8
長い長い田圃の一本道をひたすらペダルをこぎつづけていた。心臓破りの坂道にさしかかると、尻を立てふうふう言いながら一気にこぎあがる。単調な道のりはここまでだ。川沿いの道を抜けると、市街地に入るのでいくらか気が紛れる。
ワインの抜ける音のする刻子高校は、北原白秋の里であった。いたるところに水郷が張り巡らされ船頭が竿をさしていた。時折、髪の色の異なる客がのっているのを見かけた。けれども僕には情緒も風情もまるで感じることができない。ただ、行って帰る。ストロークのやけに長いピストン運動ににちがいなかった。
この学校に自転車で通う者はみな無言で、黙々と、まるで競輪選手になったかのようにペダルを回す。散ったクモの子が戻ってくるように、一台、また一台と校門に吸い込まれていく。
休むことなくペダルをこぎ、一時間半後に学校に到着したときにはもう、頭の中は真っ白で、授業を受けて帰るとクタクタだった。もう、体育会系帰宅部と呼んでもまちがいではなかった。
余裕がない。
2学期まで通ってみて、切にそう思った。けれど実行したのは年明けの2月だった。
それまでは梅雨の大雨の日でもずぶ濡れになりながら自転車をこいだ。また、1月の大雪の日も。凍結した路面で滑り、国道の交差点の中央に倒れたこともあった。そうやって苦労して学校に到着すると、その時点で「休校」が知らされる。まったく、なめている。
これでは、疲れに行っているだけだ。しかも僕の自転車は、右側のペダルの軸がズレていて、長時間こいでいたために膝を傷めてしまった。この右膝の痛みはその後、30年以上に渡って僕に伴い続けた。
それで僕は通学方法を切り替えることに決めた。だが、相当の覚悟がいった。
すでに廃止の予定されていた第三セクターの佐賀線を利用するには、羽犬塚駅を始発で立たなければならない。朝の5時台に家を出て、汽車に乗り込み、鹿児島本線を瀬高まで下る。そこで佐賀線に乗り換えるのだが、登りやら特急の通過をたっぷり小一時間も待たされる。立ったままだ。そして筑後柳河駅で降りると、そこから学校まで2、30分歩かなければならない。帰りも、本数の少ない汽車を待って2、3時間かけて家に戻らなければならない。
1組の連中は朝と夕に補習というのがあり、教師も生徒も早くから学校に来ていた。僕らのクラスにはそんなのはなかったけど、汽車通学は僕に彼らより早く教室に到着させた。まったく、敬虔な社長のように学校に一番乗りをしていたものだ。
時間がかかっても汽車通学にしたのは、その時間を勉強にあてようと考えたからだ。家で英語の予習をする。全文を訳し、授業はその添削の機会にする。別に問題集を訳し、そこで出てきた単語やイディオムをノートに書き写して自家製の虫食い問題を作成し、それを徹底的に憶え込むのである。これは、文法問題や英作文の問題に威力を発揮した。
読書にもあてた。
また、大人たちとの思わぬ出会いが幾つかあり、様々な意見が聞けたのはありがたかった。
1984年 2月
鉄道に切り替えるとき、僕には2つの選択肢があった。一つは国鉄を利用すること。羽犬塚駅から瀬高を経由して筑後柳河。
2つ目は、西鉄電車の犬塚駅から西鉄柳川。
降りてからの徒歩に要する時間はどちらもさほど違わない。乗車している時間は接続切り替えに待ち合わせ時間を有する国鉄の方が何十分も余計にかかった。問題は、自宅から駅までだ。これは犬塚駅までの方が倍以上かかった。
犬塚駅は奈緒子が利用していた。
毎朝、奈緒子の顔を見るのを想像した。どんなに胸躍ることか。
けれど、自転車をこいでいる時間を短くしたいので変更した交通手段だ。両手の空いた時間で復習にあてるためだ。学力をつけて国立大学に合格する決意を前にして、奈緒子にブレてどうする? 彼女を上回る点数を取ることで見せつければいいではないか。
自分より努力しない男、自分より人格の悖る男でも「人柄さえ良ければ」とか「私を愛してさえくれれば」などと言う女を僕は好まなかった。これは男の本能みたいなものだ。
奈緒子の家とは線路を挟んで対象の三潴に住んでいた重永は、犬塚駅で毎朝乗り合わせる。やつが人知れず奈緒子に追いつこうとしていたことを僕はかんじていた。
時を同じくして、僕は学研の添削問題を取り始めた。学研の模試で点を取りたかったので、夏のバイト代で『高校ベストゼミ』に入った。2月と3月。やろうと思ってから、半年が過ぎていた。
9
尾崎豊がコンサートを行ったのは、クラスメイトのひとりにとって事件だった。デビューライブ 新宿ルイード 1984年3月15日 ラジオで流れるから聴くように勧められた。
「今夜、ある」
そいつは息巻いた。そいつの名は今居といった。
「だから、なんなんだ」
僕が言うと、今居は怒った口調で返した。
「わからん奴には、どうってことのないことだ。だが、おかしいと思わんか。どうしておれたちは丸刈りなんだ? どうして規則に従わなくてはならない? 管理教育は誰のためにあるんだ?」
僕は黙った。規則を押しつけてくる方が悪いとか、それに疑問を持つとか、そういうことは幼稚なことだと思い込んでいたからだ。僕はまんまと大人どもにやられていたのだ。それでも僕は否定されたことに違和感を感じていた。
帰りにゲームセンターに寄った。激しい音のする中、僕は考えた。
世の中の不条理みたいなことは、たしかにあるさ。管理による束縛に怒りや悲しみがないわけではない。この学校の馬鹿さ加減は目に余る。
でも、だからと言ってロックを聴いてどうなるというのか。そんなことをして自分を慰めたところで管理教育がなくなるか。ロックを聴いて溜飲を下げて、それで満足するか。そう思って僕は尾崎のコンサートをラジオで聴くのをやめた。
今居は、3年になって尾崎が十代最後のコンサートをやった1986年の1月1日の福岡国際センターの時にも教えてくれた。
尾崎が全てを言い得ているからこそ、僕は1秒も聴きたくなかった。拒否反応に近かった。近親憎悪と言ってもいい。
この状況の中で、僕にとってのロックは聴くものではなく、やるものだった。
この学校や世間が「お前にはできない」と太鼓判を捺すことをやり抜くのが、僕にとってのロックだった。
だから、尾崎を聴くようになったのは、大学に入ってからだった。
(追加)
6に続けて書いていたこと
けれども勉強している最中、英語や古典はともかく、数学が僕にとってそうだったけれど、答えを見ても解らないとき、
「なんでこんなことやらなくてはならないんだ?」
といった『哲学的命題』を発案したくなることが度々あった。それは鬱屈してイライラした気分を伴った。
さらに飛躍すると、例の必然的結論である、
「数学は生活の役に立たない」
が思いつかれる。だから、勉強しなくていいという結論を武装する世界共通のジョークだ。
「やらない」と宣言すればいいだけのところに、疑問形。理由はない。ともかく、やらない。それでいい。
模範解答の、この行とこの行の間に何があるのか? どう考え、どう操作して次の行に移ったのか、それが解らない。
という意味の「なぜ、こうなるのか?」でなく、数学そのもの、数学をやる意義について疑う気持ち、それがやらなくていい理由を見つける始まりなのではないだろうか。
僕には高校3年間、そして浪人してからもずっとチラチラとつきまとっていた。
2年から担任になるガッデム先生は「頭が固いから」と理由をつけていたが、そうではない。
どうしてこうなるのかを理解しようとする胆力とか、考え続ける筋肉が弱いのだ。だから、数学をやる根本的な問題を思いついてしまうのだ。そしてそれは、たかが受験数学を解くより遥かに難しい問いである。
国立大学を志し、その資格としての3要素が英国数ができることなら、すなわちどうしても合格点以上を取らなくてはならない場合、また、なにがなんでも奈緒子を抜こうとするなら、数学を解く意義を自分なりに見つけるか、創るかしていくことになる。
2次元的ロジック。範囲や制限や条件のある中での完璧な正しさ。それがともすれば、人間関係や人生においての最大のまちがいではないのか? と僕には思える。数学のできる人で人情や温情のある者を見たことがない。
今の受験数学に時間をかければかけるほど、人間として大事なことを学び損なっていくのではないか?
もし、自省的に、読書の習慣や哲学する習慣がなければ。
およそ受験科目において、数学以外にはこうした引っかかりはなかった。
けれどこの引っかかりのせいで、僕は受験が終わったあとも時々思い出したように受験参考書を買ったり学術書を読んだり『大学への数学』や『数理科学』を買ったり、指南書を読んだりしたものだ。
そこで僕が思い至ったのは、その論述に過不足や飛躍や矛盾や詭異が無いかは、ハートがすっきり納得、腑に落ちた時である。というものだ。その時が、多次元性を有した、真の論理なのではないか、と思う。
数学は2次元で物事を単純化して描き、ある制限と範囲と条件の下であることが成されているかを検証しているのみだ。
こういうロジックこそが僕の最も疑問を呈するものだ。たとえば、フロイトがロレンツを引き合いに出して戦争を語った時の言説
1 動物には攻撃本能がある
2 人間は動物である
3 したがって、人間には攻撃本能がある
いわゆる3段論法である。この論理は論理において正しい。まちがってはいない。だが、実際には間違いだらけである。
これは、戦争を正当化するプロパガンダなのか? とさえ思える。こんな考え方をしていては、未来永劫、戦争はなくならないではないか。遺伝子操作でもして、怒りの感情や考えの違いや身体的差異を抜き取りでもしないかぎり。
動物にあるのは種の保存であって、人間が戦争をするのはエゴによる優越や格差である。不安による保身が攻撃を発動させる。
人間の本質は愛である。
人間は動物的要素だけで在るのではない。
自分を滅亡させない。相手を滅亡させない。これが愛と調和から発想されたロジックだ。自分を滅亡させることが相手を滅亡させることだ。相手を滅亡させることが自分を滅亡させることだ。これが、たとえば侵略と防衛について考える場合の論点ではないかと思う。侵略を正当化するのも、防衛を完全否定するのもハートの論理性には合っていない。
フロイトは頭脳明晰であると同時に実に愚昧な男だ。
あまりにも直線的。2次元でしか思考していない。なにか大層なことを表明しているようで何もない。
そういうのは、頭が良いどころか悪いのだ。ハートの発達が未熟である者にとっての完全な正しさや照明でしかない。
いまの人類の数学とはほとんどこれに近いと思える。非人間的な論理ばかりを信じさせる。
もちろん、数学の有用性は認めている。特に産業や工業において。
だが、数学がある条件の下での正論であるのを忘れてはならない。また、すべてを平面でしか捉えていないことも考慮しておくべきだ。
たとえば、ナニナニでないことを証明する手立てとして、ナニナニであると仮定し、そうでないと示すことでナニナニでないと証明する方法など、実際の人間関係において使えば、屁理屈の域を出ない。ぶん殴られても文句の言えないくらい反吐の出る狂気じみた理屈で迫ることになる。
受験数学程度を信奉し、全体を眺める場合の一面を提示しているだけだということを忘れては、2次元性に陥ってしまうのではないか? 僕がおよそ中学以来疑問に思ってきたのは、その点である。
ある物事が、より愛と調和を目的とした論理であるか。見極めるのは、そこではないか、と僕は思う。それが数式に現れているのなら、僕は数学と認めよう。
でなければ『数学』と呼ぶな。いま、地球人がやっている数学など、ほとんど何も言い得ていないし、なにも予言できない。せいぜい、受験で、答えの用意されている、ささいな問題を神経質にやらせているだけだ。
こんなことができたところで大したことがない、と普通に言えるまで、数学と付き合うのがかっこいいのかもしれない。




