白秋、川下り、船頭、うなぎの蒲焼、城下町。どこもかしこも情緒豊かな街だった。ーー僕の気分を除いては。4月からのひとつき間、学校で見るもの聞くもの、どれもが目を見張るようなことばかりで、陰鬱な気分だった。

 

さすがに両親の喧嘩はおさまった。

中卒の彼らにとって、長男の高校受験が無知の不安をかきたてはしたのだろう。が、子供の教育のためと銘打てば、どんな破廉恥な振る舞いでも正当化できるのだ。あまりに熱心なので周りが見えなくなっていたのだろう。すべての物事を深刻に捉える癖が彼らにはあった。週刊誌に取り沙汰されるレベルの地獄絵巻の合作に筆を揮っていた。中3の末期ごろ、僕は自分の家から10キロくらい離れた所に住んでいた同級生の家庭の惨状を耳にした。

あれで、高校に合格していたら、この人たちは図に乗って何も学ばなかったにちがいない。と僕は思った。あいかわらず暗い雰囲気は漂っていたが、とりあえず日課の夫婦喧嘩はなくなった。

思い起こせば、僕が5歳くらいの時に始まり中三の冬に猖獗を極めた両親の喧嘩は、僕の高校不合格をもって幕を閉じたのだった。ある種の起爆剤、変革の契機にはなっていたのだろう。

ところが、僕自身は返り血を浴びる結果となった。気落ちした母は、制服や制帽をそろえたり柔道着や辞書や教科書と出費がかさむ度に、カネがかかるカネがかかると暗い顔で嘆いた。落第した学校の経費は高く見えるものらしい。

だれのせいで?

そう問い詰めたい気分がなかったわけではなかった。なんどかノートにその気持ちをぶつけた。

父は、宗教を毛嫌いしていたが、僕が高校に落ちてからは「早く働け。早く親に楽をさせろ。早く恩返ししろ。一生、恩を返していくのが善い生き方だ」と陰鬱な顔をしてまるで宗教団体の教祖ばりのことを言った。

そして、高校生活という地獄の日々。不条理な規則と押し付け。周囲からの白眼視、バカ呼ばわり、底辺低脳、薄弱脆弱虚弱。魯鈍痴愚白痴。ばかあほチンドン、ポンキンカン。僕はもう先の見えない洞窟の中にでも迷い込んだような気分になった。

 

『試験に落ちるだけならまだしも、自分を落すと、それに見合った場所にいる、それに見合った人と合流し、絡み合ってしまう』

と、平成になってから、ふと書き留めておこうと思って書いた小説の1ページの第1行にはそうある。確かにそれが、高校時代から十余年の、僕の抵抗や逃避や挑戦のすべてだった。

『この学校は、最低の信念を基本だと言いくるめて食わせようとする、最低のところだ』

 

落ちてこの高校に入った僕たちは、人生の最初の社会的選別によって『ギリギリ規格品』に振り分けられていたのだった。

しかしその実感は、しばらくのあいだ僕にはなかった。この境遇は両親によって造られたものだ、という確固とした理由があったからだ。

だが、もちろん他人はそうは見ない。だんだん街のひとたちがこの学校についてどのような眼をしているかに気づいてきた。

テニスや野球が全国レベルで強かったから、遠くに行くほど評価が高くなったが、地元では最悪だった。ほとんど明らさまに、2、3級下等な人間として扱われた。袖に白線のある制服を見ただけでは、普通科の生徒なのか商業科の生徒なのか区別がつかないし、それなりに品行方正な普通科の生徒でも大学進学実績を見れば、カスの集まりでしかなかった。白眼視や嘲笑、呆れを通り越して憐れみさえ向けられている。

この高校が常識として持っている考え方とその担い手である教師のレベルの低さに愕然とした。風紀教師が岡っ引きみたいに学校中を行脚していた。まるで吠え盛る番犬だった。間違いだろうが効果がなかろうが、学校の方針をガミガミ押し付けた。それが、独裁体制を誇る私学の支配だった。その頂点に君臨しているのが、ハジメだった。

ハジメは恐ろしく自己顕示欲の強い男で、生きている内から自分の銅像をこさえて正門の前に設置していた。また、2年生になってすぐだったか、ハードカバー、ケース入りの自叙伝を全校生徒に配ったものだ。

 

『入学と同時に、われわれは禁止事項を守る誓約書にサインさせられ、囚人となった』

と小説はつづく。

『予め誰が罪を犯すか知れない。だから、全員を初めから罪人と見なし、罰を与えた状態にしておこうというのだ。その禁止というのが、ヘルメットを着用しないバイクの運転は禁止とか、風邪をひいたときに無理して登校するのが禁止なら、わかる。百歩譲って、たとえどんなに破廉恥なユニホームであっても、寝るときまで着るのではないから、認めよう。

だが、この学校には男子は全員丸刈り、すなわち1センチ以上頭髪を伸ばすのを禁止するという項目があった。それがルールだ、それに従わなければ入学を許可しないと言う。

たった、その規則を守らせるために何人もの風紀係の教師が雇われていて、ハンターみたいに目を光らせていた。おれたちは、あわれな羊そのものだ。風紀教師が指をはさみ入れ、彼の指の高さからはみ出したら即、無料でバリカンを当てられた。そうして、校則について少しでも疑問を持てば、

「入学する前から分かり切っていたはずじゃないか、それに誓約書にもサインしただろう、イヤなら辞めろ」と言った。「お前らなんか、来ていただかなくて結構!

学校の至る所で、罵声が聞こえていた』

 

この学校を語るには、ハジメという名のこの校長のことから話を始めなければならない。ハジメは、生徒を痛めつけることに命をかけていた。不条理で踏みつけなければ、人間は育たないと確信していたからだ。けれどそれは、人を逞しくするどころか、イジメ苦自殺をした少年の親が非暴力を訴えるれば訴えるほど、被害者意識の強い少年の無抵抗と服従に拍車をかけているのと同じで、教育の名を付けさえすれば暴力や命令や嘲笑でひとを踏みつけにする権利があると信じる者を励ましているだけではないかと思う。

 

ハジメの自叙伝にこんなエピソードがある。

『ある年の入学式。新入生はこの校則に合点がいかぬふうだった。1人の新入生が追いかけてきてハジメに言った。

「校長先生、どうして長髪はいけないんですか?」

ハジメは足を止めて振り向くと「学則である」と答えた。

新入生は再び「どうしてですか」と尋ねた。

「規則を守れない者は入学してくる必要はない」

「・・・」

新入生は黙ってしまった。

ハジメの、教育に対する厳しさの一例である

 

執筆したライターは共感していたのだろうか? 新入生が唖然として呆れたのは解る。だから、どうしてそんな規則があるのか? なんのためにそんな規則があるのかと問うているのがハジメには理解できなかったのだ

昔からそうだったから慣行に倣いそうしていただけなのに、時代の変化に追いつけず、規則を変える機会を逃しただけのくせに、教育に対する厳しさとは。頭の悪い男の言い逃れをさもご大層なことのように書かせてある。

理由はどうでもいい。とにかくルールは守る。守らなければ罰を与える。機能的でもない不合理なことでも決められていれば遵守させる。これぞ、奴隷教育の最たるものだ。人間から洞察力を奪う効果的な手段である。

 

こんな愚かなことを言っていて関大の法学部を首席で出ているのだそうな。ハジメが馬鹿なのか、それとも関大が馬鹿なのか。

問答無用で守らせるそんなに素晴らしい規則なら、未来永劫やり続ければよかったではないか。代がかわってさっさと変わったのなら、「学則である」とやらはハジメの気分に過ぎなかったことが知れるというものだ。

こいつは、勉強しすぎて試験日に倒れて旧制山口高校を受けられなかっただの、父親の反対で京大に行けなかっただの書いているが、関大の予科には父親に無断で入ったのに「京大に行くな」は従順に聞くなど、どうやら己の不埒を周囲のせいにする時化た野郎のようだ。結局、たいした志もなく、また自己マネジメントもろくにできなかった愚鈍な輩なのではないか。威張るところから観ても、その見立てに大きな狂いはないだろう。

 

『そんな学校が、卒業して幾年かしたとき、経営危機になったから寄付金をください、と言ってきた。冗談ぬかすな、とおれは思いたかった。ゴールデンセブンが終わることなど、前から分かり切っていたはずじゃないか、と。けれど、その時にはすでに初代より良くできた2代目の校長になっていたので、忍びないと思った。

2代目は校長になる前から気さくに生徒の中に入ってきて人類創世などの興味深い話をしていたし、第一にハジメの牙城である丸刈りに反対していた。もちろん、「息子は人気取りのために生徒に迎合している」とハジメが言わないわけはなかった。

高校入試が近づくころには決まって、もうすぐ頭髪に関する規則が変わるらしいという噂が流れるのは、どういうわけなのか。高校入試課の教職員は、そうやって嘘までついて生徒を釣っていたのだろう。

ルールというのは、誰がなんと言おうが思おうが、邪魔をしようが、そのように働くものであって、地域や時代によって、あるいは、季節によってコロコロ変わったりしない。ましてや、押しつけなければならないことなど、その名に値しない』

 

『目的も知らせないままにルールを守る訓練をするのは、いったい社会人となる基本なのか。そして善い行いをしなかった者に罰を与えるのは、善い行いをする変化をうながすのか。強制しなければならないヤツが1人でもいると、他の者まで一律に巻き添えを食うなどといって、そういった最低の信念を擁護する者は、お高くとまったメス狐だ。だいいち、彼らが押しつけているのは、ルールではなく、手段にすぎないではないか。校長の価値観と傲慢さを守るための。

こんなことを思う俺を、甘えた青二才の正義漢と呼んで、あざ笑ってもかまわない。だが、おれたちは、誰か他人の規則に従うために生きているのではないではないか。規則との葛藤の中で、自由な自己選択をするために生きているのだ。集団の名誉のために個人を踏みにじれば、かえって集団に傷がつくことになぜ気がつかないか。

罰を与えて禁止事項を守らせるなど、まったく人間の恥部と呼ぶべき、最低の精神活動だ。規律正しい大人の嫌う、無軌道さや怠惰さが目を開かせないのと同じで、禁止もまた人の目をふさぐ。それどころか、ルールを押しつければ、いつまでも幼稚な所にしがみつかせておくだけだ。そんなやり方に、教育という名前はふさわしくない』

 

中学までとちがって、言葉のオブラートにくるむこともなく、ハジメは現実の厳しさという名目を与えてそれらをあからさまにさらけだしていた。

森繁久彌のモノマネみたいな顔で教育者づらして威張り腐っている。

 

『生きている内から、ハジメは己の銅像を建てていやがった。そいつは、校門のすぐ傍にある庭園の芝生に、校舎を背に外を向いておっ立っていた。口を片側にゆがめ、あごをしゃくりあげ、目をひん剥いて睨んでやがる

子供の左利きは、右利きに直すのが親の勤めだと信じている勘違いした親が数多くいて、わけても創立者のハジメを尊敬しているのでもないけど、手を焼くわが子の躾をさせるのにハジメの学校を下請けにしていただけなのに、その繁盛ぶりに気を良くしたのか、すっかり自分が偉大な人物だとのぼせてしまったにちがいない。

掃除の時間になると、やけに可愛い商業科の女生徒が数人、いつも銅像のまわりにいるから、どういうわけだろうと思っていると、ハジメが気に入った女の子をみつくろってやらせていたという、もっぱらの噂だった

ハジメ像は、人の背丈ほどのバカでかい赤い大理石の土台に取り付けた、おっそろしく高慢な半身像だったから、頭や肩についた鳩の糞だけは掃除のしようがなかった。彼女たちは、自分たちがそんな名誉な仕事を仰せつかっている腹いせに、雨が降ってハジメ像の顔面に垂れてくる白い筋を見ると指をさして笑っていた』

 

 

『この校長をおれは生で一度っきり見たことがない。卒業式はおろか、入学式にも出てこないのだ。

どんな野郎か見てやろうと、1年の時になんどか校長室近辺をうろついたことがある。いつも金属製の重々しい扉で閉ざされていた。あるとき、どういうわけか、そいつが全開していた。さりげなく中をのぞいてみると、眼前に、窓ひとつない広大な空間が拡がった。おれたちの教室の倍はあったろう。そしてピンポンのできそうなほど大きくて厳つい机が奥にでんと座り、その背後には、なんと書いてあるのか判明しない、草書体の言葉が額に入れて掲げてあった。机から見下ろす位置には、総天然皮革のテカテカした茶色の来客用ソファーがずらっと並び、ここはどこの組の総長室かと思わせた。

けれど、あいにく校長は不在だった。しかたがないので周囲を探索すると、このだだっぴろい校長室のまん前には講師室があることがわかった。他校を定年退職して講師として雇われたベテラン教員の部屋だ。そっと覗くと、そこには無数の虫食い穴のあるすり切れて地肌の出た古い机が所狭しと並んでいて、十数人の講師がすし詰めになっていた。

それから何度も校長室の近くを歩いたが、やはりハジメを見ることはできなかった。そんなある日、なんの前触れもなく1冊の本が配られた。ちょうど創立何周年だかが、おれたちの在籍している時に重なったのだ。センチメンタルな題字を彫り込んだ、頑丈な外箱に収められた分厚い本で、御丁寧にパラフィン紙にくるまれていた。どうやら校長の自伝のようだ。その第1ページにあった、薄い不織布に保護されたハジメの写真をおがんだのが、顔を見た最初で最後だった。

あの学校がしばらくの間、甲子園に出た時も1校だけ目立って長髪だったのが、2代目校長の反骨精神だけでなく、それまでの抑圧がいかにひどかったかを物語っていると思ってテレビをみていたのはおれだけだろうか』

 

『卒業してすぐに、ハジメは死んだ。おれたちが嫌悪していた禁止事項のほとんどを2代目はなくしたそうだ。その中でも1番の功績は、ハジメが死んで四十九日も経たない内に、あの銅像を引き倒して処分してしまったことだ。このことを聞いた時には痛快だった。

だが、ハジメの存命中だったおれたちのころには、問答無用の遵守主義がまかり通っていた。ところがだ、十円玉以上の面積を有するハゲが頭部にある場合は、それが隠れるくらいに髪を伸ばしてよい、という例外があった。ハジメが、自分の十円ハゲをからかわれた苦い思い出を持っていたからだそうだ。なんでも手前勝手なやつだ。

 

1年の終わりごろに、どういうわけだか、つむじから左3センチばかりの所に、直径2センチほどの大きさのデキモノができた。そいつは紡錘形をしていて1センチくらい隆起している上に、周囲の髪の毛を蝕む力を持っていたようだ、合わせ鏡で見ると、ちょうど濁ったマナコのような形をしていた。

おい

風紀教師が、廊下でおれを呼び止めて詰問した。「なぜ、髪を切らないんだ?!」

おれは、ふん、と頭を傾けて見せた。彼は、絶句した。おれのデキモノは、上から覗き込む者を憎悪の眼差しで睨み返していた。こいつのお陰で、おれは不条理な規則にムカつかないですむ程度に、髪の毛を伸ばしても無罪放免ということになった』

 

 

落ちる人のいない高校は、合格したとは言えない。不合格者のいない学校に入るのは、なんと表現したらよいのだろう。非不合格

まさに滑り止め。どんな生徒でも受け入れる包容力のある学校。であるからこそ、窮屈な規則で縛りつけたがる。商業科には、入学式の次の日に中学のノリそのままに赤シャツを来て登校してきた『ツッパリ』が何人かいた。彼らは即日退学になった。

普通科の生徒は各学区の公立高校を不合格になった生徒が集まっていた。

 

けれど、そこでさえ僕には厚い壁があった。

 

1年生のクラスは、3組だった。これは、実際に入学した生徒を入学試験の得点順に並べて編成されているらしいことが教師の口ぶりから分かった。つまり、50位までが1組、51から100位までが2組と割り振られ、僕は3組だった。ということは、入試の得点は入学者の内で100から150位の間だったいうことになる。

おそらくはその学区トップではあったろうが、各学区の公立高校を不合格の生徒の中でこの順位だったということだ。

実のところ、誰もが、ならば自分はこの学校では一番だ、と思って入学していた。実際、そう口にする者もあった。

なのに、この順位かよ

とぼやいたのは桐川だった。「これじゃ、ニワトリのシッポだよ」

中3のときの担任だった緑先生は「利口は死ぬほど努力して、あえて牛後になりなさい」と言っていたが、僕たちは鶏口にさえなれなかったのだった。

 

1組は特進クラスということになっていて、中には『特待生』も数人含まれているということだった。特待生は、

「高校の授業料が免除で、どこでもいいから現役で国立大学に合格すれば、入学金と4年間の授業料を高校が払う」

のだと社会の教師が言った。

 

担任の先生は、鬼崎とおっしゃったが、さっそく『軍事先生』とあだ名がついた。

「どうして?」

と命名者の長渕に尋ねると、

「戦争に行っていたんだろ」

と答えた。鬼崎先生の話を要約すると、ーー英語を担当されていたが、神風特別攻撃に参加するべく大刀洗の飛行場に待機していたら戦争が終わった。終わったあとに敵国語を使って通訳などしていたのが苦しくて仕方なかった。戦友が殺されたというのに。

そんな思いを秘めながら英語を教えられていた。小柄で大きなメガネをかけておられた。そして、生徒が不意のことを答えたりすると、なにぃ~と顔を赤くした。内に燃やす怒りというか、その前に何が彼の逆鱗に触れたのか分からなかった。

昭和59年にはまだ終戦のときにハタチ前後だった世代が現役で働いていたのだ。

 

両親2人共が自分は駄目な人間だと思い込み、なんでも他人のせい、他人に依存するべきだ、と考えている。女だから難しいことを考える必要はない。何かすることも必要はない。重要なことはすべて男がやるべきだ

自分は男だが耳が不自由だから何もできない。学歴がないから何をやっても無駄だ。だから、かわりに女がやれ

互いを非難し、恨み憎み、優越し卑下する。ありとあらゆる底辺の精神。その対幻想がつくりだしている家庭の雰囲気がどれだけ暗く、冷たく、臭く、淀んでいるか、想像できるだろうか。周囲より100万カンデラほど暗くなったような空間。ゆらーっと幽霊のように歩き、ぼぉーっとした亡霊のような不明瞭な意識。

勝手に妄想した心配と不安を今すぐに他人に解決してもらいたい。それをしてくれるのが夫だ、とばっかりに寄りかかる。そしてまた夫の方も「おれがバカになって済むなら、バカになっておこう」となんの解決にならぬ義精神を発動し、ダラダラダラダラ口論しつづける。

いつも不快で胸をかきむしるような切迫した焦り。笑いなど1つもない。あっても、あざけり笑いだけという有様。父は「あいつのせいで家庭がめちゃくちゃになった。暗い」と不平を口にし、母は「性格が暗い。男のくせになにもできない」と愚痴る。

 

いったい、なんにんの人に「君は早く家を出るべきだ」と促されたことか。

 

高校を辞める? それをしてどうする。筑後一円の私立高校を見渡すと、似たり寄ったり、そこに移ったとしても大差なのではないかと思えた。では、公立高校を再受験するか。大学受験の浪人はともかく、高校の1年遅れは大きい。

 

そんなことを思っていた時、僕は不思議なものを見た。

いるのだ。

ある朝、自転車で校門をくぐろうとした時、見覚えのある後ろ姿があった。ゆっくり横を通り過ぎながら目を向ける。

「ここ?」

と僕は聞いた。歩きながら、

「うん」

と答える。

こいつもどこかに落ちたのか、と思った。

「ーーとくたいで」

言葉少なに説明する。そうか、と思いながら僕は再び自転車を漕ぎ始める。

 

 

3しかくれない人からは、3。百持っている人からは百、学ぶ。3と百と比べて3の人を責めるな。また、百の人に依存するな。

遠い以前、まだティーン・エイジャーになる前、僕の中にはそういう素直さがあった。だが、この学校に来て、3しかくれない人は僕から97を奪い、百持っている人からは2百学べることを知った。

 

教壇に立った西方先生が授業を始める前に僕らの方を見た。

「みなさんは、公立学校に不合格で自分はダメだと自信をなくしているかもしれないが」

と話を始めた。

この先生は、西南大学の神学部を出ていた。白髪でメガネをかけられ、本当に敬虔な牧師か神父のような風貌をされていた。英語が担当で、学年主任をしていた。

公立学校に200点で通った人たちも、120点で落ちた人も、またゴワサンです。高校入試の80点の差など、大学入試になれば、5点くらいにしか相当しません。その気になれば、すぐに埋まります

福岡県の高校入試は5教科各40点の200点満点で、福岡市の御三家と呼ばれた修猷館・福岡・筑紫丘と北九州の小倉、東筑、久留米の明善などの高校を除けば、学区トップ校といえど135点くらい取れば合格していたので、そこに落ちてこの学校に来て、このクラスに入っているということは120点くらいだったのが推測できる。

明善落ちは1組や2組には幾らかいたのかもしれない。御三家落ちは聞いたことがない。その人たちは福岡市の私立に行ったのだろう。僕のクラスには伝習館、小郡、八女、朝倉、三池落ちが多くいた。したがって、広範囲から通ってきていた。偏差値的には上と下を切り取った層の密集地帯で、頭は悪くないのだけれど、いかんせん勉強していない生徒で構成されていた。

1組の生徒は、校内実力テストで8割9割取るのだから、勉強の習慣のある生徒が(特待生を除いて)なんらかの事情があり公立高校入試本番で点が取れなかったのだろう。見ていると、彼らは何か静かに必死だった。

学区ナンバーワンの、例えば明善とか修猷館とか、そういった高校も、その名声を支えているのは、上位50人、せいぜい百人がいいところです。それ以下の人は、みなさんと大差ありません。最高の目標を掲げて、それに向かっていってください。実際にどこを受けるかは、最後の最後でかまいません

みな黙って聞いていた。だがそれぞれに勇気をもらったのではないか。

 

このことは中学3年の時に聞いたのか、高校になってから聞いたのか定かではないが、ある教師がこう言った。

「修猷館は合格者450人の内、430人くらいがズラーッと200点、残りの20人が198点とか195点で、内申点と合わせて合格している。明善は難しいとされているが、上位には200点がいるけれど、合格最低点は145点くらいだ。第8学区2番の久留米高校にも200点はいます」

つまり、200点取った生徒が前提で大学受験は進んでいるのだった。少なくとも公立中学の内容を完璧にマスターしていること。彼らにとって公立高校受験は自動車の免許の試験と同等のものだろう。

 

西方先生のおしゃったことは真実にちがいない。けれど、実際に勉強を始めてわかったことに、その80点を埋めるのに、すなわち少なくとも中学の英語と数学を完璧にもっていくのに、半年、あるいは1年かかり、時間に直せば1000時間は打ち込まなければならなかった。

それを高校になってから捻出するのは知恵と工夫が要った。勉強する以前に、継続する根気、成し遂げるという決意、そしてそれにも増して、止まっているどころか怠慢の方に猛スピードで回っている重量級の車輪に(質の悪いことにその自覚さえない)ブレーキをかけ、逆方向に回す時の初期動力は並大抵のものではなかった。それを公立最難関に受かった2000人ほどの生徒たちは中学時代にやっていたのだ。

遅れれば遅れるだけ「その気」になるのが難しくなる

大学入試に直せば5点にしかならない基礎の基礎。しかしこれほど重要なことはなかった。いつもここに立ち戻らなければ、高得点は望めないのだ。たとえば英語の三単現のs。前置詞のうしろの名詞形。主語が複数か単数かの見極めなど、ケアレスミスと呼ばれる小さな間違いがある。それらを軽視すると痛い目にあう。配点7点の英作文で1点2点減点されれば得点率は85%71%に下がる。3点も引かれるともう6割を切ってしまう。どんなに揶揄されようが、点取り虫に徹しなければならないと思った。得点を取ると同時に減点をなくしていく。テニスでも野球でも同じことだ。ルールや満点のある枠の決まった物事にはこの両方の視点が欠かせない。

この基礎を固めている間という最中は、しかも模試の点数は伸びない。高校の単元を進んでいる設問には反映されてこない。基礎を固めた後、さらに高校の進度に追いついて始めて点数が伸び始めるのだ。その間にも、中学の内容を完璧にしていた生徒たちは先に走っている。彼らが背中を見ているのは、全国にある超ド級の東大進学校の生徒たちだ。

 

西方先生は例外的な部類の人で、この学校の教師は5分10分は当たり前、名前もよく憶えていないほどの教師に限れば、2、30分、平気で遅れてくる。そうして、授業の時間の大半は、生徒の悪口に費やされた。

 

奥目で鼻の穴のだだっぴろい国語の教師がいた短い髪を後ろになでつけ狭い額を出した顔は、まるで埴輪の馬だった。

「ひとの顔を見て、すぐにあだ名をつけたがる輩は品性下劣だ」

1番最初の授業で彼は釘を刺した。おそらく、馬づらと揶揄されるのを嫌い先手を打ったのだろう。そして、授業の合間に板書をとめ、

この学校の生徒に教えていると、せっかくの知識をドブに捨てているような気がする

と吐き捨てた。「教えても無駄」

そして授業の毎回、

五合枡には一升は入らない

と真鍮鍋に入った亀裂のような細い目を吊り上げ、緩んだ頬をしながら繰り返すのだった。まるで、皮肉の意味が解らないだろうと言いたげに。この教師は、そうと察せられずにいかに生徒を小馬鹿にできるかが、職務上の最重要課題だった。

何度目かの授業のあと、

「でも、あいつには」

と休み時間に僕らのところにやってきた桐川が言った。「一升枡に五合入れる力量はないよね

彼の鋭い切り返しによって、僕らは余計な劣等感を持たずに済んだ。

1年間も授業を受けていながら、印象的な言葉ひとつなく、ただ品性下劣なあざけりの顔しか思い出せない。

 

「共通1次の点数が予定より10点足りなかったから、気に病んでのことらしい」

と馬づらは新聞に書かれていなかった情報を話した。

次の年の冬の寒い朝、西鉄の蒲池駅付近で飛び込み自殺があった。それが九州大学を目指して1年浪人中の伝習館高校の生徒だったから、朝一番にお得意の皮肉が始まったのだった。

「今年は、去年より問題が難しかったから、平均点が下がっていた。早まらなくてもよかったのに」

と言ったあと、僕たちの方を見た。

点数が悪かったくらいで自殺しないたくましい子たちで、本当によかった

とは言わない。

 

点数がほんの10点足りなかったことで自分を責めて、自殺するくらいの生徒がこの学校に1人でもおればいいのだがーー、零点取ってもなんともない。鈍感でウスノロの輩ばかりが生き残って。粗悪な遺伝子を撒き散らすんじゃろ

小狡そうに奥目の目をさらに細めた。馬づらの、埴輪みたいな目の奥では狂気じみた嘲笑が見て取れた。

「生きるためにやっている受験勉強で死ぬなんてな」

あとで桐川がつぶやくように言った。

「いや。生きるためにやっていたからじゃないか? 彼は最初から死んでいたんだよ」

と返すほど、僕たちは理屈っぽくなかった。

あいつ、独身なんだってよ

桐川がどこからか聞きつけてきたことを言った。

「よかったな」

とニヤニヤしながら掘野が言った。「女の子が生まれていたらタイヘンだった

「ほんと、やつの娘は顔で悩んで自殺したんじゃないか?」

桐川が吐き捨てた。「馬づら、言ってやるよ、馬づら

こうして馬づら先生は、1年の間、要らぬことを言い募りわざわざ自分の顔に注目を集めたのだった。おそらくそれが彼の暗に伝えたかった国語の修辞技法だったのではないか。実に高等なテクニックだった

 

「君たちは、今はこの学校にいることを嘆かわしいと思っているかもしれないが」と数学の教師が言った。「野球部が甲子園に出たり、テニス部が活躍したり、卒業してからも名前が出て、とても感慨深いものだよ。君らが第一志望にしていたそこいらへんの公立高校ではそういうことはない」

底辺校に勤める自分を慰めているのではないか、と勘ぐるほど僕は不純ではなかったけれど、なにかがちがうなあ、とは思った。

野球の名門、テニスの名門にしているのは、主に外部から来た人々であって、地元出身で授業料を払って卒業証書を買っている僕たちは、そのおこぼれにあずかっているだけだ。誰も、僕らを彼らと一緒にはみてくれやしないし、運動部でもない僕らはかえって白眼視されていた。

この学校に入った自分を蔑んでいなくても、馬づら先生のように教師の中には明らさまにバカにしてくるのが居て、それが故に陰鬱な気分になった。

 

また別の日に板書をしながら、

「この学校からも福大の推薦枠があるが」と言った。「評定平均の7掛けで見るんだと」

意味が伝わらなかったかもしれないという思いからか、後半部分を2回繰り返した。つまり、この高校で4・5の評定があったとしても、3割引の3・1の価値しかないと見なされているというのだ。オール5だったとしても他の高校の3・5と同じ程度だと評価されるのである。

この教師からは、生徒をバカにしているというより、事実を語ると同時に「なんて不平等な」というニュアンスが伝わってきた。

ともかく、あわよくば推薦でと思っていた生徒は出鼻をくじかれたかもしれない。僕は、あまりにもこの学校の教師が福大・西南を連呼するのでうんざりし、その二つの大学には拒否感が芽生えていたのであるが、こんな学校の教科でもオール5などとても無理な話で、3年間約1000日ものあいだ学校の言う通りに努力を重ね、よしんばその無理なことを達成したとしても、内申書を見た刹那に0・7を掛けられてはかなわない。まだ一般受験の方が可能性が高くなる。

密かに福大を狙っていた連中は実力をつける道しかないことをこの時さとったのではないか。

 

アトピーだったのか、顔の赤い、はれぼったい、黒ぶちのメガネをかけた古文の教師は板書の手をとめ、

「ボクは、I.Qが160あって」

と言った。それが殊更じまんらしく、授業の度に1回以上言った。

ベラベラまくし立てるような大声で授業をした。

「ボクは、I.Qが160あって」

また言った。そしてその時は、いつもと違って神妙な口ぶりで、「このクラスにも一人いるんだろ」

と付け加えた。

まただ。と僕は思った。また、あの生徒が僕についてきている。

 

 

4月25日に第1回の校内実力テストが実施された。すぐに進学指導部の教室の前に全体の成績が張り出された。名前とクラス、それから各教科の得点と合計点が一覧に載っていた。

1番から50番まですべて1組の生徒だった

首席の生徒は全教科90点以上を取っていた。奇しくもこれが僕と同じ中学出身の女子だった。奈緒子といった。

 

番外の僕らは切れっ端に書かれた成績表が渡された。僕は5教科の平均が56点で、392人中ちょうど100番だった。

僕の上には、百人がのしかかっていた。

二組という50人とそのまた上の1組という50人と、上澄みの特待生の数人だ。その先にやっと国立大学の入り口があった。けれどもそこには佐賀大、福教大、琉球大などがパラパラと居るほどで、それがこの高校のトップ、常識だった。

九大合格者は、いることはいるが、数年に1人出るか出ないかの奇跡だった。つまり、どこでもいいから国立に行こうと思えば、少なくともこの学校では断トツ1番でなければおぼつかないということだ。

 

このテストが年に5回、1年の間は全員が共通問題の5教科を受けるのだが、その点数に応じてクラス替えが行なわれることになっていた。僕らにも点数いかんによっては、1組に昇進するチャンスがあったのだった。

 

3年間、僕らのクラスを受け持った社会の教師があった。はじめての授業の時に、僕たちの方を振り向き、こんな質問した。この教師は、僕たちに3年間『おばちゃんの生態学』を唱え続けた人だ。

ハイ、この中で、国立志望の人、手を挙げて

ほぼ全員が手を挙げていた。1980年代の、九州における国公立優位は揺るぎないものだった。これが進学校だと、九大志望者に置き換わるのだとか。それにしても、最後列の席にいた僕から見えた風景は、なかなか壮烈なものだった。まるで兵士が一斉に槍を突き上げたように思えたからだ。

「ハイ、おろして」

と言うと、おもむろに話し始めた。

「私は節目ふしめに同じ質問をしていこうと思っているが、学年が進む毎にだんだん減ってくるものです

彼の予想通り、国立大志望者は受験期になると誰もいなくなった。それはひとつに、成績上位者が1組に昇格したのと、受験指導によってだ。僕は最後の最後まで手を上げ続けたが、力づくで降ろさせられた格好になった。

 

米軍仕込みの軍事先生の英語は、定期考査で100問、1問1点の丸暗記主義で作成されていた。まずはこの英語の試験で100点を取るんだと思い、何度も繰り返し憶えた。完璧にした。

1学期の期末試験で百点満点を取った。

中間試験でクラスメイトの中に百点を取った者が何人かおり、取れるものなんだ、と思ったのが取る契機となった。

初めて取った百点を家にやってきた母方の祖母に見せた。祖母は数珠を出して答案用紙を拝んだ。僕はなんだか、自分が生まれ変わったように思えた。

 

ところが夏休み前に、6月10日に受けた学研模試の成績表が返ってきた。これが高校に入って初めての校外模試というやつだった。

 

英語16点(42) 数学8点(40) 国語42点(58)

 

ここまで下がったか、と思った。それは薄曇りの、今にも雨の降りそうな午後のことだった。

さすがにまずいだろう。偏差値の方が得点より遥かに高いのだ。

重永や越野や桐川など、周りの者と見せ合ったが、みな似たり寄ったりで、重永や僕はまだ、国語が救いようのある点数だったけれど、それ以外の連中は国語も無残で、一様に動揺を隠せなかった。

軍事先生の英語の試験で満点取っても意味がない

模擬試験になると全く歯が立たなかった。あの勉強はなんだったのか? と僕は思った。模試で点を取るのには全く役に立たない。時間の無駄だ。中学1年の時以来、いや初めて、定期試験の前に念入りに抜かりなく何度も繰り返して憶えて取った100点。それに全く効力のないことを見せつけられた。

そう思った僕は、どうせ7掛けされる評定は捨てることにした。定期試験は赤点にならない程度しかやらないと思った。模擬試験で偏差値を上げていくことに切り替えた。クラス替えを決める実力テストも、実力で解くことにした。

 

公立高校に行った連中はどうなんだろう? と思った。中学の時には、授業だけしか聴いていなくても、こんなみじめな点数を取ったことはなかった。

疑問に思っていたら、またまた会った八女高校の生徒にたずねる機会があった。

「だいたい40点とか50点で、60点も取れば、上の方だ」

と答えた。彼らの受けていたのは進研模試とかいうやつで、中学の時にクラスで1、2位、学年でも常時一桁に入っていた瀬戸橋君や学年1位を取ったことのある直木でさえ60点前後だという話だった。

中学の模試で6割とは平均くらいで、8割取れば成績優秀、9割なら学年1位、県でも上位の点数だった。それが高校では6割が上位になるのだと知って、僕はそんなものかと安心したと同時に、どれだけ難しいんだろうとも思った。

 

高校の偏差値は、ーーいくら学研模試の母集団と言っても、商業科や工業、農林など実業科に行った者たちのほとんどは受けない。

1年生の模試は短大志望者までも含まれているため、(トップ層は受験していないが)模試の受験者を世代の半分として単純にスライドさせれば、中学時代に56くらいの偏差値の人が平均の50となり、50だった人は30前後となる。62か3あった人が55くらいになり、65の人が62、68だった人が65となる。

昭和42年生まれの僕たちの世代全体は193万人なので、50万人が大学を志望していると想定すると、中学時代に偏差値50とか55あった者が最低辺の40以下35、25くらいになる計算だ。55だった人が45、61あった人が50、65あった人が58、70あった人が62くらいになる。偏差値73で学年一桁の人が65くらい。このレベルが地方の旧帝大に相当する。

この換算にしても、下りすぎだろう、と思った。偏差値うんぬんの前に、特に英語と数学に、解っているという実感がなかった

 

バレー、野球、テニス、バスケット、卓球・・・。

中学時代に県大会上位校、九州大会、全国大会に出た生徒たちが推薦で入ってきていた。僕らのクラスにも幾人かいた。

実のところ、弱小チームではあったけれど、僕も顧問の先生に野球で推薦してやろうか、と言われたことがある。

「推薦だと練習する場はあるよ」

けれども、一も二もなく僕は首を振った。もう、野球をやる気はなかった。自分の実力がどの程度か、そしてどのくらい伸びるのか、まったく展望がなかった、それ以前にどうにかして野球で生きていこうといった考えもなかった。第一、野球の好きだった父に幼少の頃からやらされていただけで、僕自身あまり好きではなかった。とりわけ素質やセンスがあるとも思えない。

入学当初、推薦を断ったにもかかわらず通学することになったので、何か運動部に入ろうかなとグラウンドのネット裏で野球部の練習を見ていた。

リトルリーグで全国大会に出たことのある生徒が同じクラスにいた。彼は推薦ではなかったが、はりきって毎日部活に精を出していた。毎日毎日、沖ノ端の海岸まで往復何回も走らされると言った。ボールには触らせてもらえない。過酷な基礎トレーニングばかりやらされ、一人落ち、二人落ちと脱落していくと話した。そんな中、半年くらいがんばっていた彼もついに音をあげた。

クラスで最も背の高い生徒があるとき僕に言った。

彼は久留米の中学にいて、やはり全国大会に出たチームのエースで、推薦で入ってきていた。体育の時間に彼の高さとパワーを見せつけられた。

勉強そっちのけでバレーボールの練習に勤しんでいた彼があるとき言った。

「腰を痛めた」

と長い腕で腰を押さえた。

「そしたら、もう辞めろ、推薦は取り消しだと言われた」

なんだかな、という諦めとか不条理さとか、そんな感情の入り混じったような物言いだった。

使えない、使い物にならないと見るや、どんどん切り捨てて行く。

残酷な世界だ。いや。陰湿な学校だ。

 

この学校の進学状況を調べた。一応、大学進学が何百人もいることになっていた。だが、名前も知らないところばかりだった。就職状況についても調べた。

ガソリンスタンドで大声を出して車を誘導している自分しか思い浮かばなかった。

 

ともかく、これはなんとかしなければ、と思って考えた挙げ句、今この状況から抜け出すには、大学に、それも教師連中がお前たちには無理だと太鼓判を押す、国立、それも1期校とやらに合格するしかないと結論を出した。

 

 

 

その2につづく