たとえば、盲腸。
身近なもので言えば、バイクや車でメーター周りにある警告灯が点いていたとする。どこかが異常なのを報せている。相談した修理屋が、赤く点滅している電球を切り取とって「直りました」と言ったら、あなたは納得するだろうか? 「ああ、よかった。これで正常だ」と喜んで、金を払うだろうか?
ところが盲腸となれば、医者に腫れた患部を切除すれば「治る」と言われ、急いで切り取ってもらっては「直った」と喜んでいるではないか。そして高い金を払う。
こういう様をわたしは「アタマが悪い」と言っているのだ。霊道が詰まり濁っている。あまりにも現象にだけ囚われた物の見方であると思うのだ。というより、眠りこけ何がどうなっているか自分が何をやっているのか観えていない。
いや、自分は盲腸は大事と知っている。何の器官か解らなかったのは昔のことだ、と言う。けれども、甲状腺が腫れたら甲状腺を、肝臓が腫れたら肝臓を惜しげもなく切ってもらい「直った」と思うではないか。二度と戻らぬ機能を損なっておきながら、大枚をはたく。馬鹿でないなら、マゾヒスト(自虐嗜好家)か何かなのだろう。
盲腸を切り取った。それはすなわち、機器の警告灯を目の前からどかしただけである。
このようなことを言えば、たちまち反論と誤解が生じてくる。
いいや。このことについては自分の方がよく知っている。「アタマが悪いのはお前だ」と言い返してくる者が後を絶たない。
「気持ち悪い」にしてもそうだ。わたしが何かあるいは誰かについてそう言ったからと、別のことで「気持ち悪い」と罵倒してくる輩。
水温が三十九度なら「ぬるい」四十三度なら「熱い」と言うだろう。その方が人間には解りやすい。
霊格の程度に応じて平等に測っているのである。「これらの言動は四・三次元です」とか「意識の指標で62です」と言ってもいいが、それでは何のことだか解らない人が多いだろう。だから「文学的」な表現をしているのにすぎない。四次元領域の前半にいる者あるいは意識指数174以下の者のやることなすこと気持ち悪いと感じるのである。「笑えるほどのバカ」と言ってもいいが、お化け屋敷で扮装している幽霊のようなヌメーっとした感じに似ているのであるから「気落ち悪い」を採用しているのだ。いづれにしろ、個人的な価値観で他人を裁き非難、排除、侮蔑しているのではない。マイナスに居ますよ、マイナスを出していますよ、と伝えているのだーー
思い出した。ある者についてわたしが「五歳程度だ」とか「八歳程度だ」と評したのを真似して、わたしをそう評した者もいた。わたしが五歳程度だから全員を五歳だと見なしているのであれば、わたしをそう評するのは的を射ている。だが、イエスやゴータマが(あくまで霊的教師であるが)人間としてほぼ極限の認識にまで達していたことは分かるし、現在存命の人の中でも、この人はわたしより遥かの高みに至った人類の叡智だと思うこともあるし、身近に触れ合う人の一人一人、霊格の違いは分かる。それを、言ったから言い返しているのであれば、自分もそう言われるのではないかという恐れがあるか盲目かのいずれかだろう。つまり五歳だと薄々気づいているということだ。そういう者は固定した善/悪を採用したがる傾向にある。
ついでに言っておくと、私が何かのエッセイで「僕は韓国人かもしれなかった」と書けば「あいつ韓国人ゲナ」と決めつけるのがいる。悪意か知能が低いかのいずれかだろう。それまでの文章を読めば浅はかで愚かな既成社会への当てつけ皮肉と解りそうなものだ。もしそんな読み方をしている者があれば、相当ゆがめて受け取っているので自分の物の見方を再検討した方が賢明だ。
こちらは人物の自己選択や物事の本質、核心を見極め最適な方法を考案するのを旨として生きているのである。悪口的に書いたとすれば、緩めてより高度な所を選ぶよういざなっているのであるが、うまくいかなかったことも多々あり、より効果的な方法を模索する。
悪口的というのは、言葉にネガティブな意味合いが多く付着した言葉をあえて使うということだ。そうすると急いで〝矛盾〟を指摘してくる者がある。「お前は愛がどうのこうの言うけれども、批難はいけないと言うけれども、人を責めているではないか」とか。けれども、こちらはパンチを効かせようとしてのことであった。例えば「知能が低い」。事実であったとしても「読解力に乏しい」とか「著者の表現力が拙かった」などと換言すれば柔らかくなる。が、こんな書き方ばかりしていると読んでいて眠くなるし、この2元性の世界にあっては意味が伝わりにくいし、揺さぶりがかけられないと思ってのことだ。
と言えば、たちまち「言い訳!」と思いつくのがエゴである。エゴはひとまず脇に置いて、どう読むのが自分の霊的進化に最も貢献するかという観点から素直に耳を傾けてもらいたい。
しかし世の中には、熱心に矛盾を探している人というのがいて、見つけては鬼の首を取ったような顔をして自慢する。どうせなら、どの程度の矛盾なのかを見極めれば有意義というものであろうと思う。おそらく、この宇宙には人間的視点から見れば矛盾していないことはない、と知らないのだろう。にもかかわらず、いちいち矛盾にばかり気を囚われ、無駄な労働に勤しんでいる。しかも大きく矛盾していることは観えず、いつも自分と同じ極小の矛盾だと決めつけて大得意になるようだ。的を外しているのに当たったと勘違いしている様子は、実に気持ち悪い。
種明かししておけば、わたしの言う「気持ち悪い」は悪口ではない。気持ち悪いと感じれば感じるほど、自虐的な色彩が強い。自分を傷つける考え方をしているから、大丈夫か、なんとかした方がいいのではないかと思って言っているのである。それも、モデルとなった者にではなく、その者から学んだことを進化する気のある者に対して問うているのだ。モデルとなった者を憎んでもいなければ変えようとも思わない。ただあまりに行きすぎていれば何かの手段を使いストップはかける。度を越した自虐行為で自傷しているのを知ったのに見て見ぬ振りをしたり見捨てたりはできないからだ。
「あなたの考え方から察するところ、あなたの程度は40を下回っております。その考えのまま行きますと、三年後にはこれこれこういった事態になりますが、それでよろしゅうございますか」とはなかなか言えないし、言えば悪影響が出るかもしれないし、第一聞く耳のないことを知っているので、別の言葉で、しかも間接的に伝えて、印象に残るようにしているのである。ところが言葉だけをサル真似し、しかもわたしに〝言い返す〟お粗末さ。しかし正確に核心をついた方が相手は心を取り乱し〝悪口〟だと受け取るのものかもしれない。眠っている者にとって真実は不快だし、
商業主義に支配された世の中では、歌謡曲もテレビドラマも映画も、耳当たりの良い、慰めや応援、弱者擁護、
ばかりが流布している。そんな調子ばかりを真に受けていたら、偏執症や分裂症になってしまう。底辺の左右に伸びていくのでなく、↑に気づいてもらいたい。だが、こちらは他者を上座に据えてちやほやし、カネを引き出してやろうという魂胆はない。もちろん支配的に振舞おうとも。
断っておくが、私は自己中心でありエゴも大事にしている。欲望もある。ただ、他人もそうであると知っているし、エゴや欲望で何を表現しようとしているか何を得ようとしているかも正確に観察する。身の安全や自己保存のためにエゴが有効であることも知っているし、小さく小さく限定されたエゴと欲が自分の本当に求めていることを押しやり遠ざけているのも知っている。
それからわたしは、来るものは選り好みし、去る者も選り好みするのである。わたしの在り方と目的が自ずとそうしている。
昭和四十年代には盲腸を切る人が多かった。あっちこっちで耳にして、現代病に冒され、術後のベッドでアンニュイな顔をしている姿に憧れさえあったものだ。
臓器はいわばスクリーンのようなものだ。われわれの思考パターン(意識状態)を映し出している。何かの姿を映写機でスクリーンに移しているのを見たくないからとスクリーンを破り焼いてしまったら、その実体はなくなるのだろうか?
どうしても報せなくてはならないことなら、別のスクリーンに映し出すだろう。肝臓で伝わらないなら腎臓、腎臓でダメなら膵臓、と。
下腹が痛む。
見ると、盲腸が腫れているではないか。
「何が何だかよく解らないから、目の前から消してしまえ!」とばかりに切り取ってしまう。「ハイ、治りました、百万円」
腫れて痛みを出していたではないか。
それが盲腸の役目の一つだ。
小指の先が腫れていて、そこが何の役に立っているか解っていないからと切り取っていたら指が何本あっても足りないのを知っているから、小指を自ら切る人はごく少数だ。ところが、盲腸だと平気で切る。一つしかないのに。
『毒が多い』
そのことを報せている。
メッセージが無視された上に、切って摘出された盲腸の身になって考えたことがあるか。もう、解毒もできないし毒物過多も教えてやることができなくなったのだ。その悲しみは、あのアンニュイな表情として現れるのかもしれない。
あの時期は人工添加物の全盛期である。人工甘味料、人工防腐剤、人工酸味料、人工調味料、人工着色料。人工授精、人工心臓、人工透析、人工芝、何かと人工物がもてはやされ、それがセールスにつながっていたのである。アメリカに負けた腹いせか、物不足か、はたまた科学コンプレックスか、ともかく石油で合成した代用物質が人類の到達点であるかのように宣伝され、人工添加剤は食品や飲料水など何にでも入れられていった。すると虫垂炎とガンが急増したのである。この関連性に気づかないのは、何者なのだろう。
慌てて机の上を乱すのは誰だろう。蓋をしたのは? 看板を立てて見えなくしたのは? なんやかんやと科学的な理屈でごまかし煙に巻いたの、誰だ。なんの目的で。
工場の生産ラインを想像してもらいたい。ベルトコンベアで仕掛かり製品が流れてくる。検品でも手充填でもいいが、1分間に処理できるのが10個のところ、20個も30個も流れてきたらどうなるか。作業台の上は溢れ、作業台の前でどん詰まりし、ベルトにもしわ寄せがいく。手に負えなくなったので異常を知らせるボタンを押し急ピッチで作業しながらヘルプを待つ。ところがやってきたのは、援助隊ではなく、作業台ごと作業員を切り離して工場の窓から放り投げる仕打ち。もし、あなたが現場の作業員だったら理解ができるだろうか? 何をやって欲しかったのか、誰でも解ることだ。
盲腸のメッセージが正確に届いたなら、外から摂り入れている毒と自ら創り出している毒を減らすようにもっていくはずだ。ところがすぐに腫れているもののせいにして、切り取る。とても知的生命体のやることとは思えないが、皆さんいかがだろうか。
作業台と作業員を切断すれば、ベルトコンベアで運ばれてきた物は無処理のまま床に落ち溜まっていく。どんどんどんどん溜まっていったらどうなるか。それが毒だとすれば。
なんでも医者の言う通り。難しい大学で勉強してきた人だからと下から見上げ、盲信する。「あんなことできたってしょうもない」「あんなことやったって生活の役にはたたん」とあざけっていたのを忘れたのか。医学部の偏差値に羨望させられてどうする。ぶばった態度に魅せられてどうする。金持ちと大学教授と医者にへこへこするのはもうやめろ。
受験勉強のたけた彼らは、このところ主流となっている理屈と知識を小器用に記憶し、再生産するのが上手だ。治療もできないくせに、多種多様な癌の名称を知っている。さらに、いくら発達させても仕方ない測定技術と病症のメカニズムを追うのは上手だ。だが、肉体に現れる異物や不全についての原理はまったくと言っていいほど解明しようとしない。なんでも「ストレス」と「酸化」で片付ける。中には解っている医者もあるが、少数だし公に口に出しては言いにくい。医者の職責の範囲は非常に狭いので、その範疇でやれることをやっているが、全体をみてない。
もし癌が毒の浄化装置だと気づいたら、やはり同じようにするだろう。がん細胞を助けるように働くだろう。不安を増大させ、薬という名の毒で癌を過労させるなど考えられない。原発は毛嫌いするのに放射能を浴びせかけるとはなにごとだ。だいたい命名からして本質を外している。悪性新生物、悪性腫瘍。まるで倫理違反や法律違反みたいなネーミングではないか。科学のくせして悪とはなんだ。人体の最終手段、自ら臨時に創り出した延命装置が必死で働いて寿命まで全うさせようとしていると、なぜ分からないか。
摂取する毒物を減らし、不安なく生き直し始めるだけで、がん細胞の増殖が止まり、霊的に悟り始めると消えてなくなるという現象を無視するのはやめろ。
医者と病院への盲信でないなら〝病院嫌い〟という名の自分を正確に知ることや失うことへの恐れか、医者憎しか。極端に走らず、病院や医者の上手な使い方を知るべしである。
臓物を一つ切除すれば、その機能は失われ、他にしわ寄せが行く。一つバランスを崩すと他のバランスが崩れ、連鎖的にすべてのバランスが崩れて全体の調和が取れなくなる。バイクや車であれば、原因はやれプラグだ、ECUだ、オルタネーターだ、であり、そこを取り替えれば正常に動くようになる。だが、こと人間となれば、機械のようにはいかない。原因は、すべて己の在り方の程度、それだけだ。
たとえば、甲状腺を切り取る。そこから出ていたホルモンが減る。代謝機能が損なわれるので太り始める。すると、副腎や肝臓などがカバーしようとしてオーバーワークとなる。限界を超えると不全に陥る。血液が濁り、全身がドスグロいウンコみたいな色の皮膚になる。さらに腎臓や膵臓あるいは下垂体にも負担がかかって、糖尿病とか高血圧、脳梗塞などを発症する。人間の肉体は自動車の部品を取り替えれば直るというものではないのだ。全てが連携しつながっている。
連続その場しのぎをするため、甲状腺ホルモンやなんやを打ち始め、薬づけとなる。暇人待望の病院通いが始まり、抜けられない病院カルトにかかるという寸法である。難しい病名をいくつも憶え、こんな治療が始まったらステージいくつだ、どこそこ病院にはこれこれの検査器具と治療器具があるなど、受験勉強でもやらなかった熱心さで「生活に不必要な知識」を暗記し始める。
内臓がイカれると精神も荒む、いちいちイラつき、怒りっぽくなる。怒鳴り、恨み、さげすみ、あざける。あるいは落ち込み、沈み、不幸で陰鬱なことばかり考え始める。そこに薬物が投与され追い打ちをかけてくる。毒まみれとなり、ますます肉体は重く感じられ精神の高揚を阻まれる。
こうした一連のことをやっていながら「自分はお前より、よく知っている」と言う。「お前はアタマが悪い」と。確かにわたしは薬剤の知識は皆無である。病の名といえば「絶望」くらいしか知らない。ーーなぜか? 不要だからである。
どうすれば健康であるかのメカニズムこそ詳細にそして範囲を拡大し次元をまたいで知っていくべきことであり、LAP値がどうのこうの、γーGT値がどうたらこうたらなど必要ない。勉強しない奴の成績がどうして悪いのかなどいくら研究しても徒労以外の何者でもないではないか。病気のなり方とか進行の仕方などは、本質を踏まえておけば(つまり恒常性を維持しないほどの毒が原因だと知っておけば)十分だし、健康増進を目していけば自ずと解ってくるものだ。
霊性が上がれば精神と肉体がどのような状態になり、下がればどうなるか、すでに解っていることを現実と肉体に具現化するのが楽しみなのだ。霊的に進化すれば精神が高揚しすべての細胞遺伝子が活発に動き失った臓器も多少は再生、復元し機能を取り戻すかもしれない。
別にわたしを「アタマが悪い」と言ってもらっても「気持ち悪い」と言ってもらっても構わない。他にも、相手を「知ったかぶり」と見抜けば「口ばっかり」と言い返してきたり、農薬散布から逃げたら「一度やり始めたことをすぐやめる」だの〝負けん気が強い〟のが善いことみたいに盲信している方々が悔しいからとイボイノシシのように突っかかってくる。こちらは勝つつもりもないし、負けもしない。
大抵は頑強にしがみついている幼い信念を場違いなところに披露しているか、いつも自分が言われている性根をなすりつけているだけであろう。わたし自身がそれによって引きずり降ろされることはない。わたしの言った〝悪口〟で、もしくは自分自身の投影でわたしを責めても、あなたは直らないし治らない。
あなたの前には常に、このまま(=目をつぶり死んだように眠っている)か、それとも、霊的な進化をする(=生き始める)かの一本道しかない。これのことを to be or not to be と言うのだろうか。
人類をあげてアタマの悪い所業をやっているのを認めない限り、賢明さや叡智には至らない。
既成の疾患があると、コロナなどのウイルスに感染しやすく死に至る場合が増えてくるのは、すでに調査済みでテレビや新聞にも案内されているようである。おそらく臓器機能が失われ同時に免疫系が弱体化するのだろう。すなわち、コロナの周波数に近い程度に下がっているのである。それゆえに同調しやすい。
疾患を抑えるために医者はタバコ、酒をやめなさい。睡眠をとりなさい。温かくしなさい。甘いものを控えなさいと言うのみである。これらのことは江戸時代から言われてきたことである。昔よく言われていた「怒ってはいけない」は現代ではストレスを減らせに変わっているのかもしれない、
あるいは、何も言わないで淡々と処置をするだけかもしれない。「ストレスを減らしなさい」と言っても「外部のせいで」と反論され、かえって逆効果と解ったからか、それもと、自分の前に来たからには、病状はかなりのところまで進行し、今更生活習慣を変えにくいと諦めているのかもしれない。職責の範疇が狭いので、多くは症状に向かって対処するしかないのである。
「心配事をなくしなさい」とまでアドバイスする医者は、異端でさえある。古風な者か別系統の医学を学んだ者だろう。
あるいは機能性サプリなどを勧めることもあるだろう。しかし、体内に毒を入れず、体内で毒を造らず、また薬を入れ、薬を創るのが、永続的に健康=健全である秘訣である。
薬とは、石油から作った薬物や劣悪な技術レベルしかない遺伝子操作でできた物質のことではない。
笑いは薬を創る
高次元のアイディアは薬を創る。
善意の押しつけでなく、愛すなわち自他を高めるアイディアは薬を創る。
ということは、薬とは免疫機能を活性化させ、DNAの動きをスムーズにする波動もしくはエネルギーを有すること(もの)と言えるだろう。
ホルモン的に表現するなら、アドレナリンではなくエンドルフィンを生成することである。どのような精神状態がDNAにエンドルフィンを生成させるのか。という視点は念頭においておくべきことだろうと思う。
余計な金を使わず、むしろ支出を減らして健康になる方法を伝えているのである。それもどれも自分でできることだ。
このタイプは医者の中でも良心的な人であると思われるが、酒は毒だ、タバコは毒だ、と決めつけているのが医学の限界であると思う。(自然醸造された無農薬無添加、無濾過の生酒は百薬の長でもあるし、タバコはニコチンでなく葉の農薬やフィルターの化学物質に発がん性がある)
毒を取り込むな、とわたしも勧めるけれど、それは徹底的になくせという意味ではない。精神が落ち込んで浮上しないことのない程度、遺伝子の働きを極度に妨げない程度、免疫機構を鈍化させない程度にコントロールしてはいかがかということだ。
日頃から化学物質の少ない生活をしているからこそ、時々には外食やインスタント食品も楽しめるのである。それらも、なかなか上手に作ってあり楽しめる要素が多分にある。
そして何事も創造的な創造性を発揮すると健康が増進され、酒が美味くなり、楽しいものとなり、少々の毒では波動低下の影響を受けなくなる。そうなると、毒の多い物は飲み物も食べ物も自ずと選ばなくなるし、美味しくなくなるのである。
深刻な悩みとか責任転嫁とか悪馬、悪態、ズル、怠慢・・・こうした精神と行動は波動を下げ、毒を造る。
実はハッピーなことが起きているのが解らず、狭隘な倫理観に照らしたり、エゴを傷つけられたと被害を訴え、ずおぉぉぉっと地獄の底から這い出したような憎悪で向かってくる者があるけれど、そうしている最中に猛毒を生成しているのである。
どうすれば治るか質ずねても、現代の医者が詳しく説明したところで「酸化」だとか「免疫」だとか医学的メカニズムの方に行って行き止まり。それに対してどの薬剤の亀の子がどう効くのかなどと横に横に展開していくのがオチである。決して、信念(考え方、意識状態)には触れない。なぜタバコを吸うのか? どんな酒を飲んでいるのか? なぜ低体温なのか? その奥にある信念の領域は敵対する宗教の分野であって、科学を標榜する医者には口が裂けても言えないことなのだ。
西洋医学は現象にだけ着目し人間を機械とみなしているから根本原因をさぐりえないのである。ローマ教会との激しいバトルの歴史がトラウマとなって、科学の精神を意固地にゆがめているのではないかとさえ思う。
たとえば、暴れたりクダを巻く酒を飲みたくなる精神(霊性)を向上させることによって楽しい酒になれば、健康が増進されるはずだ。酒は百薬の長となる。まずい酒を飲む人は酒が深くなると、恨みがましくなる。不平不満を口にし、嘆き、己の不運を呪い、周囲(妻)に当たり散らし、人や社会の非をあげつらい、矛盾を責め立て、ののしり始める。(酒を飲まずとも平素からそうしている人もある。幼稚な魂の持ち主だけでなく、おそらくは常に有機溶剤や農薬を吸い込んでいる人に多いのではないか)
その奥には必ず劣等感が渦巻いている。自分には存在価値がないのではないかという恐れのエネルギーだ。劣等感で自分をもてあそぶのは最たる暇人のすることである。さてさて、この劣等感を向上させるにはどうすればよいか、仮説を立て実行していくのが、人生の楽しみというものだ。
酒そのものの前にまずどんな程度の人間なのかを自覚することだ。酒を飲んで嫁子に当たり散らすなら、自分は劣等感をかかえた、非常に幼稚な魂の持ち主だと認めるところから進化が始まる。するとそこに「魂の進化の度合いは転生した回数です」などと、まるで転生回数と霊格が比例関係にあるように説明し、ひとたび死亡してふたたび誕生するプロセスをいちいち踏み、転生回数を増やす以外に変更不可能なことのように言う者が現れるけれども、そうとばかりも言えない。生き直すことは今生において何度でもできる。「進化イコール転生回数」を言うのは慰め目的、癒しレベルと思って頂きたい。魂の幼さを悔やんだり自虐に陥って落ち込む者をスパイラルアップし、ゼロ地点まで戻そうとしているのであって、それが成されれば次のステップである。
この一生涯に何度でも死に、何度でも生き直すことは昔から可能なのだ。わざわざ転生する必要はない。固執していた観念を滅し、新たな自分として蘇る。高度な認識となれば転生したのと同じである。
ただ、本気でやらなければ、三日坊主、どころか3秒後には忘れて眠りこける。すぐに不安が勝り、これまでの自分を延長し、世間の慣例にならい病気を悪としてやっつけようとし始める。
狂った精神が作り出した肉体が今度は精神をさらに狂わせる。それがまた肉体を蝕む・・・そんな負の循環が渦巻いていく状態は地獄の境地なのだろう。
科学信奉者は医者の言う通りになり、藁にもすがりたい者は宗教に走って念仏を唱え始めたり、お手かざしをし合ったりするだろう。医者も宗教団体も、自分自身の内面に眼を向けよ、とは言わない。そんなお人好しの訓練を促せば儲け損なうこと請け合いだ。だから「内観」などと言おうものなら、袋叩きに遭い吊るし上げられる。「あいつは解ってない」と非難轟々だ。そして、正しい医療を信奉し教祖様の正しい教えを盲信しろと強制する。そうすれば健康に、あるいは幸せになる、と。
けれど内観が大事と聞いたとしても知っと、知っと「ナイカンがダイジ」と偉ぶって言い回るだけで、やらない。と言えば即座に※「お前もやっか!」と怒って吠えたてる。わたしは笑いをこらえることができない。
※「お前もやっか!」=「あなたも私と同じでそうであるだろう」を短縮した九州弁。ここでは「あなたも私と同じで内観をやっていないでしょう」という意味。気性の荒いことが男らしいと見なされる九州男児が、自分が批判されたと感じた時、カッときて負けじと発する紋切り言葉。とりあえずそう言い返しておくのは、その場その場の戦いに勝とうとする全勝精神の表れであろう。九州男児同士であれば、その返答はあながち間違ってはいない。自分がしないことを相手に求めて強要する場面は日常茶飯事だからである。時代がくだり教育水準が上がり他者との交流も盛んになってきたために九州男児は減ってきたとは言え、農村地帯を中心とした局部に偏在し、特に左翼と高齢者に多い。
類似した思考に「負けるが勝ち」というのもあるが、これにさえ何にでも自分が勝ったことにする全勝精神が流れている。本来は、言い負かそう言い負かそうと構えている者に対して、表面の勝利にこだわるのでなく内実の勝利こそ本物だと悟る潔さだと諭す格言であるが、自分を曲げてでも黙っていろ、被害者ぶった者や権力者にへつらえ、と読み替えられている場合も少なくない。要するに、何が何でも勝とうとする者とすぐに萎え引っ込む者の両者として現れているのが、九州男児の姿なのだ。恐れによる過剰な全勝精神がその姿を貶めているように思える。
勝とうが負けようが、自分を知らぬ、誤解している者は自分を知らぬし誤解している。それだけのことだ。と思う者は九州に住みながら九州男児ではない。
肉体に出る前に変化した方が容易である。が、誰かがそんなアドバイスをして変えようという気になるくらいなら、おととい変わっている。大抵は後戻り不可能なほど症状が進行してから慌てて対策を考え始めるが、肉体の低次の欲求とだらしない精神でたどり着いた鈍重な現実にストップをかけ逆回転させるのは難儀なことだ。思考パターンを変え、化学物質中毒を抜くのは大変きついことであるかもしれない。それより金を払い、自分はビクとも動かず周囲にやらせる方が楽な気がするのだ。
化学の知識を振り回そうが医学の知識をひけらかそうが、正しい信仰をしていようが、毒は毒として作用し病気を発っする。それらの知識があったからといって毒が遠慮してくれるわけはない。
ここでは詳しく触れないが、怒りもアドレナリン的な怒りとエンドルフィン的な怒りがあるのだと思う。文学的な表現をすれば、否定的破壊的な怒りと愛による自然な怒りである。たとえば自虐的な嗜好を拒み、手放させるのを怒りを以って表現すれば愛であると思う。「怒ってはいけない」と言われるのは、アドレナリン的な怒りのことであって、その理由はアドレナリンが《時間促進ホルモン》であり《寿命短縮ホルモン》すなわち《テロメアめくりホルモン》であるからだ。早く老化し、寿命を縮める。肉体に創り出された時間である。肉体における時間を創り出すのがアドレナリンというホルモンである。
わたしは「喧嘩ホルモン」と呼んでいるが、エゴや保身、生存本能にとって有用なホルモンでもある。
どのような境地や精神状態にあればアドレナリンが出やすいか、またエンドルフィンが出やすいか、それは後述する。
不自然な合成化学物質がどのように影響しているかを観ていく。結論から言えば、化学物質の出す重い波動が肉体の波動を低次元に押さえることによって精神が明朗にならず、ネガティブな思考を創り出す。その思考が肉体を酸化させる。さらに、化学物質自体が肉体を酸化させる。酸化による遺伝子の不全と免疫系統の弱体が生じる。医学レベルではこんな風な説明がされうるだろう。
細胞もDNAも音を発している。波動だ。従って、音(波動)に影響される。
食品添加物や薬物、合成入浴剤などの波動レベルは低い。肉体が感化されると精神も冒される。陰鬱な気分や沈み込みがちな感情は、これらによってももたらされ、上昇しようとしても頭打ちする。
遺伝子は波動を発しているというより波動そのものである。化学物質もそうで、それの放つ重い波動に共振すれば、生化学反応が鈍るのだ。たとえば肝臓の機能は、肝臓という名の機械仕掛けの装置がやっているというよりそれを構成している細胞が役割分担し、遺伝子ひと粒ひと粒が連携し、最適な生化合物を作り出すことで果たされている。遺伝情報の部分部分が必要に応じて作動し、物質を分解する物質=エネルギー=波動を合成したり、筋肉系や免疫系を動かす物質=エネルギー=波動、あるいはその一部を合成したりしているのだ。重い波動に共振すれば、それらの働きが緩慢になったり阻害されたりする。害とはそのことを言うのだ。
肝臓内の細胞が連携すると同時に全身の全ての細胞と連携して行われている。人間の体は細胞や臓器だけで完結しているかと言えばそうではない。たとえばたんぱく質は、胃酸と胆汁と膵液などの消化酵素によってペプチドにまで分解されたあとは、細胞液や大腸の中にいる微生物や菌の酵素によって塩基などまでに分解されている。それらの助けを前提として人間の肉体は作られている。だが、人間の体だけを他から切り離して考える医学では、菌や微生物のことは無視されている。
菌や微生物は主に生野菜の細胞の中にいる。だから、畑の土づくりが重要なのである。身土一体なわけはこれである。微生物を活性化させるエネルギーは肉体の作り出すホルモンもあるが、ビタミンやミネラルでもある。
酸化がストレスとなっていることまでは地球の医学で理解されているようだ。ストレスとは害のことだ。恒常性を維持できない。
酸化は遺伝子へのストレス=アタックというより、低い波動への共振化である。疲れやすい、気分がすぐれない、やる気が出ない、動きが緩慢だ、血圧が低い、怠慢な考えをしている、ムカつく、イライラする・・・
そうならば、考え方を軽く明るくしていくと共に化学物質を摂取しなければ済む話ではないか。
簡単なことだ。
とタカをくくる。その通りだ。簡単なことなのだ。
ところがどっこい、物事をなんでも難しく捉えたかと思えばすぐに簡単だとタカをくくる極端な人にありがちなことは「そげん言うたら、なんも食えんやんか」といった信念を併用しそれが根強いことだ。なんでも食うような口ぶりでありながら、ちゃんと選んで食っているのに気がつかない。自分の精神状態に合致した食物をである。すなわち、人工、合成、有機化合物のより多く含まれた食品である。「無添加」だの「自然」だの「健康」だのいうフレーズは宗教であり、毛嫌いの対象なのだ。
まずもってこの信念を変えるか、食品の方からアプローチして強引に変化させるか。いずれにしろ、化学物質の少ない食品に変えていくのは、麻薬中毒患者が拘束帯でベッドに縛り付けられ悶絶するほどのたうちまわって更生するのと同じくらいの苦しみと幻覚を見るはずだ。
だから、早くした方が身のためですよ、と言うのであるが「あいつは健康食品を売ろうとしている」などと訝り、聞く耳は持たない。まったく自由なことだ。わたしはそんな物は売らない。ただ、余計な物を症状が出ないほどに減らせ、と言っているのであり、完全に無くしてしまえなどと極端なことは言った憶えがない。自分にとって最善、最良のことを探求して得た知識を伝えているまでだ。
だが、化学物質に侵された人は化学物質の意思を代弁し始める。もっともっとと欲しがり、少し足りなくなれば急いで補おうとする。いわゆる中毒した状態になっているのだが、自分はジャンキーではないと固く信じているので気がつかない。食品添加物や農薬は遅効性のドラッグだと憶えておくとよい。
次に、今度は極端に「手術はいけない。絶対にやってはいけない」と思い込む誤解がある。わたしはそんなことは一言も言っていない。
あるいは「そんなこと言うなら、お前は絶対手術するなよ」とすごむ。わたしはそんなことは一言も言っていない。
怪我や事故で出血したり骨折したら1秒でも早く処置するべきだ。毒ヘビに噛まれたりスズメバチに刺されたら即座に血清を打つべきだ。
だが、生活習慣によって長いあいだかけて創った症状なら、生活習慣を直して治した方が順当ではないか、と言っているのである。あるいは、症状が出る前に改善した方が身のためではないかと言っているのだ。それなら、独自で創造的な霊的進化という結局は人間が自覚的に目的とすることに忠実だからだ。
生活習慣が創ったことであっても、脳の血管がポリープでつまったり、心臓の血管が破けたなら、ほっておけば全身麻痺におちいったり短期間で死に至るのだから、腕のいい外科医を探してオペレーションするのをお勧めするs。
ところが、現象にだけ囚われている人には、わたしの観えているようには観えていないのである。すべて、1か0でしか物事を捉えきれず、極端な思考をしている。ネガティブな思考パターンとそれによって選択され摂り込まれた有害物質の影響が肉体に現れてから大慌てするのだ。そして「先生なんとかしてください」と自分の身を他人に丸投げするのである。
そうして、スクリーンとして映し出された臓器を切り取ってひと安心し、次の瞬間から再発と転移を心配し始める。その姿が「お前よりよく知っている」のだと思うなら、そうすればいいのである。
わたしなら、病気をして医者に払う金があるなら、旨いものを食う、美味い酒を飲む、そしてとびっきり楽しい趣味、娯楽に勤しむ。それが、幸せで運が好く、健康な人生だと知っているから。
3番目に、
「精神状態が肉体に表われる」とか「魂の歪み度が肉体に現れる」などと聞けば即座に「では、症状の出ている奴は全員こうで、こうだ」と決めつけ、そいつはダメな奴だ、とあざけり笑う。このように、すぐに極端に走るのは病気である。その病気はどんな形で身体に出るのか? わたしは「よく観察して、治したければ直しなさい」と勧めているだけである。
カントリーに頻繁に見受けられる伝統的な物言いと同じ論法で、何を聞いてもすぐに、
「悪いことが起きたのだから、悪いことをしていたんだろう」という愚かで浅はかな見方というより決めつけに還元してしまう。病気や事故などがあったとして、その事自体が悪いと判断している時点でもう本質を見誤っているのに気がつかない。
ーー意識状態が肉体に表現される
このことは、「生かされて生きる」とか「失敗は成功の素」などと共に、高次の霊性に眼を開く、初歩的な認識であるので、まず最低でもここまではなってもらいたい。
そうでなければ「正しい生活」だの「間違った習慣をやめる」などの因果とは無関係で、本質の表現としては不正確なレベルからは抜け出せない。
