること、おもしろがってすることに移行するということだね。勉強と友達になることだ。勉強と話をしながら、友情を築いていくんだよ。そうやって、勉強を楽しむ人は、時給を超えた仕事ができる」

もうひとつ、
先生との勉強に関する会話を付け加えておく。
「行き当たりばったりじゃいかん」

とジッタ先生は言った。「早め早めに準備していかないと、間に合わんゾォ」
この人は、どういうわけだか1年生の頃から僕は八女高に行くものと決めつけていたようで、2年次の定期考査や実力テストの成績が今ひとつ芳しくないことを案じて、早め早めの助言をしてくれていたのだろう。
教科書に書いてあることと警察の片棒を担ぐことが給料分の仕事でそれ以上は越権濫用だ、とまでは言わないが、この人はまじめだった。まじめ一辺倒で、新制になったばかりの九大を出ているという話だった。角刈りに黒縁めがねをかけたムサくるしい四十男で、独身だった。年老いた母親と二人で暮らし、商学金を返済しないで済むよう中学教師になったのだそうだ。親孝行な息子で通っていた。
本名は堅田といったが、あだ名のジッタ(Jitter)という響きはゲジゲジしてジジむさい印象の彼をよく現していた。そして確かに彼の物言いにはどこかイライラさせられるところがあった。僕は読んだことがないけれど、漫画に出てくる男性の名前なのらしい、先輩から後輩へと受け継がれてきたあだ名だった。(僕は一度もそう呼んだことはないけれども)
1年時には社会を教えてもらい、2年の時には担任で、生活指導の担当だった彼はゲームセンターは不良がいてカツアゲされるから自然のある所に釣りに行けと命じ、それでかえって僕は他校の集団不良に絡まれてにカツアゲされたという苦々しい思い出をもたせてくれた先生だった。(詳しくは『デジタル バーサス ネイチャー』を参照されたし)

僕はこの考えについても
先生に尋ねた。
「早め早めにというのは、お百姓さんの考え方ですか。収穫時期から逆算して種まきの時期を決める。これを人生に適用すると、老後から逆算することになる。老後が収穫期というわけです。収穫する間の中年、壮年時代はずっと苦労しなければならないと考えている。そうやって迎えた老後にあるのは、貯金だけというのは、一体、なにを収穫したのでしょう。
昔のお百姓さんは、いつ不作になって年貢が納められなくてつぶれるか知れない中にいて、老後のことなんて考えられなかったから、案外、今を一生懸命に生きたのかもしれませんね。人生の収穫期はいつも今だけです」
わけのわからないことを言うなぁ、と僕は思った。
けれども、人間的な差は歴然としていた。リベラル・アーツの旧制高校を経ないで入った新制九州大学出身者を軽くあしらう旧制師範学校卒という構図。そうはいっても、同じように戦前の旧制師範学校を出た女教師は小学校の時にも幾らか残っていて『麦は踏まれてこそ強くなる』だの『鉄は熱いうちに打て』だの、戦後の妙な科学主義でなく精神主義、道徳主義ではあったけれども、表面的な厳しさばかりで
先生ほどの深淵さは感じられなかった。
「ま、しかし、そうは言っても、受験するなら、効果的な勉強方というのはあるでしょう。確かに、三年になってからでは遅い。やっと理解しかけた頃には、もう本番。点数を取るというところまではもっていけない。受験に対する考えは固いは、脳みそのトレーニングができていないはで、ーー」
などと先生は言った。
ふと、気がつくと先生はまたしても、僕の真横に立ち僕がなにげなく見つめている所を見つめていた。
「早めに取り掛かることは受験においては有利なことは間違いない。しかし、それ以上に人生においては大事なことがある」
遠くを見つめておしゃった。

ーー何事も形から入るが、学ぶのは形ではなく、形のないものです

ところで、なぜ僕が裏番長に祭り上げられたかといえば、真相はこうだ。 
      僕           安田         まさっちゃん

当時2年生だった安田が生意気だということで3年の番長グループに目を付けられた。それを、マサッちゃんが阻止した。その恩返しに安田がバスターズの計画を阻止したということだった。マサッちゃんの守っている安田の守っている僕は、マサッちゃんの従兄弟であるという円環ができあがっていたからだ。だから、僕には誰も手を出せなくなったのだった。それで、イジメられたり集団シカトをうけた者が駆け込み寺のように利用できたというわけだ。
クラスの番を張ると宣言したのに、他のクラスの奴等から手を出されたんじゃ安田のメンツにかかわる。でも、もしバスターズらが事を起こしても大丈夫だった。鬼になる時は鬼になる。それが僕だ。
  
けれどそんなことを僕にさせる前に邪事は必ず未然に防がれるし、僕に対して妙なことを算段した者には必ず天のイカヅチが下るようになっていることを、僕はずっと後になってから知った。(中二病のような物言いだが、さすがにあれだけ何回も見せつけられたら信じざるをえないので)
3年の時にも僕は安田と同じクラスになり、しかも
先生が担任だったので皆仲がよく、安穏とした日々を送ることができた。そして先生と話したことで土中にいる僕の種が芽吹く準備は整っていったというわけだ。

 

 

マスターマインド

フクトの最後のテストがあった。正月明けすぐに実施された第3回のものだ。僕は数学で見たこともない問題が出たことに驚き、ちょっと憤慨してもいた。
ちょうど廊下で出くわしたKに話しかけた。Kはまさに、緑先生のいう『鶏口となるよりむしろ牛後となれ』を地でいく男だった。勉強のマスター、マスターKだ。

附設高校の入試も間近で、久留米の西鉄駅近辺のセントラルインの会議室に缶詰になり最後の追い込みをしているらしいと仄聞していた。

INNの意味を知らなかった僕は、セントラルインってなんだ? と思った。
したり顔で僕は言った。
「あんなのは、自分の不得意分野をあぶり出すためのもんで、対策をするようなもんじゃないよな」
フクトの実力テストについてだった。
Kはそれに答えて言った。
実力試験を実力を測るものだと位置づけて対策を否定しているようじゃ、実力はつかないね

考えたことも、聞いたこともないKの物言いに僕は面食らった。
「それに、実力は実力試験を受ける前に、もうわかっているよ。過去問を解いてみればいい。第一、試験の点数で受験校を決めるのだから、実力を測るものだなんてぬるいことを言ってちゃダメだ。その成績が合否を保証するものでもないけど、
最高の点数が取れるように予め対策をとっていた方がいい。もし、過去問を解いたり出題範囲だけを徹底的に研究してデキるようにしておいて、それで今度の実力試験の点数が飛躍的にあがるのなら、それが実力なのだし、もし、そうした短期の付け焼き刃がいけないとするのなら、テストの方に問題があるんじゃないか。本番の試験も大学は入学に値するか実力を測っているんだけど、本番の試験で実力を測っても仕方ないだろう。少なくとも、合格点をもぎ取らなくては、入学もできないし、そこで勉強もできない。学歴もつかない。取った点数が実力なんだ。試験対策をして実力以上の点数が取れてもしかたがないということはない。
実力試験は、実力を上げるための試験なんだ。理解の足りないところはどこか、それを理解して、模試で練習通りに演じられて、得点力があるか見る。あらかじめ課題を持って勉強していなければ、反省もできない。模試の復習に最大の効果を求めるなら、対策はしておくべきだ。テストの研究と成果の出し方のプロセスに熟達していって、その方法を本番の試験に応用するんだ。闇雲に努力したって、点数が取れなければ骨折り損だよ。点数の取れるような勉強法を編み出していかなければならない。着眼点とか、理解の深め方とかね」
甘い反発心が胸にあるのを感じた。それはお前のやり方だろう? と言いがかりをつけたいところだったが、肝心の僕の方法というのがない。僕にはなにも言えなかった。


1年のころは、Kでさえフクトの実力テストで145点くらいしか取っていなかった。2年の時には、ときどき尋ねると、160点台だと答えた。(彼は169点でも160点だと言う質だった)まだ、たいした差はないな、と僕は安心していた。そして、とうとう彼は3年の今になって、185点を叩きだし、ついに学年1位になったのだった。(この結果はこの会話の少し後になって出たものだった)

「校内偏差値75です」

と、何かの教師が授業中に言った。

偏差値75。公立中のMax値。偏差値の上限。標準偏差2・5σ。250人に1人。


慢心は彼には無用だった。久留米地区や福岡地区には190点以上取る者がたくさんいることも、その点数でも難関私立高校には通用しないことも知っていた。
「なあに、こんなことできたって、生活の役には立たないよ」
苦し紛れに、一番嫌っていた言葉を僕は発するしかなかった。
「そうさ」
Kはこともなげに返した。「生活は、自分の目的を遂げるだけあればいいしね」
それを同意だと解して気を良くした僕はさらに嫌いな言葉を得意げに言ったのだった。
「自己満足にすぎないよ」
「それも、そうだ」
きっと、僕の定義とは異なる意味に同意したのだった。

 

こと、Kを前にしては、僕はヨッシャと大差なかった。

くじけてねたみや恨みなどに妥協し、それに迎合し、加担して負の連鎖に創り出してしまうのが、悪と言えば悪だろう。しかし、それは、悪と呼ぶより不安だ。不安は、己の本心で望むことをもたらさないという意味で悪と言える。

「平等主義思想にかぶれた者は、単なる怠け者ではありません。人より抜きんでてはいけないという、独自性の禁止を背負う者です。酷い努力をして、みずからを貶める者です。これほど、生命の性質に反した荊の十字架もないでしょう」

淡々と語った先生の横顔が忘れられない。


「ところでこの間の試験の数学、1次関数の中の四角形を点Pと点Qが動く問題あったろ」


「ああ、あれ」
「できたか?」
「たぶん」うなづきながら言った。「できてると思う」
「あんなの初めて見た。どうやって解くんだ?」
教科書はおろか、持っていた参考書、問題集のどれにも載っていなかった。
「あれは、時間ごとに面積を出して、表を作ってから、それの変化をグラフにしたら・・・」
親切に教えようとした。けれども、僕は混乱し、言っていることを想像することもできなかった。
「あんなのできなくたっていいよ」
僕が言うと、Kはきょとんとした顔になった。「どうせ、公立の入試には出ない」
黙っている彼に、さらに僕は追い討ちをかけた。
「できたところで生活の役には立たないし」
もういちど繰り返した。なんども口に出して言っている内に、地上の信念がすっかり定着していた。これでやっと僕もヨッシャたち俗人に追いついたのだった。
Kはもう何もコメントしなかった。なにか納得したように首を小刻みに縦にふった。

ーー2年生の時に、久留米にある『全教研』の夏期講習に行った。Kも来ていた。向学心のある久留米じゅうの中学生が集っていた。2週間10回ほどの講義だった。合間に知能テストが実施され、講習が終わる時、総復習試験があった。試験は期間中に習ったことそのままだったので、まだ記憶も鮮明で造作なかった。
「点数の横にある数字は」
と講師が説明する。

「潜在能力に対する評価です」
要するに、I.Qに比して、学習の得点がどれだけ到達しているかを度数で表しているというのだ。
Kと成績表を見せ合った。
僕の方がよかった。
英語や数学は二人とも90点か95点ほどで評定も5だったので差はない。けれども、国語が85点の同点だったのに、僕の評定は4でKは5だった。
しかしKはI.Qなど度外視していて、問題を解き実際に点数を取ることに全力を傾注しているといった素振りを見せた。I.Qはどうしようもないから、気にしても仕方がないのを知っているから賢いのだ。
他の生徒は70点ほどでも5がついていた。85点でも僕は4、すなわち90点か100点とって能力通り、アンダー・アチーバーだと示されていたのである。
塾では、才能もさることながら、受験では努力がものをいうが是であるので、I.Qと得点の相関をあからさまに知らせるのだった。I.Qだけで受験を乗り切れるとは見なしていないのだろう。I.Qは試験で得点する要素の一側面でしかない。

自分をよく知る。

それが塾の提示したことだったのだろう。
夏期講習に行き、その『まとめテスト』で高得点を取っても、無力だった。学校で行なわれるフクトのテストでは全く点数が伸びなかった。
受験には毎日の独学独習、日々の訓練が効果的であることに気がつかない。その必要性を感じることができなかったのだ。短期講習は日頃から鍛錬している者が高いレベルの授業を受けることで実力増進に役立つものだ。日頃やっていない者には無用の長物である。
そして2年生後半、3年の今まで、僕は定期試験の対策すらしなくなった。
その結果が、最後のフクトの実力テストで僕は120点、Kは185点。
差は天地ほど開いていたのだ。

点数の開きは考え方の開き、人格の差でもあった。

けれどこの時のことを憶えていたのか、市の図書館で黙々と勉強し続けた同志であったことを忘れていなかったのか、Kはことさら僕を買い被っていた。
大学1年の秋にKが熊大病院に入院したと母に聞いたので見舞いに行った。すると、ベッドに横になっていたKが僕に言った。
「おまえ、ホントに熊大?」
僕はちょっと憮然とし、横にいた者に、本当だよな、と同意を求めた。次に行ったとき、
「いや。東工大にでも行ったのかと思っていたから」
と言った。
理系と聞いていたし、東大ではないようなので、東工大に入ったものと思っていたらしい。
「いや」
と僕はこたえた。「熊大だ。熊大の文学部」
そうか・・・、とKは言った。浪人の冬にも図書館で会ったが、文転の話はしていなかった。
「東工大に行くような学力もなかったし、たとえ受かる実力があったとしても受けないよ」
と僕はこたえた。
そこは人生プランから大きく外れていたし、物化数に偏った者たちが集まった大学など御免だと思っていたからだ。そんなものからはできるだけ離れて居たかった。
(実際、就職してから幾人かの東工大出身の生身の人間に会ったことがあるけれども、「おれたち優秀、お前知らんだろ?」みたいな声なき声ばかりが満腔からにじみ出ていて、人間的魅力に乏しかった。総合大学のメリットについて考えさせられた)


「八女高は受けるのか?」
附設に通ったと聞いたあと、廊下で会ったKに僕はたずねた。(2月の中旬以降のことだった)
「いや」と首を振った。「受けない」
当たり前だ。そんなところに行けば、能力を十分に発揮できない。
足を引っ張られ、揉まれてこそ強くなると信じている彼は、地元の公立高校でダントツ学年1位を突っ走っては頭打ちなのだ。あえて牛後になる心意気。にもかかわらず、そんなことを理解できないおバカな僕は、
「そうか、それならライバルが一人減るな」
などと実にせこい発想をしていた。
Kは黙ってこっちを見ていた。
「じゃあ」
そう言って、僕はその場を離れた。難関私立高校を受ける連中から、彼が羨望と尊敬を集めている上に受験の上達者のごとく扱っているだけならまだしも、彼らが人間として出来た者のように崇めていることが心の奥底で癪に障っていた。
Kへのこうした思いは、
嫉妬にも似た鬱屈した思いは、自分もそうなりたいと望む心。うずく魂。目覚めようとしている霊。自分の能力を最大に引き出したい、伸ばしたいと懇願している
が、実行しないでいるから鬱屈しているのだ。

「どんなかんじ?」
翌年、高校1年になってから偶然、あべ書店で会った時、僕が数学の勉強法について尋ねた際、
「学年で最下位。ーー入る前からわかっていたけど」
と言った。

1987年に附設高校は51人の東大合格者を出したが、Kはその一人だった。
Kは自分の学校でのことも話した。
附設高校は、2流もしくは3流の東大進学校にありがちな、というより九州中の田舎者を集めた学校であるからか、校内で足の引っ張り合いが横行しているのらしい。
「それも、入る前から解っていた」
とKはこともなげに言った。
あの学校のそんな評判はなんとなく僕の耳にも届いてはいたが、物を隠したり席に水を垂らしたり教科書の端を破いたり、まるで小学生並みの意地悪をするのだとか。僕にはタチの悪い連中がいる陰気で陰険な学校だなと思えたが、彼はそれを自分の精神を強くしていく叩き棒として利用している風だった。

地区では名士扱いの久留米大学附設高校も全国レベルでは2流3流、切磋琢磨の仕方もそれに応じた方法なのか。附設高校が東大に多数(二桁30人以上)合格者を出すようになったのは1975年からで、1983年のこの時はまだ3流の癖が抜け切れていなかったのだろうか。
ごく一部のものだった中学受験で抜け駆けした凡才が、尻を叩かれ、無理やり勉強させられ、伸びきったゴムのようになりながらも難関中学に合格したはいいが、がんばっても頑張っても成績が上がらず、一握りの優秀者の支えている名声がプレッシャーとなってくじけ、屈折しているのか。本当に頭の良い者や努力を実らせる者を引きずり降ろそうとするのだろう。
高校組に対する洗礼なのか、とりあえず学年で最下位と言っているKへの激励であるのかもしれない。

それにしても、

中学で学年1位だったKが最下位になりにあえて東大進学校に行き、下層部だったヨッシャが落ちていった先で計らずも学年屈指の最上位人となるとは、人生とは奇なものなのだろう。

 

 

その5につづく

 

 

 

 

 

※ 『中学編 その3』に出てきた川原くんのこと。

資料によれば、1986年も87年も西南高校から東北大はいないようなので、

「どこ?」

と僕が聞いた時に、ちょっと気恥ずかしさから躊躇し、いつもの口癖をくっつけていたのではないか。

「うーんと、北大」と言ったのが、東北大に聞こえたのかもしれない。 

当時、北大は文1文2文3となっていて、そのどれだったかは分からない。文学部に進むつもりだったのだろう。

北大には行ったことがあるが、素晴らしい大学だった。建物も敷地も学生も。恵迪寮に泊めてもらった。

 

すでに新々寮になっていたけれど、ドアは開きっぱなしで個室の概念を破壊するなど反骨精神のある者たちによって自治され、活気に満ちていた。偏差値的には足りていたので、ここなら来てもよかったな、と思った。寒さには弱いけど。