その会社は、求人案内の中央見開き右側1ページを使い大きく広告していた。コンビニで手に取り開くたびにだんだんコマが大きくなっていく。『和気藹々』と銘打たれた紙面には、楽しそうに肩を組み合う作業服の老若男女がマジックで描かれていて目立った。
大学最後の年のことだった。入社する前に製造業を体験しておきたいと考え、納豆やこんにゃく、ところてんなどを作っている家族経営の零細企業でアルバイトすることにしたのだった。入ってから、働いていた配送係の年配社員が「右肩下がりの」とか「すぐに辞めていくから」のと、ぼそぼそつぶやいたのを聞いて、求人広告の面積の広いワケがなんとなく解ったかんじで、まだまだ実社会の色濃い全貌は実感できていなかった。

「ナニナニします」という意味なのだそうだ。日本語で「住むにだ」に聴こえるのs田にしたのかは定かではない。が、それを冠した会社名だった。
いつまでも結婚しない三十過ぎのナッツリターンな御令嬢や偏差値75のトップ公立校を出て慶応を目指していたが青山にしか入れなかった長男と共に、最近、自動車会社のディーラーを辞めて後継に参入してきた三流大学でラクビーブの主将をやっていたと自称する次男など、経営者の家族にはありがちな構成があった。

その会社で働くずっと以前に、懇意にしていた居酒屋でアルバイトしていた別の大学の学生が、有限会社s田の次男坊を唾を飛ばして罵っていた。居酒屋の大将も、そんなことさせるのか? と己の経営哲学と異なる実情を聞いて呆れた様子だった。彼は罵詈雑言の限りを尽くして次男坊へのうっぷんを晴らしていた。けれども、被虐的な実感もなく、まさかあの話しがここのこととは結びついていなかった。それで、わりと近くだったから面接に行ったのだった。
当時の僕は無知で頓馬でしかもウブで迂愚だったので人物や会社の識別能力がなかったこともあり、また大学で流通している『平等』みたいな依存心の影響を多少受けていたこともあり、苗字でだいたいのアタリをつけるなどといった世間知がなかった。
筆名や芸名をつける意味の解らない人たちだったと思う。

「トヨタの人事部がやってきて、このクラブのキャプテンは誰や? と聞いてきた。俺だと名のり出たら、『合格』と採用された
と武勇伝を語る次男坊は家を継ぐためにほんの数年前に帰ってきたそうだ。
「店長に社内改善を進言したが採用されなかった。ほんなら辞める、と言って辞めた」
32歳のラグビーブは自分のことをまるで潔い男のように言った。僕は「帰るところがあるからそんなことができるんですよ」などと、今思えばラクビーブを逆なでするようなことを言っていた。。
彼は顔のヒゲを週に一度剃る習慣があり、無人島で生活していたのかと思うような風貌になったかと思うといきなり文明人に変わって現れる。眉が濃く一重でなく唇が分厚く浅黒の肌をしていた。腕は太く確かに体力はありそうだった。
ただのディーラーのくせにやたらとトヨタトヨタと連呼しまくり、まるで本体で働いているかのように振舞っていた。この次男坊は社内改革を推し進めており、まるでトヨタではそうしていたと言わんばかりに、なんでもかんでも機械化、オートメーション化していった。コスト度外視で。そのくせ人海作戦も好きで、あれせいこれせいと大量の使用人に上から威張った。
火山が噴火したら、口を生コンで埋めろだの、宅地造成していて遺跡が出てきたら踏みつぶせだの、大きなことを言うのが好きで、学歴差別や性差別、職業差別などに異論を唱え、
「差別はどんどんせんといかん」
と言い放った。
小学校時代に、いじめられた暗い経験でもあるのか? と思わないでもなかった。こんにゃくでやってんだろ、などと。
ともかくこの次男坊は、どこでもここでも評判が芳しくなかった。

中園という社員がいた。同県にある、僕の通う大学に対抗心いや敵愾心を燃やす私大出身で、新卒で入った会社の女社長に辟易して転職してきたと語る中園は、とても丁寧に仕事を教えてくれたが、次男坊の懐刀というか太鼓持ちみたいな位置に収まっていた。同族経営に取り入って有利になろうとしているように見えた。28歳くらいだった。
社長は、一目置かれていたふうであったが、ショーウインドウに映った自分の車を見て運転しているので左右確認する必要がないだの、どうでもいいような自慢話やヘンテコリンなことを言った。たとえば、印刷会社に内定が決まっていた僕に「おまえは、紙幣を印刷してガメやしないか心配だ」とか言った。僕は首をかしげた。黙っていたので何度も繰り返してきた。造幣局でもないし、勝手に版下を作って輪転機にけることなどできるわけがないではないか。きっと、この人は喉から手が出るほどカネが欲しいのだろうと思った。
次男の妹は30過ぎだのに結婚していなかった。当時は珍しい。高慢ちきな印象を放つ彼女は汚れ作業場の工場には決して足を踏み入れなかった。従業員にあいさつすることも感謝の意を述べることもなかった。
なんというか、家族全体が従業員を見下していて、使い捨ての使用人を扱うような気軽さで扱っていた。たかが時給600円で。

青学を出た長男は、唯一の例外で、ぬぼーっとしたやや小太りのむさい出で立ちで黒ぶちメガネをはめていた。いつも納豆のラインの前に背を向けて突っ立ち黙々と検品していた。時々声を発するとちょっと甲高い、オタクな、アスペルガー風な印象がある。社員やパートの女性を責めることはなかったし、次男坊の悪評のお陰で相対的に温厚ないいひとということになっていた。この兄を祭り上げることがラクビーブの自尊心を高めることのようで、しょっちゅう、褒め称えていた。
「3回挑戦したが、無理だった。諦めて青学に行ったが、青学も一流のーー」
へたに地方国立大に行くより、慶應の方が箔がつくと考える経営者は多い。父の方針に従い、兄は中学の頃より塾通い、おそらくは学年トップ層から県ナンバーワンの公立高校に合格したのだろう。経営を学ぶなら、神戸や一橋は勉強量も多くなり確実生が低い、大阪市立は九州ではネームバリューがない。長崎はちょっと、となれば、お得なのは慶應の理財ということになるのだろう。幸いカネはある。
ともかく弟は、兄の引き立て役を十分にこなしていた。

昼は、ホカ弁を頼み、それを五、六人でテーブルを囲みちいさな事務所で食べた。それが給料から天引き引されていたのかサービスだったのかは憶えていない。なぜかいつも幕内弁当を注文している社員があった
彼は以前、製薬会社の営業をやっていて、医者のところを回っていたそうだ。年収は700万くらいあったと言っていた。バブルの頃ではあったけれどかなり高い方だった。仕送りとバイトで月七、八万の僕にとってその年収は未知の世界で、羨望の思いもあった。彼は給料から手出しの医者への接待に嫌気がさしたので退職し、当座ここで働くことにしたと話した。配送係だったので、昼にいつもいるわけではなかった。背中と首の長い狼のようなかんじの人だった。もっと目の細い玉置浩二さんみたいでもあった。40歳くらいだったか、名前は憶えていない。

幕内弁当には、こんにゃくが、トレイの片隅に細かな切れ目を入れた三角形の小さなこんにゃくが入っていた。絹さやと人参と一緒に出汁でゆでたものだった。
「〇〇さんは、いつもこんにゃくを残すね」
ラクビーブが言った。
「ええ」
と、もっと目の細い玉置浩二さんは答えた。
「こんにゃくが好かんの?」
穏やかにたずねる。戦時中なら馬鹿軍曹にでもなるだろう素質のラグビーブは体育会系であったからか、年上の人には一応それなりに気を使っていた。。背中と首の長い狼みたいな玉置さんはそれには答えなかった。
いつもいつも幕内弁当を頼むのに、いつもいつもこんにゃくだけを残すのだった。残すたびに、ラクビーブがたずねた。さすがに僕も、嫌いな物の入っていない弁当をたまには頼めばいいのに、と思った。ウブで迂愚な所以である。
ある時、狼は、
「これがね・・・」
鞘にしまった割箸をもう一度取り出すと、先端で残したこんにゃくを小突き、いじり、つつき回した。
あれが「お前が嫌いだからだよ」というメッセージだったことを三十過ぎてから理解した。もちろん、そのメッセージをわかった次男がそれなりに応戦していたのだった。
配送係の社員は4人ほどいたか、軽トラでこんにゃくと納豆とところてんを積み込むと出かけて行く。地方の個人商店などを回って、陳列ケースを置かせてもらったり、期限の切れた商品を入れ替えたり、売れた商品は継ぎ足したりしていた。
工場の隅には配送係の引き上げてきた消費期限切れのこんにゃくが集められたバットがあった。次男坊が指示し、パッケージに打ってある刻印をアルコールで拭く。そこに新たな期限が打ち込まれた。再び、配達係が持って行って店頭に並べた。

ある日、もっと目の細い玉置さんが平たい荷台のついた4トン車を持ってきたのが印象に残っている。たぶん、次男の進めている社内改革のためのベルトコンベアとか充填機とかシール機なんかを運んでくるためだったのだろう。数日借りていると話していた。
製薬会社の営業について興味があったのでたずねた。
「女の好きな医者には女を抱かせた。女の嫌いな医者には、高級なブランデーとかゴルフクラブを持っていく。そういうことをして薬を売った。やらないと買ってくれない。飲む必要もない薬を患者は処方される。年収が700万くらいあったが、半分は営業費に消えた。それが馬鹿馬鹿しくて辞めた」
なんだか凄い世界だなと思った。

何かの折に、ーー近くのクリークの掃除かなにかだった。社員全員が集められ何事かと待っていると、ウイングのついたスポーツカーで次男坊が登場した。そして、ぶぃぃぃぃんと自慢のマフラー音を響かせ急発進したかと思うと急加速して向こうに消え去った。ちいさくなっていく車姿を見ながら、あのじなんぼうは・・・と配送員のひとりがごちた。八百屋のおっさんみたいな味のある人だった。・・・三十過ぎて暴走族みたいなことして。それで、その集まりはなぜだか解散になった。
僕はその時になっても、この次男坊に特別な感情は抱いていなかった。彼がどうであろうがどうでもよかった。

ラグビーブ次男坊はバイトで入ってきた学生をバカにし、あざけり、安っぽいあだ名をつけて呼んだ。しばらくすると、黙って辞めていく。そんなことが僕のいた数ヶ月の間にも数回繰り返された。
「おい、あいつのバイト料たまっていたのに、辞めたんか」
ある日、バイト生が来ないとそんなことを言う。住所も解っているはずなのに、電話もかけなかったし送金もしなかった。働かせ儲けだと喜んでいた。

求人案内の営業の人が来る。4分の1だったのが2分の1になり、2分の1だったのが1ページを占有するようになり、とうとう見開き2ページになった。置き土産になった未払いのバイト料で広告を打っていたのだった。

パートの女性に対しても、失敗すると大声で激しく怒鳴りつけた。
女性たちは、失業中だったり離婚中だったり、行き遅れだったり、母子家庭だったりして心に傷があったせいか、唇を噛みながら我慢して耐えていた。
「あたし、ここの商品、店で見つけても、ぜったい買わんとよ」
などと静かに話してくれたことがあった。
一度でもパートやバイトで働いたことのある人たちは、この会社で製造した商品を買わなかった。OEMの商品は製造者が明記されていなかったが、常時生産している製品だけにパッケージを見ればわかる。

時々出入り業者がやってきた。次男坊は、ちょっとでもコストカットできる提案をはすぐに採用し、原材料を安価な物に替えたり、混ぜ物をしてかさを増やしたりした。また、法律で使用量の制限されている物質を多めに混入させ、機械充填しやすくすることもあった。一個あたりの売値は、ほんの数円下がるだけだが、それが何万個になると利益がちがうと、したり顔で話した。

次男坊は体力を生かしてスポーツ推薦かで東京の私大に行った。
居酒屋でバイトをしていた他大学の学生が「ビリん、ビリん」と悪罵していた。次男坊憎さで卒業した大学まで憎くなったのか、ボロクソにこきおろしていた。おそらくは、自分の方が偏差値が高いといって見下していたのだろう。そうやって受けた侮辱を吐き出しているかのようだった。次男坊は、大学時代の武勇伝と共に自分の大学がいかに素晴らしいかを喧伝し、横で聞いていた中園に、
「お前の大学より、ランクが上だ」
と、いきりにいきっていた。中園は、はい、その通りですと肩をすくめてへらへらした。居酒屋のバイト生と中園は同じ大学だった。


「中園は、熊大が好かんてよ。お前のことかもよ」
とある時ラグビーブが言った。
僕はなんとも思わなかった。そんなの個人の自由だ。吉永小百合に嫌われない限り、僕は大丈夫だ。えっへん。と高倉健の真似をした。

 

ベルトコンベヤーに並んで、ところてんのパックに賞味期限の刻印を打っていたときだったか、中園は唐突に「熊大とK商大の偏差値はかわらない」と言った。

僕はこの人のことを『K商大』だから劣るなどと思ったことはなかった。むしろ、仕事に過不足がなく教え方も丁寧で解りやすい、仕事のできる人だと尊敬していた。けれども、ひょんなところでこんな乱暴な比較をするから、いまいちと思われるのではないかと思うと残念な気がした。口で勝とうとする時間があったら、自意識にかなう大学に合格する実力をつける勉強に勤しむべきだった。

また、こんな話もした。数年前の卒業時に僕の内定している会社に応募書類を出したのだそうだ。

「返事がなかった」

と言った。無礼だと言わんばかりの、すこし憎々しげなニュアンスを含んでいた。

僕は黙っていた。応募書類など送ったこともなかったし、前の年の時期外れに面接に行った挙句に留年し、翌年(その年の6月)に電話をかけたら採用された経緯は頭の中をめぐったけれど、口からは出なかった。

熊本にいると、熊大だけが褒めそやされ癪にさわるのはわかる。熊本の人は大学は東大ー九大ー熊大の3つしかないと思っているし、旧制のナンバースクールだった歴史から異常な厚遇がされてきた。


ラグビーブと中園は同じ趣味をもっていた。YAMAHA SRX400をふたりで買い込み、いつもは大事に自宅の一階駐車場に置いてあったが、休憩時間中に出してきて洗車したり磨いたりしていた。ふたりとも同じシルバー色で洗車後には工場脇の駐輪場に並べてあった。600CCの方を買わなかったところをみると、ラグビーブも中免制度ができたあとに自動二輪の免許を取った世代だったのだろう。

 

HONDA STEED400で乗り付ける僕にはふたりともあまり関心を示さなかった。どうやらバイクは二人のちぎりの深さを試し求める物であったのだろう。気の合う二人はなんだか、ふにゃっと半ボッキした男根の包皮同士をゆるやかに擦り合わせているような印象があった。

ある日、ラグビーブが慌てて僕のところにやってきた。
「おい、お前はだいじょうぶか?」
何を言っているのだろうと思った。
「ええ、元気です。たぶん、頭もせいじょーー」
いつもなら嘲り怒りそうなところが、
「お前のバイクは大丈夫か?」
心配げに言うではないか。
すぐに工場脇の駐輪場に行った。今朝停めたままに置いてある。
「ありましたよ、特に異常はーー」
ラクビーブはもちろん、知っていて声をかけていたのだった。工場の入り口のすぐ横に駐輪場はあるから一瞥すれば分かる。自分たちのだけなくなって悔しかったので僕を心配させようとでも思ったのだろう。

「なくなった」

と中園が言った。
どうやら、知らぬ間に2台同時になくなったらしい。一体なにが起きたのか? まったく想像できなかった。150キロも200キロもあるバイクを盗んでいく者がいるなどいるだろうか。いくら自動二輪といえども、バイク単体でどこかに行くわけがないし。
それから一週間くらいして、バイクが見つかったと聞いた。

川のまんなかに突き刺さっていたそうだ。引き潮になった時に通りかかると偶然発見したと中園が言った。

あんなに美しかったSRXが汚い泥だらけの川床に刺さり、一週間も水に浸っていたのかと思うと悲しくもあった。彼らの車体磨きも水の泡となったのだ。
しかし一体、どういうわけで? 僕にはさっぱり解らなかった。

それから十年ほどして、事件の全容が明らかになった。

真相を知らずに僕はバイトをやめにした。真相が明らかになったかさえ知らない。夏のおわり頃だったか、朝起きると、なぜだか無性に行きたくなくなった。他のアルバイト生と一緒で、なんの断りも入れずに勝手に辞めた。僕はそういうことが五十六年の人生の中で三度あるけれど、これが初めてだった。正社員、非正規社員、アルバイトをいくつもやった中で三回。24歳の時だった。
あと数日で予定していた終了日になったというのに、なぜだかわけもなく、いきなり。辞めるつもりは全くなかったのに。

バイト料は週単位で計算して支払われていたので、5日分くらいストックされたままだったがそれをもらわずに辞めたのだった。朝露の中、バイクを停めていた原っぱに行ってハンドルに触った時、ーーもういいよ、行くな、そんな思いが心の中にあったのを憶えている。なんどか逡巡したが、もう二度と出向かないだろうと知っていた。未払いのバイト料は次の餌食を雇うための広告掲載料になったのだろう。

バイクから手を離し、下宿に戻ろうとすると、突如、じわーっと嫌悪感が身体中に浸透していくのを感じた。冷え切った体で熱い風呂に入ったときのような。あれは死ぬよう危険な状態だったと自覚したときのような。これまで黙って見ないふりをしていた次男坊の自分への扱いに尋常でない寒気を感じたのだった。全身に鳥肌が立ってきた。それ以来、僕もあの会社の商品は決して買わない。

消えた2台のバイクの謎。僕の中でなんとなくこの疑問は残った。

それから怒涛のサラリーマン時代を経て、2001年、さあ、やるぞと志を遂げ始めたころ、僕には神妙奇妙な能力がわいてきた。誰々から電話が掛かってくると言った直後に電話が鳴り相手がその人だということが頻繁に起こり始めた。同時期に放映されていた『ちゅらさん』のおバアみたいだった。
2007年、佐賀北高校が逆転の満塁ホームランを打ち、甲子園で優勝する夢を見るとその通りになった。2009年WBCの決勝で最後のイチローの打席でスッと白いものが降りたのが見え「今の野球の神が降りたんだよ」と話していたら、あとからインタビューでイチローがそう言っていたり、また、その打席でアップで映し出されたイチローが「いま、世界中で数億人が自分を見ているんだろうな」と思っているよ、と話していたらやはり後々の思い出としてそう語っていた。
川口順子大臣の中国不審船についての国会答弁が口から出る前に分かったり、上野千鶴子がいかに日本人をおかしな方向に洗脳しようとしているかがみえてきたり。そんなことが頻発した。
日常でも、人が何を思い、どんな意図をもっているかが具に分かるようになったのだ。
おそらくは、幼少期からそういう能力があったのであるが、自分では当たり前だと思っていたので気づいていなかった。それをある時期から閉ざしていた。理性に特化した一〇代後半から二十代前半、大学にいた時などそれ専横であったし、会社員時代は余計なことを知りたくなかったので自ら封じていた。のが、全開になったのだろう。気づいていることに明確に気づき始めたのだ。

あの時の消えたバイクについて白昼、夢想した。

実行者は玉置狼さんと他の配送員だった。それがラグビーブと中園のいない時を見計らい、4トントラックを回し、ラダーレールをかけ、急いでバイクを積み込むと、走り去り、近くの川の鉄橋の上から蹴り落とした。