地球に大変革をもたらしているウイルスと絡めて、個々人がより健康になっていくための意識(霊性)の向上をすることが人類全体の意識(霊性)の進化になり、それがまた個人の霊性に影響を与えるということついて語っている最中であるが、筆を進める前に少し述べておかなければならないことがある。

 

2020年の末ごろの話である。日記をめくると12月29日となっている。夢で

2020年をもって、魂の清算が起きる

と知らされた。正確に言えば目覚めの啓示である。例によって朝起きた時に時々ふっと出てくる想いである。さらには

2021年は、0からスタートする

とも告げてくる。

これは、これまで出してきた想念の埋め合わせは起こらず、陰も陽も理も非も全てキャンセルされ、1月1日から新たにカウントされていくということらしかった。つまり普通の言い方をすれば、善いことをした褒美も来なければ、悪いことをしたツケも回って来ない、ということだ。

大晦日に覚書きみたいにして報せておこうかと思ったが、筆が進まなかった。私個人のことなのか、人類全体のことなのか、第一そんなことが本当に起きるのか、起きたとすればどうなるのか定かではなかったからである。

 

今年も半年ほど過ぎた。

 

この時点で私個人の変化を記録しておくことにした。道祖神あるいは標高水準点としての杭を打ち後々に変化の推移を知るための基準にするのである。

 

2021/7/8」

 

昨年の11月頃か、それまで延々とやってきた私の闘いも終わりに向かっていた。それ以降、およそ16歳から続いていた苦闘が緩和し終息し、これほどアンノンとした日々は初めてである。2001年から本格的にやっていた、どこか焦りのある(と言っても、切迫感のあったのは初期の数年であったが)努力のようなことも、なくなった。不安があれば不安を、希望があれば希望を私はそれらを積極活用して勉強し、思考し、洞察することによって己の眼をクリアにクリアにしてきた。

それが「もう終わりだ」と告げられたのだった。

 

2021年はゼロからスタートする、の意味は、それまで放ってきたエネルギーのプラス、マイナスにかかわらず、その蓄積はキャンセルされ新たに積算されていくということではないかと思う。すなわち、今年の初頭からマイナスが少なければ、そのレスポンスをかぶることが少ないということだ。しかしこうした徳政令が降りたとしても、ほとんどの人は相変わらず去年までと同じレベルにあるので、これまでと同じように人生の借財を重ねていくことだろう。

わたしの場合、行くべきでない道に目を向けると、しばらく進んでからストップがかかってくるし、他人に害を加えるなどもっての他で、害意すら厳しく取り締まられている。

今年からなるべくマイナスを出さず、プラスを出していくようにすると以前までの差し引きがないので多くの富を得ることになるのだろう。しかしその前に、どんなことがマイナスでどんなことがプラスかがたいていは誤解されている上に、現世においてはマイナスのことは力づくで押し付けようとするが、プラスはなかなか受け取ってもらえないものだと知らねばならない。

仮に相手が誤解や劣等感による逆恨みなどでマイナスを剥きつけてきても、こちらからは何も出さないことで、相手は一人相撲をとって自ら土俵を割る。疑心暗鬼などでわたしに悪意を持ち、追い出そうとか貶めてやろうと動いた者がどんな末路をたどったか。自分の最も望まぬことを他人に実現しようとするのは、やめた方が身のためだ。何倍にもなって反射するだけだから。それまでも同じように他人を踏みつけ押し出していたのがわたしと出会い、タカをくくって同じことを企てたがために、遂に自業自得の意味を知ることになった。

手前勝手な理屈をつけて「正しい」と信じ込んでも、出しているのがマイナスなら少なくともその通りのことを創造するので、気をつけたが好い。そんな程度の輩の守護霊やハイヤーセルフはその程度だし、また聞く耳もなかろう。現実創造のプロセスがまったく解っていない。いままでそうやってなんにんもの人が己を罠にかけ、自らを知る羽目になったか。眠りこけていたければ、目を覚ますことだ。

逆にプラスを与えて来た者は何倍にもなって人生が好転した。まるで洟垂れ小僧さまのような存在だった。だがわたし自身、返すつもりのない相手からの愛や善意は受け取らないし、拒否する者はもちろんのこと、与えるとかえって害悪を撒き散らす者への愛や善意は控える。自然と言えば、自然なことだ。

 

人生で出会う人に、わたしは時おり赤鬼の望みを叶えるために悪役になった青鬼を演じることがあったが、それも終わりとなった。また、老父婦を陥れたタヌキを懲らしめるウサギの役をやることもあった。それも終わった。(こんなことを言えば、わたしが事あるごとにそうしていると解釈する人があるが、そうしたことの頻度は十年に一、二度あるかないかである)あるいは、実生活において偽悪的に振る舞うこともあったし、このブログでもまるで自分がワルであるかのように書いたこともある。(もちろん、つまらぬことを止めさせたり、よりレベルの高いことを伝えるためだ)ところが中には魂が幼すぎて、そのままそのような人物だと思い込む者もいるので、書き方には工夫を凝らさねばならないと、彼らによって筆力が高められた。

集団の長であった時には、不和を飲み込み、わたしに矛先を向けさせることで集団の調和を図ってもいた。(わたしが原因で不和を創り出していたこともある)しかしこの犠牲的、身代わり的志向については過去生においても時々見受けられた私の〝悪癖〟であった。今となっては、あまり高度な霊性とは思えない。言ってみれば、愚かなことの中にことさら愚かなことがあった、ということだ。

自分で、こんな(犠牲的美談)ことをやっていた、と言うのは傲慢に思えることだろう。しかも、 口に出して言えば効果は半減する。また、げれつな振る舞いへの自己正当化にもなるので弁明もせず、そしりや面罵は甘んじて受けてきた。

幼少期から青年期には無自覚にやっていた。(高次のわたしにやらされていたのかもしれない)そして二〇〇一年から今日までの二十年間は意図してやってきた。付け加えておくけれども、幼少期にしても青年期にしても、それはそれは愚かなことも山ほどやってきた。いつもいつも青鬼やうさぎや偽悪であったのではない。わたしは自分を聖人君子のように言うつもりは全くないし、そんなものになるつもりはない。しかつめらしくお上品に、どんな他人からでも好かれようとする善い人ではなく、意図した現実を自由自在に創り出せる、また最高の栄光を体験する人生にするのである。霊格が高いというのは、他人の善いなりになるのでなく自分の善いなり(かんながら)になることだと思う。

憎まれ役というのは、相手の眼を開く有効な手段であるけれど、エゴにとっては危険なことでもある。怒りを買ったから、嫌われたからと即座に「憎まれ役を買って出ただけだ」などと言えば、カッコつけ、言い訳言い逃れになるので、黙ってやらねばならない。憎み殺されるかもしれないところをあえてやるのを急にいい子ぶるのは、覚悟がない。

ただでさえエゴの邪魔だと思う者が噂を利用するのが世間というものであろうが、偽悪的行為までするのであれば、訳のわからない醜聞を撒き散らす者も現れる。じっと耐える日々があった。(実際には、耐えても忍んでもいない。言うものには言わせておくしかない)だが、その役回りを終えたので告白しておく。

しかしそうした態度や方法はあまり高度なものではない。犠牲心によって失ったものをバーターで得ることもあろうが、より賢明な方法もあるに違いない。

というより、やる必要がなくなった。と伝えてくるのである。

大学や職場であるいは居住地で、大掛かりに足を引っ張ってやろう、貶めてやろうとする輩が現れても、逆に彼らが渦中に溺れ退いていった。なぜそんなことになるのか当時は解っていなかったが、今では理解できる。陰陽の法則も、わたしに反射すれば彼らの出した分の数倍に膨れあがって戻るのだった。こんなことも自分で言えば中二病の類であろうが、観察の結果、揺がし難い事実として起きたことだと解った。負の反作用が数倍になるなら、わたしに正をもたらす人にはその見返りは大きいことになる。いわば『洟垂れ小僧』的な一面があるのだ。幸せで満たされている人ほど感覚的にそれがわかっているようだ。わたしはどこに行っても大事にされた。(が、素直なものでない利己的な動機で行なわれた場合は受け取らない)

そこに鬱屈し充満する気化ガスに火花を散らしたのも、また地雷を踏んだり引き金を引いたのも確かにわたしであった。だが、その後に問題児の彼らがどんな画策をしても、わたしは何も言わなかった。仕返しもしなかった。(今は意図してしないが、かつてはなぜだかできなかった)悪い噂を流されても進路を邪魔してきても、わたしの魂はビクともせず、(なるほど、そっちは道でないのか)と察しただけだった。実際、閉ざされると明るい門が開き、望ましい恵まれた出会いがあった。

噂は、流し始めた本人と同程度の者たちを巡って本人に戻ることなど、小学生の時から知っていた。山本リンダ嬢に「噂を信じちゃいけないよ♬」と諭されずとも、自分の眼を信じていた。それがたとい幼くとも、結果を観るまでは自信をもって採用していていいのではないかと思う。

あんなに憎まれ恨まれていたのに、わたしの精神や魂は傷ひとつ付かなかった。ーー相手は傷つけられたと思っていたことだろうが。むしろわたしには幸運だけがもたらされた。だいたいにおいて、己の低度を反省するか相手の愚かさを観て学ぶか、どちらかだった。

傷つく暇があったら、学ぶ

どうやらこれがわたしの奥底にある魂の想いであるようだ。なにがどうなっているのか、なにをどうすれば改善されるのか、それを覚るのが薬であるのだろう。

 

そうした性質を全てキャンセルし、また雑念がなくなった。

もし、これから先にアップする文章にそれらの念があるのを感じられたら、数年前に書き留めたことをベースにしていると思って頂きたい。

 

実のところ、告げられもしたし、幼少期から目指していた在り方(覚醒度)は昨年いっぱいでほぼ達成されたという感がある。そしてまた2021年からわたしが何を成すか、現実世界で何を形にしていくかも示唆されている。そしてそれは、成るかもしれないし成らないかもしれない。内面の達成度が押し出されていくものであると思うが、物理世界での成果にはこだわらないことにしている。

 

一、高度な霊性を実生活に活かせる、あるいは人格そのものとなるのを伝え促すには経典のようなものでなく、小説で伝えるのがよかろう(6歳ごろ)

 

これが、幼少期に抱いた(思い出した)想いである。それから、高校一年の頃に決意したのが次のことだ。

 

二、文学作品を書く(16歳ごろ)

二、幸せな家庭を作る。(17歳ごろ)

二、子供の教育を手がける。(18歳ごろ)

 

これらのことを三十歳を過ぎ、二十一世紀になると共に三十二歳頃からやろうと漠然と心にいだいてきた。

 

念仏を唱えるだけ、哲学として他人事のように研究するだけでなく、高度な霊性を実生活に活かせる、あるいは人格そのものとなるのを伝え促すには経典のようなものでなく、小説で伝えるのが最善ではないか。これが小学校に上がる前に思ったことである。まるで答えの分かった者の物言いである。だがこれは事実だ。

毎日、ことあるごとに念仏を唱えているけれども、それの意味することを全く実行していない、自分にはできないと思って念仏だけ唱えている大人の姿に、それが一体化するように勧めたい。幼少の頃に明確にそう思ったのは、それがおそらくこの人生の使命であったからだろう。だがことさら使命感を抱いてはいない。ただやる。それをやるための三十一歳までがあったと思っているし、分かっていく慶び、自由自在になっていく快楽は、欲求とか意思を超えて自然な性質に思える。

ニーチェがなぜあんな大仰なまでの態度と発想をしているのかその境地に至ることなく、彼の言ったことを憶えてつぶやいたりジレッタントに陥ったりするのは哲学しているとは思わない。また、言葉遊びにふけったり、概念一つ一つを排他的に磨き込んでつなぎ合わせていく? などの理性的操作に終始したりするのは哲学なのか。かんながらの信念を意識して向上させていき、それを言葉で正確に論述し、書き読み返しながら反省し省悟してこそ哲学をしていると言えるのではないか。

宗教のように〝絶対〟の立場から言い切るのではない。あくまで、私的観察すなわち『小説』に過ぎない、という態度の方が覚醒させやすいのではないか。作家というポジションは、高みを目指す技術でありまた霊的であると思う。持説を押し付けないし依存させない。個人であり組織化されていない。読み手の自由を認めている。こうした立ち位置が自分のやり方においては最適なのではないかと改めて思う。

文学作品いうのは、笑いをもって人々を解放し健康へと誘う読み物とか自分を正確に認め変わろうと思う読み物とか、固定観念の破壊を目論み別の気づきへと持って行く読み物とか、そういうレベルのものではなく、真善美の兼ね備わった読むだけで人々の霊格を向上させ得る、言葉の芸術のことである。これは難題で、成せるかどうかさえわからないが挑戦している、ドンキホーテの境地である。

読者が読みたいことでなく、作者が書きたいことを追求していった末に文章によって記されたもの。それは読者/作者の垣根を越えて、万人が魂の奥底で知りたいこと、求めていることであるだろう。迎合でなく、提示。あるいはそれが融合した状態。自ずと真善美を備えているが、言葉を逸した行間からかもしだす音によって分別と自在へと感化していくのかもしれない。

 

家庭の幸福。太宰治によって諸悪の根源とされることであるが、私の志すのはその時代の名誉や物質によってもたらされると信じられた幸福ではない。家族の構成員の誰もが志すことをなし、運が好く、健康で、金銭的にも物質的にも不自由せず、思い切って宇宙の豊穣さを享受し、各々の天才を発揮し、調和のとれたパートナー集団である。こういうのはまずもって結婚する相手によるが、決意の作用が大きいかもしれない。

結婚して四半世紀、おおむねというより、最高の家庭となった。ーー別の価値観から見れば最低であるかもしれないが。実質としての幸福感は充実している。

子供の教育については、二十年前に「自分の子となった者をうまく育ててから」と上から通達が来ていた。それをやりながら気づいていき、勘所を知っていく。自分の子は試行錯誤ができる。長い間観察することができるし、相互作用を及ぼし合う。そうして私たちがもっと深く物事が分かってから徐々にやり始めるだろう。

 

2021/12/21」

つづく

 

 

幼少期に思ったこと、それから十六から十八にかけて高校時代に志したこと。どうやら今回の終焉の通知は、私個人としてはそれらの石据えとなる境地に達したのを告げてきたのではないかと思える。これまでも度々、自分の境地、境遇は知らされてもいたし自覚もある。実際、二十年前に目覚めたばかりの頃より、十五年前、十年前、五年前より、いまは分かっている実感が強い。いや。正確に云うなら希薄である。空気のように当たり前で静かだ。もちろんエゴは「思い込みなんじゃないか?」とか「解ったつもりが一番こわい」などと口出しをしてくるが、探し物は必ず見つかるし、だいたいの予想は的中するし、人物の見極めも的確だ。科学的なことも地球のレベルがどれだけ低いかを知っているし、本質は何なのかもずいぶんと明らかになっている。

 

振り返れば、この生活を始めてからちょうど二十年である。もちろん、わたしのエゴはもう少し早くなんとかなるんじゃないかと焦っていた。(特に初期の頃)

三十二歳、2001年から始めようと小学六年の頃から思い始め、ずっと忘れないようにしてきた。それまでは、普通のことを体験、経験しておこう、それを三十二歳以降に振り返ろうと思ってきた。大学の居心地がどんなに安楽なものであっても、会社の待遇がいかに有利であろうとも、どうにかして現状を振り切って遂行し貫徹するのだ。ーーなにせ、今生が地球での最後になるのだから。

そして、自分との約束通り、2000年の末から2001年の初頭にかけてこの『詩生活』は始まった。

その前の約いちねんほど、1999年から2000年にかけて寝たきりになった。いちにち20時間以上眠っていたが、その間に魂は目覚めた。目覚めたわたしの衝撃は、

「なにもかもくるっている」

ということだった。物理世界では、霊的世界とは逆に考えられていることがみえた。

これがいわゆる『あたまがおかしくなった』という状態だった。しょうきに戻ったのであるが、それは、狂った世界から見れば、狂人のおかしな振る舞いだった。

ともかく、2001年あたりから始めることとなるとは小6の頃から思っていたことだった。妻となった女性にはその覚悟を大学の頃から伝えていた。同意の上で結婚したのだ。ーーそれを「世間一般のことさえできない者」のように言ったり「奥さんがしてあげるからいけない」だの馬鹿げた見立てをする者がいる。覚悟のない者、志のない者、憧れを知らぬ者の間抜けな口から発せられる言葉は実にくさい。

西暦二〇〇一年からスタートし、節目と言われた二〇一二年には四十五歳、二〇二一にはその逆数の五十四歳であった。自覚のない、何か大きな流れとの符号があるのかもしれない。

 

この20年間に、生まれてからこれまでを振り返り、特に幼少期に迷惑をかけたり故意にあるいは不用意に傷つけた相手に心の中で陳謝した。思い出し、おのれの非を認め、目をつぶり相手を思い浮かべて心から謝った。

(非のないことまで謝ったのではない)

 

さて、こうして2021年となり、それが終わろうとしている。

犠牲的精神、偽悪、悪役、・・・いろいろ終わりになったそうだが、なにか、継いで続くことはあるのか?

と自問する。

どうやら、ターミネーターとしてのわたしは残るようだ。終わらせる者

前に少し触れたことだが、偽悪家は終わっても、終わらせる者は終わっていないようだ。

 

2021/12/31」

つづく

 

 

集団の中には、トラブルメーカー、厄介者、問題児がいることがある。あぶないので誰も手を出さず、何も言わない。表面上合わせてやり過ごしている。しかし集団には、かれらに対する不満だけが充満した気化ガスのように溜まっている。そんな状況に送り込まれることがある。

そこにわたしが着火する。

さわると爆発しそうな時限爆弾のスイッチに手を伸ばす。純真な子供が触るように。あるいは、危険をかえりみないサイコパスのように。

かれらは火を噴いたように怒り狂う。

騒ぎ立て、周囲を巻き込んで諍いを始める。

しかしどういうわけか、わたしと面と向かってではない。

第一、わたしが彼らに何か言ったりしたりするわけではない。彼らは「言われた」と思っているようだが、わたしは何も言っていない。わたしの存在が彼らを駆り立てる。生活のためにコソコソと潜り込んでいる彼らにとって、本気で真理を探究し実践しようとする志有る者は敵であり、嘲笑の対象である。

あるいは、核心をついたことを面と向かって言う。痛いところを突かれたと思った彼らは方々でわたしのあらぬ噂を流し、ありもしない罪状を吹聴し始めるが、その間にわたしはひとことも何も言わない。

かれらはあえなく敗退していき、孤立する。あるいは、出て行く。(そんな彼らには必ずと言っていいほど、忖度好きの太鼓持ちがコバンザメのようにくっつき、偽善ぶってヘラヘラとこびへつらい、両手をもんでいる)

自分のやった非難によって自らが追い込まれ、わたしに実現させようとしてことを己がかぶる。自滅し、意気消沈する。

そうやって、終わり、集団は安堵の吐息をもらし、トラブルメーカーも反省する。そんなことが人生になんどかあった。

しかし恨みは残る。かれらは気の済むまでわたしを恨み続け、決して佳きに計らわない。だが、それはそれで好い。その道はわたしの道でないから。捨てる神の方へ行く必要はない。かれらは拾う神へといざなうブロック、行き止まりの役目をしているにすぎない。

恨みは、己を成長させるエネルギーに転換しないかぎり、自分自身に負の作用をおよぼす。

その役割だけは残るようだが、これまでのような生じ方をするのかは解らない。

わたしに見つかった時点で終着点に来たと思えばいい。わたしはヒントを出す。だがそれを無視したり、解法を見出さなければ、二年くらいの内に非常に解りやすいことが起きてくる。たとえば病気。内臓疾患が多い。かれらの精神が創り出しているものだ。

 

この5、6年ほど今現在も一件携わっている。かなりしつこく執着している。かれらは一体全体、自分自身になにをもたらそうとしているのか? この者たちは、村一番の問題児であると同時におそらく町全体に悪影響を及ぼしてきた者のひとりである。すべてを他人のせいにして、己の悪業、非業を正当化している。

 

ーー現在、地球人類は、7回目の文明の終わりの時期を迎えています。そして今度こそ学校を卒業して、他の惑星の仲間入りができるほどに飛躍的な進化を遂げるか、それともまたもや落第するかの、大きな大きな分岐点に差しかかっています。

(金星からのメッセージ)

 

もうひとつ、やるのがこれ。

物質偏重の地球文明を終わらせ、精神や霊魂の発達に重きをおいた文明に移行させる。終わらせる者の仕事も地球文明の舵きりに大きな力となるだろう。

 

2022/1/07

つづく