本屋で参考書を買った。学研の模試に対応するために学研の参考書を買った。ところが、その参考書が解らない。ちょっとイラッときた。なにか他にないかと探すと、模試をやっていた学研が添削指導をしている広告を見つけた。
それで母に申し出た。顔をしかめ、そんな金はどこにもない、と言った。勉強してどうにかして大学に行きたいんです、と言った。
すると、暗い顔がもっと暗くなり、片方の眉をゆがめた。そして地獄の底から吐き出すように
「もぉ~、早く働いてぇ~」
と悲痛な声をあげた。僕は黙った。まるで、全てが僕のせいであるように嘆き、悲しみ、うちひしがれ、・・・・。
意志あるところに道はある、と言う。
たしかにそうだ。だが、道を拓こうとするということは、そこには岩もあり砂利もあり倒木や草むらもあるもののようだ。僕の開墾の歴史にいきなり立ちふさがった母の悲嘆。
両親にひとことの苦言も呈したことはない。けれども、あれはなんだったのか? という思いがなかったわけではない。連日連夜、あんなに騒ぎ立て、邪魔をし、挙句に「落ちろ、ああ、落ちろ、おれがなんとかしてやる」と宣言したあれは。
恨む気持ちはしかし、そう長くは続かなかった。不甲斐ない、悲しい、口惜しさ、それらの感情が入り混じった。僕は自転車を漕いで学校に行きながら、時折それらの感情を覚えていた。けれども、ある日を境にキッパリとやめた。
彼らのせいにして僕の人生が好転するわけがないからだった。14、5歳の僕がいかに彼らの悪影響を受けて、その結果がいまの現状だったとしても、彼らのせいにしてこれからの人生をやっていくのは他ならぬ僕自身なのだ。他人のせいにしても、目の前の苦しみを取ってくれる他人はいない。
だが、国立大学進学。それだけは、譲れない。僕は、この高校の名前を自分の最終学歴の欄に付することだけはしないと心に誓った。
暗い顔を歪ませている母に言った。
「わかった」
次の日、さっそく僕は奨学金の申請方法を調べた。
☆
伝習館の横には川が流れていた。この学校は、例の伝習館闘争が有名で、地区ナンバーワンの進学実績を誇っていた。
東大京大には1年おき、平均すると九大に15人熊大に20人ほどの合格者を出していた。
蔦の絡まる重鎮なデザインの校舎と自由闊達、バンカラな雰囲気を帯びている伝統校。この学校に落ちて来た者には、見るのも耐えられないものだったかもしれない。学校の真横には、緑色に錆びた欄干の丸い古風な橋がかけてあり、その下を川下りの小舟が通った。この高校の周辺には、何軒も本屋が集まっていた。映画小屋もいくつかあり、文教地区だったのだろう。
すぐ隣にある書店に入った。小説を探すためだ。
「なにがおもしろいですか?」レジには高校を出たばかりの女のひとがいた。どういうきっかけか忘れたが僕はそのひとと話す内にそんな質問をした。
「五木寛之の『青春の門』がおもしろい」
遠い目をしてその魅力について語った。そうかい、と思い、シリーズ一冊目の『筑豊編』から読み始めた。
『自立編』『放浪編』と読み進むうちに僕はイライラしてきた。なんだ、こいつはちっとも答えを出さないじゃないか、と思ったのだ。そして『堕落編』を読んだあと、ついに放り投げた。
五木さんは、あれだけの字数をかけて、またそのことをひとことも言わず、人生の答えはどんどん変わっていくものだよと、伝えていたのに。それがまさに人生の探索だ、と。一切放擲、覚悟、人の百万倍の勉学・・・。それらは、にじみ出ているだけで、口にはしない。そこが、彼の小説の賢明なところであり、狡いところでもある。
僕が好きだったのは、堀辰雄だった。何十回も読み直したのは『麦藁帽子』で、その情景描写や少年の思いが痛いほど切なかった。恍惚とした気持ちで小説を読めるのは、あの時期だけかもしれない。しかしいま思えば、易いセンチメンタリズムを投影していただけかもしれない。
(ほほう。小説とは、要するに作者の信念や認識について書かれた物か)
いろんな小説を読む内に、僕はそういう結論に達した。科学的確証を得るのでなく、腑に落ちる見方や共感されうる感情を書いていると言ってもいい。自分の現在の到達地点を表していると言ってもいい。
僕はこの頃に、月に数冊、必ず本を読むと決めた。16歳だった。
そのきっかけを与えてくれたのは、中学の同級生だった。宿久という珍しい名前だったから、よく憶えている。同じクラスになったこともなく、宿久とは中学時代、一度しか話したことがないし、特に何かに秀でてもいない凡庸な生徒の一人に過ぎなかった。
名前を憶えたのは、校内放送でだった。父親の訃報をしらせる放送が流れたからだ。中学時代に父親を亡くしたのは、彼ともう一人、女子生徒がいた。そのこの名前も憶えている。その彼と羽犬塚駅前商店街の本屋でたまたま出くわした。
彼は、決して勉学の才のある生徒ではなかったかもしれない。しかし父親の死を境に急に勉強魔に変身し、塾に通い始め、そのクラスを通りかかると廊下からいつも机について本を読んでいる姿を見ることができた。
2年生のある日、何かの予定が変更になったのか、前触れもなく急に学年の全クラスが自習となった。その日も、他の生徒がハメをはずしてワイワイ騒いでいる中、ひとり机について何かやっているのが目に止まった。
なにをしているのか?
と問うと、『数学パズル』だったか『頭脳トレーニング』だったか、学習参考書とはちがう、ごまブックスだのブルーバックスだのカッパブックスだの、ちょっとお遊びっぽいにおいのする出版社の本の表紙を見せた。
するとそこに後ろの方ではしゃいでいた生徒が一人、旋回する飛行機のように走ってやってきた。
「こいつ、おやじの保険金がおりたから、その金で勉強してるんだぜ」
ニヤけづらで言うと、また教室の後ろの方に走って行った。宿久は、チっと舌打ちしながら見やった。亡くなった父親を偲んでいる時期にずいぶんあけすけなことを言うものだと思った。僕には、彼が父の死に際し母を助けるべく奮起したのだと思えていた。
どうしてそんなのをやっているのかと尋ねた。
「数学は頭が悪くても、やればできるようになるから」
と宿久が説明していたとき、またさっきの生徒がやってきて、
「こいつ、勉強やってもぜんぜん点数が取れないんだ。無駄無駄」
と言って走って行った。
たしかにその時点では努力の割には成績は良くなかったのかもしれない。が、その後、学年学期が進むにつれ、だんだん上位にくいこんでいったにちがいない。当然そんな彼はお高くとまっているといって嫌われ、足を引っ張られていたのだが、志望の高校にも合格し、国立大学を目指しているという噂もあった。
彼が数学に重点を置いていたわけは、その教科は頭が悪くてもやればできるようになる、と信じていたからだった。おそらくは受験のよく解った人のアドバイスがあったのだろうと思った。教科書や問題集でなく、学参出版社とは異質の『数学パズル』などで頭を鍛えているところからして、その時点ですでに、彼が見ていたのは公立高校の入試でなく、本物の『数学力』だったのだ。
駅前の『あべ書店』に僕はGOROという雑誌を買いに立ち寄った。そこに彼がいた。もはや仕方ないとあきらめながらも、心配と好奇でじろじろ監視している母の目に疎ましさを感じていた。僕はその雑誌のグラビアにでなく、夢枕獏の小説や丸山健二のエッセイが目当てだったのに。(川島なお美はかわいいと思ったが)
その本屋では、八女高校の生徒がカップルでいることがあり、彼らは互いに敬語で話しかけていたりして、僕は新鮮でかつ羨ましく、また自分の不遇を呪った。僕の高校には、男子は3年間、全員丸刈りという首狩り族並の風習が残っており、久留米、大牟田、小郡、福岡、北九州まで広げても、周辺の高校でこれが徹底していたのは、あの学校だけで、劣等生の烙印のようになっていた。そして僕はそれが女の子とつき合えない原因だと思いこんでいた。劣等感は、自意識のコントロールがきかなくなると陥るところらしいと気づくまでにすいぶん時間がかかった。
「よお」
と僕は気安く彼に声をかけた。すると彼は、ふっと鼻で笑った。なんだ、お前か、と言ったように見えた。自分一人が勉強を励んでいるという自負を持っていたのか、それを否定されることを警戒していたのか、彼は誰にでも蔑んだような目つきと冷ややかな笑みを浮かべてみせる。だが、この時の僕は自分の劣等感から、敗北者への勝ち誇りだと見て取ったかもしれない。お前なんか、相手にしていない。そういう一線引いたような素振りのように思えた。しかしいつものように、感情を殺した。それは、内心、彼に敬意を抱いていたからでもあった。
「なにしてる?」
と彼は聞いてきた。雑誌を探している、と僕は答えて彼の手許を見た。そこには薄いちいさな本が紙のカバーをかけられ握られていた。
「それはなんだ?」
「文庫本。小説」
彼はカバーを剥いで題名を見せることはなかった。けれども、トランプをなぶるようにぱらぱらっとめくってみせた。彼の居たのは、岩波文庫の本棚の前だった。
「これなら、読みやすいだろう。難しいけど、短いと思えば読破できるしな。いつも何かこういうレベルの物を読んでないと、頭がなまってしまうんだ。国語の勉強にもなるけど、数学や理科にも思考力がなければならないし、理系のおれでも読んで損はないしな」
感情を押し殺すのが日常化していたので、これを聞いた僕は愕然としたり感銘を受けた自覚はなかった。けれども、うすうす感じていた自分の不足していることが明らかになったように思えた。思えば、僕の家には気の利いた本が一冊もない。両親はいっさい読まないし、小学生の頃まで読んでいた僕も、いつしか読まなくなっていた。
父はいつも「本なんか読んだって、どうにもならない。すぐに忘れてしまう。第一、書いてあることは全部知っていることばかりだ。あれは頭の固いヤツが読むもんだし、生活の役にも立たない。売れてるからってつられて買っても、どうせ読まないからな。それに勉強する奴等は悪いことばかりする」と理屈をつけていた。
このひとたちと決別するには、このひとたちのやらないことをやらなければならない、と僕は思った。その日から本を読みだした。後日、僕は彼の持っていた本と同じ厚さの本を柳川の書店で見つけた。それは確か『ろまん灯篭』という本だった。それを機に僕は太宰の本をたてつづけに読んだ。けれども、当時の僕にはただ鬱屈した暗さやひたむきな自己否定が漂ってくるばかりで、その奥底に彼の伝えていた思想や感情はまったく見えていなかった。そして、『斜陽』も『人間失格』も知らず、この時期に読んでいればピッタリだったはずの『パンドラの匣』と『正義と微笑』には至らずじまいだった。
宿久が『カワイのグリーンコース』に通っているという話は、誰に聞いたか忘れたけれど知っていた。
なんの用事でか、たしか日曜日、僕は久留米行きの西鉄バスに乗った。宿久が乗っていた。彼は僕の顔を見るや、例のあざけりの笑みを浮かべた。それに呼応せず、横に座った。一番後ろの広い席だった。
聞けば、河合塾に行く途中であるという。おそらく、西鉄久留米から終点の薬院駅まで電車に乗るつもりなのだろう。
福岡市。そこは僕にとって未知の領域だった。それにしても、高校1年生の内から予備校はピンとこなかった。浪人した人の行くところだと思い込んでいた。
「あいつ、グリーンコースに行っているくせに、成績は下の方で、ぜんぜん伸びないんだぜ」
僕に宿久の予備校通いを伝えた者は鼻で笑っていた。
「高校での成績はどんなもんなの?」
と僕は宿久にたずねた。自分の落ちた高校に行った者がどうなったのか興味があったからだ。
「百番くらい」
と言った。
「そうか」
400人くらいいて100番なら、そう悪い方でもないのかな、と思った。
「そっちは?」
と聞き返してきた。
「おれも、おんなじ。中学の時と同じで100番くらいだ」
自分の通う高校はそのくらいの程度の学校だ、と言ったつもりだった。すると宿久はまた嘲りの笑みを浮かべた。中学の時の100番は、自分より下。今の100番は、高校のレベルが違うから比べられない。そんな嘲り具合だった。彼がそう取ったことは分かったけれど、黙っていた。
中学時100番というのは、2年生から全く勉強しなくなり授業しか聴いていなかった僕は、定期考査はそれでもクラスで3番だの7番だの持ちこたえていたけれども実力テストではからっきしで、特に3年生の受験前になるとズルズル順位を下げていき、そのワーストレコードだった。
高校時100番は、4月25日に受けた校内実力テストが100位/392人中で、その結果しか知らない時だったからだ。その次の6月21日実施分が54位/386人中となっているので、この時の会話は5月か6月ごろと推測される。
いずれにせよ、僕の学校でこんな順位なのは大学受験において屁みたいなもので、宿久の学校に行けばビリっ穴は確実で、2位に3センチくらい差をつけてやっと宿久の高校の上位層に入れるかどうかというところだ。
宿久は中学時代、クラスで1番だったとか学年で1桁に入ったなどと名前のあがらなかったところから察するに、45番くらいだったのではないか。それが高校でも100位くらいなのに、本気で難関を目指しているものだから、意気込みとのギャップによる空回りが痛々しく滑稽で、周囲の失笑を買っていたのだろう。
宿久がどこを目指しているのかは聞かなかったし、興味もなかった。だが、母親に楽させたい、あるいは父の遺志を引き継ぎたいと思っていた彼は九州最難関を見据えていたのにちがいない。
卒業文集に彼はこう記していた。
義務教育も終わり、これからほんとうの勉強が始まる。
「人定勝天」、決意して一生懸命やれば、どんな困難にもうちかているのだという。この言葉を忘れずに、悔いのない青春時代を、過ごしたいと思う。
すでに中学卒業時には彼の腹は定まっていたのだ。
僕は六反畑バス停で降りた。
歩きながら僕は考えた。僕たちの卒業した中学には1学年が450名ほどいて、そこからだいたい70人かそこら宿久の高校に進学する。それなりの国立大学に入るつもりなら、20位以内。
宿久の高校では九大に現浪合わせて10人ほどしか通らないので、5位以内でなければならなかった。そこで宿久は100位。それをクラスメイトはバカにしていたが、彼の中では必ずやり遂げるのだという決意が煮えたぎっていたのだろう。めらめらと燃えさかる炎が赤や青や、時には緑の色をなして表現されていた。なんでもかんでも薪として火にくべ、自分を焚きつけていた。
彼の嘲り笑いは、必死さの現れであるように思って、嫌な気はしなかった。のほほんとしているように見えただろう僕を笑うのは、その時の彼にとって当然だった。
別の高校に行ったにもかかわらず、偶然に何度か出くわし、短くはあったが会話を交わした。
この数回の偶然の交叉が僕に与えた影響は計り知れない。
3年後、宿久を笑っていた連中は、何回聞いても憶えられない名前の大学に吹き溜まっていった。執念がI.Qをひっくり返したのだった。
☆
奈緒子は3年間、15回ほど実施された校内実力テストで一度の例外を除いて、ずっと1番だった。しかもいつも90点以上の平均点を取っていた。
僕が1、2年の頃、19点だの22点だの取っていた英語の試験や11点、15点、16点、19点だった数学の試験でも、常に90点以上をマークしていた。どのような勉強をすれば、そんな点数が取れるのか、不思議だった。僕らの知らない虎の巻でももらっているのではないかとさえ思ったほど、圧倒的な得点力だった。
2年生になって1組から転落してきた生徒の話では、どうやら特待生の条件として、校内実力テストで1番であることが義務付けられているようだった。それはキツいことだと思った。
中学2年3年の時は同じクラスではなかったが、その2年間で努力したのだ。大きく差がついていたことを思い知らされた。
廊下で出くわした時に、
「どうしてこの学校に?」
とたずねた。
訥々と話す奈緒子の言葉の切れ端から、どうやらこういうことらしかった。
この学校の入試が終わったあと学校側のアプローチがあり、公立を受けるか受けないか、入学するか辞退するか悩んだ末、提示された条件を呑んだ。
『私は今、人生の岐路に立っている』
あの卒業文集の意味は、そういうことだったのか、と思った。奈緒子と宿久の境遇は似ていた。
僕は、ひとまず、奈緒子を抜くのを目標にした。
しばらくすると母が、
「近くの農協でアルバイトがあるらしいよ」
と言った。
夏休みに朝早くから選果場に出かけた。七月下旬から八月の初旬まで梨の等級分けをするのだ。自転車をこいで通った。早朝の太陽の眩しさは印象的だったけれど、この夏の暑い記憶はない。石川優子とチャゲの『ふたりの愛ランド』はヒットしていたけれど、涼しかった。
ここでわずかな小銭を稼いだことで余裕ができた。買いたいと思った参考書や問題集を手に入れられたからだ。
それ以上に僕にとって幸運だったのは、僕の落ちた八女高校の卒業生が来ていたことだった。長岡技術科学大学とか豊橋技術大学とか、そのあたりに行っていて、夏休みに地元に戻りここでアルバイトをしていたのだった。そこで勉強の仕方や心構えなどを聞いた。
夏休みのあいだ、希望者には補習授業があった。僕は1年の時だけは、何度か出たことがある。閑散とした学校の校舎に出入りするのは気が楽だった。風紀の教師がいないのは心が晴れやかだった。行き帰りをしている時、僕はあることを思いついた。
ウオークマンは、どこの電気店を回っても売っていなかった。西鉄駅前のベスト電器に注文を入れたがいつまで待っても来ない。業を煮やした僕は桑田佳祐の宣伝していたワールドウエイを買った。それも、最も不人気の青色のだった。
それに旺文社のラジオ講座、英語のテキスト読み上げをカセットテープに録音して聴いた。
ヘッドホンは中学3年の時に新聞配達をやった時のお金で買っていたものだ。それの残りと今回のバイト料の一部を足して買ったのだった。
いつしか歌謡曲を入れて聴くようになった。行き帰りに自転車をこぎながら、伊藤さやか。僕は『陽当たり良好』をテレビで観たことがなかったし、かのじょがアイドルチックに歌った曲は知らなかったけれど、ロックに振ってから聴くようになった。
伊藤さやかが歌う不良は、彼女自身のイメージの破壊だったかもしれないけれど、中学から高校にかけて僕らの世代が抱いていたブロークンな気分を表していたと思う。けれどだからといって僕は尾崎豊は聴かなかった。
☆
両親の傘に入っている年齢の僕には、明確に意図したのではなかったが、あんな形でしか改善の緒につけることはできなかった。
母は父の代わりに矛先をこちらに向けてきた。僕の不合格のせいで何もかもうまくいかなくなったと言わんばかりに悪者扱いしてきた。父も同様だった。あの啖呵はなんだったのか?
僕は数回、柱や壁を介して家全体に振動を与えた。父はこんなことをしても、なにもならないと言った。金がかかるだけだと。
だが、お陰で二人の妙な面当てはおさまった。
自業自得。不勉強だった上にヤケを起こしたのは他ならぬ僕だ。早晩、僕はこうさとるしかなかった。そうでなかったら、これからの人生、今の自分がこんなに恵まれないのは、ぜんぶ両親のせいです、とでもプラカードに書いていつも掲げて歩くつもりか?
たとえそれが事実だったとしても、他人のせいにしたところで僕の人生が上向きなることはない。
親のせいだ!
そんな子供じみた思いをいつまでもひきずって歩くのか。
両親がどうであろうがこうであろうが、僕が僕の状況を作り出した。ともかくこう見なさなければ、僕は変われなかった。
僕自身が変わらなければ、少なくとも勉強のできる状態にならないかぎり、学校を替えられないし替わったとしても、おおきく違わないのではないか。そう思った。
学校の規則、世間の目、周囲の程度、すさんだ家庭、学力・・・。どれをとっても満足のいくものではなかった。このまま行けば、僕の将来は暗い。やりたくもないことをやらされ、それなのに安月給で世間の目も冷たい。
僕の置かれた状況の中で、独力でなんとかできるものと言えば、
勉強
それ以外にここから抜け出す方法はなかった。スポーツもできない。芸術もわからない。音楽など不快な雑音しか出せない。
涙が出てきた。
最もやりたくない、矛盾だらけの、不公平で不平等で、無駄な、生活の役に立たない・・・勉強。
それしか道がないとは。
こんな、世間では当たり前の結論に達しただけなんて。僕はなんて無知だったのだろう、と思った。
けれども、受験勉強を学門の一端と位置づけた。受験勉強を受験勉強に終わらせない。そこは意地だ。受験のための受験勉強だけはするまいと思った。
のぼりくだり片道1時間半くらい自転車をこぐだけでへとへとになる通学に慣れるのにそれなりの期間を要してしまった。
僕が勉強を本気でやろうと決意し、実際に机に向かい始めたのは、秋になってからだった。





