人類の波動の上昇と、それに伴う相互作用システムの変化から、これまで謎や未解決、迷宮入とされてきた事件や事故の真相が明らかになっていく。

そこで、私なりに今の時点でいくつかの有名事件の真相を明かしておこう。

また、人類の波動の高まりに伴い、事件も事故も起きにくくなっていく。いわゆる凶悪事件も減ってきたし、銀行強盗は不可能になった。交通事故死亡者もピーク時に2万人いたのがその15パーセントにまで下がった。

ところが、現在のところピークを超えたものの自殺は依然として多く、癌による死亡は増える一方である。これに変化が訪れるにはさらに深いところにテコ入れをしなければならない。

 

1 有名な事件

 

袴田事件 ⚪️ 冤罪 犯人は被害者の長女と共謀者たち。

小野悦男 ⚫️ 誤審 多数の強姦・殺人・放火をした者を無罪放免。

飯塚事件 ⚫️ 余罪については不問のまま。

足利事件 ⚪️ 冤罪 北関東連続誘拐殺人の犯人は別にいる。

ロス疑惑 ⚫️ 米国司法取引で、共謀者が証言している。

毒カレー ⚫️ 鍋にヒ素を入れたのは次女。意思はマスミ。長女も事の真相を知っていた。

上祖師谷 ❌ すでに犯人は判っている。

旭川失踪 ❌ オーナーがキー。

舞鶴事件 ⚫️ 誤審 犯人「中 勝美」はその他いくつかの未解決事件に関与。

保険火事 ⚫️ 誤審 娘を車に突き飛ばして慰謝料をもらう当たり屋の拡大版。東住吉。

 

・袴田事件の犯人は長女と結託した共謀者八人。彼らが同時刻に二人ずつで一人を襲う。袴田さんは寮の自分の部屋で眠っていた。共謀者が警察の再雇用先でもあったので、うやむやのまま、執行されずに40年以上放置された。おそらく歴代の法務大臣はそのあたりの事情を知っていたと思われる。共謀した者たちには組織の意向があったと思われるが、長女の動機は嫉妬。父親に愛されている次女や袴田さんが憎かった。袴田さんの名前を冠した通称は中止しなければならない。「静岡味噌商店一家殺人放火事件」など。

 

・旭川女子高生失踪事件 初めから終わりまで、雇い主であったオーナーはバイト生であった女子の安否を気遣ったことがない。自分の身の潔白と警察への恨みばかりを発露する。失踪した女子の行き先を知っていると思われる。

妊娠を知られたくないから行方をくらましたとすれば、存命である可能性が高い。

 

・東住吉保険金殺人 通名もしくは帰化名の青木はそのまま表示されているが、内縁の夫の朴龍晧氏はwikiでは「X」と表記されている。

出火時、風呂に入っていた娘はいくらでも逃げ出す時間があったにもかかわらず、なぜか焼死。車庫と風呂場には壁があるので煙が横からくることはない。風呂場の入り口から入ってきたとしても、裏口は台所を通ってすぐなので走って数歩、3秒もかからず外に行けたはず。しかも彼女を置いて母親は逃げる。風呂に入っていたとされる娘は、火事が発生する前から亡くなっていたのではないか。それを火事で死んだように見せかけようとした。しかも児童に対しては法外の保険金がかかっていた。

この事件もそうだが、10歳未満の少女の膣内から犯人の精液がーーと記載されている事件がある。もしそうなら、よほど小さな陰茎なのではないか。直径7ミリ、長さ2~3センチ。精神も陰茎も未発達で幼児程度の自意識の成人がやっているのだろう。

無罪判決は事件から20年が経過して後であったが、気になることがある。犯行当時の母親と内縁の夫の人相だ。母親は整形をしている風で化粧も厚いにもかかわらず醜悪になり、男はヤクザかチンピラのような顔からむしろ普通の男性の顔になっている。20年の間に心境の変化があったのだろう。また、あの世で真相を知った娘がどちらをより恨むか。見捨てた母親であるのが自然な心理だろうと思う。

 

・小野悦男事件 法治国家日本が一部の政治思想を持った者たちの活動に左右された典型。社会不安を煽り混乱させる人権・平和活動家によるでっちあげ。他にいくらでも無実の罪で有罪になった無名の人々がいるはずなのに、そっちのけ。彼らの目的は真相を解明し、社会秩序をよりよくしていくための活動ではなく、国家に反逆したい、死刑をなくしたい、そうした点にだけ固執している。理屈をこねて再犯の可能性のある者を解き放ち、社会不安を増大させたり新たな被害者を作り出すカルト運動家たちの犯罪が付け足されている。

冤罪が確定したので、犯人には3650万円もの補償金が入った。別件の「強姦」に懲役7年が確定しており、その分が差し引かれて1200万円残ったらしい。弁護士費用に充てられたという話もある。その金は1年で使い果たし、窃盗に及ぶ。実刑2年。釈放後、女性一人を強姦、首を切って焼却。5歳の女児に暴行、殺人未遂。無期懲役。

母親は同じ。兄弟六人の父親が全て違う。悦男だけが特定の父の遺伝子や性質を受け継いでいたのか。

 

・和歌山毒カレー事件の真相についての要点

 

殺すつもりはなかった。四人も死んだのは誤算。人を殺すような人物ではない。むしろ、人が信用する人相。それゆえに詐欺が可能だった。

ヒ素は水溶性である。しかしカレーの水分にはすでに塩や砂糖がこけ混んでいた。そこにヒ素を混入しても溶けきれない。混ぜても、カレー鍋の中に疎密ができた。均等に混ざっていれば、集団食中毒のようになるだけで、死者は出ないと思ったのではないか。それまで、死なない程度に害を与えて多額の保険金を手にしてきた経験から、混ぜる量は計算されていたと思われる。

ところが溶けきれなかった場合に致死量に達することを知らなかった。

殺すつもりはなかった。だが、死んだ。

最初に振る舞われた会長、副会長が亡くなっていることから鍋の上の方に溜まっていたのではないか。

 

マスミは「私は犯人ではない」と言う。「真犯人を知っている」と。

次女も「お母さんは犯人ではない」と言う。

どちらも正しい。

実行犯が次女であるならば。だが、意思はマスミにあった。企てたのは彼女。冤罪ではない。

 

判例通りなら『傷害致死』、殺意はなかったが結果的に死人が出た事件で、無期懲役で結審するはずが、冤罪に持ち込もうとしたために死刑を執行するかしないかになってしまった。死者が4人も出ていたことから、弁護側が勇み足をしたのだろう。しかし、いくらいたずら目的であったにしろ、あれだけの被害が出たのに無期懲役では収まりがつかなかっただろうから、実質は今の境遇が相当だろうと思う。

 

祭りのテントに設置されたゴミ袋からヒ素のついた紙コップが発見された。マスミの自宅台所から家族の指紋の検出されない「ヒ素容器」が発見された。これらは、おそらく警察の捏造だろう。証拠を隠滅して罪から逃げようとする犯人に証拠を捏造して捕まえようとする警察。状況からマスミを逮捕して取り調べるには物的証拠が必要。

それらが犯人である確定的な証拠にならないとして、弁護側は冤罪を主張している。

 

紙コップが犯人の投棄であるとするなら、おそらく数個重ねたコップにヒ素を入れて持ってきて、混入後一番外側のコップだけを外してゴミ袋に入れたのだろう。そうすれば指紋は残らない。祭りが始まってから参加者の誰かが混ぜたと思わせたい。その時間帯に彼女たちはカラオケに行っている。

 

アリバイと状況からすると、犯人はマスミとその家族。もしくは隙を突いて混入させた外部の者。ということになる。

もし、鍋にカレーを入れて夏祭りを混乱させてやろうと企画したのがマスミでなかったなら、裁判をあのように取り回しはしない。初めから最後まで「無実」を言い続けなければ不自然だ。取り調べの段階でも裁判でも黙秘権を行使するといった裁判の取り回し方からして、初めから「冤罪」で逃げ伸びようとしていたことが推測される。弁護士は事の真相を知っている。それゆえに、黙秘と判決後の冤罪訴えというのが最善手となると考えた。何か喋ればそれが根拠に矛盾や憶測を生んだり、証言の信用性が沙汰されることになる。途中でコロコロ証言を変えれば精神異常として刑が軽くなることがあるが、喋らない戦法に出たのだろう。その方が冤罪にもって行きやすい。「動機が明確でない」など。

他に探すべき犯人がいないとなれば、犯人のポジションにはマスミが入ることになる。だが、冤罪の可能性があるなら再審議するべきと思う。『被害者の会』がつかんでいる『真犯人の可能性のある者』がすでにいるのだし、親族の中にも「真犯人を知っている」と宣言する人がいるのだから、それらをもう一度洗い直し、何の疑いもなく明確に確定した後に刑を執行しても遅くない。その方が、司法の信用性が増すのではないか。

やっていない証拠は出せないので、やった者の証拠を出す即ち真犯人を見つけることで無実無罪となる。審議は検察の捏造と犯人の関連性で争うのでなく、マスミ氏を含めた真犯人の特定でやって頂きたい。小野悦男や中勝美の事件でもそうするべきではなかったか。

 

真っ黒だと思ってネットを調べる内に、あるいは独自に調査を行う経緯において、彼女が犯人ではないのではないかと思うに至る人も多いようだ。私は全く白紙の状態で冤罪説を知りしばらくは、そうかもしれないなあ、と思っていたが、どういうわけだかある時「このまま世論が盛り上がれば、冤罪で逃げ延びられそうだ」とほくそ笑む林夫妻の顔が浮かんできた。それで彼女の立場に立ち、もし無実だったらどうするか、もし何かを隠していたらどうするか、の心理を読み解きならが事件の詳細を調べた。すると『殺意はなかったが死人が出たのは誤算だった』という思いが核心ならば、あのような言動を選択するだろうと思うに至った。

 

強い魂をもってこの家族に生まれて来られた長男さんには申し訳ないが、企図はやはり彼女にあったと思わないわけにはいきません。オリンピック後には・・・

 

2 有名な事故

 

日航ジャンボ123便墜落事故 

 

外部からの攻撃が主張されているが、内部の亀裂による内部からの連鎖的破壊。事故である。

ネットを検索すると陰謀説が飛び交い事故調の出した結論が完全否定されつつある。政府や自衛隊(米軍)への不信感と北朝鮮の威力を誇示するための工作に思われる。

 

アスファルトを押し上げて芽を出す雑草のことを思い浮かべてもらいたい。弱く小さな力でも、何度も何度もゆっくり押せば硬いアスファルトを押し上げ崩すことができる。

ちいさなクラックから始まった金属疲労によってある時、ドンと壊れた。一つの部分が壊れたことによって一気に他の部分も壊れた。そして操縦不能となった。

事故調の解明結果通り圧力隔壁の破壊が原因でないにしても、それが外部からミサイルが当たったなどの外部衝突の根拠にはならない。内部からの破壊の発生元と経路が異なるだけで、時速700キロで飛ぶ飛行機に偶然自衛隊の練習機や米軍のミサイルが当たったり、ましてや北朝鮮のミサイルが当たるなどありえない。もしそんなことがあるなら、それらの破片や化学物質が残っているはずであるし、ジャンボは即座に相模湾に墜落していたことだろう。

 

墜落事故以来36年にわたって国内線の墜落事故がないのは、原因が究明され再発防止が徹底されてきた証だと思う。

 

3 上祖師谷3丁目一家四人殺害事件の真相

 

戦後日本の名誉回復と復権によって、逮捕や裁判が可能になるものと思われる。

 

警視庁の公式発表、様々な物的証拠や占い、チャネリング、霊視、透視、憑依などから、つじつまが合うと私が強く反応したことから事件の経緯を推測する。

 

犯人 当時43歳(現在64歳)男 A型 特殊な指紋を有する 日本国籍を含む複数の国籍を持つ(小説『GO』の中でも描かれている)複数の日本名あり 教会幹部の運転手だった。民団とも関わりがある。犯行後、整形。整形は自国で行なったと思われる。

被害者のみきおさん(44歳)と妻の泰子さん(41歳)と同世代であったことから、それなりに親交があった。事件の二年前くらいから特に頻度が増した。

みきおさんは頭脳明晰で思想的に差別なく人に優しかった。しかしその反面、不正には厳しかった。と言っても、自分の価値観で他人を裁いて回るようなことはなかった。隙や落ち度のない完璧な人格だった。

教会の教義を知ったみきおさんはその素晴らしさを理解し、入信するが、実情が理解されるにつれ疑問を持ち始める。脱退し、むしろ教会に批判的になった。

 

12月30日

 

休日に行く予定の劇団四季の打ち合わせや仕事やその他、世間話など飲みながら話そうということになっていた。ビールとアイスクリームを買って冷蔵庫に入れておいた。どこそこのアイスクリームが食べたいと言っていたのでそれを用意し、喜ばせようと待っていた。

 

午後11時

 

チャイムが鳴る。ちょうど一階の納戸の所にいたみきおさんが玄関の扉小窓から外を確認し、犯人だと判ると施錠を解除し、扉を開ける。

「やあ、よく来たね。いらっしゃい」

ふふ。

「寒かったろう。今日はイイ物を用意しているんだ」

「俺もだ」

「おお、なに?」

脱いで腕にかけていたジャンバーに隠した包丁を取り出して見せる。

「なんだ、それ?」

「プレゼントだ」

「プレゼント?」

「冥土のみやげだ」(コロケーションがおかしい)刺そうとして包丁を突き出してくる。

「冗談はよせ」

「お前らみんな地獄に送ってやる」

押し押され押して押し返し、時々切りつけ突き飛ばし蹴り、押し引き抵抗するも、玄関前の簡易教室の奥に追い込んでいく、みきおさん妻子に向かって危険を知らせ、逃げるように大声を出す。その時、深く入る。失血と極度の緊張により力が抜ける、倒れこんだみきおさんに数回、致命傷を負わせ、気絶、絶命。なおも刺す。11時3分 

すぐにロフトの梯子をのぼり布団の中にいた母子を刺す。

二人逃げ、母泰子さん、長男に二段ベッドに隠れ中から鍵をかけるように指示。包丁で応戦。ロフトを降りてすぐの所に流しがある。狭い家では逃げ場がなく、そこの包丁を持つしかなかった。防御しようと手に取ったが、緊張と恐怖で委縮。

ただ、構えているだけ。しかし犯人が娘に手をかけたので切りつける。とっさに犯人の右手を狙う。包丁が使えなくなれば犯行をやめると判断して。娘を庇うように覆いかぶさる泰子さん。犯人、持っていた包丁で泰子さんを刺す。力を失った泰子さんが床に倒れこむ。「これでも刺して欲しいのか?」と包丁を取り上げメッタ刺しにした後、顔を撫でるように横に引き、刻む。失神。絶命。11時10分

 

俺は非情な男だ。本物の工作員だ。訓練通りにやれた。

 

返り刄を受けないようにくるんでいない包丁で何度も刺したため、犯人は右手の内側に傷を負う。また、泰子さんに切られた外側の傷もある。それを家にあった物で治療。

 

着ていた服を脱ぎ、みきおさんのトレーナーに着替える。

 

最後に長男の部屋に行った。隠れているも見つかる。逃げ惑う礼くん。後ろから捕まえ、背中を殴りつける。もう一度殴りつけて、首を締め付ける。11時15分~

この方法も訓練で習ったことだ。実戦でもやれた。俺はできる男だ。達成感をかみしめる。

 

武器も持たない平和主義の男性と寝間着姿の女性と子供を襲って。

 

(長男の礼くんは優しくて温厚でとても頭の良い子だった。しっかりと物事や人を観るために何を考えているのか解らない、と外からは思われていたようだ。じっくり考えて話すタイプだったために言葉が遅いと見なされていた。だが、違う。非常に霊格の高い、大人しい子供だった)

 

冷蔵庫を開け、麦茶を飲む。

これか。アイスクリーム見つけ、取り出して食べながら家の中を物色。

 

アイスクリームの食べ過ぎか、腹が痛くなったので一階のトイレで大便をする。そのすぐ前には母子が血まみれでかぶさるように倒れている。

 

ポケットに何か入れていたのを思い出し、取り出すために玄関の靴脱ぎ場に落としていた自分のジャンバーを拾いに行く、2階に持って来て椅子にかける。

 

着ていた血の付いた服を洗う。

 

書類を選別し、要らない物を風呂場に投げ入れる。

 

翌午前1時18分

 

みきおさんのパソコンを起動、劇団四季のチケットが予約されているかを確かめる。まだ予約されていなかったので予約してみようとするができなかった。

パソコンのコードを引き抜く。(パソコンは複数台あり、朝になって起動したとされるのは別のパソコンだったのではないか)

 

ソファーで横になって眠る。

 

12月31日 午前9時ごろ

 

隣から内線電話が鳴る。それで目が覚める。時計を見ると9時過ぎている。逃げなくては。内線のコードを引き抜く。

2階の浴槽から脱出。

右手に深い傷を負っていたので、足で網戸を蹴り落とす。時間が経ち、傷が突っ張って痛みがあった。

まず隣の屋根に移り、そこからフェンス越しの樹木に向かってジャンプ、着地。

負傷するが、そのまま逃走。

 

その後、隣に住む泰子さんの母親が訪れる。呼び鈴を押しても出てないので合鍵を持ってきて開けると事件発覚。10時20~30ごろ

 

着ていた服やマフラー、ジャンパー、ウエストバッグなど遺留品が多く残されていたのは、犯人が犯罪のプロではなく野戦での特殊部隊の訓練を受けていたためであったと推測する。戦闘に不必要な物は全て捨てていくという習慣があった。あるいは、日頃着ない服を着て行き、それを脱いで残すことで捜査の攪乱を狙ったのかもしれない。

 

部隊の訓練を受けていたといっても、実戦経験はなく知識とシュミレーションだけだった。相手が敵国の戦闘員だと、何もできないまま後手に掴まれ、一撃でどとめをさされていただろう。無抵抗の非戦闘員や寝間着姿の女子どもを手にかける脆弱な精神なので。

 

動機

 

被害者一家の家が区画整理にかかった。これを時価で買い取り、転売しようとしていた組織があったという背景。

役所とみきおさんでは考え方の違いがあった。そこに転売組織が絡んできた。

また、以前は信仰していた教会から抜けたばかりでなく反旗を翻した状況もあった。

 

親交のあった犯人は、幸せそうな一家に嫉妬、恨みがあった。家を丸ごと自分の物にしたいと思っていた。

 

そこに、みきおさんを消そうと決めた首謀者が、被害者一家に親しかった実行犯に打診。

「お前はグリーンベレーで訓練したと言うが本当か?」

「ああ」

「お前は本物の特殊工作員か?」

「本物だ」

「今度、あそこをやって欲しいんだが」「お前にできるか?」

「・・・」

「できないんだろう。口だけだな」

「口だけじゃない」

「優しくしてくれる者、恩のある者も冷酷にやれなければ、本物の特殊部隊とは言わない」「お前は本物か?」

「ああ」

「やって見せてくれないか」「お前が本物かどうか見てやる」

「・・・」

「もちろん、タダではない。ちゃんと報酬はある。これだけだ」

指を一本立てて見せる。

「1億?」

「大きくでたな」「一人につき百万」「いや、二百だ」「あるじだけだと面がバレる。他の家族の口も封じておけ」「ほら、今流行りの服だ。キムタクだぞ。これを着ていけ。イメチェンだ」

 

犯行数日前 

 

犯 人「話がある」

みきお「そうか、それなら30日の11時ごろ、みんながベッドに入った後にしようじゃないか。飲みながら話そう」

 

そうして訪問し一連のことが起きる。

 

誰もいなくなった家で、犯人は「自分の家のようにくつろいでみたかった」というかねてからの願望も果たした。

 

警視庁の発表では犯人は15から30歳までとされているが、43歳、被害者夫婦と同世代という霊視に私は強く反応した。

 

霊的側面

 

思想的なこともあり、みきおさんは、危険な団体とされる集団や精神に異常のあると思われる者とも交流した。むしろ積極的に関わったかもしれない。教団にはない救い主に自分がなろうとされていたのではないか。

 

みきおさんは非常に立派な人物である。優しく思いやりがあり、誰にも分け隔てなく面倒見が良く情に厚い、いわゆる人間として完璧な人格者であった。その上、頭も良く善悪をきちんと見分けることができた。まさに非の打ち所のない人であった。

「あんな素晴らしい人が死んで。殺されてもいい奴は他にたくさんいるけどな」と嘆く人もあるだろう。光市の事件や闇の職業安定所事件などもまさにそうだろう。

「殺されたのだから、何か悪いことをしていたのだろう」といった浅はかで愚かな逆説を相変わらず唱える者もいるかもしれない。

しかしそうではない。みきおさんが立派な人格者であるからこそ起きてきたことだ。と私は観る。

 

非常に不条理な、恩を仇で返すような所業。現世の法律や倫理観でも、一方的に犯人が「悪い」もしくは彼をそそのかした首謀者が「悪い」。

「悪い」という言い方には語弊があるので、非常に低いレベルの霊性から発した行動だと言い換えておこう。

やった者にはそれぞれの正義や善がある。それはどんなことでも、誰でもそうだ。

しかしここではそのことは脇に置き、

 

なぜ、それは起きたのか?

 

と別の視点から問いかける。もし、みきおさんの本体が次に肉体(と魂)をこの世に送り込んでくるとすれば、同じ信念や認識で生きるだろうか。という問いである。

いわゆる「悪い事」をしたわけでもないのに、悲惨な目に遭った。どうしてそんなことになったのか。

 

何があの事件を引き込んだのか? 創りだしたのか? となれば物理的な側面とは異なる視点で見つめることになる。

 

もし、自分のあり方を熟知していて、「こんな在り方をしてこんな人たちに関われば、こういうこともあるかもしれない」と自覚していたとすれば、死後「あっ」と気づいてすぐに昇天したことだろう。だがまだ家族はあのままの姿で家族を続けている様子である。最も霊格の高かった礼くんがしばらく家族に付き合った後で、そろそろ昇天しようとしているようだ。お母さんと娘さんは悲しさが残っているように感じる。執着は少ないが未練はあるようだ。無念だったと思う。みきおさんは、少し変わり始めている。何となく受け入れ始めているように思う。

彼なりに「善い」と思う生き方をしていただろうから、受け入れにくかもしれないが、もし自分に非があったとすればどこだろう、と問うとどうなるだろう。もっと高次に行くためだ。非というか、残虐事件を創り出したポイントである。もっと高度な生き方をするには、この事件によって何を自覚するべきなのか。何があの事件を創り出していたか。

 

他の誰でもなく、なぜ自分に起きたのか。自分のどこがこの事件を創り出したのか。

 

もしその答えがあの事件から得られたとすれば、犯人は憎むべき対象どころか、ありがたい教師だった、とは現世ではなかなか言えるものではない。だが、そう捉える以外に、次に進む視点があるのだろうか? 日常のことでも些細な人間関係にしてもそうだ。怒涛のごとき反論と悪馬、唾棄の嵐を覚悟して言うなら、それゆえに、それが真実、ということになる。ーーこう言っている私自身、肉体とエゴを持った私自身がどれほどこれを受け入れられるか。同じ目に遭えば、祟り神となって相手を末代に渡って呪い続けるかもしれない。いや、やる。(末代に渡って呪うには、死滅させないで、繋ぎはするが例えば跡継ぎがいつも40歳で死ぬなどのことが起きるようだ)

 

だが私程度では、みきおさんに起きてきたことは起きないだろう。彼には非常に高度なレベルで起きていることだ。

 

同じようなことが私もしくは他者に起きたとしても、同じではない。それぞれが異なる。『何が起きたか』は、当事者の定義によると言える。それは直後と悟ってからでは違う場合も多いだろう。物理次元とそれに近い周波数帯での出来事と霊的な周波数帯での見え方では同じことが異なったこととして存在している。(この見方は非常に高次元的なものなので、字面だけで安易に決めつけないよう願う)このあと述べることも含めて、物理次元のことだけで認識や信念を組み立てている者はすぐに誤解し、理屈をこねて自己正当化し始めるだろう。

 

私なら事前に予測または察知し、木刀もしくは鉄パイプを用意する。それを外部者に知られないがすぐに手に取れるところに準備しておく。自分が無抵抗でやられてしまえば、すなわち相手の低次元の意のままにやらせてしまえば、自他共に大変大きな衝撃を与えまた陰惨な念を周囲に広げてしまうので、互角か無謀な行為を実行できないくらいに抑え込んでしまうだろう。まずは日頃の発言や態度を通して。これは虚勢を張るのではない。あるいは内臓や脳に『念』を仕込んでおく。よからぬことを実行しようとすれば破れるように。

暴力を止める最終手段が暴力である場合もある。低次の目的を持った暴力を高次の目的の暴力で阻止するのは同じではない。「武」は、低次の目的を遂げようとする低次の暴力に敢然毅然と立ち向かう高次の力のことである。「暴力は暴力だろ?」などと賤しいロジックですり替え認めないのは、利己主義と我欲・物欲主義など低次元の侵略者だけだ。また、「やられるかもしれないので先にやった」というのは恐れに基づく卑しい自己正当化である。暴力と武力はレベルの異なる概念だ。背景に武力のない『非暴力不服従』などない。相手に攻めさせ滅させるのは相手の滅亡を促進することであり、愛のすることではない。自滅をさせないよう相互作用をするのをインテリジェンスと言う。智性はある高いレベルの愛の現れであろう。万人万物が共存関係にあることは否定できないことだ。できれば相互作用を通して、相互依存でなく、より高度な互恵関係を築くっていければベストかと思う。

 

人間として完璧である。「善い」価値観や倫理観をもっている。しかし、意識の観点からすると『人間として好ましくないこと』を創り出している場合がある。

卑近な例では「頑張る」「皆に好かれようとする」「みんな仲良く」「やられてもやり返してはいけない」など。そうした信念でさえよく分からずに言葉通りに実行しようとすることが、意識の(霊的な)世界に何を創り出しているか、よくよく洞察したが身のためだと思う。

 

みきおさんは「救済」が頭にあったように思う。また、「慈悲」があったので関わりを持った。恵まれない人ほど親切にしなければならないという信念があったかもしれない。これはあくまで私の想像であるし、本人には全く不本意のことかもしれない。本人には本人の思い当たることがあることだろう。たとえば、ということで聴いてもらいたい。

慈悲をかけたという状態。一般には善いことである。非常に高次の行為であるのは間違いない。だが自己満足が潜んでいるかもしれない。常にここに注意しなければ、善意の押し付け、余計なお節介にならないとも限らない。もしかするとわずかにこれがあった、あったことに気づいていなかったとすればどうだろう。大変微妙なことである。魂の間の、物言わず語らずの駆け引きの部分だ。

常にフィフティフィフティに持っていかねば、バランスが崩れる。してもらっている方が大柄に出るのをニコニコ許容しなければならない、してやっている方が屈辱的な状態すらあるかもしれない。そうした状態に居らずに「施す」にはどうすればよいか。とても高次の問いかけである。どんな理由であろうとこの人を裏切ることだけはできない、とブレーキがかかる、あるいはそうとしか思えないようにしておくとはどういう状態か。

 

慈悲をかけられた方の魂はどう感じるか。魂は常に対等であろうとする。均衡を保とうとする。それが自然なことであり、真理であろう。相手より下になったり、へりくだるのは無理がある。「プライド」が高ければ(=自意識が低く劣等感が強ければ)むしろ相手より優位に立とうとするかもしれない。微細なことまで観ずに慈悲をかけるのは負のカルマを作ることでもあるだろう。

「してやった」という奢りがなかったか。そこは問い直すべき点であろう。おのが思想・信念を押し付けていた側面はなかったか。

渋い顔で善意や慈悲を拒絶する人もいれば、「もらえるもんならもらっておこう」と利用する者もいる。どちらにせよ、慈悲などかけられて相手より下にいることを魂は望まない。(下手に出ることで金を儲けようと考えていれば、自意識は保ったままである)

だから、「善行」は分からないようにやれ、気づかれないようにやれ、と囁かれている。「私がやりました!」と他人の善行や手柄まで取って食おうとする者もいるが、むしろそのくらい愚かである方が、このような事件は創り出さないだろう。

 

例えば、こんなことを考えてみた。犯人が与えようとしたのは「屈辱」だった。常に屈辱を覚えていた。常に恨みを抱えていた。屈辱を「相手に与えることで自分からなくそう」とした。つまり、逆恨みのような屈辱を晴らそうとしたのである。

 

屈辱を他人に与えるとは、自分を貶める行為である。

嫉妬心や被害者意識があると、他人の成功や幸せに屈辱を受けたと恨む。

程度の低いのを知らされると逆恨みする ありもしない被害に復讐を企てる。

自由、名誉、人権を蹂躙するのが屈辱。親切にされることでそうなったと妄想していた。

妄想した屈辱をやり返したつもりが、自分自身が屈辱になった。

どんな屈辱か。訓練を積んだ対等の相手との格闘でなく、弱い者しか貶められないという屈辱。非常に卑小で劣等な自分を自覚せざるを得なくなった。

 

「かわいそうな者」への優しさや親切が時として屈辱を与えた格好になることもある。

 

被害者、加害者ともに何を学ぶか。この事件を知った我々傍観者は何を学ぶか。

 

次にみきおさんがこの世に生まれてきた時、では、かわいそうな立場にいる者をさげすみ、あざけり、先入観で差別し、押しやって叩きのめすか。それとも、他者の幸福を恨み屈辱を覚え増大させる者を諭し、諭しても無効なら距離を置くようにするか。

この世で生き抜くには、経典のようにはいかない。頭で知っている知識通りにはいかない。食う、ということもあるし、肉体もエゴも欲もある。それがせめぎあい、葛藤している世界だ。人間の程度は下から上まである。地球とはそういう所だ。最低から最高まで共存しながら、平均値は低い。若い。未熟だ。覚醒度合いも千差万別である。低次に落ちることはないが、社会には高次のことだけが通用するのではない、高次の知識だけで押していけるものでもない。そのことは大抵の人が知っているのではないか。理想を追い求めるなら、ギリギリの瀬戸際で生きていかねばならなかった。殉職するつもりでいなければならなかった。だが、意識というものの働きをもっとよく知ればどうなるか。

 

気狂いやケダモノを人間と同じように見なし扱うか。

 

この犯人へは「こんな酷いことをしやがって、八つ裂きにしてしまえ」という意見もあれば、

「あんなことまでやって、とても辛かったのね」という見方もあるだろう。

傍観者がどんな見方をしようが、やったことはやったこと。犯人にはそれにふさわしい報復がある。この世の報酬とは異なる。法律やこの世の罰から逃れようが、必ず報いがある。絶対だ。これは真理であるので誰も覆せない。

 

犯人の男の意識は非常におぼろげで、漠然としたもの、呆然としたもがベースになっていて、それに強烈な恨みだけが際立って有るといった状態に感じる。自分でも何をやっているのか解らない、いわば本能的な、肉とエゴの欲求だけが突き出している。非常に情緒に乏しく、恨みとか負けん気のような低い情念に流れていくタイプ。煽られると低い情動で動く。

 

私なら、このような者とは関わりを持たない。修羅に在る者は修羅に在る者、地獄に在る者は地獄に在る者に任せておくのが最善と思うからだ。その領域にも格の違いがあり、同じような在り方をこれでもかと見せられることで、それぞれが学び合えるようになっている。

 

もし玄関先で包丁を取り出す男がいたら、侵入を阻止せよ。最後は本能だ。指に噛みついて噛みちぎれ。鼻に噛みついて噛みちぎれ。そうすれば、逃亡したとしても誰だか分かる。男なら、自分の所で止めて、妻子に手を出させるな。なんとしてでもだ。顔面を殴って前歯を叩き折れ。木刀で頭を叩き割れ。亡霊のごとく足にしがみつき、足の小指を噛みちぎれ。理屈ではない。思想ではない。主義ではない。本能だ。それが最も自他のためになる。犯人にもそれ以上の犯行をさせなくて済む。社会に一家惨殺の衝撃を与えずに済む。殺されても死霊となって取り憑き、発狂させろ。自首させろ。遠慮も優しさも要らない。そんなものアダにあるだけだ。火事場の馬鹿力を発揮しろ。包丁をもって押し入ろうとする輩がいたら、耳を噛みちぎれ。目の玉えぐり出して、引き抜け。頭脳じゃない。腕力じゃない。気力じゃない。本能だ。あばらをへし折れ。指を手の甲に折り曲げろ。ほっぺたに噛みついて噛みちぎれ。死に物狂いでしがみつき、キンタマ蹴り上げろ。ちんぽ噛み切れ。血まみれになりながらでも、やれ。おめおめやられてんじゃない。最期の力を振り絞って飛びついて、肛門から拳突っ込んで胃を引きずり出せ。血だるまになりながら、鉄パイプで脳天かち割れ。タコ殴りだ。恥も外聞も体面もない。地獄に道連れだ。地獄に行っても追いかけ回せ。未来永劫、祟りついてやる。いざとなったら、それくらいやるという気迫を漂わせていないから、舐められてんだよ。

実際にその場にいると傍観者が評論するようにうまくはいかないことも多々あるだろう。しかし死霊になってでも止めなければならないこともある。死霊になってならできることもある。

いつまでも当時のままでママゴト遊びを続けるのはもうやめろ。今からでも遅くない。みきおさんの魂よ、犯人に取り憑いて自首させな。発狂させてもいい。自首すれば、社会から一つ不安がなくなる。人間の本当の本能は愛だ。それが最も宇宙の摂理にかなうようになっている。

 

だいたい、こんなにセキュリティの低い所で、学習塾を開いていたのか。

 

上祖師谷3丁目で何が起きていたか解っていかなったから、池田小の事件を許してしまったんだな。キチガイに刃物。武をもっているのは、志の高いことだ。防犯セキュリティの意識が高ければ「同じ暴力だ」とか「やられてもやり返してはいけない」などという偏向した愚鈍な信念をベースに学校を作らないだろう。学校の「校」の字が元々何を意味していたか。性善説も性悪説も適切ではない。

 

少し話はそれるかもしれないが、防犯カメラは「防犯カメラを設置している」ことを書いて表示していなければ、盗撮である。防犯にならず、他人のプライバシーを覗き見る、あるいは犯行を許し、後で責めるための証拠にしているだけである。これらの行為は卑猥な者のすることだ。

 

その他

 

これこそ全くの当て推測なのだけれど、すでに犯人は特定されているのではないか。そのことは遺族にも知らされている。今は公安扱いとなって犯人の行動は常に把握されている。元々、遺族も知っている者なので、関係者レベルでは解明されている事件だと言える。だが、刑事レベルでは未解決となっている。裁判や量刑となれば、日本国民が真っ当な考えを持つようになり、対韓国、その出先機関、教会などに何の遠慮もせず「平等」に調査、裁判ができるようになることだろうと思う。また、ジンケン弁護士や支援団体、ヘワウンド団体、極右団体などを危険視して触らないようしておこうとする国民の意識は警察や公安、裁判官や検察、弁護士にまで影響を与えている。真相解明とそれに基づいた、より高度な調和を持った社会を作ることを目的として事件にあたるよう国民一人ひとりが変わっていけば、厳罰化や強制捜査の方だけでなく、事件自体を未然に防ぐようになるのではないか。

個人の人権のために全体が犠牲になるのも、全体の秩序のために個人が犠牲になるのも、程度の低い社会である。個々人が各々志を遂げながらも全体が高度に調和している状態の社会であれば、いわゆる凶悪犯のような個人の人権を蹂躙するような事件をどう取り扱うか。そこに社会の意識レベルが現れると思う。

 

4 所感

 

歴史的に支那政権が半島を混乱させようとして棄民した精神異常者がいる。それが半島で子孫をつないでいる。1910年の併合後、半島からは志と才能のある中民あるいは両班と棄民系の両極端が入ってきたのではないか。共に居場所を求めてであったが、その目的は違っていた。

スポーツ、芸能などの分野で活躍している者も多い。愛すべき人たちもいる。半島沿岸部には和人が住んでいて、その人たちが現在でも半島の集合意識にも影響を与えているし、彼らが「朝鮮人」として渡ってきてもいる。

朝鮮人だからといって即座に精神異常者と決めつけることはできない。割合は多いだろうし、そんな目で見られたことを理由にそのようになっていく者もいたことだろう。

半島出身者の傾向として、非常に個人主義が強いと同時に同族意識も強い。自分が犯罪者と同じように悪く言われないようにと同胞をかばい無罪に持ち込もうとする意識が働いている。それがかえって、全体を悪く決めつけられるように機能している。小さく矛盾しているので意図とは逆の結果が生じている。

日本で問題になる凶悪事件や残虐事件は多くの割合で半島出身者である。これは統計資料からして事実である。だからといって、これを逆にし「では凶悪、残虐事件はすべて半島出身者である」と決めつけるのは眼暗のすることだ。

両極いる。

そのことを踏まえた上で事件を考察するのが好いと思う。

 

支那人は、半島のような民族意識は乏しく(仲間意識が強いが)、日本で犯罪を起こした者には日本で裁いて処置してくれ、死刑にしてもらったら手間が省ける、くらいの意識のようだ。

 

彼らは「高い方」にも「低い方」にも、よくもわるくも引っ込み思案で控えめな日本人を差し置いて、未開拓の分野を切り開く「挑戦人」でもあるわけだ。そこは大いに認めた上で、せっかく民族意識という連帯感があるのだから、犯罪をなくすようコミュニティで自制して頂きたい。インド人やタイ人、その他、そうしたコミュニティを持って日本に暮らしている外国人もある。そうなれば芸能、スポーツその他の分野で秀でた人々がもっと評価され、朝鮮人自体の格も上がると思う。

 

5 最後に

 

興味本意で事件を扱ってはいけないという人もあるだろう。だが、興味本意でもいいから、今の時代にいくつかの事件を調べておくのは重要なことだと思う。単に「かわいそう」「残虐だ」「悲惨だ」といったありきたりの感想をもって終わるのではなく、できる限り調べ、自分なりに考察、洞察しておく。そうしておけば後年、事件が解明された時に照らし合わせることで自分の見立てとのズレを確認することができる。どのくらい物事の本質や核心を見抜き、見極めることができていたか、それが分かるというものだ。自分本意、エゴのように思えるかもしれないが、自分の眼力をあげていくことは、社会に貢献することでもある。事件を風化させないと願うのは遺族の思いでもある。初めは興味本位でもいいので、自分に引きつけ、自分と照らし合わせて事件を見つめ直して頂きたい。

 

死刑という法制度をなくすのでなく、死刑に値するような事をしない、しなくて済むような個々人の人格や社会の在り方を創っていった方が賢明ではないか。

死刑はあっても、ほとんど関係ない。死刑になるような事をしなければ済む話である。たいていの人にとって死刑などあろうがなかろうがどうでもよい法律である。

欧米などでは死刑をしなくて済むように、現場で銃殺される。日本で言えば、秋葉原無差別殺人とか、京都アニメ焼殺事件とか、

現行犯で犯人が確定していて、武器で抵抗しようとするのであれば、警官あるいは狙撃班がその場で射殺だ。詳細など知る必要もないと考えているのだろう。

死刑のない国々と死刑のある日本で、どちらの犯罪率が低いか。もし、両者に因果関係があるとするなら、死刑のある日本の方が犯罪は実数としても少ないし、率も低い。これをどう読むのか。

外国勢力として死刑反対を唱えて冤罪に持ち込む者たちを除き、自分なりの経験から反対している者が、濡れ衣を着せてくる性根に対する恨みがあるのは解るけれども、だからといって死刑をなくせば済む話ではないのではないか。あるいは事を為した者を無実にするのは全く気の狂った所業に思える。再犯の可能性にある者を野に放ち、新たな被害者を創り出す。社会に不安を増殖させておくのは何のつもりか。いくら権力が嫌いだからと、あらぬ疑いをかけられるのが嫌いだからといって、どうして他人を危険に巻き込む必要があるのか。

 

人権活動家は死刑をなくすことに血道をあげるのでなく、死刑でもって犯人に復讐したくなるような事を起こさないような人間や社会を創ることに尽力して頂きたい。そうして死刑を有名無実にすれば良いと思う。

死刑をなくすことが死刑に値しない人間を育てることになるのか、眼を拓き、よくよく洞察して頂きたい。

 

よく「事件の闇」とか「真相は闇の中」と言うけれども、闇ではない。ちゃんとそこには何かが『在る』。解らないのは、我々の眼が開いていないからだ。しかし、事件の真相を追求し、外周部を理解し、どんどん核心に迫っても、やはり解らないところがる。

核心の核心、その中心の中心にどんどん入っていくと、そこには何もない。『何もない』という空洞が存在している。どんなに眼を開いても、その部分は謎なのだ。我々が決意するまでは。

その事件を踏まえて、次にはどんな世界を作ると我々が選択し、決意するか、それがド真ん中には入るのではないか。たとえば「あのような悲惨な事件や事故が二度とふたたび起きない、安全で円滑な、安心して暮らせる社会」を作るという決意。そのための適切で的確な創意工夫をする。望んだ高次元の世界が現実に登場した時、あの事件が何物であったかが変化する。というより、謎が解明されたのだ。なぜ、それが起き、起きたことで何が変わったか。「あれは悲惨な事件、事故だったけど、あれのおかげで同じことが起きなくなった」黙って感謝する。

そう思えた時、謎が謎でなくなり、明解になる。

 

 

次回予告

 

第二次大戦で日本が負けなかったことにしないかという提案を夢の中で受けた話