さあ、きょうから勉強しようと思い、

机についた。


ーー3分もたなかった。

秋のことだった。9月の半ばくらい。

コタツ布団を剥いだ台を机代わりに座る。3秒、5秒・・・すぐにそわそわしてくる。7秒8秒9秒、居ても立ってもいられなくなる。

なんなんだ?

と僕は思った。たったこれだけのことができないのか。

なぜ、たった3分がもたない?

苦笑するしかなかった。

とりあえず、庭を見た。そして再チャレンジした。

できない。

仕方ないので立ち上がり、部屋をぐるぐる回り、そして台所に行って水を飲み、再び机につく。何度繰り返しても気もそぞろ、集中することができないのだった。

なんてこった!

僕はまるで赤子のように、机につく習慣を自分の身につけさせるところからやらなければならなかった。苦痛で仕方ない。が、これを乗り切らなければ、元の木阿弥、僕は一生変われない。そう思った。

ーー机に座って居なければ、というところに意識を向けるとかえって座っていられないのであるが、先ずはすぐに立ち上がって他のことをしたくなる自分を抑えなければ始まらない。

無の境地は無の境地になろうとすればするだけ遠ざかる。

だが、先ずはここからだ。問題集を開いて問題に集中する前に、造作もなく机に就いていなければならない。意味もなく机の前に居続ける。つまらないことに本気になって取り組むことが出来ずして次はない。僕にはそう思えた。

机の左前に大きな丸い目覚まし時計を置いて時間を計った。

あはは。

あまりの堪え性のなさに、われながら笑うしかなかった。3分ができるようになると、次は10分に増やした。悪戦苦闘の日々。

自分が決めた時間の前に机を離れたくなったら、シャープペンシルで左の太ももを刺した。そうやって、10分、15分、30分と机に就いておけるようになった。

それまで別の習慣だった自分を変える時の苦痛に耐えなければ、僕は永久にいまの状況から抜け出すことはできない。

これは少しの間のことだ。ほんの2週間からひとつき程度。だが、無限に長く感じた。人生で最も辛く苦しいことに思えた。麻薬中毒患者の禁断症状のように、僕の肉体と精神は堕落することを求めた。

ーー勉強したってしょうがない

ーーあんなことができたって生活の役に立たない

これらの考えには、悪魔の呪文のような強烈な重力がある。

ーー受験は世の中の矛盾だ

ーー勉強のできる奴ほど悪さする

ーー人生にはもっと大切なことがある

再びこれらの考えに引きずり込まれてしまえば元の木阿弥、僕は一生うだつが上がらない。

・・・必ず勉強ができるようになる。なって国立1期校に入る。必ず奈緒子を抜く。ーーこれが僕のお経だった。奈緒子を抜くのだ。石に齧りついても。

 

アイドルのブロマイドの代わりに、旺文社『蛍雪時代』の付録にあった大学ランク表を貼った。A2サイズだったか、大きなポスターだった。

 

 

とりあえず目標校を決めようと思った。

西方先生は「最高の目標を掲げて」とおっしゃったが、一番上の欄の一番上に書いてある大学学部は1次試験の平均点が880点になっていた。次が870点、その次が860点だった。話にならない。このあたりだと、最高の目標を超えている。オリンピック背泳で金メダルを取ることくらい実現不可能度が高かった。

ずずっと下に目をやると理工学系はなくなり、左横の農学系にはさらに下の大学があった。その欄の一番下には2位を大きく引き離し580点ほどで琉球大学があった。沖縄は東京に行くのと同じだけの遠さがある。そこを除く九州にある最低ランクとされる大学が640点ほどで載っている。僕にとっては表の一番下にランクされているその佐賀大学農学部が最高の目標どころか、高嶺の花だった。とりあえずここを目標にした。

この時の僕は、西日本で最も共通1次の点数の低い大学学部とされる琉球大学農学部の、その下の下の20センチくらい下の、ポスターの下の、自分の家の襖に居た。ここから這い上がる。

まずは英語だ。英語がなんとかなれば、あとはなんとかなる。なぜだか僕は直感的にそう思った。

あとから知ったのだが、学区1位のなだたる進学校にいる生徒は、このように検討するものらしい。まず、東大か京大。それでないなら旧帝大。九州なら九大。そこを目指してやっていく。共通1次を受け、合格しそうならそのまま受験する。点数が思わしくなければ受験校を下げる。

それは鳥のすることだ。崖の下の下の地面に腹をつけて這いずり回っている爬虫類の僕には、腕立て伏せをやったところで大差ない。下から這い上がってやる。

 

 

机に座ることから始めた勉強時間は、30分40分、1時間と伸びていき、冬から春にかけては5時間6時間と座り続けても苦にならなくなった。

父はそんな僕を見て、

「そんなに勉強していると、目が悪くなるぞ」

と言った。

「かまわない」

と答えた。

いや、むしろ僕は視力を落としたかった。それは勲章に思えた。

中学の時に買いはしたがやっていなかった参考書をやった。学生社『中学生の英文法』。その他、やりかけの問題集を解き直した。

けれどおそらく、この時期の密度では僕の1時間は他人の10分の1、2時間は30分の1の効率しかなかった。他の人が習得する量や質に全く及んでいなかった。時間ばかりかかって得ることの少ない、バカの勉強=休むに似たりだった。

 

そしてこの時期、9月から11月までの間、僕が何をやっていたか。学園祭の実行委員だった。自分から立候補したのか、軍事先生のご推薦だったのか、たしか、どこそこに「行ってくれ」と指示されたように思い出す。

クラスの出し物は、本吉屋の息子が居たので秘伝のタレを分けてもらい、烏賊は江田島鮮魚店から流してもらった。それを炭火で焼いたものだから、売るのがもったいないほど美味かった。あんなに美味い烏賊焼きは後にも先にも食べたことがない。

 

 

僕が命じられたのは『全体の催し』の統括であった。普通科や商業科から集まった2年生や3年生と一緒にポスターや広告づくりなどをやっていた。ちょうど勉強に本腰を入れた直後、任命されたのだ。が、僕はこれを勉強のさまだけとは思わなかった。どうせこの時期はまだ30分、50分、2時間、3時間のレベルで、しかも中学の復習をしていたからだ。

実行委員会の活動は、楽しかった

学園祭のシメに野外のバンド演奏があった。夕方で多くの生徒がもういなかった。僕は実行委員だったから最後まで残っていたので聴くことになった。その曲は呻るようなBフラットでせり上がり、サビに向かう。

 

♫  激しい雨が 俺を洗う

🎶 激しい風が 俺を運ぶ

♪  激しいビートが 俺に叫ぶ

 

🎶    なにもかもー 変わり始める

 

 

これはすごい、と思った。こんな歌を作れる生徒がいるのか、と興奮した。モッズのコピーと聞いてちょっとがっかりしたが、それでも初めての生バンド演奏、歌もうまいし感激した。1983年の9月に発売されたのだから、2ヶ月くらいで聴かせられるくらいにもってきたのだった。

 

なにもかもー 変わり始める

 

ちょうどこの時期の僕の気分は、まさにモッズだった。何かが、僕に聴かせたのだ。

 

12月。実のあることをやらずに漫然と過ごしてきた自分を、どっかりと机に腰を落ち着かせる習慣が定着すると、次は勉強したことが点数として具現化するような創意工夫をするのが課題となった。

どうやれば、一過性の知識にとどまらず、いわゆる実力があるという状態すなわち記憶の定着と応用が利くようになるのか。

参考書を読んだだけ。授業を受けただけ。それは著者や話者の演技をながめたにすぎない。著者や話者が上手か下手かを見ただけだ。中には素晴らしい演技をしている人もあるだろう。だが、著者や話者の素晴らしさに触れたからといって自分でできるようになるわけもない。自分でできて初めて実力と呼べるものになるのだ。下手なでんぐり返りでも、体を動かして練習しなければならない。一流の演技者に及ばずとも、それなりにできてこそ自分のものなのだ。

定期考査で満点とっても、それは右にある物を左に移すような単純作業にすぎない。教えられたことをそのまま真似するのは、初歩の段階では有用だが、それだけをいくら繰り返しても実力はついていない。模擬試験で納得のいく点数を取るには実力だ。40度の熱を出しても、3日徹夜でも、右手の指2本くらい骨折しても取れる力だ。僕がいま欲するのはそれだ。

青春の反骨心と独立心の旺盛さは独特なものを求める。その機運を利用して僕は他人の勉強法を参考にして独自の方法を編み出していった。無理や無駄やムラがあっても、遠回りでも、この道を進むべし。

その指標として、今後も学研の模試があるなら、それで偏差値をあげることを目標にした。まずは英数の偏差値50の達成だ。そうして、他人を馬鹿にしないですむレベルにまでのし上がってやる

 

必ず。

 

 

あまりにも親の年収が低いので、奨学金の貸与はさっさと受理された。が、第二種だった。返還しなければならない。要するに親の名義で借り入れた僕の借金である。16歳にしてすでに負債を抱えたのである。

この金は、僕が将来、本当にこれだと思う仕事で稼いだ金で返す。と心に誓った。

毎月かまとめてか知らぬが、親の元に振り込まれた。しばらくすると、母はゲップをしていた。心なしか、目元も緩んでいるように見えた。おそらく、申請前の4月に遡って支給されたのだろう。と言っても、これは月々の授業料分しかない。制服や教科書代は戻ってこない。袖に白線のある忌まわしい学生服の。バカと利口を識別する格好のタグのついたーー。

 

奨学金の申請には奈緒子も来ていた。

もちろん彼女は、無利子どころか返還不要のものだった。特待生なので、高校の授業料がタダであると同時に、奨学金までもらい。かつ、これで国立大学に受かれば、4年間の学費は高校が立て替えてくれるのだ。制服は上のお姉さんのお下がりを流用できたのだろう。

ひたむきに努力を重ねた者と、自分が怠けていることにさえ気づいていなかった者との差である。奈緒子はすでに給料を稼いでいるのと同じなのだ

 

奈緒子の父親がいつ亡くなったかを僕は正確には知らない。中学1年生の時点ではすでにいなかった。下にもう一人、3つくらい離れた妹がいるところをみれば、少なくとも奈緒子が3つか4つの時までは存命だった。

あの一家がどれだけ過酷な生活を送ってきたか、その一端がうかがえる挿話を挟んでおこう。1980年昭和55年の4月のことだった。

 

湿った空気が濡らした、地面の草の乾ききらない時間目の前、奈緒子をたずねて教室の外に来た人があった。女の人だった。平屋の校舎といっても、高さがあったから、廊下の窓からその人を見おろすことになった。

鳥飼マコが奈緒子を呼びに来た。マコは奈緒子と同じ小学校の出身で仲がよかった。奈緒子は走って廊下に出た。僕もなんとなくついて行った。その女性は甲を見せて、下から腕を差し出した。奈緒子は窓から腕を伸ばした。手から手に何か渡された。ほとんど手品師の手さばきだった。「鏡の前にあった」「うん」「他のにまぎれて分かりにくかったけんな」二三こと会話を交わした。お互いに了解済みのことらしい。手のひらに入るくらい小さな物だった。

「あれは、ばあちゃんか?」

と僕は鳥飼マコにたずねた。すると彼女は口をつぐみ、「しっ」と言って僕の袖を引っ張っていき「バカね、あれ、ウジちゃんのお母さんよ」とささやくように言った。え? 思わず僕は耳を疑った。奈緒子に何か渡していた女性は、頭髪はぜんぶ真っ白で腰が曲がり、針金のように細い体をしていた。どう若く見ても70過ぎの老婆だったからだ。

本当に母親なら、13歳の三女がいるのだから、まだ40代、へたをすると40代かもしれなかった。夫に先立たれて、どのくらい過酷な十年を送ってきたかが伺い知れる。だが、そう思えてきたのは30歳を過ぎてからのことだった。

その日は、順にクラスの写真撮影があった。9組だった僕たちは最後だった。多くの女子が良く見せようとして、前髪をおろして額を隠していた。奈緒子は、ひな壇に乗る前にポケットから何かを取り出して、頭にもっていった。

カッチン留めだった。一番高い段につこうとしていた奈緒子に言った。

「なんだよ、なんでそんなもん、つけるん?」

「なんでだっていいじゃない」

撮影が終わると、雛壇をおりながら奈緒子はカッチン留めを外して手に握った。

できあがった写真を見ると、前髪をあげ、おでこをあらわにした利発な少女がこっちを向いていた。

僕には奈緒子が髪留めをサッと鏡も見ないでつけた仕草が印象に残った。手をおろした瞬間から彼女の印象はまったくちがっていた。ちがっていて、知性が姿をあらわした。

 

単に勉強ができるだけなら、僕は彼女を抜くことを目標にはしなかった。断言する。

奈緒子に小学校の時からついていた『ウジ』というあだ名が彼女の眉目の秀麗なることを如実にかたっていた。ウジとは便所の蛆虫のことであるが、そのことについては触れない。

 

先生は僕たちの副担任で、奈緒子の入っていた陸上部の顧問でもあった。いつも、唐突に話を切り出すのでたいていはその場では何を言っているのかつかめない。が、非常に深遠なことを言っていたし、人生の達観者だった。(この人ほどの教師を見たことはない)

ーー私は、上のお姉さんふたりも知っているがね

と先生は話す。

ーー素寒貧《スカンピン》の中で生え抜いてきたんだ。あの可憐さときたら。三人とも、月のような光を放っている。あの姉妹を見た男子は、目がくらんで、ほろほろっとなってしまうんだ

まったく別世界の話を聞かされているような気がした。

ーーちやほや近づいていくんだがね、格のちがいに気がつくと、一歩下がってひざまづき、姫をお守りいたします、ってなるんだね

たった13の僕は、ーー思春期にさえなかった僕はただ黙って聴いているしかなかった。

 

内側から放射される虹彩は、献身、愛、奉仕の言葉では表せない、憧れと敬慕を沸き立たせる。

奈緒子がそこに居るだけで、おのずと頭がさがり、なにげない会話を交わすだけで感銘が与えられた。崇高な畏敬の念に包まれ、余韻にひたる。

山中の庵で独り、沙弥尼のように、人知れず、一心に、内なる光を、蝋燭の灯し火を見つめている、そんな強さを秘めていた。

 

奈緒子は西鉄電車で通っていた。自転車で帰っていると偶に出くわすことがあった。なんどか、自転車を押しながら話した。ただ同じ中学出身だという理由で。

美奈子はいつも足早に歩いていた。時刻に遅れないようにだろう。日を追うごとに悪くなる視力のせいか、少し肩をすぼめた猫背気味で、やや前かがみにトコトコ歩く。太すぎず細すぎない体型、形の好い指、しなやかに流れるふくらはぎ・・・。中学時代より背も伸び、自制された精神は、乙女の美しさをいかんなく発揮する。

 

車や僕の自転車に気を遣いながら、少し前を蛇行するように歩く奈緒子。とりとめもない会話・・・。

 

麗しさを白百合の可憐さにたとえるのとは違う。スミレ? 桜? 菊? どんな花でも奈緒子にあっては赤面するだろう。

僕の発したなにかの質問に、答える。つぶやくように、訥々と。

驕ることなく戒められた言葉。現状を受け入れた中で尽くされる最善の努力。ひたむきな、ひたむきな、ただひたすらにひたむきな身の熟し。

 

この時期に書いた詩が残っている。

 

僕には自慢するものは何もない。何もない。

1点良かった。2点良かった。

そんなことだけ。

胸を張れたら 胸を張れたら

 

地位も名誉も、財産も、僕には何もない。

何もない。

 

(1984年 秋)

 

十六歳、十七歳、十八歳、もう子供ではなくなった僕に、奈緒子と話す資格も権利もなかった。同じ学校の枠にいるから? 中学時代の顔見知りだから?

好きだから? 

どれもこれも身勝手な理由にすぎない。

憧れは僕だけのものだ。奈緒子には関係ない。

狂おしいほどの想いは、行くあてもなかった。

僕に話す資格があるのか。なにか、対等なことがあるだろうか? と思い巡った。勝ることは? 誇れることは?

なにもなかった。それどころか、どんどん遠くに行ってしまう。ますます差は離れていくばかりだった。

奈緒子の心を掴み取ろうとは思っていなかった。だが、目を直視して話すことができる自分になりたかった。尊敬し、尊敬される間柄に。

 

 

奨学金をもらうようになってから、教師の態度がちがって見えた。

「遅れてくんなよ!」

ちょうど教室の入り口横の一番前が座席だった僕はチャイムからあとに入ってくる教師に小声でそうすごんだ。自分が将来返す金で授業を受けているのだ。僕がサボるのをお前らに咎められる筋合いはどこにもないが、お前らが遅れてくるのは、職務怠慢の限りではないか。生徒には厳格なルール遵守を強制するこいつらには、自分の人生をかけた仕事に対して、誇りも敬意もないのだ。

「こっちは、チャイムの前から、教科書開いて待ってんだ」

そうしてもって、遅れてくる教師に限って、授業がさっぱり解らないのである。

「お前らの授業を聞くのは、俺の大切な金をドブに捨てるようなものだ」

僕は、こう言い返してもよかったのだけれど、生徒の悪口を言う教師が授業に自信がないと知っていた。それは、自分の成績の悪さを教師のせいにする生徒と同じ心理だからだ。それで僕はそう言い返す替わりに、遅れてくる上につまらぬ授業をする教師の時間は、堂々と別の教科の問題集を開いて、まったく別のことを考えていた。

時刻通りに教室に入る教師はいた。けれども、彼らに対して、生徒は二種類の反応を示した。講師である優しそうな老教師と大学を出たての若いおんな教師の授業は、蜂の巣をつついたように騒然となってしまう。そして、風格と自信にあふれる教師の時には、ーーたとえば西方先生の授業は静寂が包む。

どちらにしろ、この学校はいけないと思った。志のない教師は、まさに生徒の鑑になっている。

 

学校のあまりの惨状に本気で退学を考えた。だが、ーーだが、この学校には奈緒子がいる。それだけが、僕をこの学校に踏みとどませているたったひとつの理由だった。

 

 

ゆうがた、下校。数人でかたまって校舎を出た。もう陽が落ちかけていたから冬だったのかもしれない、クラスメイト数人と野球場のフェンス横をぶらぶら歩いた。ロック好きの堀野が大澤誉志幸の『そして僕は途方に暮れる』という歌がいいと言って歌い始めた。

入学した頃、一瞬野球部に入ろうかと思ったことがある。けれども、この学校のクラブは、ちょっと運動不足を解消してみようかというにはあまりに熱心すぎた。ときどき甲子園に出るし、中学のとき軟式の全国大会に出た生徒もリトルリーグで極東選手権に出た生徒も途中でやめていった。テニス部の連中も、授業中いつもねむたそうな顔をしていて、実際いつも居眠りばかりしていた。

体育館の前の細い道路にさしかかると、テニス部のボールをひっぱたく音が聞こえてきた。正面には体育館があり、横にはテニスコートがあった。

ふと遠目に、おそろしく脚の長い少年が股を開いて構えているのが見えた。長身で長髪の少年がラケットを振っている。堀野はそれには気づかず、ロックの歌詞についてしゃべっていた。

その少年の素振りは、この学校には似つかわしくない気品があった。

しばらくして授業でテニスがあった。整列している僕たちの前で、体育の講師が嬉しそうにつぶやいた。

マツオカが来る

なんのことかわからなかった。誰か知らないが、よほどの人物らしいことは教師の口ぶりから分かった。誰も知らないのか、クラスメイトもなにも言わない。

またしばらくして、4月になり2年になっても代わりばえしない僕が数人のクラスメイトと下校していたとき、彼はまたテニスコートにいた。今度はこの学校の校則に従い、頭を丸めていた。

「なんでわざわざ、こんな学校に来たんだろうな」

「あいつ、慶應高校からテニスのために転校してきたんだと」

「ご苦労な、こった」

「そのために坊主になるとは」

とクラスメイトが言った。よほど成績が落ちたのだろうかと、僕は思った。

「慶大までエスカレーターでいけるのにな」

いまいましそうに、それでいて羨望をもって誰かが言った。

テレビか何かで見たときにマツオカは『国内留学』で来た、と言っていた。ふつう、留学と言うからには海外だ。世界中探したけれど、国内のこの学校しかなかったということなのか。たしかにこの高校は、日本では無敵で、十数連覇をなすほどだった。それにこの学校で全国優勝を果たした選手が中退をして、アメリカやヨーロッパのプロサーキットに出ても、その後パッとしなかった。ならば、がぜん『留学する』にふさわしい。

定かではないが、彼は商業科にいたので、しかも出席日数も少ない様子で、制服姿で歩いているところに出くわすなど、日常顔を合わせることはなかった。

 

この記憶は定かではないが、僕は一度彼に直接質問をぶつけた。この時の僕としては当然の疑問だった。

ーーこの高校へは前の学校に籍を置いたまま、テニスだけをやりに来たのか、それとも前の高校を辞めてきたのか? 

 

 

「いや」

と、たしか彼は答えた。「辞めて来た」

練習で疲れていたのか、ちょっと黒っぽい真剣な顔だった。覚悟がちがう、と思った。ありがとうと言い、彼を通り過ぎたのだが、2頭身の僕には、彼の脚は間をくぐって行けそうなくらい長かった。

 

テレビのインタビュアーとのやり取りを僕がやったように錯覚しているのかもしれない。あるいは、マツオカと同じように大阪の清風かどこかの高校から転校してきた生徒が普通科の僕と同じクラスにいたので、そいつに質問した記憶かもしれない。

どちらにしろ、マツオカという少年は、慶應にいてこの学校の連覇を止めようという発想ではなく、強いチームに行って、もっと自分が強くなるという発想の持ち主だったのだろう。彼は学歴を捨て窮屈な校則に従ってまでも、『留学』してきた。

 

昭和42年生まれの僕たちは、丙午の次の年で世代人口が50万人多い193万人だった。中学3年の時にある少年のことを耳にした。

高校に行かずに、ブラジルにサッカーしに行くやつがいる

夕方、校庭にいたとき、あまり話したことのない、名前さえ知らなかった他のクラスの同級生が言った。僕たちは花壇の淵に腰かけて話した。

同学年の常軌を逸した選択、常識外れした志、そんな噂がこんな田舎町の田舎中学の僕にまで轟く。

想像もつかなかった。こちらは、目の前の受験でさえおぼつかないというのに、将来の目標が明瞭に見えていて、それに向かって走っている。おぎゃあと生まれてたった15年で、こんなに差がつくものか。呆れというか、落胆したような気分で聞いた。

この時のことを高校時代の日記にこう記していた。

『中学を卒業してすぐに単身ブラジルに渡った、ミウラとかいう型破りな少年がいることを風の噂に聞いた。彼はサッカーというゲームに神をみたのだろう。それに比べておれが3年もやっていたゲームはなんだ、最高のプレーで鎬を削り合う喜びも勝ち負けも終了もない、ルールを守るか破るかの不毛なイタチごっこに過ぎなかった。永遠の命を知っている者だけが、そのゲームを退屈しのぎの一つだと言うのだろう』

 

キングカズと称されることになる三浦知良が、日本に戻ってきてからなした活躍は言うまでもない。

 

僕らは校庭をなんとなくぞろぞろと歩き、裏門を出るとヤギを飼ってあった楠の小径を抜け、各々の帰路につくために方々に散った。

その後、数ヶ月した時、松岡修造はいなくなった。いなくなったのはすぐに分かった。なんというか、学校中の空気感が変わるのだ。あったものが喪失したような、そんな感じだった。

 

 

 

僕にも天職というものがあるのだろうか?

自転車をこぎながら、帰り道で考えた。雑誌だったかフリーペーパーだったか、陶芸家か漆塗り職人のインタビュー記事が紹介してあった。

『給与や待遇、周りの意見などに関わらず、心から充実感が得られ生涯続けたいと思える仕事』

真剣に考えた。

将来のいつの時点でかそれに切り替えようと強く思った。

 

  

 

 

川沿いの道、茅野の脇をえっちらこぎながら考えたが、この時は自分にとっての天職は何か、分からなかった。けれど、僕の胸にはずっとそれがあった。

 

それから月日は経ち、2年生になってからだっただろうか。

夜中にひとりで籠って勉強していると、覚醒してきて盛り上がり、小説を書くんだ、という思いが強く生じた。

自分しか小説の書けるやつはいない、とさえ思えた。

この時期の僕はまだ幼少期の想いを思い出してはいなかった。それをやりに生まれてきたのだという自覚はなかった。

けれども、なぜだかそういう結論に達していたのだった。6歳の時に思ったこと。そして16歳の時の決意。その隔てた2点をこの時はまだ結びついてはいなかったが、ともかく自分の道が決まった。僕は学門を究める。そして真理を探究していく。そのことを小説にして人々の悟りをうながす。強く、そう思った。

 

 

32歳くらいまでは、大学ー就職と普通のルートを辿ってから始めよう。大学に入ったあと、学業以外にどんなことをやろうかと想い描いた。この時に、おおまかなプランの設計図がひかれたのだった。

 

 

中原中也のことはこの頃に知った。福岡女子大の国文科を出たばかりの江田島真理子という名の教師が授業中に話した。国語便覧にあった写真で、宙をみつめる虚ろな目が印象に残る。

 

 

昼休み、図書館に行って詩集を開いた。

 

汚れつちまつた悲しみに

いたいたしくも怖気づき

汚れつちまつた悲しみに

なすところなく日は暮れる……

 

僕は大学に入ったあとも、図書館で彼の日記の複写などの全集を読んだ。文学少年の御多分にもれず、一通り中也研究は行なった次第だ。太宰と中也に接点があったことをあの時代の奇跡と思う。

 

真理子先生から勧めてもらった三浦綾子の『塩狩峠』を読んだ。

 

 

先生はこれを読んで泣いたと言った。文学少女だったのだ。僕は、主人公の自己犠牲を責める気持ちなど微塵も浮かんでこなかったが、ただ、文章がたどたどしくその素人っぽさがかえって描写を生々しく現実的にしているなと思った。心の底の底の、一番底から絞り出された文章は、読む者を感動させずにはいられない。

おそらく『一粒の麦もし死なずば』をテーマにしているのだろうと読み取った。

続けて『氷点』も読んだ。これも、とても佳い小説だと思った。汝の敵を愛せるものか? というテーマに思った。だが、イエスの言った言葉の意味を取り違えているかもしれないと思った。

また、北大経験者でない作者が描く主人公の大学時代が、どうにもしっくりこなかった。入った学生がいつまでも憧れをもっているものか。

 

 

三浦綾子は基督者で、ひたむきに生きている人だと思う。僕は好きだ。ただ、彼女の旧約聖書の読み方にはいささか無理があるのではないかと思った。土台の聖書自体が歪められ、教会に都合の良いように書き換えられているのだから、どんなに読み込んでも、あるいはその言葉からどんなに想像をめぐらしてもイエスや原始キリスト教の本質には行き着かない。無理矢理、善意に解釈しようとしているように思えた。

 

僕が将来、小説をかいてやろうと思ったひとつの理由に、小説というものに少なからず不満というか違和感を覚えていたからでもあった。小説とは何か? その問いに答えたのが各々の作者の答えだろうから、千差万別あるだろう。だが、最も違和感に思えたのは、因果律を無視したストーリー展開だった。推理小説やパロディーやユーモア小説なら、そんなものがどれだけ羽目を外していても構わない。

『純文学』を標榜している小説にそれが観えないのが残念だった。自叙伝のような体裁をとった小説ですら、徒らに主人公を窮地に追いやるばかりで、ありえない結果が生じた。それは慰めと気休めの大衆迎合ではないか? 大衆小説のように扱われている『歴史小説』の方が、史実を踏まえているので、むしろ因果律には忠実だった。それ故に言外にある諸々の作用が観て取れる。

伝えたいことを全体として伝えるために因果律は無視されることもあるだろう。あるいは、会話や地の文に、作者の観方や認識を直接書くことで因果律に沿った展開はしないこともあるだろう。

だがどうにも、この時分の僕にはそれが違和感であり、現実感の乏しいものに思えていた。

 

 

弾みをつけるために、ラジオを聴きながらやっていた。(夜の9時から12時半)

KBCラジオ 沢田幸二アナウンサー 『ぱお~ん、ぼくらラジオ異星人

 

       

 

『のっけから太っ腹』コーナーと『わけありベストテン』コーナーを主に聴いていた。

『訳ありベストテン』は、いつしか投稿されたリスナーの作詞作曲した歌に沢田アナウンサーが自分の好みで順位をつけるというものになっていった。

沢田アナウンサーのノリに合わせ『アパラヤン竹中&西陵ハイスクールバンド』だの『オカザキケイゾウ <小倉高校PAOーNプロジェクトチーム>』だの『下関南清純乙女合唱隊』だの、ふざけたハンドルネームを競ったカセット職人たちが横行していた。

2年生になってからだったと思うが、その中でとても記憶に残っている曲があった。

トーダイ キョーダイ ハンーダイ

速くて高いテンポで歌っていた。ホクダイ キュウダイ ヒトヅバシーー

 

『津傘間我太&MT70バンド』の門高受験生の主張(哀愁の現役編)なのだそうだ。

 

「軽快なリズムボックスと知性あふれるだじゃれで落とすその音楽はわけあり界のアララギ派と評され、ポールマッカートニーの再来とまで言われた」「岡崎恵三の浪人の主張に刺激され、現役の主張を歌ったが玉砕した」

 

と解説されている。つまり、現役合格はしなかったのだろう。

2週しかランクインしていないのだったが、とても印象的だった。

どんな奴が投稿しているんだろ、と思った。これを作っている連中はきっと、そのあたりの大学を斜めに見ているのだろうな、と思った。そういうトップレベルの大学にはちょっと及ばない高校生が憧れと妬みをこめて連呼しているのだ。

それで結局、彼らはどこの大学に行ったのだろう? ずっと疑問に思っていた。

 

その疑問は、10年後に解けるとこになった。

就職してから新人研修の期間中に上司の車でどこかに見学に向かう途中、一緒に乗っていた同期が打ち明けた。

「あの歌、作ってたのはおれたちだ」

びっくりした。

こんなところで会うなんて。しかも、おない歳の彼が、1浪1留1延の僕と同期になるとは、なんたる偶然。で、彼がどこの大学を出ていたかと言うと、広島大学工学部。

 

やっぱり! あんな歌を作るくらいだから、広大にしか行けないのだ。ハヤシくん。

(津傘間我太くん自体は、九工大に入ったらしいが)

 

 

この時期、高校1年生の秋、16歳の僕は、3つの力を手に入れていたことになる。

❶ 離れる力

❷ 向かう力

❸ 高まる力

具体的にいえば、

① 俗世の権化であった学校によって見せつけられた不条理さから離れる

② 奈緒子への憧憬

③ 真理の探究、学門する心 超越していく自分

である。

これは、不条理←ー➕ー→憧憬 という2元の中央を貫き伸びた愛の高まり。エロスからアガペーへと進化する階梯を昇っていく、立体的な十字架の構造を修得していたのだった。

この力が三つ巴となって僕を高みに押し上げていく。

 

千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬とす」宮本武蔵『五輪書』

 

僕は、真理の探究を大真面目にやると決めた。受験勉強は、そのプロセスの一部だと思った。

本日、今の日から一日も欠かさず本を読むと決めた。宿久に書店で出会ったその日からだった。爾来、40年、僕は毎日読み続けてきた。大学時代には必ずひとつき1万円分の本を買うと決めた。上通りの古書店巡りが日課だった。

読書の習慣の生み出すパワーは壮観だ。低き、易きに流されることを防ぎ、高みに上に向かって伸びて行く。新しい知識や観方は己を振り返らせ、独創性を発揮し始める

 

まずは中学英数の徹底。それが成されればやっと中学時代に偏差値70以上の者に追いつく。高校入学時点でそこまであった者は、僕がそこまで行こうとしている間に先に行っている。けれども、まずはそこを埋めなければ話にならない。中学の英単語を憶え、文法を憶え、構文をマスターした。そうして、公立高校の入試問題が満点になるまでやった。これが、1年生の秋から次の年の2月くらいまでにやったことだ。

 

そうして、ラ・サール高校久留米附設高校の入試問題が解けるようになったのは、ここから半年以上過ぎた高2の中頃10月くらいだったか、実際、そのあたりから添削問題の偏差値が50を超えるようになった。ひとたび超え始めると55、60と急速に上がっていったのだが、おそるべきは東大進学校に行った連中だ。あの問題を中学生が7割以上取っているのだ。中3の時点で下位の国立大に通る力があるということだ。

僕がラサールの問題が解けるようになった時点で、2年は遅れている。日本には開成とか麻布とか灘とか、九州の東大進学校より難しい高校もあるという。一体どんなところなのか、想像もつかない。ただ言えるのは、トップランナーたちは遥か前を爆走していて背中さえ見えないということだ。

 

11月にも学研の模試を受けたはずだ。

個人成績表が残存しておらず、正確な数値は不明なのだが、記憶では確かこのくらいになったと思う。

 

 6月 英語16点(42・0)数学  8点(40・0)国語42点(58・0) 

11月 英語24点(50・0)数学 16点(50・0)国語45点(59・0) 

 

とりあえず、上昇傾向にはなった。学研の模試は、本当に基本問題だから上振れ下振れがない。ある模試の今日の国語の偏差値が65で、明日の国語の模試では偏差値が45になることはない。基本的な実力が相応に数値化され、実力の伸長具合がダイレクトに出る。

 

勉強をやっている内に、解るようになりたいを超えて、デキるようになるんだという気持ちが強くなった。無手勝で、デキる。そしていつの日か、デキるを超えて自由自在になるんだと決意した。

 

 

「人間というのは、あいまいなものです」
西方先生は、時々、授業の合間に僕らにとって有益なことをおっしゃった。
「受験生もあいまいだし、採点者もあいまいです。人によって、あいまいの度合いも、重要視する領域も異なっています。たとえば、同じ採点基準でやろうとすり合わせていても、理系の教官は、国語や英語の採点をするとき、模範解答に近いと判断するかもしれない。しかし、数学や理科は、これはこうでなくてはいけない、このポイントを外してないならオーケーといった具合です。

文系の教官にはそれと逆のことが言えるでしょう。そして、受験において、解答者と採点者、両者のあいまいさのぶつかる所がありますね。そうです。もちろん、そこは合格者最低点付近です。1点、いや零コンマ5点の差で、合否が決します。受かるか、落ちるか。たしかにそれで人生は変わります。その変化が自分にとって、良いものとなるか悪いものとなるか、それはその後の心がけ次第ということになるとして、このことをどう捉えるか?」


問題を投げかけるように、僕らの方を見る。


「本当は、大学は点数の高い順に上位30パーセントくらいしか欲しくなかった。ここが、本当の合格者です。あとは、枯れ木のようなもので、もちろんそれも重要な存在意義を持っているものですが、誰がその後伸びるか、誰が意欲旺盛か点数だけでは判別できないから、多めに取っているのではないか、そう考えてはどうですか。あいまいさを吸収するために、多めに取っているのだから、落ちても惜しくはなかったんだと」


真の苦労人だからこそ出てくる観方なのではないかと思った。西方先生は、白髪のベートーベンという出で立ちで、教科書を見るときはいつも眼鏡を外した。老眼が進んでいたのだろう。

高校卒業後すぐに就職したが、独学して西南の神学科を出たのだそうだ。それが筆舌に尽くしがたい困難なことであったことは想像にかたくない。

西方先生から漂ってくるのは救世主イエスの想いだった。

 

              

また、別の授業の時には、こんなことをおっしゃった。
「人間というものは、意外に詰めこめるもんです」
詰め込み教育が問題視されていたので、先生なりの意見、見方を示されたのだろう。「詰め込むと、器が大きくなってもっと詰めこめるようになります」
なるほど。
けれど僕には「詰め込んでいる」という感覚はなかった。知識は、どれだけでも入っていくのだった。まるでカラカラに乾いた海綿体のように。


原理・法則・本質を理解すれば、知識は最小になる。知識は本質に付随した言葉にすぎない。
たとえば英語。単語そのものを憶えてもキリがない。多ければ多いほど有利ではあるが、英単語はどれだけ憶えても知らない単語は出てくる。
①文脈から ②単語を構成しているアルファベットから 類推すれば正確な和訳ができる。
訳も分からず単純暗記をしても、いわゆる短期記憶であるからすぐに消えていく。中学脳では莫大な知識と理解を要する大学受験には太刀打ちできない。文章の構造は人間の思考パターンの現れにすぎない。そこを捉えながら読むことで意図がわかる。


しかも、あとになってから解ったことに、人間は忘れない。なにも忘れていない。その知識や想いや思考は、すべて残っている。アクセスできるかできないかであるのだ。何度も行き来すれば精通する。踏みしめれば道ができる。それを記憶と呼んでいるにすぎない。6回か7回ひとつの知識を往来すると、知識と仲良しになるのだ。鳥居と御神体をつなぐ表参道の筋には草が生えにくくなる。知識の方も僕を憶えてくれるようになる。

西方先生はこんなこともおっしゃった。
「きみたちは、たった50分、100分でたくさんの問題を解かなければならない。
たったあれだけの時間で人生が決まるなんて不条理だと思っているかもしれない
確かにその通りだ。しかも受験は一発勝負。
「しかし、短時間に集中するからこそ、思わぬ力を発揮するものなんです。短い時間でなんとかして問題を解き、点数を取ろうとするから、思いがけないひらめきに恵まれるものなんです」
僕たちは勇気づけられた。
「そしてその日の問題との相性や体調で結果は左右されます。思わぬところで足をすくわれ、不本意な大学に行くことになるかもしれません。もうお終いだと思うでしょう。しかし、
人生は常にそこからです。そこから始まります
西南大学の神学部は英文科などに比べると入試偏差値は低いのかもしれない。だが、彼はそこで偏差値には現れない人生で重要なことを学びとっているように思った。
決して威張らなくていいような生き方をこの人はしている。
生徒である僕たちにとって、教師の出た大学の偏差値よりも、いかに世界の真髄を伝えてくるかが重要なのだ。

ほとんどの、特にニヤニヤしながら生徒を小馬鹿にする教師の授業は、そんなことに精力を使う教師の授業のレベルが高いわけがないから、主要科目であっても放り投げた。が、西方先生の授業だけは、予習をやって挑み、授業を復習にした。
左に全文を書き写し、初見の英単語を下の欄に書き、右に和訳と下の欄に単語の意味を書いた。それを授業中に添削した。
「さあ、これをどう訳す?」
と先生は問いかけた。
そして僕を指名する。僕が機械的な訳を超えて、工夫した日本語にする。すると先生がそれに意見を言う。僕の意思を感じ取り、優しく丁寧に解説する、最高の授業をしてくれた。

小馬鹿党代表の馬づら先生が授業で説明したことなど、なにも憶えてやいないが、こんなことを何度か言ったのは印象的だった。
「国立なら、全国のどこでもいい。でも、私立なら慶応か早稲田。そのふたつ以外はだめだ、

と、いつも娘には言っている」
と言った。なるほど、そういう見方を世間はしているのか、と思った。確かに年間の授業料が何倍も異なるし、高い金を払ってでも行く価値のある私大は馬づら先生にとってはその二つなのかもしれない。
馬づら先生の受験時代は国立の定員が3万数千人や4万5千人くらいで、ぎゅっと圧縮されているので最上位の大学と最下位の大学の幅は小さかった。70年代の滋賀大学経済学部など、(受験制度や経済学部人気もあって)難易度は早稲田より上にランクされていた。
その時代の国公立と同等の私大となると、いくつかに限られる。惜しくも東大や京大に落ちて行く人のいる私立大学は、それらを除く旧帝大から中位国立くらいの学力者がいるのだろう。また、関西の同志社とはちがい、東京には国公立が少ないので早慶で国公立大4つ分の感覚なのかもしないと思った。
それにしても、「いつも娘に言っている」とはどういうことか? この人は独身だったのではないか。この話をする度に、娘には娘にはと強調する。おそらく、生徒の間で『独身説』が流通しているのを知っていて、払拭しようとしているのだろう。馬づらさんは、
愚かな鬩ぎ合いの渦中にあるのだ。

 

その2につづく