1986年の4月、高3の冬に受けた東京の私大が全滅し、僕は久留米にある公立高校付属の予備校に入った。僕らはそこを、敬意をもって明善自習館と呼んでいた。
浪人時代の10ヶ月は、とても晴れやかで喜びに満ちていた。なんの足枷もなく明るい笑顔に満ちたものだった。
これからお話しすることは、なんの変哲も無い、しがない受験エピソードにすぎないことを初めに申し上げておく。
僕は生来受験には興味がなかったし、受験の人生における影響というものを全く重視していなかった。それでも明かすのは、40年前のことがすでに歴史になりつつあるからだ。あまり話したくないこともあったし、自分なりに整理のつかないこともあった。だが、個人の体験を超えて、時代の体験者として、語る価値が出てきたのではないかと思うのだ。
2月、新幹線で東京に乗り込み、多摩にある読売ランドという遊園地のホテルへと歩いた。そこは、遠くから見える観覧車が目印になっていた。丘陵地帯なのか緩やかな坂を登って行く。
ランド内にあった宿泊施設はコンクリートむき出しの、十人くらいが2段ベッドに詰め込まれるタコ部屋みたいなところで、そこを拠点として各大学の試験に行くのだった。みな各々の受験のために地方から出てきていた。施設は便所も食堂も通路も薄暗かった。バイキング形式の食事はまずかった。
混んでいる時に並んでいると、横にいた同じ部屋の受験生が言った。
「東大に受かっても辞退する人がいるやろ」
知らなかった。
「毎年、各類になんにんかずついるんだけど、あれは次の年にまた受けるんだ」
「へえ。なんでまたそんなことをするの?」
「受けるのが趣味の人がいるんだ」
ずいぶん暇なことをする人もいるんだな、と思った。
「なんねんもなんねんも受け続けて、今年は数学が難しかったとか、全問できたとか言っているんだ」
自分には、東大の「と」の字も縁がないのに、毎年そこを受け続けて試験の難易を報告している人がいるとは、世の中広いものだと思った。
「そういう人が毎年なんにんかいるから、大学は数人多めに合格者を出しているけどね」
それから、駿台予備校が駿河台大学とかいう大学を作くろうとしているとか、ーーその時点では駿台予備校なる予備校があることさえ知らなかった。そこから司法試験の合格者を多数出す計画だとか、まったく知らなかった受験業界事情を教えてくれた。
「日本一の大学にするつもりらしいが、大学の偏差値は短期間ではひっくり返らないだろうな」と彼は言った。「いくら東大に合格者を多く出すからといって、新設の大学の格をあげるのはそう簡単にはいかないだろう」
彼はどこかの駿台予備校に通っていたようだ。この施設は農大の近くだったので、志望が似た受験生が多く含まれていた。彼も同じ私立大学の同じ学部を受験するのだが、おそらく滑り止めで、国立の農学部が第1志望だったのではないか。
ご飯を盛ったり、鯖の焼いた切り身を皿に入れたり、味噌汁をついだりしてテーブルにつくと彼はまた、初耳のこんなことも言った。
「私大の入試の採点は、パートのおばちゃんがやっているんだよね」
え?! と思ったと同時に、ゾッとした。
「短大出の主婦なんかがアルバイトでやっている」
ならば、『答案』なんか、ないではないか。短大出の女性が採点しやすいように、模範解答を予想してそれに近い答えを書いてやらなければならない。『答案』を介して学者と対話するなど、幻想だった。何千人も受けるのだから仕方ないにしても、格下の者に採点されるのは、どうにも釈然としない。
彼と下見に行った。世田谷にある東京農大の木造校舎は古く、教室の窓枠には年季が入っており伝統を感じさせた。とても好い大学だと思った。
明大は、農学部のある生田キャンパスには行かなかった。試験は神田の校舎で実施されるからだ。入り口を確認し終わると、彼がついでに、とちょっと遠回りしてモスバーガー1号店に連れて行かれた。旨かった。
僕が現役時代に第一志望にしていたのは、明治大学農学部農芸化学科だった。そこの難易度は、明治大学の中では(ダントツに)最も低かったが、私立の農学部の中では一番高かった。代々木の私大模試で偏差値55がA判定をもらえる数値だったところ、僕は秋の私大模試で3教科とも62台に揃え、平均で62・5を取っていた。事前の勉強も怠りなく、合格を確信していた。
旺文社の模試でもBライン偏差値なるものを大幅に上回っていたこともあって、そこより下とされる大学には受かっても入学するつもりはなかった。第一、この度の受験は「合格」を煽られた挙句、明治大学であるから渋々納得しているのであり、やらされている感が反発心も生んでいたこともあって、そこ以外の学生になる気など毛頭なかった。
この、代々木の偏差値62・5という数値は、早稲田と慶応の看板学部、当時は政経と経済、医学だったけれど、そこ以外の私立大学・学部の合格者平均以上、ほぼA判定が出るものだった。だが、農学部は変則的な受験科目が選べたので英語・国語・生物にした僕には、農学部以外の受験は不可能だった。
日大や玉川大にも農学部はあった。玉川大学には薬師丸ひろ子が通っていたので、出願しなかった。(芸能人が入った話題ばかりが取り沙汰され、大学がどんな研究をしているのか、また学生一人一人の顔が見えないのが嫌だった)
日大はマークシート式の試験で、模試より遥かに簡単だった。合格最低点はかなり高得点になるのではないかと思いながら、さあ帰ろうとすると館内放送が入った。これから面接試験をやると言うのだ。知らなかった。受験案内に記載されていただろうか? それにもまして、僕はむっとした。人物評価までするってか? 日大ごときがーー。いま言葉にするとすればそんな気分だったにちがいない。
傲岸不遜な態度で面接に臨んだ。だが、伝統ある私立大学としては、問題のある生徒を合格させては全学、在校生、卒業生にまで影響が及ぶ。たった一人の生徒のせいで経営困難にまで追い込まれるかもしれないのだ。マンモス私立大学には最も重要なことだ。勉強のできる奴は東大に行け。愛校精神の育たなそうな生徒はこの段階で落とす。
明治や東京農大までは、ーーこの時の僕には全く目中になかったけれども、名古屋大学や東京農工大、東北大学などの農学部だけでなく、この年は理工系の受験生さえ小手調べに併願しているようだった。また、この年に限っては早稲田や慶応、理科大の理工系の志望者まで受けに来ていたのだろう。でなければ、あれほどの倍率にはならない。
しかも、どうやら同じ宿の他の受験生の話を聞いていると、農大は地方の地主の息子が推薦で多く入っているようで、その彼も不良っぽい身なりの割には人格者で頭が良かった。親の跡を継いで将来やることの決まっている彼らは、医者の息子が医学部に行くような心づもりだったのではないか。
医食同源の両分野がかけ離れ、片方は偏差値が高騰し高収入で誉れ高く、もう一方は偏差値が底辺で蔑まれ、姑息な手段で得なければ満足な収入もなく馬鹿にされ軽んじられるのはおかしなことだ。安物を作らざるをえない農業が病気を促進させ、不要な治療を施し体を弄り回す医療が高額な収入を得るという価値観と構造は未文明社会のすることだ。健康において上流に位置する農学が尊重されないことの愚かな現れとして、医学部の高偏差値を見るべきだろう。
農学を伝えるシステムとしては全くもって素晴らしいことだが、推薦で難なく入ってくる者の大勢いる中、シャカリキになって勉強した自分が紛れ込むのは御免だなと思ったのが正直なところだ。
さて、本命の明治大学の試験の日になった。前の日もよく眠れ、会場に遅れることなく到着した。試験は神田、駿河台にあるあの有名なドーム型の屋根を有する建物で行なわれた。受験案内の写真で見るより古めかしく風格があった。
着席して開始を待った。教壇を中心として同心円状に上方に広がる講義室は日本の歴史を感じさせた。
予定時刻に試験が開始された。配られた問題冊子をゆっくりと開いた。本当に落ち着いたすがすがしい気分だった。体のどこかが痛いとか熱があるとか、そんなこともなく、また眠気もなく万全の態勢だった。今年の正月には、太宰府天満宮にもお参りに行き、まったく抜かりなかった。
ところが、である。
英語のリード文が読めないのだった。僕はなんども目をこすった。英単語が難しいとか、文章構造が難解だとかそういうわけでもない。にもかかわらず、まるで梨地のガラスに遮断されたように文字がにじんで読めないのだ。目やに? 涙? いや、そんなものはついていない。まるで、背後から誰かが目隠しをしているかのように英文が目に入ってこない。そしてさらに、時間は猛スピードで経過していく。
なんだ、これは?
戸惑うというより不思議だった。
東京に入ってから十日くらいは十分に勉強に取り組めなかったとはいえ、家で解いた過去問では合格点を充分に上回っていたし、すうじつの短時間勉強で急激に学力が落ちるとも考えられなかった。
生物も同じだった。なにが書いてあるのかさっぱり頭に入って来ず、なんど問題文を読んでもまったく解らないのだ。僕の頭は一体どうなってしまったのか。そしてまた、時間が急激に過ぎていく。国語に至っては受けたのか受けなかったのかすら記憶がない。
試験が終わった。解答用紙を回収している間、僕は半ば唖然としていた。
1問すら正解の確信がなかった。ぜんぶ間違っているとすら思った。
どうしてこんなことが起きたのか? 僕は不合格を確信し、会場を出た足で神田の書店に入り、地方では購入できないような問題集だか参考書を買いこみ駅までのバスに乗車した。暗くなりかけていた。
家に戻ってからすぐに勉強を再開した。
追って、不合格通知が届き始めた。つまり音信がないということだ。
まあ、そうだろうな、と18歳の僕はやけに落ち着いて、諦観したように思った。
他に受けた大学は明治大学より難易度の低いところばかりで、その年が『蛍雪時代』の焚き付けたバイオテクノロジーブームの影響で空前の農学部人気を作り出し、特に農芸化学科は明治大学の40倍を筆頭にどこも高倍率を叩き出していたことを考慮しても、どこかに引っかからなければおかしいことだ。
明治大学を受験したあと、校庭で合格者の電報を届けてくれるサービスがあったので、落ちているだろうが、と思いながら依頼した。五百円くらいだったか。それが家に届いた。一応、不合格を確かめようと封を切った。薄暗い座敷の入り口で後ろの台所から来る光で照らしてコピーされた薄っぺらい紙を開いた。
「どうだった?」
と横から尋ねてくる母に、
「ないね」
とだけ答えた。
聞いたことはないが、おそらく母は実家に頼んで今回の渡航費用を借りていたのではないか。受験料を含めて何十万かかけたチャレンジは失敗という結果を作っただけだった。
これで僕は、高校受験、大学受験と合格の体験をすることができなかった。
受かった高校は基本的に名前を書けば合格する、合格に価値のない学校だった。通い始めて数ヶ月で辞めようかと思い始めた僕が思いとどまり三年間も居続けたのは、あるひとの存在があったからだが、そのことをこのブログで語ることはない。
全滅に僕が悲しんだか? 悔しがったか? 自暴自棄になったか?
いや。
それどころか、これでやっと本来の志望の大学に進める、と安堵し歓喜したのだった。僕は高校1年の頃から国立理系を志望し、理学部生物学科に入りたいと思っていた。不合格通知は、僕への天啓であると確信していた。
それにしても、太宰府天満宮の学門の神様には御利益がない。この時点での僕はそう思った。
「どうだったか?」
と高校の担任が聞いてきた。彼は一部の生徒から、「ガッデム」と囁かれていた。ガッデム先生は、ホームルームの始まる前かで生徒がバラけて騒然とした中、僕を教壇のところに呼びよせると、手もみでもするような口調で尋ねたのだった。
「ダメでした」
「ひとつもか?」
「はい」
と僕が答えると、
「お前、わざと落ちたんだろう?」
疑うように言った。
この人は、何を言っているのか? 僕は首をかしげた。なんのために、そんなことをしなければならないか。持てる知恵をすべて投入し、かけられる時間は全てかけ、親戚から借金し、わざわざ東京くんだりまで出かけて行って、わざと落ちる。そんな芸当ができるだろうか? この男は何をほざいているのか、と思った。
ひとつ考えられるのは、この教師が、僕がこの教師を嫌っているから自分に災いするためにわざと落ちたと疑っているということだ。
なぜ、僕の人生を、お前のせいにしなくてはならないか。巫山戯るのもいい加減にしろ。僕は全力で挑み、果てた。それだけだ。
あるいは、彼の頭にあったのか、こういうことだったかもしれない。
「来年は科目が減るから、2年計画で今から5科目だけやっていけば有利だ」
と言った者がいた。名前も知らない商業科の生徒だった。なぜ、かれが僕に寄ってきてそう言ったかはわからない。小柄で人懐っこい、以前、体育館で全校生徒の催しものがあったときにちょうど横の列になったからか、視力が落ちた話になり、彼がこんな質問をしてきた。0・5に落ちたのが、さらに落ちると
「どうなると思う?」
と聞いてきたのだった。僕はちょっと考えて
「もっとボヤける」
と答えた。かれは、そうなんだよね、と言って
「視力が悪くなると、ボヤけたのがボヤけてかえって正常に見えると思っていたけど」
と言った生徒だった。僕は忘れていたが、彼は僕を憶えていたのだろう。しかし共通一次には縁のない生徒だったはずだ。
「なるほどね」
と僕は思ったが、今から浪人前提で勉強するつもりはなかった。現役合格にこだわらないにしても、浪人を視野に入れることはできなかった。というより、想像できなかった。
5教科5科目になっても、実際には2次に理科がふたつ課せられる大学は、負担という点ではたいして違わなかった。(勉強しなくてもそれなりに得点できる『現代社会』など、あってもなくても大差ない)
しかしガッデム先生はそんな算段をして、僕が裏では一次用の勉強をしていたのではないかと疑っていたのではないか。でなければ、わざと落ちたんだろう? は発想できない。
ともかく、ガッデム先生は、僕の合格をひっさげ持説の正しさを証明し、来年も担任を引き受ける算段なのだったのだろう。だが、彼の指導を受けたクラスメイトの誰ひとりとして、ーー次の年にそれなりの私学や国立に通った勉強熱心な者でさえ、この年には誰も合格しなかった。
これで僕は高校受験、大学受験と、まったく合格したことのない不合格量産マシンと化したのだった。
だが、あとから振り返れば、そのご超絶運の好い人生をたどった僕の最初の幸運は、この私大全落ちそのものから始まっていたのだった。
(詳細)
受験時代の状況がノートに書き残されており、それが正確な日付やデータであろうから転記した。
※ 代々木の私大模試は昭和61年11月22日の実施で、文章上の小気味良さと把握しやすさから本文にはそう書いたが、実際には英語61・1、国語62・1、生物63・9で、平均が62・36だった。これは、明治大学農学部の合格可能性がA判定85%以上であるとされていた。
代々木は独自に全国総合模試も受けていて明大の判定は、6月○日第2回25% 8月4日第3回45% 10月10日第4回50%と上がっていき、11月の私大模試で85%にまでなった。(ので、気を引き締めなければ、という思いが強かった)
これは学校で行われた11月の旺文社模試の二日目が前日に2時間しか寝ておらず「英語と国語が不本意だった」と記されている。特に「英語の偏差値は70を狙っていたので残念だった」とある。
旺文社模試の明治大農学部の判定は(英国生の平均偏差値) 昭和61年6月2日 第1回(57.8)B判定 9月22日 第3回(60.0)A判定 11月10日 第5回(59.4)A判定
英語は1年の時の偏差値40台(学研)から徐々に伸ばし、3年の第1回63.2 第2回64.8 と来ていたので、第3回には偏差値70を狙っていたが実際には61.2であった。
「その失敗を踏まえ、前日11時に布団に入って受けた代々木の模試では61.1を取り、これは旺文社に直すと65ー70位に相当するから好かった」と記されていた。
※ 昭和61年 2月21日上京、14日 東農大農学科、15日 東農大農芸化学、17日 日大農芸化学、21日 明治大農学科の受験だった。
第一志望は、明治大学農学部農芸化学だったが、実際には農学部に出願している。
明治の合格発表は3月1日だった。それが電報で送られてきた。
競争倍率40倍が農学科だったか、農芸化学科だったかは記憶が定かでないが、おそらく受けた方の学科だったのではないか。記録が出てきたら訂正する。
⇨農学科が40倍。これは鮮明な記憶もあり日記やメモにそう記されていた。けれども、赤本を入手して計算すると36倍ほどにしかならない。もしかすると、臨時定員増があったのかもしれない。この当時の志願者数などは、後のブログ(1986年 春夏秋冬)の中で正確な数字を出して検討しているので、そちらをご参照あれ。(2023 7/25記)



